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ハルトルイ  作者: 箱庭とび子
2/5

二年生

 俺は春生まれなので、同じ寮にいる留学生の中では(留年していない限り)一番早くに二十歳になる。ただこれは、日本での話だ。

 俺はドイツ語で「誕生日を迎えるから酒が飲めるよ」とルイに軽く伝えることができる程度には成長していた。

 彼はその日の朝に俺が誕生日だと伝えたことに少し不満があったようだった。

「二十歳おめでとう。でも、もっと早くに言ってくれよ。パーティをやれたのに。皆で祝ったのに」

「ありがとう。でも、誕生日はひっそりと迎えたいんだ」

「君はよくわからない。誕生日を祝わないなんて」

「気恥ずかしいだろ? ありがとーの他に何を言えばいいんだ?」

「浴びるほど酒を飲んで迷惑をかければいい」

 ルイは小言の多い寮母の目を盗みながら片手にビールを包んで持ってきた。一本受取って飲んでみる。炭酸がきつかった。酒が入って陽気になった俺はドイツ語で伝えられるだけの時そば口上を真似てみた。ケーキが一ユーロ、二ユーロ、三ユーロ……今何時? 九ユーロです。はい、十、十一、十二、うまいことやりましたね。あら、部屋の隅に小さなケーキを隠していてくれたんですか、まぁ、このケーキとってもおいしそう。うん。見た目通り、おいしいね。とってもおいしい、日本のケーキもおいしくてね、少なくとも、このケーキの半分ぐらいの大きさでね、うん、今は少し日本のケーキが恋しいかな。ちょっと量がおおいよね。

 ケーキを流し込むために調子に乗ってガバガバの飲んだものだから酔いが回るのも早く、片手にビールの缶を持ったままベッドの上に倒れた。

「零すぞ」

「ん」

 飲み干すつもりで缶を握り続ける俺と、それを放そうとするルイで縺れ合う。やめろと叱責する声が耳についた。缶が手から奪われる。頭が少しぼんやりとしている。

「ルイ」

「何だ?」

「寒い」

「ああ、……子供だな。君は」

 俺に布団を被せ子ども扱いするとルイは笑う。おやすみ。吐息が額に近づいてから離れた。


 二年の夏になると、あいついないな。ってのが増えてくる。俺たちが知らないだけで、ひっそりと退学している生徒が出始めるのだ。倍率高いこの音楽大学にせっかく入学できたのだとしても、ハイクラスなピアニストたちの中で実力の差を見せつけられ、生き残れない奴がいる。

 生き残るためには俺のように周りなんてどうでもいいと思うか、ルイのように天才で居続けるか、天才を前にしてへし折れても卒業できればいいやと諦めるかの三択しかない。

「部屋が広くなっちゃったよ」

 共有リビングでへこんでいたのは広瀬だった。同じ部屋の生徒が退学を決めたらしい。

「一人部屋、うらやましいけどな」

 この軽口は失敗した。「じゃあ、かわってくれるか?」と明らかにむっとした表情で言われ、慰めるつもりだった俺も凹む結果となった。ルイが険悪な雰囲気を察し、フォローに入る。

「ヒロセ、口車に乗っちゃいけないよ。こいつに一人部屋はだめだ」

「なぜだい、ルイ」

「放っておいたら一日中寝続けるからね。一人部屋にしたらレッスンにも演奏会にも来ないよ」

「それはだめだね」

「俺、布団大好きだからね」

「ピアノより好きだって言うんだ。最低だろう?」

 ルイの冗談により広瀬に笑顔が戻った。同室の相手がいなくなるってなったらさみしいだろうなと想像はできるが、ルイがいなくなるってことはあり得ない。

――そう考えると、マジでラッキーだったかも。

 部屋に返ってすぐ、思わず日本語でつぶやいた言葉の意味をルイが聞く。

「同室の相手がルイでよかったと思って」

「――奇遇だね、僕も似たことを思ったよ。君は何があっても退室しないだろうからね」

「それは、どうも?」

「誇っていい。似た実力の相手が突然消えることは空しいからね」

 ヒロセの演奏には大きな影響が出るだろうね。彼は冷静に分析しながら自分のベッドに腰掛け、長い脚を投げた。

「もし、だが。僕がいなくなったら君はどうする?」

「んー・・・…」

「コメディアンになりたいとしても君は大学を卒業しなければならない身で、何も変わらないのかもしれないけど、起こす人は居なくなるな」

「頭の中で、ルイがいるつもりで演奏する」

 片眉と片方の口角を上げた笑顔はなんだか不気味だった。

「つもり?」

「ルイがいて演奏しているつもり、それをかき消す演奏をするつもり、小言を言われながら起きるつもりで、そうすれば何とかなるかもしれない」

「成る程?」

「演奏後にこんな感想を言われるだろうなってつもりで生活してれば演奏で悪かったところもたぶん直る」

「意外と考えているんだね」

「うむ。俺はちゃんと聞いているつもり」

「……いや、現実ではしっかりと聞けよ」

 ナイスなツッコミに思わず笑ってしまった。

 いや、この話も感心されるべきものじゃない。だくだくという名前の落語がある。引っ越したばっかりの家に絵を描いて家具があるつもりで生活する男の家に泥棒が入るって話だ。

 話を聞いていたらすぅっとそれが頭の中に浮かんできたから、ルイがそこにいるつもりであればいいんじゃないかと思っただけなのだ。現実にもし、彼が俺と同室じゃなかったら、おそらく学園生活は今以上に窮屈で退屈なものになっていただろう。

 それから後はルイの予想通りとなってしまった。広瀬の成績が芳しくないのだ。一年時には上位に居た筈の演奏会の評価も散々で、前回と似たような曲ばかり演奏していると叱責され、共有リビングに姿を現す機会も減った。部屋をノックして押しかけたのだが、彼は留守で、その姿を久しく見ていない。

 ルイはかなりドライな反応で、「ヒロセも考えあってのことだろう」とその一言に留めている。

 休んでいたかと思えば広瀬は急にレッスン室の空き時間を占拠し、夢中になって練習を繰り返しているようになった。調子が戻ってきたのかと思えばそうではないように思う。共有スペースで「練習室を占拠しすぎだ!」と怒鳴られているのに無視したり、喧嘩したり、荒れているのは事実だろう。成績は上がっているが、

「あの調子じゃダメだろうね」

 そう見切りつけるルイはとことんドライだ。なんだかさみしいのに。


 二回目の閉寮の季節がやってきた。

「今年もお世話になります」

 ペコリと頭を下げる俺の風習をこの家は受け入れてくれることがありがたい。またあのドイツ料理に舌鼓打ち、ルイと一緒にピアノ演奏に狂うお祭りのような一週間がやってきたのだ。

 昨年とは一つ違うことがある。俺が酒を飲めることである。

 今年のドイツの冬は昨年以上に厳しく。暖房が完備されているルイの家であったとしても「寒いね」「寒いね」と会話続けていた。あんまりに俺がうるさいものだから「飲んで寝たら少し温まるわよ」と牛乳に蜂蜜とウォッカを混ぜたものを頂戴した。

 それでも息を白くしながら寝袋で寝ている俺を哀れに思ったのか、

「入るといい」

 とルイがベッドを半分、恵んでくれたのである。ありがてぇ、ありがてぇ。お恵みをいただく乞食になりきってもそもそと布団半分を頂戴した。半分はどうしてもルイにくっつく形になる。ただでさえ彼は大柄なのに。

「布団ってあたたかいね」

「ピアノより好きなんだよな」

「うん」

「あきれるよ、君には」

「人肌もあたたかいね」

「……」

 息が未だ白い。鼻から吸い込む空気が冷たい。真っ暗な部屋の中で目を開けた。ルイの白い肌がカーテンから漏れる僅かな月明かりを反射していることは分かった。薄く開いた口とそこから漏れる息の温かさに惹かれたのだろう。

「何故口づけた?」

「わかんない」

「……寒いと言わないよな?」

「好きになったのかな?」

「質問するのか? 僕に? 僕が一番聞きたいのに?」

「暖かかったから、もう一回していい?」

「答えはないのかい? それとも本当に寒かっただけ?」

 僅かでも体温を上げる方法があるなら何でもするかもしれない。咥内が一番暖かいかな、それとも密着した肌? 頭を押さえられて獣のように貪られた時が一番熱かった。息を吸うために離れようとするので逃すまいと馬乗りになったのは俺の方だった。

 俺達は翌朝、何も変わりないふりをした。いや、何にも変わりなかったのかもしれない。ただ、夜だけは寒さを理由に貪りあった。それは寮に帰っても変われなかった。音楽馬鹿と落語馬鹿で扉一枚、壁一枚を隔てた場所に誰かがいる空間の中、興奮する煩さをごまかすために口を吸い、舌を吸い、布越しに肉体に触れるだけ、俺達はどちらも初々しすぎて、そういうことを一切やったこと無かったから、互いの唾液を交換するだけで爆発しそうになって。

 それだけでも夢中で抜け出せなくなった。長いキスから始まって、ある日は体をまさぐって、しかし、満足できなくなる日は必ず来る。これで正しいのかわからなくなり、クソ真面目にこれで正しいのか調べ、衝撃を受け、互いの性器に触れるまで世の中にあるどのカップルよりも時間をかけたんじゃないかと思う。その統計は調べてもよくわからなかったのでわからないままだけど……。

 恋愛に関しては俺の方がドライで、ルイの方が情熱的だった。彼は俺の二十四時間の情報を調べ上げて、どの部屋で練習しているのか把握していないと気が済まないと言う。

 一度悪戯のつもりで練習日程を交換してもらったことがあったのだけれど、部屋に帰ってきた彼に責められた。君の演奏がききたかったのに。と。

「演奏会でも聞けるだろ?」

「それだけじゃ満足できない」

 おいで。と彼は俺を招く。膝上で横抱きにするのがお気に入りらしかった。

「どうして君は意地悪をする?」

「意地悪してるつもりはない」

「意地悪だよ。僕は今、君で満たされているのに」

 鳥肌の立つセリフを平然と言う。俺はルイで満たされているなんて思ったことは無い。

「俺がいなくなっても大丈夫なように訓練しておいた方がいいと思ってさ」

「君がいなくなることなんて考えたこともないよ」

「いや、俺、三年後には日本に帰るし――」

 うるさいと言わんばかりに口が塞がれた。


 ルイは恋をしてから音楽の幅を広げた。作曲に手を出し始めたのだ。

 恋する乙女が日記に熱を書き連ねるように彼の場合は五線譜に音を記していった。ある時はウキウキと弾むように跳ね、穏やかな夜はしっとりとした音となり、嫉妬に狂った時は怒り混じりの音になる。俺で満たされているというのはあながちウソではない。溢れんばかりの思いの丈を作曲という形で発散している。うん、情緒不安定だ。心配になるほどだが、アルバムに収録された音楽は今までのどの作品よりも良かったことは認める。

「作曲の才能もあるんだな」

 猿並の密室恋愛生活を送っている俺がその言葉を言ったのは片方の耳にイヤフォンをしながら、ルイの膝上に跨り、互いの唇が不自然に光るまで貪った後のことである。

 もう片方のイヤフォンは当然ながらルイの耳にある。

「君にそう言ってもらえると嬉しい」

「うん、凄いよ」

「――実は、院に進もうかと思ってるんだ」

「それがいいね。教える側にも立てるし」

「――――うん」

 その日ルイは顔を曇らせた。後日作った曲は不安定で悲しい音が続く暗い曲で、作られたのは明らかに近代であるのに都市伝説ができた。恋人が死んだとか、子供が亡くなった後に作られた曲だとか、それを面白がった歌手が歌を付けてから大きくヒットして、ルイには思わぬ金額が飛び込んでくることになる。

 ルイはそれでひとつだけ大きな買い物をした。自分と、同室にいるチンチクリン用のオーダーメイドスーツである。値段をしつこく聞いたが、文字通り「にっこり」と笑うだけで金額は教えてくれなかった。

 スーツの内側、目立たない場所にH.Bertzと名が刻まれているのだが、それに気づくのは……二十年後になる。


 三年になる前のことだ、本格的に広瀬の成績がヤバくなり始めた。ドイツ語の成績で俺に追い抜かれているのだから相当なもので、周囲のヒソヒソも増えてきた。この学園にはかなり厳しいルールがある。人前で演奏できるレベルに達せていない生徒は、裏方にも回してもらえないのだ。

 つまりは、観客として招待されることになる。

 広瀬はその候補生となるまでに落ち込んでいた。練習時間を入れなくなり、部屋をまた留守がちになった。

 俺は彼が唯一入れていた一回のレッスン前に広瀬を待ち伏せた。レッスン終わり扉を開けて出てきた彼は俺と、その隣にいるルイを見て険しい顔になった。

「広瀬」

「何も言うことはないよ」

「どうしたんだよ広瀬ッ!」

――ヤるならもう少し静かにしてくれよ!

 広瀬が叫んだ言葉は日本語だった。驚いて俺が固まった隙にそそくさと行ってしまう。ルイは追わないしフォローもしない。

「何と?」

 俺は和独辞典から性行為という単語を探した。

「うるさかったのか?」

 だから練習にも来ないと?

「いいや、関係ないだろう。彼は同室の誰かさんが退学してから調子が悪かったじゃないか」

 ルイは空いたレッスン室で新しい曲を作り出す。今の俺の心境と似た複雑なメロディラインだ。

「でも、知って」

「それは彼が僕を好いていたからさ」

「えっ?」

 ソの音が高く響いた。五線譜に書き込まれる。

「恋愛感情とは言わないが、それに近いものだったろうと思うよ。そして君をライバル視していたから、関係に気づいてしまって打ちのめされて、自分が悩んでいる時に恋に耽っている僕らが憎らしいだけさ。僕は止めないし君を愛し続ける」

「でも」

「ヒロセの行動が君を遠慮させるなら、僕は彼を憎むよ」

 ピアノに触れていたルイの手が俺の顔に触れた。顔の近くに引き寄せようとする。

「窓がある」

「じゃあしゃがんで」

 言われた通りにしゃがみ込む。彼はピアノ椅子に座ったまま体を傾けると俺の顎をとった。

「君は落し物を拾っている、つもりだ」

 そうして俺たちが隠れてキスをしている間、広瀬は様々に覚悟を決めていたという。大学のランクを下げて、そこで活躍するほうがモチベーションを保てると。覚悟を決めた広瀬は俺が知る穏やかで優しい彼に戻っていた。

 俺は彼の荷物詰めを手伝いながら、数か月何を思っていたのか聞いた。才能ある人がここにはたくさんいて、彼らを羨ましく思ううちに、演奏を聴いているだけで満足してしまったと広瀬はいう。

「背伸びしていても意味なかった。――君やルイと一緒に演奏できたのは光栄だったよ」

「……聞きにくいんだけど、ルイが好きだった?」

 広瀬は少し驚いた顔をした。

「ルイが気づいたんだね」

「うん」

「憧れだと思うけど、彼がピアノを弾く姿はとても素敵だと思ったよ。でも、それ以上を想像したことはなかった。君たちがしているようなね」

 顔が赤くなった。

「どうして俺たちの関係を知ったの?」

「誰かに相談したいと思って、浮かんだのは君の顔だった。閉寮期間を終えて君たちが帰ってきたと聞いて、真っ先に向かったよ。その時――、抑えていたのだろうけど聞こえてしまったんだ。……頭を抱えて唸らなくても、あの時不安で昂っていたから気づいただけだよ、それに、カップルなんて結構いるだろ? ……君は気付かない人かもしれないけど」

 教えてあげるよ。と彼はこの寮に住む人々の大まかな人間関係について説明してくれた。こいつとこいつは付き合っているからどちらか一方と仲良くするな、こいつとこいつは険悪だから仲を持とうとしないように、この二人は仲がいい、悪い。彼はプライドが高いから、貶さないように……教えを受けている内に、レッスンを終えたルイが手伝いのために広瀬の部屋に入ってきた。俺のためにこの寮内の人間関係を説明しているところさ、と気取っていう広瀬に。

「君は指揮者向きだ」

 ルイはそう言った。このアドバイスが、広瀬のその後を照らしてくれればいいなと思う。

2016/02/14 マロングラッセと日向夏(http://matchhop.sakura.ne.jp/)に投稿したもの。

2019/08/23 加筆修正

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