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ハルトルイ  作者: 箱庭とび子
1/5

一年生

 空は青い。すがすがしいほどに。レンガ造りの道の上を歩く。気分が晴れないからと言い訳しながら朝の祈りを放棄した。「日本人だからな」と嫌味に近い、(いや、あれは嫌味だった)言葉を背に受けながら構内を出た。

 白と茶色い石造りの家が並ぶ市街と飛び交う言語の違いにうんざりする。ホームシック、その単語が頭をかすめるが俺の場合少し違う、言うなれば「カントリーシック」だろうか。

 ドイツにあるSt.アリシス音楽学院大学は全寮制の歴史ある音楽学園で、入学倍率は日本の最高大学ほどはあるだろうか。世界から最高の音楽家になりたいと望む奴ばかり集まる、世界的に権威ある大学だ。

 この学園に入学できるなんて幸いだとだれもが言うけれど、俺は日本に居たかった。落語家、になりたいと思っていたのだが、子供のころに習ったピアノが自分の性分に合ったのか日本の様々なコンテストでいくつか賞を貰うまでにはなってしまったものだから、周囲にはそう思われていなかったらしい。

 でも、俺は鍵盤をたたくスーツ姿のおじさんよりも、座布団に座って高座をこなす着物を着た落語家のほうがカッコいいと思う。楽譜を読まなくても頭の中に物語が記憶されていて、自分の身一つで芸をこなす。ピアノがないと音を出せない音楽家とは違う良さがある。高校卒業近くになって、ドイツにあるこの大学を受験するべきだと学園が御節介を焼かなければ、俺は今でも落語の高座に通って、生の音を聞いていたことだろう。

 溜息が出た。

 こんな学園入学したかったわけじゃない。「落語家になりたい」と馬鹿正直に親に申し出たところ、大反対された上に、なまじ金持ちな親戚に相談され、

「この大学に入学し、卒業しなければ『お前たち』の進学援助を辞める」

 と宣言されてしまったのだ。

 お前たちというのは、俺にいる一人の妹含んでいる。パティシエになりたいと無邪気に語っていた高校生の妹が、俺を睨んだのはいうまでもない。……パティシエがよくて、ピアニストもよくて、何故落語家がダメなのか分からないが、妹の進学を人質に取られた俺はこの大学に入学、卒業までの四年を過ごさなくてはならなくなった。

 もう一つ溜息が出た。


「朝の、祈りに、いなかったな」

 部屋で落語のCD音を聞いていた時、ドイツ語で話しかけられた。同室となった背の高いドイツ人の声だった。俺はドイツ語が上手くないので何を言っているのか聞きとるのに苦労した。片耳から流れる芝浜の声の所為か江戸っ子言葉で「へぇ」と返事してしまう。彫りの深い顔が顰められる。

「日本の宗教は知らないが、朝の挨拶のつもりで来たらどうだ?」

「まぁ、気が向いたら」

 その後に言っている言葉が聞き取れず首をかしげ続ける俺に、おそらく説教の言葉を発しているであろう彼は上手くコミュニケーションが取れないことに焦れがあるようだった。それでも俺と彼が同室でいるのは理由がある。ピアノの腕が同じレベル同士なのだそうだ。

 つまりはライバルとなりそうな者を同室に放り込んでいるのだ。

 俺は彼と同レベルだと思っていない。彼は在学中にもかかわらずCDを何枚も発売している云わばプロだ。そんなピアニストはこの学園で珍しいことではないが、彼は見た目に大柄なのだが、その姿からは想像できないほど繊細な音を奏でる。反対に俺はピアノを壊すほどガンガンたたくような弾き方をする。体格に似合わずというのはよく皮肉される。確かに、周りにいる外人に比べたら、頭一つ二つ小さい俺が、太鼓を叩くようにピアノを叩いている姿は滑稽だろう。

 嫌々をぶつける弾き方である俺に対して、音楽の趣旨を考え彼なりに噛み砕いた風景を音に載せる彼の弾き方は天地以上の差がある。音楽に対して真摯である彼はコンサート後の感想を誰かと共有したいようで遅くまで共有リビングに座り誰かと長時間話し合っているようだが、テストの自己採点すら嫌である俺は終わった後の開放感に満たされて落語に耽る。

 一度それでキレられたことがある。何故他人の質問にふざけて答えるのか、と。その時は確か、彼に「自分の演奏はどうだったか」と問われたのだったと思う。

「おとがすてきだった」

 これは子供が返すような返答であると後で同寮に住む日本人の広瀬に怒られた。背の高いドイツ人は顔を赤くして何かを捲くし立てているのだが、俺は子供並の語彙力なので理解できるわけもなかった。広瀬の通訳によると、彼は具体的な感想を欲したらしい。その日の演奏はあまり良くなかったので、悩みに悩んでいた末、俺に話しかけたのだが、俺から出てきた感想があんなものだったから怒髪を突いたようだ。

「通訳するから、何か感想を言ってあげたらどうだい?」

「寿限無」

「……じゅげむ?」

「落語の、寿限無寿限無って感じ」

 広瀬は困っていたようだが、怒る彼に馬鹿正直にそう伝えた。

 その日は出演している演者の演奏が全体的に長かったのだ。どいつもこいつも寿限無寿限無の…と演奏しているのだから「ああ、もういい!」と。観客がうつらうつらとした後の出番が俺で、太鼓をたたくような叩きつけるピアノだったものだから、その日最高の拍手をかっさらえただけの話。

 翌日の夜になって彼は俺に謝罪をした。ドイツでは十六歳から飲めるというビール片手に。俺は広瀬と共に共有リビングに居て、ドイツ語基礎の勉強を手伝ってもらっていた。

「飲めない」

 未成年であることを理由にやんわり断る俺に彼はムッとしたようだったが、広瀬が酒が飲める年齢ではないということを伝えてくれたお陰で納得したようだった。そうしてどっかりとソファーに座り。持ってきたビールを飲みながら俺と広瀬二人でドイツ語の勉強しているのを眺めている。

 未だ彼と上手なコミュニケーションがとれたためしはない。唯一語れる言語があるとするならそれは“ピアノ”だった。俺が弾けば彼も弾く。それは、まぁ、楽しい。


「将来はどこで活躍するんだ?」

 一年の中頃、広瀬にされた質問だった。

「どゆいみ?」

「うん? どこの音楽会社と契約するのかなって。ルイと同じところかい?」

「いや……、契約はしないし、日本に帰る」

「なぜ?」

「落語家になるから」

 怪訝な顔をされたのも当然だろう。半ば冗談に思われたのかもしれない。

 だが俺が真剣であろうと感じた彼は笑顔を失う。両親親戚それと似た反応にいたたまれなくなって話を変えた。

「ところでルイって?」

「? ルイだよ、君と同室の――」

「……」

「君のことだから、ルイの名前がわからなかったと言われても驚かないよ。彼は機嫌を損ねるだろうけどね」

 あきれながら広瀬は練習に向かう。彼もピアノ科だと知るのは入学して、ドイツ語クラスで同寮だと知ってからのことだった。ピアノに対しておぞましいと感じるまでに不真面目な俺に対して疑問はあったらしい。俺はみんなのライバル足りえないと納得してもらえればいいのだが。


 ドイツの夏は日本に比べ涼しい。暑い日もあるが、風が吹いていればなんとか過ごせる。レッスン室の窓を開ける。上手い下手さまざまな音が混ざり、気持ち悪くなるほどの音であふれている。

 一つ、ドビュッシーの水の反映だけがしっとりと耳になじんだ。多分、いや、絶対弾いているのはルイだろう。いい音だなぁとまた子供じみた感想を抱いて頭を掻いた。ドイツ語の語彙が少ないのではなくて、何事も「ヤバイ」で済ませていた日本語の語彙力すら怪しかったのだ。

 レッスン室は適当な時間を割り振られている。自分のほかにも誰がこの時間演奏しているのかほかの生徒たちにも把握されている。一度何もせず落語のCDを聴き続けるという暴挙を行ったことがあるが、「弾かないならかせ」と本気の生徒に怒られるので何か一曲は弾くことにしている。

 プロコフィエフでいいか。二番の第四楽章で。

 俺の演奏は「荒い」とよく評価される。間違っていない。俺の演奏は事実荒い。

 反対にルイの演奏は「繊細すぎる」とよく言われる。必ず演奏会ではルイが俺の前だ。俺は落語でいう落ち担当。この曲を聴いてお帰りくださいという役回り。弾くだけ弾いて満足したらぺこっと頭を下げてそそくさと帰る。落語家のように。

「いい演奏だった」

 コーヒー片手にルイは言った。どうも、と言わんばかりに頭を下げる。

「その風習、やめてはどうか」

「なんで?」

「ここでは通じない」

「でも、俺、日本人だから」

「卒業後は日本に戻るのか?」

「ああ」

「日本でクラッシックを?」

「いや、ピアノはやめるよ」

「ああ、ん?」

「俺はコメディアンになるんだ」

「うん……」

 彼は何も言わず部屋を出て行った。

 落語を話すモニターの画面から目を逸らさなかった。最新の落語が誰かによってアップされるのを待っている。妹に頼み込んでもあいつはあいつで勉強がどうだと忙しさを理由にしてそういう作業を一切やってくれない。

 誰のためにこの学校にいると思っているんだ。


 俺は冬休みになってもも帰省するつもりはなかったから、閉寮期間があると聞いて困った。ドイツの厳しい寒さの中、ホームレスしろと言うのだろうか。

 ルイは大きな体に纏う服を器用に鞄に詰めながら急かす、

「閉寮するぞ、片付けろ」

「閉寮したら、ホームレスになれというのだろうか?」

「寮にとどまりたい場合は書類を出せと言われていただろう? ホームレスをするのか?」

「えっ? 何それ」

「言われてはいないな。張り出されて……読めない、か」

「気付かなかった」

 チッと舌打ちをすると彼は荷物をまとめるように俺を急かす。ベッドの下に隠しておいた。味噌汁のカップを発見されてあきれられた他は険しい顔で俺の荷物を適当なカバンや袋に詰めていた。

「来い」

「どこに?」

「僕の家だ」

「えっ?」

「お前は今“死なせる”には惜しい人物であることは認める。ホームレスなんかされてみろ、寝ざめが悪い」

「本当? 行っていいの?」

「ああ」

「お礼に味噌汁あげるよ」

「それは……行く前に飲み干してしまおう」

 四つあった味噌汁のカップが二個減ったのは経済的打撃だったが、ドイツ人のお宅にお邪魔できるのは少し面白い機会だと思った。一週間の閉寮期間をわがままで居座らせてもらおうと考えていたのに。運がいいかも。

「どうして日本に帰らないんだ? 遠すぎるからか?」

「いや、親と仲が悪いから。コメディアンになることに反対されてるし」

「君は本当に何故この学園に来たんだ?」

「妹を人質にとられたからだよ」

「妹を?」

 大事件があった時のような反応だった。

「俺が立派な大学をとりあえず出ないと妹の進学費用を出さないって」

「ああ、成程」

「だから俺は大学を卒業しなきゃならない

「コメディアンになるには遅いのか?」

「師匠に入門するのは早いほうがいいだろう?」

「そうか。……そうだ、……コメディアンになると僕の親の前で言うなよ」

 何で? とは言わなかった。どこの親も基本的に同じようなものなのだろう。子供が芸人になろうとしたら止めるんだろう。座布団の上でその身一つで芸をしていたとしても。

 彼の家は想像よりも大きな庭付きの屋敷だった。話によると、父親はオペラで指揮をするような偉大な作曲家、指揮者で、母は元々ロシアでバレエを踊っていたそうだ。話の流れでルイがハーフである事を知った。

「君は」

「俺?」

「君は日本人なのだろう? どの辺の日本人なんだ?」

「俺はねぇ、北の方と、真ん中の方のハーフ」

「それじゃあ、純粋な日本人じゃないのか?」

「いや、純粋な日本人ではある。敢えて言うなら男と女のハーフ」

 彼はドアチャイムを鳴らす前にフンと小さく鼻で笑った。


 外人の会話は早い。今までは広瀬のフォローがあったし、ルイも何とか遅く話してくれていたと思い知った。しまった。全く会話が分からない。ルイは俺をご両親に紹介してくれたのか二人はにこやか笑うと俺の背に屈んでのハグと、ほっぺに軽いキスまで貰った。

「僕の父と母だよ」

「ハロゥ。お世話になります」

「荷物を置こう。こっちだ」

 ルイと俺は階段を上り、広い屋敷の二階に来た。グランドピアノと大きなベッド、机一つとノートパソコンのある広い部屋に通され、ルイが置いた荷物の隣に自分のカバンを置いた。

「お前の部屋?」

「ああ」

「広くない?」

 くるくる見回す。勝手にそこにあった扉を開いた。クローゼットだった。

「こんなものだろう?」

「いいや、友達の家はこの半分ぐらいの広さだ、1LDKで」

「冗談だろう?」

「……」

「……冗談じゃ、ないのかい?」

「下手をしたら、お前の身長じゃ天井に頭をぶつけるよ?」

「君の生活はエキゾチックだね」

 エキゾチックかな。わからない。俺からしてみたらこの生活こそエキゾチックだ。靴を履いたまま歩く廊下、広い家、当り前のようにあるきれいなグランドピアノ。

「弾くかい」

「でも」

「僕も弾きたいと思っていた。君とアンサンブルはしたことがなかったな」

 蓋が開かれる。ピカピカに磨かれたグランドピアノがそこにあった。ミー。音も完璧。小さな椅子に二人はきついので、背の高い彼に椅子を譲り(元々ルイのイスなのだが)、俺は立つ。

 大きな指が先に動いた。ルイの繊細な旋律を主軸としてその周りを叩きつけるような俺の音が支えていく。

 思いの外楽しかった。適当な旋律に合わせて音を組み合わせていった。なんだか楽しい調べになった。誰かに合わせてみることもいいものだ。やっぱり俺と彼の共通言語はピアノであるらしい。メイドさんが俺たちを呼びに来るまで、楽しい音を奏で続けていた。


「君は力強い演奏をするね」

 俺に気を使ってかゆっくりと話してくれたルイの父、ダニロに「ありがとう」と言う。

「本当。雷のようだった」

 ダニロの妻でルイの母、リリアが言った。にこにこと笑っているのでほめられたのだろう。俺はこちらにもありがとうと言った。

 ドイツの家庭料理とロシアの家庭料理だという食事をたらふく戴いて、ルイが嫌がる昔話もそれなりに聞いた。彼は昔からこの地域で神童と呼ばれていたピアノ少年だったのだそうだ。子供のころの写真も見せてもらったが、スラリと背が高く、小学生の時分で俺の背を超えているだろう。少し落ち込んだ。

 ルイは兄がいるらしいが、現在はイギリスの大学に行っているらしい。俺でさえ名前を知っている五本の指に入るほどの大学、そのうちの一つ、おそらくルイも頭が良いはずだろう。

――ここにいるのは場違いじゃないかなぁ。

 日本語でつぶやいた一言はルイに通じなかった。当たり前であるが。

「日本が恋しくなったか?」

「いや、違うよ。いい家族だなとは思ったけど」

「……君はどうして学園に?」

「コメディアンにさせないため」

「だが、学園は倍率が高いだろう? 君はそれでも入学してきた」

「ピアノは好きだったから」

「それだけの才能があってなぜコメディアン?」

「自分の体一つで芸ができるのはすごいだろ」

 じゃあ、証拠を見せるよ。俺は彼のパソコンを借りると落語家が様々なものを模写している瞬間を見せた。扇子で釘を打つ音、うどんやそばを啜り、扉を開いて話一つで笑わせていく。

「わからない」

「日本語がわからないからね」

「わからせたい? 僕に」

 グリーンの瞳が悪戯に俺を見た。

「落語を?」

「ああ」

「そうだね」

「じゃあ、ドイツ語を覚えろ」

「……」

「そして僕に話せばいい」

 ルイは当然のようにベッドで寝て、俺はキャンプに使ったという寝袋の中だった。暖かな部屋の中で寝床があるだけでありがたいものだ。お礼をしなければ、ルイに言うと、そんな事を考えなくてもいいんだ。無いものに恵むのは当然のことだから。

 悪気はないのだけれど、俺は無い訳じゃない。帰らないだけ。

2016/02/14 マロングラッセと日向夏(http://matchhop.sakura.ne.jp/)に掲載したもの。

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