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母の抱擁と、戻るべき日常

 痛みはもう感じない。


 鳥の声が聞こえる。自然の香りを連れてきた風が鼻腔を抜け、懐かしいと思えるこの場所は、沙羅が幼少期に過ごした稲神の実家だった。


 六畳和室に必要最低限の物しか置いていない――沙羅の部屋。生活するに『意味のない』物を置かない沙羅の部屋は、とても寒々とした印象を受ける。


「これが死後の世界ってわけ? よりにもよって実家とか、ほんとに地獄ね」

「あら、そうなの?」

「――ッ!?」


 独り言のつもりだったが、まさか誰かからの返事がもらえるとは思えってもいなかった。ドクンと心臓が跳ねて、反射的に振り返った。


「久しぶりね、沙羅。こんなに大きくなって」


 若く美しい女性――赤茶色の髪と瞳、紅葉の刺繍が入った赤い着物を着て微笑んでいる。


 沙羅の幼少期の記憶に留めてある大切な心の支え――母親の姿。


「おかあ、さん?」

「お母さん以外に見えるのかな?」


 呆然と視線を外さぬまま首を横に振る。


 記憶の中の母と目の前の母は一致した。どのような言葉を掛ければいいのか。近寄っていいのか。幼少期に貰い足りなかった母の温もりが恋しかった。


「お母さん」

「なぁに、沙羅」


 母は可笑しそうに笑いながら、ゆっくりと小幅の足取りで距離を狭めてくる。近くなる恋しい母の姿。抱きしめてもらいたかった。優しい言葉を掛けてもらいたかった。これまで一人で頑張ったねって言ってもらいたかった。心の奥底にある寂しいという気持ちが次第に色濃くなってくるのがわかった。


「本当に大きくなったわね。でも、胸はやっぱり稲神の子ね。うふふ、ギュー!」


 両手を広げて沙羅の華奢な身体をしっかりと抱擁した。着物越しに伝わる薄っぺらな母の胸に、自分も稲神の人間だなと実感させられた。


 母の温もり、母の匂い、母の感触。その全てが安息をもたらしてくれた。


「でも、沙羅も駄目ねぇ。まだこんな場所にくる歳でもないでしょうに、ってまだ死んでないもんね。ごめんね」

「どういう事? 私って死んだはずじゃ」

「疑似よ。魔法使いの彼、彼女だったかしらね。アダムは、貴方達に夢を見せているの。とても現実的リアル抗えない(いやらしい)夢をね。だから沙羅は、実際には死んではいないの。でも、このまま目が冷めなければ脳が死んだと勘違いして、全ての生存放棄を選択してしまう。だから、お母さんと居られるのも、今だけの限られた時間だけ」

「そんな! ようやくお母さんと会えたってのに、どうして、どうしてよ」


 駄々をこねる沙羅に母は吹き出してしまった。


 真面目な問題をどうして吹き出すのか、沙羅は膨れて、母と同じ色の瞳を鋭くさせた。


「うふふ、ごめんね。つい可愛くって。私ももっと沙羅と一緒に居たいわ。でも、まだ沙羅には生きていて欲しいのよ。悲しい時代だけど、しっかりとその中で幸せを見つけて欲しいの。老衰で死んだら、お母さんに楽しいお土産話を聞かせてね」


 現実の世界の幸せ――『探求者の家』という家族。『日常』の家族。認めたくはないが『稲神家』も家族。


 自分と深く関わりのある友人や家族の顔が思い描かれる。


「何十年先か分からないけど、待っててくれるの?」

「私、おっとりしているでしょう? ボーっとしていたら時間の経過なんてあっという間よ。成仏なんてしてやらないわ」


 小さくガッツポーズをする母に、今度は沙羅が吹き出した――母は作業が遅いのを、よく祖母に叱られていたのを思い出したからだ。叱られているのに、どうして叱るの、という顔をしている母が可笑しかった思い出がある。


「分かったわよ。もう少しだけ長生きしてみるわ。でも、どうすれば覚めるのかしらね」

「お母さんが手伝ってあげようか」

「え、どうやって?」


 原因も構成も全てが不明である夢世界で、鈴を鳴らすしか能がない自分に、母の手助けがあれば脱出できるのだろうか。


「私も稲神の魔術師よ。これでもお母さんね、シェルシェール・ラ・メゾンが現存してれば、Aランクくらいの実力はあるのよ」

「ランクって、実力より、魔力の質や純度が基準じゃなかったかしら?」

「うふふ、気にしたら負けなのよ」


 沙羅は母の指示に従って鈴を構える――。


「その赤紐と鈴、持っていてくれて嬉しいわ」

「いいから、次はどうすればいいの」


 気恥ずかしくなって話題を打ち切る。


 この赤紐と鈴は、よく近隣の竹林や山で迷子になる沙羅に、何処にいても居場所が分かりますように、と母が持たせてくれた代物。沙羅にとって、最初で最後の母からのプレゼントだった。


「えぇ、いいじゃない。お母さん、嬉しくて泣いちゃいそうよ」

「うっさい! 私の宝物なのよ。私が迷子にならない為に、道を示してくれる魔術媒体なの。これでいいでしょ!」


 きっと自分の顔は真っ赤に染まっている。頬が熱を持ってしまい、覚まそうと手うちわをする――『シャリンシャリン』と鳴る涼し気な音が、今の自分と母を繋いでくれていると思うと、とても心地よい音だと思った。


「万物が眠る夜半の刻、枕元を楽しそうな足取りで踊るのは誰か。夢想に描くその子は、朝にはもういない。また会える子等よ。私はいま、眠りにつく。誰もが寝静まった時間を作る為に――夢想体現の(エル・ベランジェ・)幸福論ユーフォリティ


 まるで子守歌のような詠唱だった。


 母の子供を寝かしつける優しい声音は、誰に向けた者か。詠唱に出てきた子共たちというのは誰の事なのか。


「沙羅、私は貴女達を産めて、とても幸せよ。詞羅と希羅と仲良くするのよ。さぁ、道を示す鈴を鳴らして」

「悠然と気紛れに鳴る鈴の色。災厄知らせる警鐘の役担い、我が領域侵せし者ことごとく瓦解せよ――鈴の(リグ・)鳴動解体シェルメランテ・領域ゲーデン


 『シャリン』――指に引っ提げた赤紐を揺すり、鈴が小さく跳ねた。


 母の魔術がどういった理論を下に形成されたのかは不明だ。魔術媒体さえも見せてはいない。沙羅の意識が遠のいていく。懐かしい故郷の風景を解体しながら、空間の亀裂に吸い込まれていく。


「さようなら、沙羅。とても綺麗な音ね」


 母は最後に微笑みで沙羅に別れを告げた。


「お母さん! お母さんっ!」


 手を伸ばそうとも、足掻こうとも、母との距離はどんどん離されていく。もう二度と会えない予感に、沙羅は喉を振り絞って母を叫び続けた。

こんばんは、上月です(*'▽')



次回の投稿は30日の0時を予定しております。

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