二人目の天使
学校の方もノアと出会ってから変化があった。
一日中寝ていたのが少しだけ変わって、起きて居る事も多くなった。
少しだけの変化だけど、それでも自分の世界が広がるには十分な変化だった。
小さいけど、その変化が大事なのだ。
その昔の宇宙飛行士が言ったように、周囲にとっては小さな一歩だけど、オレにとっては大きな一歩だ。
そのお蔭で教師や教室の中の様子も少しずつは判りだしてきた。
教師の方は催眠音波を放つ古典の老人老講師やオカルトマニアで実家が神社と噂の現代文女講師、東南アジア文化にどっぷりはまり、仮面をつけて出た事も有ると噂の生物の講師など……。
イロモノだらけ、否、イロモノだけの先生達だ。
そして教室の方は、似た様な者同士が数人のグループをつくり、休憩時間はだいたい決まった場所でわっちゃかわっちゃかやっている。
自分の席の近くでは、北島とかいう栗毛の娘を中心に如何にもキャピルンなグループが数人集まって大騒ぎしているけど、あのノリと、あのミーハーな会話内容にはついていけそうにない。
グループから一度位お誘いがあったけど、丁重にお断りした。
幾らこの姿になったと言っても、まだ数か月しか経っていない訳だしね。
結果、はぐれ者グループのノアと一緒に居る事が多くなった。
もう一人はぐれ者の 有住が自分の斜め前の席に居るけど、彼女とは接点が無い。
クラスの中でも「虚ろな存在」そんな感じを演じているような彼女に話しかける娘たちは皆無だった。
自分も彼女に話しかける事はしない、話す前に彼女の方が何時の間にか ふっと何処かに行って居るからだ。
クラスに確かに居るのに存在していないような、まるで虚空の存在の様な不思議な娘だ。
そして、授業自体も少しは聞いているようになった。
もっとも、今まで聞いていなかったツケは大きく、判らないことだらけで何時も頭を傾げる惨憺たる状態だけど……。
そこで望愛はオレの勉強下手の惨状を見かねたのか、バイトの無い放課後などに時間を見繕って勉強のわからない所を教えてくれていた。
彼女も忙しいはずなのに、頭が上がらない。
そこで自分は今日も放課後の教室で数学の宿題を頭を捻りながら問題を解いていた。
さっきまで居たノアは少し用事で離れたので、教室には自分ひとりになっている。
「単純な貴方が羨ましい」
腐った脳なりに真面目にやっていると、虚ろな表情のクラスメイトが声を掛けてきた。
名前は有住、プラチナブロンドの長い髪、そして虚ろな焔を秘めた赤い瞳、整った顔、そして虚ろな表情をした、まるで虚空の存在の様な娘だ。
――そしていつも覚めたような態度をして、自分から話しかけてくることは皆無だ。
その娘は何故か今日に限ってオレに話しかけてきた。
「えっ?」
自分が思わずハトが豆鉄砲を食らった顔をすると、アリスは憂いを帯びた表情を浮かべた。
まるで何も知らずに屠殺場に送られる動物を見るような憐みの視線でオレを見つめ更に続ける。
「その純粋で、単純さが羨ましいと言って居るのよ」
コイツは頭がいい。
何故かいい、コッチが算盤なら向うはスパコン位の頭の差だ。
ノアのような影の努力、その次元の話ではない、既に知っている。
数学では授業で当てられたとき途中の式を飛ばして、答えを出していた。
強くてニューゲーム その類の頭の良さだ。
悔しいけど、自分には彼女の言った意味が解らない。
彼女の言葉にただ茫然とするしか無かった。
「そうやって頑張る事が一番アノ人たちを喜ばせるのよ」
彼女はそう言うと、自分が苦悶していた問題を事もなく解いてゆく。
そして正解をノートに書き込んでくれた。
「私たちはその為に生かされているのだから」
彼女の言葉の意味が最初判らなかった。
そして、ようやく理解する。
――この女は自分の素性を知っている、俺が天使と言う事に気が付いて居ると。
そう思うと、背筋に冷たいものが走り抜けて行き、あたりの空気が凍りつく感じがした。
「ど、どうして?」
青ざめる自分を前にしてアリスは無表情に続けた。
「貴方の髪の色、そして瞳の色を見れば同属ならすぐに判るわ、天使にされるときに個人差はあるけど薄くなるから」
彼女に言われて、窓を思わず見つめた。
ガラスには栗色の髪、薄茶色の瞳をした可憐な少女の姿をした自分の姿が映っている。
――この髪、瞳の色が天使の証なんだ。
じゃあ、彼女の銀髪は……?
「じゃあ…貴女も?」
「ええ、そうよ、天使にされる前の名前は ――だったそうよ」
彼女の口から出た名前を聞いて、自分は思わず顔を歪めた。
その名前は有名な犯罪者だったからだ、一流企業に居たそいつが起こした事件と言うのは甘い言葉と顔で女性に薬を飲ませ昏迷したところを乱暴し金品を奪う凶悪事件だった。
そのような事件を何件も起こし、最後には女性を真冬の路上に放置し凍死させた極悪人だ。
まさしく人間のクズである。
その事件を聞いたときは自分も胸糞がわるくなり、義憤に燃えたものだ。
メロスばりに、必ず、かの邪智暴虐の男を除かなければならぬと。
――その前に、俺は毒饅頭を食べたわけだけど。
「だった?」
自分は彼女の含みのある言葉に思わず聞き返すと、アリスは俯き悲しみの表情を浮かべた。
「私もその事をリハビリ施設で教えて貰ったわ、元はその男だとね」
「どういう事?」
「私はこの体にされる時に心が壊れてしまったみたいなの。
そして、その時に自分に関する大半の記憶を失ったから、今の記憶は此処の体になってからしか無いわ」
アリスはそう言い終わると、虚ろな表情の中にも悲しみの表情を深くしていた。
「じゃあ……あの時の記憶は?」
自分が尋ねると、彼女は目を細め小さく笑みを表情を浮かべた。
「勿論無いわよ。
荒川さん、貴女は記憶が残っているの?」
「…あるよ、全部しっかり覚えている」
あの時、毒饅頭を食べた記憶はシッカリ脳裏に焼き付いていた。
彼女の感触、声、思い出そうとしたら、まるで昨日の事の様に浮かんでくる。
もっとも、その後自爆した事を含め思い出したくない記憶ではあるけど。
「それは救いね。
――もし殺されても自業自得と諦めがつくでしょ?」
虚ろな表情のまま話す彼女の言葉にすっと現実に引き戻された気がした。
自分は普通の生活をしているけど天使、何時かは殺される存在であると。
そう思うと真っ青になって震えが止まらなくなってゆく。
その様子をアリスは感情のない虚ろな表情で見つめていた。
そうして暫くすると教室に戻ってくる人の気配がした。
「泉さんが来た様ね、じゃあまた明日お会いしましょ、
……お互い、あれば良いけどね」
彼女はノアの気配を察したのかすっと何処かへ去っていった。
自分は彼女の後ろ姿のプラチナブロンドの髪を震え青ざめながらただ見つめていた。