静かな雨の日に
あの事件から数日たった。
小梨の話では、当初は騒然として授業が中止されていた校内も、徐々に平静を取り戻し、授業も再開されつつあるらしいけど、オレにはあまり意味のない事だった。
何せ、あれ以来、小梨のマンションの部屋に立てこもったままだから。
所謂、引きこもり状態だ。
それでも時間は刻々と過ぎるもので、気が付けば今日は土曜。
引きこもりの自分にはあまり意味はないけど、休日の今日は雨だった。
あゆむは、ベルゼバブの件以降、後始末に追われているらしく、なかなか部屋に戻ってこない。
そんな訳で、一人、部屋に取り残された自分は、キッチンでキャミにショーツのままイスにちょこんと座り、灰色にかすむ街の風景をボンヤリ眺めていた。
窓を見ると、水煙で遠くが霞んでいた。
静かに降りしきる雨音だけが、室内に響いている。
そして考えていた。
ハンターに襲われたアリスの事を。
後から小梨から聞いた話では、彼女と一緒にホテルに居た小梨の同僚の男、山田は、優奈の復讐者だったようだ。自分の復讐対象を蠅に奪われ、やりきれない表情をしていたと言う。
そして、彼女自身もベルゼバブの気配を薄々感じ、自宅を出るときに、山田に手紙をしたためていたそうだ。
――内容は彼に関する自分の犯した罪への贖罪、そして、そんな自分へ優しく接してくれた事への感謝の手紙、そして未来の優衣に宛てた数多くの手紙だった。
頭の良いアリスはあの男が、自分の復讐者だととっくに気が付いていたようだ。
そして、彼の不器用な優しさに救われ、優衣を残して逝ける事に感謝すると言う文面だったそうだ。
それが例え、後で、自分を奈落に突き落とす為の、偽りの優しさであったとしてもだ。
そして、その手紙を読んだ彼は、体をゆっくり力なく崩れ落とさせ、そして、その手から手紙と小箱がするりと抜け落ちていったと言う。
全てを知った上で、感謝の気持ちと優衣を遺していった彼女。
彼は、其れを知り、何を思っているのか判らない。
ただ阿呆のように、放心状態で、ぼんやり虚空を見つめていたらしい。
何より心に残ったのは、彼に縋り付き、「パパ、ママは何処に行っちゃったの?」と銀髪を振り乱し、泣きじゃくるゆうなと生き写しの優衣の姿、
そして、泣きじゃくる我が子を強く抱きしめ、男泣きで号泣する山田の姿、との事だった。
――ゆうなを許し、3人でずっと家族として生きてゆく。
きっと、これが彼の答えだったのだろう、ずっと前から結論は出ていた。
ただ、答えに至る過程が埋まらなかっただけなのだろう。
――けれど、もう答えにたどり着くことは永遠に出来なくなってしまった。
彼女はもう昇天してしまったのだから。
学校の惨劇の現場は、市から派遣された数人の清掃担当の職員が、手早く後処理をしていったらしい。
数時間もしないうちに、美術の教室は元の姿を取り戻していた。
――ただ、彼女だけ居ないその姿を。
”
同じ天使である優奈の死を、否でも自分に突き付けられ、
自分の最期の時を考えずには居られなくなる。
――考えないようにしていたけど、確実に、何時か、自分に来るその時だ。
「……」
その時、自分はどんな人間に襲われ、そして殺されるのだろう?
その時、自分はどんな風に悲鳴をあげるのだろう?
その時、何を思うのだろう……。
そして、最後に網膜に映る景色は何なんだろう。
残された小梨やノアはどう思うのだろう…。
嫌な思考に脳内が満たされ、シナプスが火花を散らし駆け巡ってゆく。
「怖い……」
自分は、気が着けば椅子の上で体を小さく丸め、俯き、ガタガタ震えていた。
窓をふと見ると、其処には可憐な少女が茶髪をゆらし、顔をぐちゃぐちゃにして泣いている姿が映っている。
――死にたくない。
そう思うと、思わず腕に有るリストバンドを見つめていた、自分の罪の証を。
――同時に沸き起こる、燃えるような悔恨。
あの娘に、なんて酷い事をしてしまったんだろう。 そう思えば、気が付けばイスの天板の上に水面が点々とついていた。
――もう遅い、取り返しは付かないのだけど……。
”
「ん?」
何時に、間にか眠っていたようだ。
気が付けば、辺りは夕闇に包まれ始めていた。
「……もう、こんな時間なんだ……」
ぐちゃぐちゃになって、涙の跡がのこる顔をあげると、降り続いていた雨はいつの間にか上がり、澄み渡った空気の元、遠くに見える夜景は色とりどりの宝石のように輝いている。
視線を近くに移すと、自分の背中には毛布がかけてあり、目の前のテーブルには高級店のハンバーガーの包みと何かの飲み物、そしてフライドポテトがおいてあった。
そして隣には(食え。 阿呆に風邪でも引いて死なれては困る)と書いた書置きがあった。
――眠っているうちに小梨が帰って来たのだろう。
と思ったら、張本人がフローリングの床に座り、壁に背中を預け無邪気な表情で眠っていた。
彼はアレからの数日の激務で疲れ切っていたのだろう、何時ものパリッとした黒のスーツはクタクタ、髪もぼさぼさ、ヒゲも伸びてイケメンの出来る男オーラも台無しで、だらしない姿のまま寝息をたてていた。
「あいつめ……、どっちが阿呆だよ……。
――でも、ありがとう……あゆむ……」
オレはそう言うと、あゆむの寝顔にキスをして、自分にかけてあった毛布を彼にかけていた。
涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま。
彼が、起きていたら絶対に見せられない酷い顔だとおもう。
――だけど、この瞬間だけは、許されるよね?
「――ありがとう、頂くね」
そして、彼の傍に寄り添い、テーブルに置いてあったバーガーに手を伸ばして、一口食べると、涙がとめどなく流れ落ちる。
「美味しい……」
完全に冷え切っていた、けれど--美味しい……。
確かに口の中に広がる、命の感覚に心の底からそう思った。
月明かりが、肩を寄せ合う二人を照らしだし、部屋の中は、静かな空気と時が流れていた。