パンドラの憂鬱
「杏子ちゃん起きて!」
アリスの悲痛な声がキッチンに響き渡る。
「何、何!?」
オレは彼女の声に思わず、突っ伏していたキッチンのテーブルから顔を上げた。
どうやら長い間考えているうちに、下着姿のまま、何時の間にか眠りに落ちていたようだった。
「……ゆうな、どうしたの?」
寝ぼけ頭で、ぼんやりあたりを伺うと、窓から差し込む少し傾いた日差しから、もう昼下がりだと判った。
声の方を向いてみると、ダイニングキッチンの中を、銀髪を振り乱し、クマの様にせわしなくしているアリスの姿が見える。
彼女は何時ものような、クールな表情ではない。
整った顔は青ざめ、彼女らしくない冷や汗を浮かべていた。
「優衣が居ないの! 杏子ちゃんは知らない!?」
「あの子なら、部屋の中に居るんじゃないの?」
オレは落ち着きながらそう言うと、小梨の部屋のソファーの裏や机の下を確認してゆく。
小さい子が居なくなったときは、部屋のソファーの裏や下に丸くなって、ネコの様に居るのが鉄板ネタだしね。
――自分も小さいころ良く隠れた物だし。
……で、お袋に、ネコつまみで引きずり出されたるのだけど。
まずは、ソファーの背もたれに、もたれ掛りながら裏を確認する……。
――居ませんでした……。
「……居ないね……」
次の一手。
ソファーの下を下着姿のまま四つん這いになって、フローリングの床に顔を近づけて、恥ずかしい恰好で見てみる。
――女の子の姿どころか、ホコリすら有りませんでした、とさ。
さすが、ロボット掃除機の威力……、と思っていると、ソファー越しに玄関の履物が目に付いた。
有るのは、男物の皮靴2つに、白い女物のスニーカーと茶色のハイヒールだけ。
――何か足りない……。
嫌な予感がした。
「ゆうな、優衣ちゃんは靴を履いていたの?」
「もちろんよ」
オレの質問に、ゆうなは何かに気が付いたように、はっと目を見開く。
そして、玄関先をみつめると、片手で顔を覆い、「迂闊だった」と深く息を吐きながら言葉を続けた。
「来るときに街中を着ぐるみが闊歩する祭りが有って、あの子が行きたがって居たわ……。
――きっと、それを一人で見に行ったのね」
つまり、ゆいちゃんは、自分で部屋から脱走し、祭りを見に行ったらしい、と。
――凄い行動力だ。
でも、感心している場合じゃない。
早目に探して、あの子を見つけないと本格的にヤバくなる。
――人ごみではぐれると、行動力のある小さい子を見つけるのは至難の業になるからね。
自分たちの予想のしない場所まで、移動しているし……。
「こうなったら、警察に迷子届を出して、一斉放送して貰おうよ。
きっとその方が早いと思うし」
自分がとっさに口に出したのは、何も考えない本心だった。
警察の探し人能力、半端じゃないからね。
自分は、その能力であっさりアジトのネカフェを見つけられて、スピード逮捕された訳だし。
こんな時にこそ、頑張ってもらわないとね。
しかし、ゆうなは何か思うことがあるのか、静かに瞳を閉じる。
そして、絞りだすような声で喋りだした。
「……忖度して頂戴、自分達は天使なのよ……。
警察に頼めば、優衣はきっとすぐに見つかると思うわ。
――だけど、その後はどうなるの?」
オレの軽はずみな意見に、苦々しい表情を浮かべるゆうな。
「……そうだった……、――よね」
ゆうなの表情から、彼女の苦しい胸のうちが判った。
警察を巻き込んで大きく騒げば、きっと直ぐに見つかるかもしれない。
けれど、自分達が天使で、そして、ゆいが天使の子供で有ること。
つまり、優衣が、あの凶悪事件の犯人の子供である事が、辺りに知れ渡るリスクが高いだろう。
もしも、知られたら最後、自分たちは今までどうりで居られないだろう。
今は、自分たちの事を知っているのは、小梨や山田をはじめ、ごく限られた少数の人間だ。
だから、ある程度は平穏な暮らしが出来ている。
だけど、正体がばれた瞬間に、どこからともなく、無数の冷たい視線やハンターが飛んでくるだろう。
――とくにゆうなは、天使にされる前は、人間のクズのような凶悪犯罪を犯した男だったから、世間のヘイトは、蛇蝎を見るように凄まじいに違いない。
丁度、ゴキブリを見るような感じで、『汚らわしい。 あの犯罪者に子供まで居るのね、一緒に駆除しなくちゃ』、と。
もっとも、優奈は天使にされるときに大半の記憶を失い、彼女の中にはその時の事件を起こした記憶は無いのだけど。
犯人の子供である優衣にも、きっと石や罵詈雑言も飛んでくるに違いない。
――犯罪者の娘も晒せ、吊るせ、と。
そして、彼女の幼い姿がネットにUPされ、ずっと白い目で見られるのだろう。
――犯罪者の家族への視線は厳しいから。
「私が、あの子を探してくるわ。
――あの人も小梨さんも連絡のつかない今、私がやるしかない」
アリスは、緋色の澄んだ瞳で外を見つめ、強い口調で言い切った。
――私が探してくる、と。
「ゆうな、今はハンターに狙われているんじゃ……」
オレは、思わず言葉を濁す。
ゆうなは、自分の命の危機が迫っているから、わざわざこの場所へ避難して来たはず。
なのに、危険と分かっている場所に飛び込むなんて、無謀、ううん、自殺行為と同じだろう。
前、彼女がオレに向かって忠告してくれたように。
しかし、ゆうなは軽く目を閉じ、口を開いた。
「……構わないわ、すべて覚悟の上よ」
深紅の澄んだ瞳で街をみつめ、強い口調でそういうと、長い髪を後ろで束ねながら更に言葉を継いだ。
「私は、どういう理由であれ、あの人の大切なものを奪ってしまっている。
――だから、彼に償わなければいけないの……」
そして、彼女はフッと表情を緩め、更に言葉をつづけた。
「何より、子供のピンチの時に動けないなんて、あの子の母親を名のる資格なんてなくなるから」
それは、ゆうなの覚悟だった。
あの時、屋上で話していた意味が分かって気がした。
――自分の命を犠牲にしてでも、我が子を護る、と。
ゆうなは、そう言うとくるりと踵を返す。
「ゆうな、まって」
「どうしたの?」
「自分も、優衣はちゃんを探すのを手伝ってみるよ。
一人より二人の方が安全だと思うしさ」
今はハンターが、闊歩しているかもしれない、否、確実に居るだろう。
確実にヤバイ、丁度、猛獣の口の前を一匹で歩く草食動物の様な感じだろう。
――だけど出て行くしかない。
自分は、アメコミのヒーローみたいに、強くないのは判っている。
だけど、自分の子供を探す為に危険を冒すこの人を、街へ彼女一人で送り出せるほどオレは冷酷になれなかった。
此処で彼女を見捨てたら、今まで守っていた自分の中の何かが壊れ、戻れなくなるとおもったからだ。
「杏子ちゃんありがとう。
確かに言われてみれば、二人でいる方が安全ね」
ゆうなは、笑顔で返事をかえし、更に壁に掛かっている昨日のドレスを指で、つんつん指さしながら、
「あのドレスじゃ、動けないわよ。 動きやすい格好でお願いね」、と、忠告をくれた。
――確かに、あのドレスで全速で走るのは厳しいだろう。
もっとも、スカートをまくり上げ、下着まる出しで走れば、どうにか走れないことは無いのだろうけどね。 丁度、昨日の様に。
「動きやすい服に着替えるから、少しまってね」
オレは、覚悟を決めてチェスト向かう。
そして、息を短く吐くと、ガラリとオークの引き出しを開けてみた。
――動きやすい服が、入っているように、そして自分の嫌なな予感が外れますように、と、祈りつつ。
「……」
オレは開けた瞬間、言葉を失った。
下着姿のまま、かわいい顔も台無しな茫然な表情で、チェストの前にたたずんでいた。
――予感の正体はこれだったんだ……、と思いつつ。
チェストの中にあったのは、探していたような、動きやすいようなTSとキュロットスカート。
――だけでは無かった。
隣にあるのは、真紅の空手の胴衣と、綺麗に折りたたまれた真紅のドレス。 服のラインから、マーメイドファルダだとわかった。
――あゆむが言っていた、例の悪役令嬢、木戸亜由美が着てきたドレスだ。
そして服からほのかに立ち上る、シトラスの残り香。
「――全て思い出した……」
香りをかぐと、オレは真顔になる。
その香りは、あの時のレイプの時の記憶を鮮明によみがえらさせて来たからだ。
――思い出したくない記憶だけど、香りは否が応でも、あの時の記憶を、動画再生の様に思い起こさせて来た。
オレが忘れておきたかった事実、オレが乱暴した彼女から匂っていた香りも、同じ匂いだった事を。
そして、ここでオレの推測は、確信へと変わる。
このドレスの持ち主は、悪役令嬢、木戸亜由美。
そして、ここに小梨と二人で居たのは、この娘だったと。
小梨から時折匂った香りも、この移り香だったのだろう。
「……」
いや、自分も昨夜のあゆむの態度から既に気がついていた。
――でも、ずっと曖昧なままで居たかった事実。
それが、このドレスという証拠を突きつけられて、推測が確証へと変わった。
アイツが話していた事が全て繋がり、全てのパズルのピースが、カッチリはまった気がした。
ここに二人で居たのは、あの悪役令嬢こと、木戸亜由美だと。
つまり、小梨の大切な人はあの娘だった。
そして、オレの復讐者はあゆむだと。
どう言う偶然か、神のイタズラか判らないけど、天使になったオレの復讐者と同時に、観察者にもなったあゆむ。
彼は、オレに対する憎しみを表には出さず、昨夜のように接してくれる。
フェリミス女学院の女学生として普通に高校生活を送らせるのも、美味しいものを食べさせ、美味しいものがある世界を判らせて、その後で、復讐としてバッサリ地獄に……。
そんな事を小梨はそんな事を「復讐者が望んでいる」と、言っていた。
でも、それは建前だろう。
――彼のきっと本音は違う。
自分が護れなかった彼女に果たせてあげれなかった事を、天使であるオレに果たす事で、少しでも彼女を失った痛みを癒そうとしているのだろう。
丁度、野球好きな子供を亡くした親が、熱心に野球団のお世話をするように。
あゆむの複雑な、痛いほどの思いを考えると、胸が締め付けられ、鎖が体中にからまっていく感じがした。
「杏子ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」
ほんの数秒、だけど、シナプスが猛烈に火花を散らし、オレは一瞬にして青ざめてしまったらしい。
ゆうなが心配そうにオレの顔をじっと見つめていた。
「――大丈夫……、だよ」
彼女の声で現実に戻れたオレは、笑顔を作り、頭をブンブンと左右に振りながら返事を返す。
感傷に浸る時間はない、今はゆいを探すのが一番先だから。
「TSとキュロットスカートに着替えるから、少し待ってね」
オレは、そう言うと慣れてしまった手つきで着替えを済ませてゆく。
「始まったのなら、無理はしなくていいわ」
「ううん、そっちじゃないから、大丈夫」
オレはそう言うと、心配顔のゆうなに向かい、しずかに頭をふった。
彼女は、オレの体を心配してくれてるけど、そっちじゃない。
――心の方が締め付けられるように痛い、からね……。
――何かをしていないと、心が押しつぶされそうになるくらい。