レナが去った後に
ダイニングの宴会は、まだまだ終わりそうになかった。
カスミさんはアルバムをめくりながら、グラスを片手にカクテルをあおり、あゆむと遥も負けじと酒を飲み干していく。
――三人とも、どうやら本物の酒豪らしい。
そんな訳で、テーブルの上は、空き瓶と空き缶でほとんど埋め尽くされている。
本当なら楽しい筈の宴会。
だけど、カスミさんの言葉、仕草の一つが、部屋の空気をただ冷たくしていく。
勿論オレは、その輪の中に混じることができず、オレはただ黙ってフランス人形のように座っていた。
気分を紛らわせようと、指先でグラスを転がし、氷のかすかな揺れを見つめる。
喉を湿らせても、胸の奥に広がる冷たさだけは溶けてくれない。
――どうして、オレだけがこんなにも場違いなんだろう。
心の深淵から浮かび上がるその思いに蓋をしようとするたび、逆に息苦しさが増していく。
重たい酒宴の中、カスミさんはグラスを片手に、ふとアルバムの一枚へ視線を落とし、しばらく黙り込んだ。
「……本当はね、私が守らなきゃいけなかったの。あのときのあゆみ姉を」
かすかな吐息のような声。
ポツリ呟いた言霊は、尊敬していた人を護れなかった後悔が、その一言に滲んでいるようだった。
「……ゴメン、気にしないで」
けれど次の瞬間、彼女は涙を拭って、無理に笑みを作った。
その笑みは、飲み込んだ涙の味がするように苦かった。
やがて彼女は、グラスの縁を指でなぞりながら、遥に向き直った。
「遥……小学校の夏のキャンプのこと、覚えてる?」
それは、酒の勢いではない。
笑顔を無理に作って、どこか寂しげな響きを帯びた声だった。
「……あの夏?」
遥は眉をひそめ、記憶を探るようにしばし沈黙する。
しばし,頭をかしげると、やがてゆっくりと顔を上げた。
「レナが突然いなくなった六年の夏休み。あゆみ姉と私、三人で親に内緒でこっそりキャンプに行ったときのことか?」
「そうよ、あの時3人でキャンプファイヤーとかした、あの夏のキャンプのときよ」
カスミさんは小さく頷き、グラスの酒を一口あおると、当時の情景を語り始めた。
「みんな一緒にキャンプ道具持ち出して海まで行って、そこでテント立てて、お姉さまと一緒に海を走ったじゃない?」
「ああ……そうだった。あの時は海辺を全力で走ったよね」
遥が目を細める。
「そういえば……あの時はビーチサンダル忘れて灼熱の砂浜を走り、殆ど火渡りの修行だった。
――一体だれがあんなアホウな事を言い出したのやら……」
あゆむは苦笑いをしながら、カスミと遥に順番に視線を送りながら、軽くクビをかしげると、
「さあ?ソレを言い出したのは……だれでしょうねぇ~? いろんなカワの厚い人が言ったんじゃないのぉ? 」
なぜか、遥さんは、あゆむをじと~っとした視線で見つめていた。
しかし、それは遥さんの壮絶なブーメランだと思うんだけどね。
――先ほどからの行動見てると、彼女の面の皮の千枚張り、みたいだしねぇ。
間違ってもカスミさんではなさそうだし。 言い出したのは、遥さんに確定っ と。
そんな事を思ってると、カスミさんが更に続けた。
「その後花火大会が有るのを知って、3人で見晴らしの良い丘に登ったの。 ここならよく見えるってあゆみお姉さまが教えてくれてね」
「そこで、夜まで待って、花火大会を見たの」
「そんな事もあったよな……」
遥は、窓の外を眺めながらポツリ呟いた。
「花火を見ているその時、私……無性に悲しくなって『いつか私たちも花火みたいに離れ離れになるのかな?』って泣きながら言ったんだよ。 そうしたら、あゆみお姉さまは、結婚すればずっといられると……」
「……ソレは違う」
遥が苦笑し、クビを左右に振ろうとした瞬間、そのカスミの言葉をあゆむが静かに遮った。
「違う。その時、あゆみはこう言ったんだ――
『我ら三人、生まれし日は違えども、姉妹の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、互いに救わん』って」
少しゆるんでいた部屋の空気が、すっと張り詰める。
遥は「ああ……そうだったな」と低く呟き、カスミさんも静かに頷いた。
「そうよ。あの日、私たちは義姉妹になったの」
あゆむ、遥、カスミ、三人の視線は、遠い夏の日の花火の下に結ばれた絆の写真へと向けられていた。
オレは、彼女たちの絆の深さに、改めて胸を締め付けられる思いで二人の話を聞いていた。
――彼女たちの間には、俺には想像もつかないほど濃密な時間が流れている、と。
――だが。
「そして……高校の夏、あの事件が起こったの」
カスミさんはアルバムをめくり、ある一枚で手を止めた。
写真に写る笑顔は、これから訪れる嵐をまだ知らない。
映る3人の笑顔は、ソコが抜けるほど明るかった。
「あの時、助けてくれたのが、あゆみ姉だった。全部聞いて、全部受け入れてくれた」
言葉を切り、苦い笑みを浮かべる。
「……あのとき、もう生きていたくなかったの。
レナのサークルで遊ばれて、弄ばれて……妊娠までさせられて。
誰にも言えなかった。親にも、友達にも……どこにも居場所がなかった」
カスミさんはグラスを握りしめたまま、遠くを見つめていた。
吐き出すたびに、言葉が震え、胸の奥に溜めていた痛みがこぼれ落ちていく。
「だから、家を飛び出した。……でも、気づいたら、後ろにあゆみ姉と遥がいたんだ。
何も聞かずに、ただ黙ってついてきてくれて……それだけで、どれほど救われたか」
そこで言葉が途切れ、堰を切ったように涙が溢れた。
嗚咽に変わり、声にならなくなっても、彼女はなお語ろうとした。
「……ひまわり畑で、全部をあゆみ姉に打ち明けたの。
泣いて泣いて……それでも、あの人は責めなかった。ただそばにいて、ずっと背中を撫でてくれて。
遥も横で黙って寄り添ってくれた。……あの夏の一日、私たちは、ひとつになって夜までそこで過ごしたの」
夕暮れが花を赤く染め、やがて夜空に星が瞬いた。
それでも、あゆみは慰め続けた――そうカスミは語った。
「次の日、あゆみ姉は私の代わりに動いた。……あの男を叩きのめして、責任を取らせた。
表向きには、それで一件落着だったのよ」
カスミさんはそこで小さく笑った。
その笑みはどこまでも苦く、胸の奥に残った後悔を隠しきれてはいなかった。
「……でもね。助けてもらったはずなのに、私はあの人を守り返すことができなかった」
カスミさんの声は、震えていた。
グラスを見つめる視線が揺れ、そこに映るのは過去の光景なのだろう。
「久々に顔をあわせたあの日……あゆみ姉は、もう普通じゃなかった。
私が話しかけても、上の空で……まるで遠くへ行ってしまいそうな目をしていた。
本当は気づいていたのに……私は、それ以上踏み込めなかった」
その手が小さく握りしめられ、白くなる。
「……私がそばにいれば、あんな思いをさせずに済んだかもしれないのに。
あの人を救えたのは、あの夏の誓いを結んだ私のはずだったのに……」
堪えきれずに漏れた嗚咽が、言葉を断ち切る。
テーブルの上に、またひと粒、涙が落ちて小さな水跡を残した。
「……誓いを守れなくて、ごめんなさい」
その言葉と同時に、カスミさんの体から力が抜けた。
両手で顔を覆い、堰を切ったように号泣する。
嗚咽はやがて声になり、テーブルに額をつけるほど深く俯いて、子どものように泣きじゃくった。
「……ごめん……あゆみ姉……ごめんなさい……」
涙に濡れた声が途切れ途切れに響く。
空になったグラスが転がり、氷が小さく跳ねる音が、その嗚咽の隙間を埋めていた。
重たい沈黙を、遥は守っていた。
その静けさが、逆に場の重みを際立たせる。
「……気にするな、アレはお前のせいじゃない」
あゆむは酒を一気にあおり、呟くように言葉を吐き出した。
だがその一言が、カスミの涙を怒りに変える。
「気にするな? 軽々しく言わないでよ!」
顔を上げたカスミの瞳には、涙と共に激しい怒りが宿っていた。
「あの言葉の重さ……貴方に判るの?
やさしかったあゆみ姉が、あの男に無理やり清純を奪われた恐怖と屈辱……そして、自ら命を絶つしかなかった追い詰められた気持ちが?」
ドンッ――。
カスミは殺意を込めた視線であゆむをみつめながらテーブルを叩き、震える声で吐き捨てる。
「あのレイプ魔にも同じように……ズタボロに犯されて、そのまま殺されればいいのよ!」
泣き叫ぶような声が部屋に響き、空気をさらに重たくした。
そのあまりの殺意に、オレの体は思わず震えた。
――オレが壊したのは、こんなに強く結ばれていた彼女たちの絆なんだ。
その事実が、刃のように胸に突き刺さる。
震えを抑えきれず、拳を握りしめたその瞬間だった。
「……大丈夫だ」
低く、確かな声。
あゆむがオレの肩を抱き寄せ、その腕の中に押し込むように抱きしめた。
「安心しろ。何があっても……オレがお前を護る」
耳元に落とされたその言葉は、あまりにも真っ直ぐで張りつめていた胸の奥が、じわりとほどけていくのを感じた。