2人の罪の行方
「もしかしたら……自分で“男”をやめたのかな、あの子」
オレがあゆむの隣でぽつり男だった頃の大変さを語り終えた後だった。
「――あの軟弱者が……。」
突然、となりから、あゆむの低い声が飛んできた。
叩きつけるような強さじゃない。けれど、確実に怒気を含んだ、乾いた声だった。
「メス堕ちでもして女性に逃げたかったら逃げればいい。男をやめて女になりたきゃなればいい。
――だが、女性として生きるのもこんな感じで見た目ほどソコまで甘くはない。いわばラノベのような幻想だ」
そう言いながら、あゆむは一度、オレのカラダを優しくをタッチする。
「ん……? どうしたのあゆむ?」
いつもようなスキンシップにオレは、クセのような感じであゆむにカラダをほんの少しだけあずけると、いつものようなぬくもりがつたわってくる。
そのルーティンワークのようなタッチですら、おおきなやすらぎと安心感に包まるような感じがして心地いい。
安らぎと安心感から自分でも表情が緩んできているのがわかった。
「……そうだったな……」
オレの顔をあきれ顔で、でもどこか少し照れたような顔でオレのほうをちらっと見つめたあゆむは、満足そうにわずかに目尻を緩めてから、無言のままふたたび窓の向こうへ視線を戻した。
窓の外には、夕焼けが街をやさしく包み込んでいた。
高層ビルの影が群青色になった天空と対比するようにオレンジ色に溶け込み、ビルの窓がぽつぽつと灯りはじめている。
あかね色に染まる空が、ガラスに映るあゆむの横顔を、ほのかに金色に縁取っていた。
そして、しばらくたち、部屋の中にしずかな空気でみたされ、窓の外は群青に沈むビル群の影が、ラピスラズリのような天空に溶けていく。
その冷たい色の海に、夕陽の残照だけが、オレンジから茜へとやわらかく滲んでいた。
──まるで、冷えきった記憶の底に、かすかに残った熱だけが浮かび上がるように。
「だが、アイツには判って居ない」
あゆむがつぶやくようにそう言った瞬間、背後にあった夕焼け色を写すのグラスの中で、氷が細くひび割れて、カランと音を立てた。
その小さな音に、染みついた沈黙がわずかに揺れる。
音に背中を押されたように、あゆむは低く語りだした。
「女として生きるのが、どれだけ不自由で、どれだけ……理不尽なことと言うことを、な……」
その声は低く抑えられていたけど、どこかに火種のような静かな怒りが見え隠れしていた。
あゆむはゆっくりと息を吐き、窓枠にもたれるように腕を組むと、オレとは視線あわせず、外に投げたまま、続けた。
「女の場合、ただ歩いてるだけで、意思とは関係なく値踏みされる。
普通、女性が服を選ぶときも、“露出が多けりゃ誘ってるって思われるかも”なんて、余計な心配が先にくる。 お前のように胸もとを無防備に見せていては、自分から誘ってるって思われても仕方ない。抱いて下さい、と世間では思われるんだ。
自分は、……ただ好きなモノを自由に着たいだけなのにな。」
「えっ……そうなの?」
思わずオレは、自分の着ていたシャツの襟元をぎゅっと反射的に引き寄せて、うでで胸元を隠した。
よく考えてたら無意識に無防備だったけど、あゆむの視線からだと自分の胸もとが丸見えだったよ……。
――そんな事意識した事なかったけど、そうなんだ。
もっとも、あゆむには もっとすごいモノをいつも見られてるから、いまさらって事なんだけどね。
「そうだ、きょうこみたいに 子どもみたいにガードががら空きで無防備な娘はまずいない。
……ある意味、よく今まで無事に過ごせたなってレベルだ」
その言葉に笑いかけそうになったけど、できなかった。だって──どこか思い当たる節があったから。
オレは、ただ、黙って、目の前の夜の景色を見つめていた。
……だけど、こころのどこかでわかる気がしてた。
思い返せば、オレも自身も、この身体で“女”として生きるようになってから、ほんの少しだけど、確かに“そういう現実”に触れたことがある。
視線。
駅のホームで、夜の道で、ふとした拍子に──
男の時は、今までなかったけど、何かがスッと肌の上をなぞるような、そんな気持ち悪い視線を感じる瞬間があったもの。
“何もしてないのに、そう見られる”。
それだけで、心がざらざらすることって、本当にあるからね。
そして、なにより“あれ”――生理。
身体が急に重くなって、気持ちも不安定になって、
それを隠しながら学校に行くのが、ただただしんどかった。
オレはそっと息を吐いた。
「あゆむ……たぶん、いまの自分なら、ちょっとだけ……わかるかも」
そう言った自分の声が、かすかに震えていた。
それでも、自分の中で言葉にすることで、ほんの少しずつ、なにかが整っていく気がした。
「服もあるけど、なによりアレが来たときは、マジでしんどいしね。
あゆむが居る時は、あゆむがアソコにアレを痛くないように挿入れてくれるからまだマシだけどさ、一人の時は怖いしうまく挿入れないからナプキンつかうんだよね」
オレはそう言うと、マユをほんの少しひそめて、外の景色を視線で追う。
「そうなるとナプキンって見た目オムツだよ。 前の体の時は考えた事すらなかったよ、大人になってからもオムツみたいなものつけたりするなんてさ……。」
ちょっぴり恥ずかしがるオレの言葉に、あゆむは目を細めた。
「そういえば、ふつうの女のカラダなら月一でアレが来るんだったな……」
あゆむは、ぽつりと、まるで遠い誰かのことを思い出すように言葉を落とす。
「思えば遥とカスミがそんな事を言って居たっけ……」
そこまで言ったあと、ふいに声のトーンが変わった。
「──あの娘、《木戸あゆみ》も、何も知らない昔はそうだった」
窓の外の光が、あゆむの横顔を切り取っていた。
赤みを帯びた夕焼けの名残が、彼の表情の端だけを淡く照らす。
けれど、そこにあるのは温かさではなく、どこか……冷えた影だった。
「あの娘も昔は……“いつか自分にも来るのかな”って、思って薬局でこっそり買ったタンポンを握りしめて……準備して、何度も挿入れる練習もして、生理が来たら、ちゃんと“女の身体になれた”って、来るのが怖いくせに、ちょっとだけアレに憧れていたんだ。 大人の女性の証にな」
そこまで語ったあと、あゆむはふっと息を吐いた。
あゆむは、言葉にはしないけれど、どこかひび割れたような笑みを少し寂しそうに浮かべ、口元はわずかに震え目を細めて、ちいさく自嘲気味にフッとハナで笑った。
それは映画でもみたことのある、自分ではどうしようもない運命を背負ったような人間の表情だった。
あゆむは、壊れかけた笑みのまま言葉をついでゆく。
「だが……バカだった」
その声は低く、どこか乾いていた。
「あのときの彼女は、まだ“女”になれるって、信じてた。 普通の女の子としての淡い幸せを……」
「……」
しばらくの沈黙。
オレもあゆむの表情に何も言うことが出来なくなっていた。
まだはっきりは判らないけれど、この人が背負っている重たい運命に。
その間に、窓の向こうの群青が少しだけ濃くなっていた。
最後の茜色が街の端に沈み、かわりに白い光がビルの窓を一つずつ照らしはじめる。
そして──。
さいごの茜色が群青のヤミにとけてた瞬間、あゆむは覚悟を決めたように、残りの言霊を一気に吐き出した。
「――だが現実は残酷だった。
そして、すべてが分かった時、彼女は産めない女としてジャンク扱いされ、あの男に婚約破棄されたんだ……」
あゆむがそう呟いたとき、言葉の温度が一気に下がった気がした。
でも、それは怒りじゃなかった。
なんというか……もう、怒るのも疲れた人の声だった。
「……」
オレは言葉に詰まった。
あのホテルの時は勢いで、「生む産まないって関係ない」って、言ったけど、今なら“そんなことないよ”なんて、軽々しくは言えない。
産めない女は即、婚約破棄。
つまり、女性を、「産む機械」、「モノ」として見られているって現実があると判ったからだ。
「アイツには、“ヤれない女”、更には疵物なんかに至った日には、なんの価値なんてないんだろ。──そう後でメールで吐き捨ててな……」
あゆむが声を震わせ悔しそうに、そう呟いた瞬間、オレの喉がひとつ鳴った。
――オレは、その“目”で女性を見てた側だったからだ。
女なんてタダのモノ、使い捨ての自分の欲望のはけ口の道具。ヤって吐き出したら後は捨てるだけ、と。 彼女の事なんて何も考えて無かったもの。
ただ、問題はヤれるかどうかだけ。と。
あの時は、「そんなの関係ないだろ?」軽い言葉で否定したけど、
レイプの事を何も知らずに、軽く考えてた。
“女なんて簡単に壊れる”、
“気持ちなんか関係ない、欲を満たせばそれでいい”って。
最低だった。
今、あゆむの言葉が胸に刺さるのは、
たぶんそれが“責められてるように聞こえる”からじゃない。
“自分がかつてそれをやった側だから”だ。
「……ごめん」
その言葉を吐いた瞬間、胸の奥がきゅっと音を立てるように締めつけられた。
心臓の鼓動が、背中まで響いてくる気がして、呼吸が浅くなる。
オレは気づけば、泣きそうな口調で、そう口にしていた。
「オレは……“女のコが何を失うか”なんて、
何ひとつわかってなかったくせに……」
その声は、掠れていた。
喉の奥が熱くなって、涙がせり上がるのを必死に堪えた。 体が熱くなるのが分かる。
けど、それでも言葉の端が滲んで、震えてしまうのを止められなかった。
「自分が“女”になって、ようやく、少しずつ痛みがわかるようになって……
でも、たぶん、それでも“あの時の罪”は……、消えない。 永遠に消えることは無いと思う、自分が永遠に背負う罪の印だから」
オレの言葉や、指先、だけじゃない、全身が震えていた。
「だから……言葉で慰めることはできないし、
“女性をモノ扱い”なんて、そんな目で見たこともある、オレは……、」
言いかけて、言葉が途切れた。
指先が震えていた。
震えるのが悔しくて、でも止まらなくて。
「……女の子なんて欲望の吐き出し先、そんな目で女を見たこともある、オレは……、オレは……」
そこまで言って、うつむきながら言葉が途切れた。
そのあとは、何かを吐き出すように、息だけが漏れた。
手が冷えているのに、背中にはじんわりと汗が滲んでいた。
すべてが、今までオブラードに包まれていたものが剥き出しになっていくようで、怖かった。
――それが、きっと自分の本当に芽生えた、本当の罪の意識。
今まで女性の尊厳なんて考えずに、タダのモノ、性欲のはけ口だけとして、扱ってきた事への罪の意識。
芽生えた重い罪の意識に、胸の奥に、透明で冷たいガラスの破片がひとつ、埋まっているようだった。
心がほんの少しでも動くたびに、あの娘とか関係ない、今のあゆむとの幸せな記憶すらズタズタに引き裂かれ、あの時の彼女の下の地面にしたたった深紅と白い色、生臭い匂い、彼女の声、そして筋肉質な彼女の体の感触に置き換えられ、かりそめでもおだやかだった記憶が真っ黒に塗りかえられてゆく。
なのに、その記憶が痛いのに、壊すことも、消すこともできなかった。
これがオレのやってしまった罪の重さ。
体が、自分のモノじゃないように、ガタガタ大きく震えだしてゆく。
「……」
あゆむはただ、ふるえるオレを優しく抱きしめてくれていた。
カレの震える体から伝わるぬくもりは、真っ黒に塗りつぶされそうになるオレの心にポツンと夜の海の灯台のように灯るのがわかる。
――自分は、こんな最低なことして来た人間だから、あゆむに抱きしめてもらう資格なんてないのに、こんなオレにも優しくしてくれて、マジでうれしかった。
「……ありがとう、あゆむ……」
オレが感謝の言葉をはきだすと、部屋は静かな空気につつまれてゆく。
二人の息遣いだけが聞こえる長い沈黙の時が流れる。
窓の外の夜景が、ゆっくりと群青色をその色を漆黒に向かって濃くしていくのがわかる。
そのときだった。
「……すまない……」
あゆむが無意識のうちに小さく吐き出した、その言葉が敏感なおれの耳元に届くのが感じた。
本当なら、オレの方があゆむに言わないといけないその言葉なのに、カレがぽつりとこぼしたその言葉。
その言葉が出た瞬間、ほんのわずかに、部屋の空気がひきつった気がした。
それが気のせいかどうか、オレにはわからなかった。
けど、あのときのあゆむの目は、どこか遠くを見ていた。
(……あゆむ?)
そう声に出しかけて、やめた。
たぶん──あゆむは、言わない。
たぶん、カレの中にも、“言わない罪”がある。
ううん、あの人にかかわる、どうしてもいえない罪なのかもしれない。
それは、自分が過去にやったことであの娘を救えなかった。 どうしてあのとき、自分がどうしなかったか。
それが、あゆむを縛っているのかもしれない。
「――あゆむ、それはコッチのセリフだよ……。 自分がこんな言葉を言える立場じゃ無いのは判ってる……、けど、言わせて欲しいんだ……。」
――本当なら、オレなんかにそんな資格はない,そんな事は判り切った事だよ。
天使にされた極悪レイプ犯が、他人を赦すなんて、おこがましいにもほどがある。
けど、それでも、あゆむが苦しんでいるのなら──あゆむの支えになりたかった。
……あの時と同じ間違いを繰り返したくなかったから。
オレは呟くようにそう言うと、スッっとあゆむのふるえている大きな手をぐっと握りしめ、心に決めていた言葉を一気に吐き出した。
「……どんなことがあっても、オレはあゆむを許してあげる。 世界中の誰が許さなくても、自分が許してあげる。
――誰だって失敗はするものだからね」
ノアがオレに言ってくれた、彼女から借りてきた薄っぺらい言葉。
――でも、オレがあゆむにかけることが出来る思いつくだけの言葉。
オレの心から絞り出した本心の言葉だった。
「……それでも、私は自分が自分を許せない……」
一瞬の沈黙のあと、泣きそうな顔をして崩れ落ちた、あゆむはぽつりとそう言った。
「……ううん、それでも許してあげる。なぐさめてあげるよ。
――ソレがあゆむを支えるって事でしょ?」
そう言うと、オレは崩れ落ちたあゆむをムネの所に抱きしめると、あゆむの震えがオレに伝わってくる。
その震えは、カレの心の痛みが流れ込んでくるような感じがした。
部屋の中はあゆむとオレの二人の泣き声と、静かな空気が流れていた。
そして、窓から零れる月明かりが二人を照らし始める。
「……きょうこ……」
「………あゆむ……」
オレは、あゆむの手を握りしめたまま、涙にぬれたカレのイケメンの顔をみつめながら、二人のどちらともなく口を開いた。
そして……。
お互い無言のまま目を静かに閉じる。
月明かりの元での二人の口づけは、シトラスの香りがした。