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慟哭

「……大丈夫ですよ」


弱々しく揺れる両肩、しがみつくような手。

天幕の中にあるものはそんなクリシェの姿に驚きと困惑を浮かべ、何も言えずに顔を見合わせる。

普段の彼女を知ればこそ、ほとんどのものには意外と思えるほど弱々しい姿。

まるで怯える子供であった。


恐る恐る声を掛けたのはクレシェンタだった。


「お、おねえさま……その、辺境伯が」

「はい……それで、確認のために、クリシェ……」


ベリーはクリシェの顔を覗き込むようにする。


「……クリシェ様にお怪我はありませんか?」

「……はい、……ぁ」


そこでようやくクリシェは自分の格好に気付き、慌てて離れた。

ベリーの白いエプロンはクリシェの浴びた返り血で真っ赤に染まっている。

クリシェは視線を揺らし、ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で告げ、大丈夫でございますよとベリーはその体を抱く。


彼女がわざわざ戻ってきた理由は様子を見れば理解ができた。

ボーガンのことを聞き、自分やクレシェンタの身を案じたのだろう。

血濡れの姿に悲しいものを覚えながら、ただ撫でた。

血で衣服や手が汚れるのも気にならない。

汚らわしいとも思わなかった。


彼女を落ち着かせるようしばらくそうして、頬についた血の汚れを拭う。

クリシェの体から少しずつ力が抜けて、呼吸が落ち着いてくる。


その様子を見たガーレンはベリーを窺うように見た。

ガーレンの顔には苦々しいものが浮かんでおり、ベリーは迷うようにクリシェに尋ねる。


「……少し、落ち着かれましたか?」


ベリーの顔にもガーレンと同じものが浮かぶ。

この少女はベリーが望み願う単なる少女ではなく、戦を勝利に導くため、人の命を奪うことを望まれる戦士であり、指揮官であった。

少なくともこの状況において彼女をただ慰め、甘えさせる時間などないということはベリーにも理解できている。


クリシェは静かに頷き、ベリーは唇を噛み拳を強く握る。


本陣もまた混乱の最中にあった。

ボーガンはミツクロニアの麓で手当てを受けている。

ここまで連れてきていない理由は容易に動かせないほどの重体であるからだった。

失血が多すぎ、いつ心臓が止まっても不思議ではない。


「……クリシェ、そのままで構わないから状況を教えて欲しい」

「はい……」


安堵に体の力が抜けるのを感じながら、ガーレンに前線の様子を説明する。

セレネの軍団は山中への撤退が完了しつつあり、第四軍団がそれの援護。

殿は第二軍団と第四軍団であり、少なくとも大きな混乱はなく撤退は進行している。

端的に必要な情報だけをクリシェは告げた。


「……やはり、ここは捨てねばならぬか」

「……ミツクロニアの状況によりますが、第三軍団に今のうち大休止を取らせた方が良いと考えます。竜の顎から離れた後、第三を主体に前面に展開、ここよりの撤退を」

「そうせざるを得ないな。……ボーガンは、聞く限りでは難しい。口にしたくはないが――復帰は不可能と考えるほかあるまい」

「……そう、ですか」


クリシェはガーレンの言葉をそのまま受け止めると、頷く。

周囲の者達も悔しげに歯を食いしばっていた。


あまりに血が流れすぎた。

呼吸は僅かに続いているものの、失血量を考えればもはや時間の問題であるという。

ガーレンは血が滲むほどに拳を握る。


「裏切り者で確定しているのはサルヴァ=カルゲラとグラン=アーグランド、恐らくその周辺にも何人かいるだろう――が、状況は掴めん」

「カルゲラ副官は王弟殿下の側にいるところを確認しました。……その、クリシェは……王弟殿下も、カルゲラ副官も殺せませんでした」


クリシェは目を伏せ、ガーレンは首を振る。


「無理をせんでいい。……クリシェ、お前は十分にやっている」

「…………」

「グランもボーガンを呼び出した後姿を消しておる。見つけ出したいところだが、不可能だろう。状況も悪い」


忌々しげにガーレンは告げると、言った。


「……わしはこのまま指揮を代行、本陣の撤退準備を進めていく。すまんが、クリシェ」

「……はい、おじいさま。クリシェはこのままセレネのところに行きます。その……第一軍団はクリシェが代行したほうが良いのではないか、と思いますから」

「お前には……負担を掛ける」


ガーレンは頭を下げた。

クリシェはいえ、と返し、少しの間を空けて告げる。


「本陣の兵はいくらか第二軍団の撤退支援に使ったほうが良いと思います。第二軍団の士気は現状高いですが、長続きはしないでしょう」

「わかった。考えておく」

「はい。クリシェはこのままベルナイクへ走ります」

「ですが……クリシェ様も少し休まれた方が。……走り通しでございましょう?」


ベリーが眉尻を下げ、心配そうにクリシェを見る。

クリシェは嬉しそうに微笑み、大丈夫です、と告げた。


「ちょっとだけ安心しましたから、平気です」


そう言って名残惜しむよう体を離す。

クレシェンタはクリシェに見られると、小さく肩を跳ねさせた。

クレシェンタの視線が左右に揺れるのを見て、そして側に護身用だろう、剣を置いてあるのを見て、クリシェは近づき小さな声で告げた。

人目があるからだった。


「クレシェンタ、ベリーのことお願いしますね」

「……はい、おねえさま」

「ご当主様の件は……」


何か声を掛けるべき言葉を探り、しかし見つからなかった。

彼女の責任でないとは言えない。優しい言葉を掛けてあげるのもおかしかった。

だからといってクリシェは一度許したことに対し、責めるようなこともしたくない。


それに彼女のせいだけではない。

クリシェは自分が上手くやれなかったからだと、そう考えた。

自分が戦場にありながらボーガンを――


クリシェは目を伏せ、少しの間を空け、告げる。


「……クレシェンタがどんな子でも、クリシェの妹です」


クレシェンタは目を見開いて、頷き。

クリシェの血に濡れた外套を掴むように、体を寄せた。


「……はい」


軽くその額にキスをして、クリシェは踵を返した。







「軍団長、第二大隊は後退完了しました。第三大隊はこのまま現状を維持、敵を引きつけ第四軍団の撤退支援を行ないたいと」


セレネはただ、頭脳を巡らせる。

余計な事を考えないように。


「第三大隊は疲労が大きいわ。別途支援はこちらから出すと伝えなさい。……バーガ、第四大隊半数を増援に。動ける者を選んでちょうだい」

「は! 第一、第二、第五、第七、第九番隊、貴様らは第四軍団の撤退支援だ。今まで楽が出来たろう、有り余った力を見せる時だ」


呼ばれた百人隊長が整列を叫ぶ。

残る第四大隊は士気練度が低く撤退の支援という高度な戦術には使えない。


「ここの掌握はわたしがするわ。バーガ、あなたも行きなさい。副官も連れて」

「しかし――」

「大丈夫よ、平気。少しでも被害は少ない方がいい」


セレネは無理をした顔で微笑を作り、バーガはただ、敬礼する。


未だギルダンスタイン側の山の中腹。

第四軍団が盾になる形であった。

しかし、優秀な第四軍団にだけ被害を担当させ消耗させるわけにも行かない。

どこまでも冷静に、計算によって被害を分散させていく。

そして被害とは、自分に付き従う兵の死であった。


セレネは今、仲間のために死ねと命令しているのだ。


頭痛が酷くなり、吐き気があった。

それでも立ち、ただ責務を果たす。

それが彼女の役目であった。


「……セレネ」


聞き慣れた声が聞こえて、その瞬間セレネの顔が安堵に微笑む。


「クリシェ……」

「応援に来ました。その……」


不安げに視線を揺らすクリシェを見て、首を振る。

クリシェは少し迷うような様子だった。


「崖を上がっていくのが見えたわ。王弟殿下は……討てなかったみたいね」

「……ごめんなさい」

「……いいの。あなたが精一杯頑張ってるのは知ってるわ」


クリシェはその言葉に更に視線を揺らした。

精一杯、ではなかったことを、誰より自分が知っている。

クリシェは怖くなって、諦めたのだ。


「……状況は?」

「敵は右翼に兵力を集中させて突破を図ってきてる。第四軍団ではなく、わたしの側ね」


第四軍団は左翼側に、第一軍団は右翼崖側に戦力が寄っていた。

敵は兵の練度から精強な第四軍団ではなく、急造の第一軍団を狙ったのだろう。


「今第三大隊が殿を、と言い出したから、その撤退支援にバーガを向かわせようとしているところ。現状は第四軍団に負担が大きいわ」

「……そう、ですか。……わかりました。セレネは先に戻ってください」

「……え?」

「ご当主様は、まだ息があるみたいです。ミツクロニア側にいらっしゃると。……後はクリシェが引き継ぎます」


セレネは硬直し、目を潤ませた。

――限界だった。


「……わかった。ここをお願い、クリシェ」

「……いえ」


言った瞬間既に走り出していた。


セレネはただ森を駆け、山を下る。

頬が枝葉で傷つくことなど構わない。

むしろその些細な痛みが、感情をせき止めセレネを現実に引き留める。


本陣を過ぎてミツクロニアに向かう。

兵士は全速で駆けるセレネを見て、あるものは悔しげに唇を噛み、あるものは落涙する。

拳を大地に叩きつける姿を横目にして、セレネの頭に確定的とも言える想像が生まれた。


――今は考えるな。士気に関わる。

走る最中に何度も、込み上げそうになる涙を堪えた。

自身の役割を放棄してしまいそうになる感情を押し殺し、ただ駆ける。


ミツクロニアの第三軍に到着すると、彼女の姿を認めた騎兵がすぐさま並走し、彼女を先導した。

何かを言っている気がしたが、セレネにはそれすらも聞こえない。


「……お父様」


天幕の一つ。

その中央に作られた簡易ベッドに横たえられているのは、大柄な男。

その筋肉質な体のほとんどに包帯が巻かれ、右腕はなかった。


包帯には未だ血が滲み、赤く染まる。


「……セレネ様。今は……なんとか、息を繋いでおられますが……」


従軍医が絞り出すように告げる。

セレネの俯いた顔――その鼻先から汗がしたたり落ち、その体は乱れた心の中を表わすように上下する。

彼女の両手は血の気が引くほどにベッドのシーツを握り締めていた。


理解している。

想像にもあった。

戦場に出る以上、こうなることとは無縁ではいられない。


戦場で命を落とす。

それが軍人として――貴族として誇らしい死であることも分かっている。

剣に、戦士として生きるということはそういうことだった。


その体にある無数の傷は、戦士の傷。

勇者としての勲章だった。

ならば、胸を張って送らねばならない。

目の前に横たわるは、まさに英雄なのだった。


母親を亡くした時のことを思い出す。

優しくて、格好良かった。尊敬する母はいつだって笑っていて、自分の死に際にあっても笑顔を浮かべた。

父は自身も深い悲しみの中にありながら、涙も流さずセレネを慰めた。

自分もまた、尊敬する二人のようにそうあるべきだった。


戦場にある以上、仕方ないこと。

そして自分は兵を率いる身にあるものだった。

感情に身を任せることなど許されない。


なのに――


「ぉ、と、さま……っ」


耐えきれず涙が溢れ、嗚咽を殺す。

膝を突いてベッドにすがりつき、溢れるものを押しとどめることも出来ずに。


兜が転がり落ちる。

優美な鎧を身につけて、しかしどこまでも小さな背中だった。

見ていた者は声も掛けられず、沈痛な面持ちでそれを眺める。


セレネ=クリシュタンド――英雄ボーガン=クリシュタンドの一人娘。

才覚に溢れ、努力を惜しまず、彼女がどれほどその小さな体に負担を掛けて立派にその責務を果たしてきたか。それを知らぬものはクリシュタンドにいなかった。


泣き崩れるそんな少女が父にすがる姿を惰弱となじるものもいない。

張り詰めたものが決壊するように嗚咽を漏らし肩を震わせる姿は、鎧を身につけていてもただの少女でしかなく、そしてそのただの少女が文字通り、力の限りを尽くした結果なのだった。


その努力を卑劣な裏切りによって無にされ、彼女は父を失ったのだった。


あまりに酷だと目を背けるもの、涙する者もあった。

尊敬する英雄の死は彼等にとってすら、理解できていても耐えがたいものがあった。

誰もが臓腑の内が煮えたぎるような怒りと、深い悲しみに囚われている。

実の娘である彼女の悲しみは果たしてどれほどのものか。

掛ける言葉すら見いだせぬほど、彼等の胸の内をも苦しめていた。


動けるものはなく、ただ天幕に嗚咽がこだまする。


――そんなセレネの頬を撫でる手があった。


右腕を失い、残った左手を震えながら動かし、優しくその美しい頬に流れる涙を拭うように。


「おとう、さま……?」


セレネは涙でくしゃくしゃに歪んだ顔を向ける。

その美貌は子供の様で、それを見たボーガンは何を告げるでもなかった。

何かを告げようとし、しかしそれは言葉にもならず、風と消える。


セレネはただ、その手を掴んだ。

ごつごつとした、硬い手。

セレネのそれとは比べものにならないほど大きく、そして熱を帯びた手だった。


ボーガンは視線だけをセレネに向けて、目元を笑わせる。


「お父様……っ」


勇壮で、男らしい顔。

小さな頃は頬摺りされて嫌いだった髭。

昔は、その顔がいつも怒っているように見えて怖かった。

でも、誰よりいとおしい父の顔だった。


太い腕が震えながらも持ち上がり、セレネの頭に乗せられる。

ボーガンの瞳が言葉を探すように揺れ、伏せられて。


しっかりと見据えられる。


――任せた。


言葉もなく、ゆっくりと。

唇はそう動いた。

娘に掛けるにはあまりに短く、愛してるでもない。

けれどどこまでも、ボーガンらしい言葉だった。


頭を撫でる手が、言葉なくともその愛情の深さをただ伝え、そしてそこから力が失われる。

ただそれだけを伝えるために息を繋いでいたのだと――そう示さんばかりに。


だらりとぶら下がった手を見つめ、


「やだっ! おとうさま、そんなの……っ!」


セレネは父にすがりつく。

鼓動がそこにないことを気付きながらも、そうする。


「何か、なにか言ってちょうだい、……お願い、おとうさま……っ」


今のが最後。

もう二度と、その口が開くことも、頭を撫でられることもない。

耐えきれず叫ぶように声を上げる。


周囲のものは、顔を歪めながらも敬礼を送り、その内一人が側による。


「……セレネ様、将軍をお運びします。セレネ様もご一緒に」


セレネは駄々をこねるように首を何度も横に振る。

男は周りに指示を出し、幌のついた馬車を用意するよう告げると、ただ落ち着くまで彼女の側で待つ。

彼女を急かす様な真似はしなかった。


馬車が来て、そこへボーガンと共に連れられてもなお、セレネは馬車の中――父の亡骸にすがりついていた。










セレネを見送ったクリシェはバーガに声を掛ける。


「――バーガ、第三大隊の撤退支援は中止です」

「え?」


熊のような顔に疑問を浮かべ、眉をひそめる。


「それはどういう――」

「伝令、ファレン第四軍団長にこちらへの撤退支援の中止を。そして右翼へ敵の道を作るように指示してください。機動防御の構えで誘い込んで殺します」


ベルナイクの左翼、中央に第四軍団が展開。

中央は第一軍団全体の撤退支援のためその身を削る形となっている。

兵の質として天秤に掛ければ、第四軍団の損耗こそを最小限に抑えるべきだった。

本来であれば、第四軍団を先に撤退させておくべき状況――しかし第四軍団長エルーガはセレネの精神状態に不安を覚え、自らが殿になったのだろう。

エルーガは機転が利き、戦術眼に優れる。

戦術としては最適解とは言えないが、分かった上でそうしたのだ。

そうしてくれたことはありがたかった。

それが仮に100万の命とセレネであったとしても、そんなものはクリシェにとって天秤に掛けるまでもないことだからだ。


「バーガ、右翼の第三大隊を釣り餌にします。第四大隊を全て使い右翼寄りの中央へ進み、敵が第三大隊へ食いついたところを横合いから崖の下に叩き落とします」


十分過ぎるほど第四軍団は身を削った。

これ以上削らせるわけにも行かず、このままでは追撃が止むことはない。

逆襲は必須であった。


第三大隊を完全な囮とする。

中央にある第四軍団の支援から右翼を孤立させれば、必然第三大隊は窮地に陥る。

意図的な脆弱点を作るのだった。

元より敵はこちらの右翼、第三大隊に攻撃を集中させている。

こちらの防御維持限界を容易に越え、突破を図るつもりだろう。

そこが狙い目だった。


正面から敵を受け止め突破を跳ね返す陣地防御と違い、機動防御はわざと戦列に穴を開け、敵を誘い込んで食い殺す逆襲主体の防御であった。

空を自由に舞う鳥ですら、獲物を狙うその瞬間には隙を見せる。

そこを一撃で仕留めて喰らう。


一歩間違えば完全突破による崩壊を招きかねないリスクの高さはあるものの、その分成功した際に得るものも大きい。

クリシェはどこまでも効率を重視した。


「っ……それでは第三大隊の被害が」


バーガは渋面を作る。

クリシェの命令は先ほどのセレネの命令とは全く異なるものであった。

殿となり、盾となった仲間を見捨て、餌とする。

それではあまりにも非道に過ぎると考え、暗に再考を促した。


指揮官は命を数字として握る事が求められ、戦術とはまさに数学の論理である。

だが、実際の運用において、その数字はやはり一つ一つが命なのだった。

一人一人が一つしかない命を指揮官に捧げ、そして指揮官はその命を束ねて剣とする。

危険の大きい殿を名乗り出た、勇気あるもの達に対するやり方としてはあまりにも非道であった。


「……殿を申し出た者達に対して、それはあまりに酷すぎます」


クリシェの有能さは知っている。だが戦場は単なる数字でない。

論理と狂気。

そして崇高なる名誉が入り混じる戦場という世界を知るバーガは半ば睨むようだった。


「総合的な兵力損失はそちらの方が少ないと判断します。現状敵の士気は高く、まずはそれをくじかねば撤退中延々と兵力を削り取られることになるでしょう。第三大隊には悪いですが、それが彼等の役目です」


熟練の兵士ですら怯えるようなバーガの視線。

しかしクリシェはそれに対し何ら反応を見せず言い切り、更に伝令へ告げる。


「第二大隊にはそのまま後退指示。ただし山嶺の砦にある兵糧を離れた場所に運ばせ、隠すよう命じてください。無理をせず運べる量で構いません。クリシェが後ほど使います。……第五大隊には撤退してきた第三大隊の援護が出来るよう、もう少し前に出るよう指示を。第三大隊には現状の放棄、何より撤退を優先するように命じてください」


伝令達は僅かに躊躇しながらも散るように走り出した。

第三大隊に現状放棄と撤退を命じる事で、必然右翼は押し込まれる。

突破を目的とした敵は喜び勇んで飛び込んでくるだろう。

狙うはそこであった。


言い終えた所でバーガに目をやる。


「ただでさえ撤退する敵を追い打ちする状況。逆襲なければ敵は一方的な攻撃で士気を高めるだけです。けれど逆襲を行い追撃を断念させれば第四軍団も安全な撤退を行えます。そして現状兵力として重視されるべきは第四軍団の熟練兵」


そして近づき、自身に不信と不快を向けるその顔をただ見つめた。


「――バーガ、あなたには理解が出来ないと?」


凍えるような紫水晶。

蛇や何かのような、冷たい瞳。

バーガは苦虫を噛みつぶしたような顔で首を振る。


「……いえ」

「セレネにも当然わかる論理です。ですが、セレネは少し混乱していました。気付かずともそれは仕方のないことです。……けれどあなたは現在実質的な副官代理、クリシェの代わり。ならばセレネの危険を最小限にするため、これは本来あなたがセレネに提案するべきことです」


胸の内を不快感が這い回っている。

安堵できても、消えることなく渦を巻く。

自分が何人もいればよかったと思う。

――そうであればセレネを悲しませることもなかったのに。


「酷い? 何を言ってるのです。兵士は目的のため敵を殺すのが役目です。下らない論理で軍全体を、セレネを危険に追い込むことがあなたの役目だと勘違いしているのでしょうか?」


セレネを悲しませてしまった。

クリシェは仇を討てなかった。

目の前の男は反抗的であった。

クリシェの中で様々な不快感が混ざり合っていた。


「そうだと言うのであれば、クリシェがここであなたを殺しておいてあげます。セレネの側に無能な人間は一人だって要りませんから。――返答は?」


クリシェの右手が腰に提げた曲剣の柄に掛かる。

脅しであった。しかしそうすることに何ら躊躇も感じない。

これでも反抗を見せるのならば首を刎ねるだけ。

新しく、黙って言うことを聞く者を、この中から一人選び出せばいいだけだった。


クリシェはどこまでも冷ややかな目でバーガを見る。


「……勘違いはしておりません。私が間違っておりました」


バーガは絞り出すように告げる。

熊のようなこの男ですら、目の前の少女に恐れが生じた。

セレネに対するような見た目通りの少女の姿はそこになく、同じものとは思えぬほどの無機質さだけがそこにはある。


「この現状求めるべきは可能な限り兵力を維持したまま撤退を行なうことです。異論は?」

「……は。ありません」

「あまり時間はありません。クリシェがあなたに求めるのは、それを理解し、行動することだけです」

「……了解しました」


クリシェはバーガから視線を切ると、居並ぶ兵士を見据えた。

兵士達の顔にも緊張があり、クリシェは眉をひそめる。

質の悪い兵士を手元で運用するという話については聞いていた。

兵士としての練度は話通り、見ればわかる。


「第四大隊は訓練不足、クリシェも同行します」

「は。――第四大隊、先ほどの指示は変更する! 我らはこれより全兵員を持って軍団長副官と共に敵への逆襲を行なう。速やかに集合、縦列により中央へ移動し、第三大隊に食らいつく敵を崖下へ叩き落とす!!」


バーガはあらゆる感情を封じ込め、ただクリシェの求める役割を果たすべく動いた。

クリシェが異常者であると彼は知る。

彼女はどこまでも正しく兵士を数字として眺め、捉え、そこに何ら情を抱かない。


当然バーガもセレネに対するような感情はそこになく、彼にあるのは軍人としての責務だけであった。





――その後第三大隊はその半数が死亡するという被害を受ける。

大隊付き副官は死亡し、大隊長キースは腕の骨折と無数の出血による重傷。


被害が集中した結果であった。

どこからの支援もなく、ただ撤退を命じられた第三大隊は後退しながら敵に背後を狙われる形となり、勝利に酔い敵を瓦解させたと士気高揚する敵兵士が群がった。


とはいえそれは仕組まれた瓦解に過ぎず、第三大隊を餌とした罠。

彼等は戦果という熱狂に囚われたまま、横合いから獣に喉笛を食らいつかれた。

横合いからの伏撃奇襲。

その成果は凄まじく、第四大隊による逆襲によって三倍近くの出血を敵に強いた。


忌み子クリシェ=クリシュタンドは森という遮蔽を活かし、木々を利用し指揮官格の男を執拗に刈り取る。

血花が咲いては姿は消え、追撃部隊が陥るのは指揮者を失っての恐慌状態であった。


先ほどまで味方を鼓舞していた勇者が、瞼を開ければ死体に変わっている。

銀色の狩人は森の暗がりに潜み、ただ意識の逸れた勇者を刈り取る。


伏撃と化け物――二つの要素が合わさった結果、兵士達は自分達が狩り場に誘い込まれたことを知り、次第に進む足を止めて剣すら投げだし背を向けていく。

第四軍団はまるで呼吸を合わせたように一転予備隊を繰り出し、冷静に逃げる敵兵の背中へと食らいつかせた。


ギルダンスタイン軍兵士が山中で行なっていた追撃戦は、いつの間にか撤退戦に変わっていた。

――勝利の美酒に酔っていた男たちが阿鼻叫喚の地獄に叩き込まれる。


ゲルツ=ヴィリングは山中指揮官の悲鳴のような報告に不利を悟り、追撃の中止を決断。

英雄が率いるこの精強なる軍は、撤退戦であれど逆襲によって敵にそれ以上の出血を強いる。そのことは長い軍歴を誇るゲルツも当然知っていた。

ボーガンという指導者を失いその力をなくしたと考えていたゲルツは即座に認識を改め、山中追撃は愚かであると即座に判断した。


ボーガンなくともクリシュタンドはその力を失ってはいないとするゲルツの決断はまさに英断と言えるものである。

しかし予想外であったのは、想像以上に前線の指揮系統が壊滅的な打撃を受けていたことだろう。

命令伝達は全てに行き渡らず、兵士達には誰が指揮を執っているかもわからぬ状況になっていた。


結果として、ベルナイクの撤退戦に関してクリシュタンド軍損耗1500に対し、死亡重傷、そして逃亡を含めたギルダンスタイン側の被害は4000近くに達した。

しかし完璧なまでの撤退戦を演じて見せたクリシェに対する賞賛の声は薄い。


誰よりも多くを斬り殺し、血を浴び、止まることなく。

周囲から尊敬される勇者達の肉を削ぎ、その頭蓋を砕き、首をへし折り、容易く物言わぬ肉塊へと変えた彼女の足元にはただ血溜まり。

まるで、その血溜まりから彼女が生えているかのように見えた。


行なったのは戦いではなく、単なる殺戮。

そう言えるほど彼女は容赦なく敵を壊走に追い込んだ。

もはや戦う意志が折れたものまで見せしめのように、冷酷に首を狩った。

刃向かう意志が完全に折れてなお、恐怖を植え付けるように。


彼女は赤黒く染まり、返り血と汗の雫を落としていく。

誰より敵を殺した彼女を、英雄であると賛辞するものはいなかった。

木に寄りかかり荒く息をつく彼女をねぎらうものもいない。

その姿を遠巻きに兵士達は眺め、ただ恐れる。


――忌み子のクリシェ。

彼女がそう呼ばれていることを思い出しながら。

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