クリシェのクリシェ 日暮れ
――昼過ぎ。
「お昼になってもクリシェ様がキッチンにいらっしゃらないと思えば……」
「……うるさいわね」
セレネの工房の前、庭に置かれた机に置かれているのはバスケットとティーセット。
少しばかり髪の乱れた金銀頭の少女達は、サンドイッチを口にしながら不機嫌、上機嫌。
頬を赤らめるセレネは、意味深に笑って紅茶を注ぐ赤毛の使用人を睨みつつ。
クリシェは空腹を癒やすように、幸せそうに頬を緩ませる。
「おねえさま、どうかしら? そのサンドイッチはわたくしが作りましたのよ」
「えへへ……おいしいです。ソースがぴりっとしてて良いですね」
クレシェンタは椅子をぺたりとくっつけて、色取り取りのサンドイッチをクリシェの前に。
褒めて褒めてと尻尾を振るように擦り寄っており、クリシェはそんな彼女の頭を撫でつつ、サンドイッチを眺めて頷く。
断面から覗く、色鮮やかな美味。
盛り付けと魅せ方、という点ではベリーでさえ敵わないと語る料理人クレシェンタ。
具をパンに挟むサンドイッチという、単純な料理ではあるが、この魅せ方は流石である。
普段はちゃらんぽらんでだらしがなく、不真面目でお馬鹿で甘えんぼうな妹ではあるが、こうして料理を作らせれば流石の一言。
何がどう、ではなく、単純に見ただけでも美味しそう、という印象を与えてくる。
そして口にすれば期待を裏切らぬ味。
肉と野菜を使った彩り豊かなサンドイッチから、揚げ物に卵、フルーツまで。
午後の空腹に満ちるは幸福である。
「おねえさま、次はこっちですわ」
次のサンドイッチを渡され、頬張り頷く。
朝はクリシェ提案の繊細なスープ、そして昼にはシンプルダイレクトなサンドイッチ。
実に良い流れが出来ていた。
となれば、夕食は濃厚クリーミーなカボチャグラタンが入る余地も十分にある。
「はぁ、お嬢さまは少し小言を言えばうるさいばかり……そうやって都合の悪い言葉を聞かないように耳を塞いでおられるから、ご自分が良識ある人間のつもりで人に説教が出来るんですよ」
「あ、あのね……あなたとわたしじゃ頻度が全然違うんだけれど……大体全部あなたのせいよ」
「……わたしの?」
セレネは顔を赤らめ、視線を逸らす。
「と、ともかくっ、今回に関しては非を認めるわ。でも、だからと言ってあなたの普段の生活が健全だって話にはならないし、許されるかと言えば否よ。少しは反省なさい」
「困りました。わたしはこれでも毎日随分と我慢をして、反省をしているつもりなのですが……」
「あなたは我慢も反省も、自分に甘すぎるのよ」
「そういうお嬢さまも何かある度に言い訳ばかり。人に厳しく自分に甘く、あまり褒められたものではないと思うのですけれど……」
「あなたにだけは言われたくないわよ!」
それを見ていたクレシェンタは、また始まりましたわ、と呆れた様子で口にした。
クリシェは笑って、そんな妹の頭を撫でる。
「お嬢さま、百歩譲って仮にわたしが自分に甘いとしても……お嬢さまのように自分を棚に上げて、他人に厳しく接することはありません。苦言を呈する資格くらいは――」
「ない! 仮に世界中の人間がわたしに文句を言う権利があったとしても、あなたにだけは言う資格なんて絶対ないの」
「……そうですか。いえ、仰る通り、確かにわたしにはそのような資格もないのかも……」
ベリーは悲しげな顔で首を振る。
「お嬢さまがそのように感情で人を罵る人間になってしまったのも、そのように歪んでしまったのも、教育係であるわたしの責任……全てわたしの不徳と言えましょう」
「あなたって、人を怒らせる天才よね……」
「まぁ。天才だなんて、お恥ずかしいです……」
「褒めてないわよ! わかっててやってるでしょ!」
などというやり取りを聞きつつ、サンドイッチを頬張り紅茶。
食事が犠牲にならない二人の喧嘩(時々クリシェの食事が抜かれる悲劇が起きる)は楽しそうで何よりであった。
セレネはいつも楽しくない、好きでやってるわけではない、と口にするのだが、いつも不思議とそうは見えずに楽しそう。
思えばそれも、不思議なことである。
眉間に皺を寄せながらベリーに食ってかかり、見た目はどう捉えても怒っているようにしか見えないのに、それが何故だか楽しそうに見えてしまうのだから。
昔はもっと、見たままが全て、聞いたままが全て。
笑っていれば笑っていると受け取って、怒っていれば怒っていると受け取った。
クリシェが単純な人間であったから、単純にしか理解が出来なかったのだろう。
楽しいは楽しいであって、嬉しいは嬉しい、不愉快は不愉快でしかなく、そうした感情に細かい違いがあることなど知りもしないし、きっと興味もそれほどなかった。
何となく程度で成り立つ全てを感じて受け入れ、理解出来ないものだと認識した。
グレイスが賊から自分を守ろうとして、多分最初はその時だろう。
不思議なものを不思議なままに受け入れて、そして屋敷にやってきて、
――そういう気持ちを悲しいというのです。
色んな不思議に解をくれたのはベリーであった。
クリシェの感情一つ一つに名前を付けて、名付ける機会を与えてくれて、世界は広がり複雑に。
わからない、に使う時間が楽しくなったのだ。
どんなに難しく、理解出来ない問題でも、ベリーに聞けば分かる気がして、頭を悩ませ答えを求めるそんな時間が心地よかった。
人の心は味見の出来ないスープのよう。
色んな具材が溶け込んで、目に見えるのは色付く水面と香りだけ。
黄色や琥珀、茶色に白と、目にしただけではどんなスープか分からない。
けれどそこに混じった一つ一つの具材を理解出来れば、どんな味かを想像出来た。
永遠に味見の出来ない未知のスープを眺めて、かき混ぜて。
そんな時間が楽しいものだと、ベリーはクリシェに教えてくれた。
「何笑ってるのよ」
「うぅ……」
頬をむにっ、とつまんでセレネはクリシェを睨む。
「ちょっと、いくら下らない口喧嘩で負けそうだからって、わたくしのおねえさまに八つ当たりしないでくださいまし」
「そうですよお嬢さま、八つ当たりは良くないです」
「ぅに……っ」
クレシェンタはぎゅーっとクリシェを抱きしめ引っ張り、更に頬がぐにーっと伸び、
「八つ当たりじゃなくて、事の発端はこのお馬鹿なの」
手を離された勢いでクレシェンタに寄りかかり、頬をさする。
「うぅ……その、クリシェはさっき、セレネの言う罰を受けたと思うのですが……」
「ふぅん? つまりあなたは罰でわたしに付き合ったと言いたいわけ?」
「そ、そういう訳では……ぇ、えと……」
睨むセレネに目を泳がせていると、なるほど、とベリーは頷いた。
そして椅子に座るとセレネに身を寄せ、顔を覗き込むように微笑んだ。
「ふふ、何となく察しがついたかもしれません」
「……腹の立つ顔やめてちょうだい」
ベリーはくすりと肩を揺らして、頬を撫でると口付けを。
セレネは頬を染め、不機嫌そうな顔で睨み、ベリーはそんな彼女の唇を指でなぞった。
「生まれつき。……自然体でいるだけですよ。変な意地を張らずにもう少し、羨ましいなら肩の力を抜いてみるのはいかがでしょう?」
「あのね……」
「あちらの頃から度々申し上げていることですが、勝った負けたなどあってないようなものではないですか。些細な順序なんてものは、文字通り些細なものですし」
「些細な順序で上にある人間からすればそーでしょうね。どうだろうと、あなたの言うとおりになんて、この先永遠になってあげない」
不満げにセレネは言って、対照的にベリーは笑う。
「ではそんな意地っ張りなお嬢さまに見せびらかして、永遠に羨まれるのが使用人としての務めでしょうか。千年万年億年超えて、頑固なお嬢さまとも果てしない付き合いになりそうです」
「そんな余裕は今の内、いつか絶対吠え面掻かせてあげるんだから」
「まぁ。ふふ、楽しみにしておりますね」
挑むようなセレネに対してベリーは柔らかく微笑み。
まるで他人事と言わんばかり。
そんな会話を聞きつつ微笑むクリシェを、クレシェンタは呆れた様子で眺めた。
太陽が少し傾きお茶を終えると、セレネは不機嫌そうな顔をしながらご機嫌な様子で工房へと戻り。
クリシェ達は裏手に広がる農場の方へと足を運ぶ。
話の途中で寝入ったクレシェンタはすやすやと、雲なき陽気にクリシェの腕の中。
「タイプと言いますか、同じ人間でも方向性は結構違うもの。そうですね……お嬢さまは言うなれば、全力を尽くすのが大好き人間でしょうか」
「全力を尽くすのが大好き人間……」
「はい、自分の力を振り絞る、ということ自体に価値を置いてるんですね」
ベリーは指を振るって水の猫をいくつも作りながら、周囲の果樹の様子を眺めて笑みを。
足元や周囲でちょこちょこと動く精霊達は水の猫を見ると、ぴょんぴょん跳ねて喜んでいた。
「結果ではなく、過程が目的。自分が全力を振り絞っても尚、届かない目標に挑むことが、お嬢さまにとっては一番の楽しみなのですよ。不得手だと理解しながら物作りに取り組むのもそういうところ……挑戦するという行為そのものが目的だからでしょう」
「……なるほど」
「ふふ、クリシェ様の仰る通り、脇目も振らず一つのことを極めていれば素晴らしい包丁も打てたと思いますが、面白そうな挑戦があればあっちにこっちに。時間は永遠、なんて口実で随分と楽しそうです」
くすり、とベリーは微笑んだ。
「わたしにも度々勝負だなんて仰りながら、お嬢さまが求めるのは勝利ではなく、その過程。勝ちを求めている訳ではありませんから、正々堂々と口にしての真っ向勝負。例えばちょきを出せば勝てると分かっているのに、自分のぐーでわたしのぱーに挑みたくて仕方がない」
右手のぐーを、左手でのぱーで包んで苦笑する。
「わたしに石拳で勝つことではなく、わたしに石拳で挑むことがお嬢さまの楽しみですから、挑まれる度ぱーを出すのがわたしの役目。拗ねたりあれこれ文句を口にするのも、負けて悔しがるところも含めて、そういう過程がお嬢さまは楽しいのです」
「んー、何となくそれは分かるかもです」
うんうんとクリシェは頷く。
よく分からない勝負で挑んでは負け、その度セレネは怒ったり拗ねたりするのだが、数日後には次の勝負は必ず勝つのだと口にしながら元気になった。
そんな姿はやはり見る度楽しそう。
セレネは確かにそういう人間である。
「もちろん、お嬢さまもたまにはあいこがしたいと仰るのかもしれませんが……お嬢さまがお求めのベリーはきっと、容赦なくぱーを出すベリー。仮にわたしが正々堂々拳骨勝負に付き合って、それにお嬢さまが勝ったとしても、きっと納得はされないでしょう」
ふむふむ、と想像してみる。
これまで見た限り、ベリーは勝つべくして勝っていて、セレネは負けるべくして負けていた。
ベリーは心理を読んで勝つための準備を怠らず、場合によれば十年単位で幾重にも罠を仕掛け、大抵勝負内容まで誘導しているのだが、セレネは待ち構えた罠に飛び込む猪の如く。
罠は当然警戒しているようなのだが、大抵分かった上で飛び込んでいるように見えた。
戦術としては下の下である。
しかしそれでもあえて真っ向から勝負を挑んでいるのは、罠を仕掛けるベリーを正面から打ち破りたいという考えから。
常々そのようなことを口にもしていた。
そんなセレネに対し、何の罠も仕掛けずベリーが勝負に乗ったとして。
それに勝利したセレネがどのような顔をするかと想像してみれば――なるほど、不機嫌、あるいは不満そうな顔しか思い浮かばなかった。
楽しそうに大喜び、とはならないだろう。
「そういうところは……ふふ、クレシェンタ様と似てますね」
「クレシェンタ?」
クリシェが抱いたクレシェンタの鼻を、ベリーは楽しそうに指先でくすぐった。
クレシェンタは眉間に皺を寄せ身をよじる。
「自分は偉いと仰りながら子供扱いされたいクレシェンタ様と同様、勝ちたいと仰りながら負けたがるのがお嬢さま。……色々とあべこべで」
それが可愛いのですけれど、とベリーはくすくす笑って肩を揺らす。
そんなベリーを見ながら、クリシェも静かに微笑んだ。
十五年も生きれば、社会的に人は成人。
千年生きれば皆大人と言えるだろう。
しかし今もセレネは大人と言うより姉であり、クレシェンタも妹である。
その点ベリーは出会ったときからいつでも大人。
クリシェ達とは見えているものが少し違うように思えた。
あるいは見ようとしているものが、立とうとしている場所が。
「……えへへ、クリシェもそうかもです」
「まぁ」
身を寄せると、頭を撫でられ擦りつける。
「ベリーみたいな立派な使用人になりたい、だなんて思っているつもりなのに、こうやってなでなでされるのが大好きで……ベリーの前ではいつまで経ってもお子様ですから」
大人になりたい、と思っていないわけではない。
けれど、こうしてお子様扱いされながら、甘やかされるのが心地よかった。
多分セレネもクレシェンタもそうなのだろう、と何となく分かる。
不思議な感覚、言葉にすると難しい。
ベリーは唇をなぞって少し考え込むと、優しく言った。
「ふふ、大人も結局、お子様時代の積み重ね。……いつまでも心の中に、子供の部分は残るものです。立派だなんて褒めてくださるわたしも例えば、今ねえさまに再会すれば素直になれない頑固な妹で、お子様でしょう。……いくら歳を取っても変わりません」
「そういうものですか?」
「そういうものだと思います。わたしはねえさまに妹として接するでしょうし、ねえさまも姉として、わたしに接してくださるでしょうから」
長い睫毛で薄茶の瞳を閉じ込めて、幸せそうにベリーは笑う。
「クリシェ様がガーレン様に、ご両親に、ガーラ様に今お会いになったとして、どうでしょう? やはりご自分が対等な大人、だなんて口には出来ないのではないでしょうか?」
「……はい」
「ガーレン様は愛しい孫として、ご両親やガーラ様は愛しい娘として、クリシェ様に接するでしょう。お互いそれが心地よければ、自然とそういう形になるものです」
そしてクリシェに少し先んじると、ふわり、と裾を揺らして振り返る。
「わたしの永遠の目標は、こうしてクリシェ様達の一歩前を大人ぶって歩くこと」
「ぁ……」
そして背伸びをしながら手を伸ばし、クリシェの頭を優しく撫でた。
「追い越されては困りますから、沢山甘えて手心加えて下さいませ」
微笑むベリーをじっと見つめて、頷いた。
「セレネがいつも言ってますけれど、ベリーはちょっぴりずるいです」
「勝つべくして勝つ、はクリシュタンド家の家訓ですから。その教育係として、お強いクリシェ様に負けないためには手段を問わず、ずるい手も使わないといけません」
「……えへへ」
頬を撫でると手を離し、ベリーは周囲の畑を手で示す。
「その一歩として、まずは今日の夕食ですね。どのカボチャにしましょうか?」
「え?」
話している内に、辿り着いていたのはカボチャ畑。
尋ねられて驚くと、あら、とベリーは首を傾げる。
「今日はカボチャの気分かと思ったのですが、もしかして違いました?」
「い、いえ、そう言おうと思っていたのですが……」
「良かった。ふふ、グラタンにするなら小振りで甘そうなのが良いですね」
スカートを膝裏で折ってしゃがみ込み、小振りなカボチャに両手を添える。
全部見透かされていたことに気付いて、クリシェは頬を染めつつ困惑した。
「えと、クリシェ、そんなにカボチャを食べたそうにしてました……?」
「そうですね……推理半分、もう半分は勘ですが」
口元に手をやり肩を揺らすと、ベリーはカボチャを前に掲げて口にした。
「何だかクリシェ様がカボチャのお顔をされてましたから」
クリシェはうぅ、と目を泳がせ、笑うベリーとカボチャを眺める。
やはりベリーはちょっぴりずるい、と唇を尖らせた。
「……手心なんて加えなくても、ベリーはクリシェに追い越されたりしないと思います」
「まぁ。これでも精一杯、背伸びをしているだけでございますよ」
きっと必死で走っても、ベリーは一歩前にいるのだろう。
足を止めても一歩前。
いつでもクリシェの一歩前。
後ろに行っても横に行っても一歩前。
手を伸ばせば届くような距離で、待っているだけ、くれるだけ。
この先も永遠に、追い越す日なんて訪れまい。
自分もそうだと言いながら、ベリーは大人でクリシェは子供。
手を伸ばす前に手を差し伸べて、それを背伸びだなんて言ってしまう。
「ふふ、クレシェンタ様も起こしてカボチャ競争でもしましょうか。一番美味しそうなカボチャを見つけた人の勝ちです」
「……はい」
ベリーの一番ずるいところは、負ける言い訳をくれること。
今日も明日も明後日も、きっと甘やかされてしまうのだろう。
そんなことを考えながら、クリシェは時々日暮れを迎えるのである。





