クリシェのクリシェ 昼
そこはお屋敷のすぐ側に立てられた小屋――であったもの。
当初は本当にただの小屋であったのだが、小屋の隣に小屋が出来、二階が出来、増築が繰り返されて、今では小さな屋敷のようになっていた。
「セレネ、入りますね」
ノックをして中に入ると、散乱する物と物。
整理整頓の行き届いたお屋敷とは真逆の混沌である。
中に入ると、革のエプロンを身につけ、長い髪を高く結ったセレネが真剣な顔でろくろの上の粘土を挟み、何かを形作っていた。
棚という棚に完成品なのか失敗作なのかもよく分からない、焼き上げ前の粘土達。
机の上には細工用らしき道具が無造作に置かれ、粘土で汚れた水や粘土塊。
置かれた粘土板には設計図らしき、謎の絵が描かれていた。
来る度にもう少し整理してはどうかと思うのだが、セレネ的にはこれでも整理をしているらしく、勝手に片付けを始めると、動かさないで、それはそこ、とこだわりが強い。
触って良いのはセレネの許可を得てからとなっていた。
ここ数年は壺作りがお気に入り。
その前はガラス細工で、その前は木工彫刻。
この小屋を建て、最初彼女が始めた物作りは刃物であったのだが、ここ二百年ほどは鉄を打つ姿を見ていなかった。
当然、魚を調理するために買った東の包丁は今もなお囚われの身である。
セレネ曰く、
『真っ直ぐ最短の道がいつだって正解という訳じゃないわ。色んなものを見て、触れて、それで分かることが世の中にはあって、わたしは今、そういう長い旅の途上にあるのよ』
ということであるらしいのだが、クリシェは今も包丁と壺作りに繋がりを見いだせなかった。
セレネは確かに器用な人間ではなかったが、多分真っ直ぐ寄り道せずに数百年、包丁のみを鍛え続けていれば流石に良い包丁くらいは打てるようになっていただろう。
それを思えば単純に果てしない遠回りをしているだけのようにクリシェには思えた。
とはいえ、今のクリシェは使用人。
そしてセレネはこのお屋敷の主人である。
謎の遠回りを楽しんでいるらしい主人に水を差すのは良くないことであり、微妙な理不尽を味わいつつも、それを見守るほかはないのであった。
しゅるしゅるしゅる、とろくろが回り、それを見つめるセレネの顔は真剣そのもの。
粘土は薄く引き延ばされて、曲線を描き――ふに、と潰れる。
「あ……あぁぁぁ……」
それを見たセレネは顔を覆い、大きく仰け反り天を仰いだ。
クリシェとしてはよく分からないものの、反応を見る限り、セレネ的には良い出来だったのだろう。
木彫りのコップに紅茶を注ぎながら、潰れた粘土を眺め、考え込む。
こういう時、気の利いた一言を言えるのが良い使用人というもの。
一つ頷くと微笑んだ。
「セレネ、大丈夫です。形あるものはいつか壊れるものと言いますし……最初から壊れているというのも芸術としてはある意味斬新かも知れません」
「……全然慰めになってないわよ、お馬鹿」
「むぅ……」
実用性よりも斬新でこれまでにない形や表現、というものが評価されるそうなのだが、芸術というものは中々に難しい概念であった。
クリシェには今一つ分からない。
セレネは水桶で手を洗うと、手拭いで水気を取り、そのままコップを手に取り紅茶を一口。
背もたれに背中を預けては両手を上に、くにくにと左右に振っては体を伸ばす。
同じくクリシェもくにくにと体を伸ばすと、真似しないの、とセレネは睨んだ。
セレネは顔を合わせる度、大体いつも両手を伸ばして柔軟する。
もはや挨拶のようなものであった。
「えへへ。今日は何を作っているんですか?」
「花瓶。ほら、この前あなた達、綺麗な花を持って帰ってきたじゃない」
「綺麗な花……」
首を傾げて考え込み、持って帰ってきた、という言葉にぽんと手を叩く。
「あおぴか草ですね」
薄青の花で、月夜の下で花が開くと青くぴかぴかと光る新種の草。
その花畑をベリーが随分と気に入って、持って帰ってきたのだった。
庭の一角にその花壇を作ったのも先日のこと。
「……相変わらず、そのネーミングセンスはどうかと思うけれど。まぁ、綺麗だったからわたしの部屋の窓際にでも飾ろうかと思って」
「はぁ……でも、セレネの作った花瓶、結構倉庫に余ってますよ? 十二……いえ、アーネが二つ割ったので、今は十個ですね」
「……まさにそのアーネが割ったやつを使いたかったのよ」
セレネは呆れたように嘆息した。
「でも、まだ予備が十個……」
「あのね、花と花瓶はセットなの。こういう花にはこういう花瓶、という組み合わせがあるのよ」
「組み合わせ……」
「なんて言えばいいかしらね……そう、料理だって、このお料理にはこの器、っていうのがちゃんとあるでしょ? 入ればいいだけなら全部スープの皿に盛り付ければ良いけれど、この方が見た目が良くて美味しそうだからって彩りを考えて盛り付けるわけでしょ?」
「それは……確かにそうです」
ふむふむと頷いた。
普段からよく分からないこだわりの多いセレネであるが、しかし今日に関しては一理ある。
お料理は盛り付けも含めてお料理(ベリー語録より引用)というもの。
それと同じだと言われれば、なるほど、と納得が出来た。
クリシェも未だ見様見真似の域を出ず、完璧に理解出来たとは言えない概念であるが、しかし理屈の上で成り立つ類の簡単なものではない。
美味しそうに見える、というのは超感覚的な概念。
実に実に奥深い、お料理要素の一つである。
それに近しい何かなのだろう。
セレネはエプロンを解くと、クリシェを誘うように膝を叩く。
尻を乗せつつ口付けると、もう、と頬をむにーとつままれた。
「あなたって本当、料理に例えると大体素直よね……」
「むしろセレネに変なこだわりが多――うぅっ」
「変なこだわりじゃないの」
頬をぐいーと引っ張りつつ、セレネは嘆息する。
「あなたに芸術という概念を教えるというのも中々難しいけれど……例えばそうね。ベリーだって屋敷の調度品を色々入れ替えたりしてるでしょ?」
「……? はい」
「あれだって一つの芸術みたいなものじゃない。これはこっちに置いた方が良く見える、それはあっちに置いた方が良く見えるって考えながら、位置をずらしたり組み合わせたりしてるんだから。あなただってやるでしょ?」
「……それは、一応」
「その時あなたは、何を考えながら調整するのかしら?」
クリシェはその言葉に少し考え込み、答えた。
「んん……綺麗な、んー、ベリーが喜びそうな感じでしょうか……」
答えると、セレネは眉をピクリとさせつつ嘆息する。
「……まぁいいけれど。あなたがやってるそれも一つの芸術。見た人が綺麗、って感動したり、喜んだり、驚いたり、そういうものを生み出すのが芸術というものなの」
「見た人が綺麗……」
「基本はね。こういう物という形で生み出される芸術もあれば、そうした物の配置で空間を作ることも芸術。あおぴか草の花壇も芸術だし、果樹園を整えるのも、お庭だって芸術よ。見た人に喜んでもらえるものを、何かの形で生み出して、それが伝われば芸術として成り立つもの」
お料理だって一つの芸術でしょ、とセレネは告げ、真面目な顔でクリシェは頷く。
「……なるほど。確かにクリシェ、お屋敷に来て、ベリーの作るお料理にすっごく感動しました」
いかに当時の自分が稚拙であったものか。
うんうん、とクリシェは過去を振り返る。
それまであった美味という概念を超越する品々。
お料理のためにここまでするのか、というこだわり。
毎日のように感動を繰り返し、そしてそれは今も変わらない。
食べ慣れたお料理一つ、クッキーにさえ、ベリーのその手は小さな感動を生み出すもの。
今では技術において、ちょっとだけ、ほんの僅かながらクリシェが上回る部分もないではない。
しかし、その日その日に応じて変わるベリーの小さな一工夫には常に感動があった。
ベリーの手は魔法の手。
一つまみの塩や香草、鍋の一振り程度のことで、お料理を芸術に仕上げてしまうのだ。
「クリシェにとっては、ベリーのお料理がセレネの言う芸術という概念に一番近いものかも知れません。確かにあれは芸術なのです」
「そ、そう……」
またもや眉をピクリとさせつつ、セレネは相槌を。
そう言えばこのひと月、カボチャを食べていないことを思い出す。
カボチャをくり抜き、中に入れるはカボチャたっぷりのホワイトソース。
チーズで覆い、焼き上げたグラタンの上に散りばめられた香草達。
ベリーの作るカボチャの芸術――カボチャグラタン。
口の中でその美味を思い浮かべて、唾液が滲む。
今日の夕食にはカボチャグラタンをお願いしよう、と心に決めた。
「ま、まぁ、お料理は食べるって目的があるけれど。わたしがやってるような芸術はもっとシンプルに感動を伝える、ということだけを目的にしたものね」
「むぅ、シンプルに……」
「そう、美味しいだとか、道具としての利便性だとか、そういうのを抜きにしてね」
セレネは指を立てて言った。
やはりやはり、芸術とは難しい概念である。
綺麗、と似たような概念なのだろう。
クリシェもこれは綺麗だとか、これは素晴らしいだとか、そういう感覚を覚えることはあるし、それは多分、同じでなくてもセレネ達と近しい感覚なのだと思う。
ただ、何が綺麗なのか、何が素晴らしいのか、と改めて尋ねられると返答に困ってしまう。
言葉ではない何か。
そう思った、という感情に、理由を付けることは難しい。
いつも言葉は、何かの輪郭をなぞって滑り、それそのものを伝えるには少し足りずに、もどかしい。
ああ、と思いついたように微笑む。
「言葉と一緒なのでしょうか」
「……言葉?」
「はい。こういうお話をしてると、時々すごく難しいのです。自分が今どういう気持ちなのか、だとか、どう感じているのか、だとか……例えば嬉しいだとか、幸せだとか、それを伝えるだけなら簡単ですが、どのくらい、何がどう嬉しいのか、幸せなのかを言葉で伝えるのは、すごく難しいです」
これがそうだ、と決めつけてしまえるほどに、正しい言葉は存在しない。
言葉は正確に思えて、けれど随分と大雑把。
千の言葉を費やしたって、正しく全ては伝わらないし、表現さえも出来はしない。
『――言葉など曖昧で不確かなものです。だからクリシェ様が感じ、クリシェ様が良いと願い、クリシェ様が望むものが、そのまま答えなのですよ』
ベリーがずっと伝えようとして来たものも、きっとそういう何かだろう。
曖昧で不確かな言葉を用いていつも、言葉ではない何かを伝えようとしていた。
それは例えば飴玉のように、ぽんと渡せるものではない。
渡そうとしたその瞬間にふわりと溶けて、どこかに消えてしまうのだ。
「……ふふ、そうね」
セレネは嬉しそうに頷いた。
「ある意味、これも一つの言葉」
それから、潰れた粘土を指で示した。
「音や文字では表現しきれない、そんな何かを一つ形に。今日は粘土で表現しようとしていて、でも木や岩を削った彫刻も、銀細工も硝子細工も、音楽もそうだし絵画もそうで……究極、生き方だってそうかしら」
「生き方……」
「そう。それぞれ何もかも違う人達が、違う何かを大事にして、色んな生き方を選んで歩む。考え方も、何もかも違ったって、美しい人は美しい。言葉にしなくても伝わるくらいに、ね」
幸せそうにセレネは目を閉じ、クリシェは静かに口付けを。
「これもそうですね」
「ふふ、ま、それも内の一つかしら」
セレネは苦笑して、クリシェの頬を撫でた。
「でも、なるほど……生き方……」
クリシェは少し考え込んで、うんうんと頷く。
「沢山見てきたでしょ?」
「はい。セレネが言いたいこと、何となくわかるかもです」
「何となくでいいのよ。わたしも昔は結構はっきりしないことって嫌いだったけれど……わからない、という答えが沢山あっても良いって今は思ってるわ」
セレネは楽しそうに肩を揺らして、両手を上に。
体を揺らして伸びをする。
「何事も理解出来たつもりになれるだけ。解釈なんて虹の色を決めるようなものだもの。同じ虹を見て、綺麗に思えればそれで十分……余計な理屈は不要だわ」
「例えはちょっと難しいですが、えへへ、ベリーみたいなことを言ってるのはわかります」
「……あのね」
三度、眉をぴくりとさせつつ、セレネは微妙にクリシェを睨む。
クリシェはそれに気付かぬ様子で紅茶に口付け、目を細める。
「クリシェ、例えばベリーが普段考えてること、多分半分もわかってないと思うのですが……でも、ベリーの生き方はすごく綺麗だなっていつも思うんです」
「ふ、ふーん……」
「クリシェと出会った頃から、毎日いつでもクリシェだったりセレネだったり、ご当主様だったり、誰かのことばかり考えていて……今もそうです。毎日毎日誰かのことを考えてお仕事をして、お世話をして、楽しそうで……多分それがベリーの幸せなんだと思います」
幸せそうにコップを手で包みながら、長い銀の睫毛で瞳を彩り。
「ベリーは多分、大分変な人なのですが……」
「……大分どころじゃないけれど」
「えへへ、でも、そういう生き方がクリシェには、すっごく綺麗に見えて……だからクリシェはいつも、そんなベリーみたいになりたいなって思って」
口元を綻ばせた。
「そ、そぉ……」
眉をぴくぴくと痙攣させつつ、セレネは相槌を。
クリシェは気付かぬ様子で、はい、と答えた。
「もちろん、クリシェは全然、ベリーと比べてまだまだですから……まずはベリーのお手伝いとして、一緒にお仕事をしながら……ベリーがお世話をしない、そんなベリーのお世話をする使用人になることが、クリシェの目標なのです」
そう口にして、やっぱりお話は苦手ですね、とクリシェは言った。
「言いたいことが上手く纏まらない感じがします」
「じゅーぶん、嫌というくらい伝わってるから安心してちょうだい」
「そうですか?」
「ええ、ほんと、すっごく、どうしようもないくらいに伝わってるわ」
「……あ」
セレネはクリシェのコップを奪うと机の上に荒々しく。
クリシェは困惑したようにセレネを見る。
「……? えと、あの、セレネ、何か怒ってます……?」
「あら、そう見えるのかしら? 上手に伝わって嬉しいわ」
「せ、せれね……?」
セレネはそのままクリシェを抱き上げ、ソファの上に転がした。
そして跨がり、睨み付ける。
「わたしはまぁ、ベリーと違って不器用だからね、言葉を使わずに何かを伝えるというのは得意じゃないって自覚くらいはあるんだけれど」
「せ、セレネはむしろ……得意なような気もするのですが……」
「いつも怒ってばっかりだって言いたいのかしら?」
「ち、違……っ」
クリシェは目を泳がせた。
何故セレネは怒っているのか――疑問符が無数に浮かぶ。
「ん……っ?」
そして唇が押しつけられて、更に困惑していると、セレネは言った。
「そうね、今のがあなたの疑問に対する一つの答えかしら」
「こ、答え……?」
「さぁ、どうしてわたしは怒ってると思う?」
「え、えと……」
答えはキス――愛情を伝える手段である。
そしてそれが一つの答えであるとセレネは示した。
クリシェを愛しているから怒っている。
ぴぴん、と繋がった文字列の意味が分からず、これではない、と再考する。
つまり、怒っているのではなく、叱っているというのはどうだろうか。
――なるほど、クリシェを愛しているから叱っている。
だが、そもそも何で叱られているのかが分からなかった。
セレネに対して何か言ったのならば理解出来るが、普通に会話をして、ベリーの話をしていただけ。
ここでまたもや、クリシェの脳裏に稲妻がぴぴんと走る。
浮かんだのは、まだあちらに居た頃のセレネ。
ベリーに嫉妬している、と口にしていたことを思い出し――いや、しかしそのことはもはや解消されて久しく、セレネ自身『その話はもう二度と口にしないように』とまで言っていた。
ということは、まさかそれが原因ではあるまい。
神の如きと称される頭脳で、思考をぐるぐるバターになるまで走らせても答えは出ず。
「っ……!」
そこでクリシェは先ほどまでの話を思い返し、はっと気付く。
「……セレネ」
「……何?」
「答え、分かったような気がします」
その言葉にセレネは驚きを浮かべ、少しの動揺。
ほんの少し頬を赤らめ、尋ねた。
「じゃ……じゃあ、聞かせてちょうだい」
クリシェは頷き、目を閉じる。
「色々と考えましたが、きっとそういうことですね」
うんうん、と納得したように目を開くと、真っ直ぐセレネを見つめて言った。
「分からない。――それが、クリシェの答えなのです」
「…………」
「その上で、クリシェが伝えるべきは……んっ」
そうして唇を押しつけると、微笑む。
「こうでしょうか」
「…………」
「えへへ、どうですかっ?」
――よく分からないけれど大好きです。
それで良い答えが出来たと言わんばかり、上機嫌なクリシェである。
その顔を冷ややかに見下ろし、セレネは深く深く嘆息した。
「はぁ……あなたに期待したわたしが馬鹿だったわ」
「ぇ……? うぅっ」
「確かに、分からないという答えがあっても良い、とは言ったわ。でもねクリシェ、時にはきちんと答えないといけないこともあって、今がそう」
「ふぇ、ふぇれれ……?」
だからあなたは不正解、と頬を引っ張りながら再び嘆息。
それから怒った様子で顔を近づけ、囁くと、
「……罰として、今日はわたしの気が済むまで付き合ってもらうから」
そのまま唇を押しつけた。
困惑したままそれを受け入れ、何が悪かったのかを考えつつ。
クリシェの昼とは、時々そうして終わるものであった。





