妄想の王都
――王都アルベナリア。
アルベラン王国の始まりは森に住む小部族であったという。
他の部族と違う点は、彼等が非常に器用で、工作に長けていたという所。
力こそが全てであった時代に砦を築き、防壁を組み、彼等はそれほど武勇に優れていたわけではなかったが、ただ知恵によって周囲の部族を呑み込み武威を示した。
彼等を更に強大にしたのは南西の山から取れた灰だった。
偶然の発見によってそれが凝固し、高い耐久性を得られることを発見し、そのメカニズムを解明。錬成岩と名付けたそれらによって彼等は砦と防壁を建て、多数の城塞都市、城郭都市を築き上げた。
もはや周辺世界に敵はなく。
王は自らを、神の血を継ぐもの――アルベランとし、その王国の中央に王都アルベナリアを築きあげその力を盤石のものとした。
この王都は王の権威、その象徴。
アルベナリアは錬成岩によって作られた高い防壁に囲まれ、そしてその内側に広がる城と家、建物の全てが錬成岩によって築かれている。
平原にあって、陽光に白く輝く都市の美しさ。
アルベナリアはその外観から、白い都と呼ばれていた。
防壁の外に広がる広い城下街を抜け、巨大な城壁の門をくぐる。
錬成岩によって作られた見事な家々が立ち並び、丈夫そうだ、とクリシェはぼんやり見つめた。
これほどまでに錬成岩を多用している都市は他にない。
やはり木製土壁のほうが容易で安価。煉瓦や錬成岩によって家を建てるのは火を使う職人や富裕層であるから、見ることはあってもこうしてずらりと並んでいるのを見ることは中々なかった。
白い都というわりに屋根はなかなか色とりどりだと眺めながら、少なくともこの街を焼くのは難しかろうといつも通りに観察する。
商人でごった返す城壁の外と比べ、門の内側は比較的静かで、歩くものの身なりは良かった。
そうした街を抜け、屋敷の建ち並ぶ一角を過ぎ、少し高台にある城門を更にくぐる。
そこからが王領であった。
いかに貴族であっても許しがなければこの城門はくぐれない。
付き従っていた護衛の兵士達も、御者を残してここで別れた。
周囲には大きな庭園。川からわざわざ水を引き揚げ、庭園の中にも小さな川を造り水を流していた。
噴水が至る所にあり、意匠も鮮やか。
明らかに貴族と分かるものたちがこちらを見て姿勢を正すと、左胸に右の平手を当てる。
あなたにこの身を捧げます、という軍人式の敬礼であった。
セレネやガーレンは同じように平手で、ボーガンのみは右手の親指を心臓へ突き立てるようにして返す。
その忠誠を我が血とする。そういう意味合いを持つ上位者からの返礼。
将軍――軍においてその上にある階級は王弟が有する元帥しかないため、王領に出入りするような貴族であっても軍人であれば大抵ボーガンの方が格上であった。
馬車の小窓からそのような光景を眺めていたクリシェは、ベリーに身だしなみを整えられ、そうする内に馬車が止まった。
白くそびえ立つ王宮ではなく、止まったのは小さな屋敷。
身支度を整えたり、荷物を置くのに使用される屋敷だった。
一時的なもので、その後は王領の外にある屋敷のいずれかを割り当てられることとなる。
「ふふ、完璧です。さ、降りましょうか」
「はい」
満足げにクリシェの姿を見て微笑み、先にベリーが馬車を降りた。
そしてクリシェの手を引くように手を差し出す。
いつも以上に丁寧な所作は、他の貴族の目があるからであった。
些細な不作法で悪意に満ちた噂を立てるものはどこにでもいる。
それを避けるためにベリーはいつも以上に使用人としての作法でクリシェを導いた。
クリシェもまた、いつも以上に行儀をよく。
ベリーの平手に手を置いて、しっかりと立つ。
屋敷を出る前にいくらか勉強をしたため、下手な貴族よりも貴族らしかった。
門の前には頭を下げ続ける十数人の使用人と黒の礼服を身につけた老人が一人。
老人――執事は顔を上げると笑みを浮かべてボーガンを見る。
「ようこそおいでくださいました、クリシュタンド辺境伯。私はこのイルネ屋敷の管理を任せられたオーザルと申します。ここでの滞在が心安らぐものとなりますよう、使用人一同、誠心誠意を持って身の回りのお世話をさせて頂きます」
王の兄弟など直近の血縁であれば大公。
その血筋に近しいものであれば公爵。
辺境伯はその下となり、つまるところボーガンは普通の貴族としても最高位に当たる爵位を持つ。
王国外縁部を守護する将軍などはよほどの事情がなければそうした地位にあることが多い。
この下には伯爵、男爵、そして騎士。
これらのものはかつて領主が存在し、その権力が強かった時代に作られた名残であったが、今も管理する領地や与えられた責任に応じてこのような爵位が使用されていた。
「……滞在? 外の屋敷ではなくここでか?」
「ええ、そのように伺っております。少し、失礼を」
オーザルはボーガンに顔を寄せ、小声で何事かを囁いた。
ボーガンは神妙な顔で頷き、わかった、と答える。
「では、よろしく頼む。後で色々と挨拶に回りたい」
「は。予定をお伝え頂ければ私の方から確認を」
そうして二人が話していると、エプロンドレスに身を包んだ若い使用人の一人がクリシェとベリーに近づき、ベリーが手に持っていた荷物を預かる。
「お預かり致します、アルガン様」
黒髪を後ろで纏めた使用人は名乗ってもいないベリーを家名で呼び、頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願い致します」
ベリーも軽く礼をしながら、彼女達は客の連れてくる一使用人の家柄まで把握しているのかと少し驚き、感心する。
基本的に、使用人は貴族や富豪の令嬢が行儀見習いとして奉公へ出されるものが多い。
貴族の使用人は暗殺者や間諜などを避けるため、しっかりとした出自の人間でなければならないからだ。
単なる平民の使用人を取ることは良しとはされないし、下流の貴族が上流の貴族へと娘を使用人として預け、奉公させるのが普通である。
これには文字通り作法を知る、という面もあれば、あわよくば嫁や妾として婚姻関係を結ばれないかという打算的考えもあった。
結婚は文字通り家同士の繋がりであり、上流貴族が下流貴族の嫁をもらうことはなかなかない。しかし使用人として働くことで個人的な情が生まれ、器量がよければそれだけで上流貴族の目に止まる可能性がある。
そうした繋がりが生まれれば出世も見えてくるため、下流の貴族はこぞって上流貴族のところへと娘を奉公に出し、貴族達は使用人に事欠くことがなく――そういう構造が成り立っていた。
上流貴族が多く訪れる王領の使用人となれば、当然それなりに格が高く、血筋としては男爵家のベリーより上になるものも多かったが、このような場合においては賓客の使用人の方が格が上として扱われる。
そのように扱われることに関しては知っていたが、とはいえ家柄まで把握されているとなると素直に驚きであった。
王領の使用人とは立派なもの――と感心していたベリーであったが、今回は極めて特殊なケース。
いかに王領使用人とはいえ、普通は客の連れてくる使用人など調べはしない。
場合によれば十数人と使用人を引き連れる貴族もいるのだ。
それをいちいち把握しきるなど膨大な手間であるし、仮にそれが出来たとしても同じような格好をした使用人達から見たこともない人物を区別することなど出来る訳もない。
ただ、今回に限っては別であった。
王領で働く彼女達は貴族の様々な噂話を知る。
――当然ながら、妻に先立たれたボーガンのところへも度々、使用人を奉公に出したいという話があった。
一度得た爵位を失うことはなかなかないため、成り上がりとは言え辺境伯となったクリシュタンドは良物件だからだ。
しかしボーガンはそれを全て断っている。
この時代には珍しく、ボーガンは妾を取ることを好まない。
妻を生涯の伴侶と定めたからにはと自分に誓っていたため、新たに嫁を取る気はなく、またベリーという使用人が非常に優秀であったため、屋敷での生活にも不便はなかった。
そしてそのベリーが使用人を必要としていないとなれば、無駄を嫌うボーガンである。
新たに使用人を雇う理由もなく、そうした申し出を全て断っていたのだが――とはいえ、彼の個人的事情はともかく他者の受ける印象は違う。
辺境伯ともなれば数十の使用人を雇うこともままあること。
その中であえて使用人一人を貫くには、何かしらの深い理由があると誰もが考えるのは当然のことで、そしてその使用人は亡き妻の妹である。
――ベリーがボーガンの妾であるのではないか、と多くの者が考えるのも無理もないことであった。
妻に先立たれ、すぐに妹というのは体面があまりよくないため、今はまだ婚姻関係を結んでいないだけ――そうであればベリーは実質的なクリシュタンド辺境伯夫人。
彼女らが気を使うのも無理はなかった。
元は弱小貴族であったクリシュタンド家とはいえ、今は辺境伯。
そんな家の当主がまさか血の繋がった跡取りを娘のセレネ一人で済ませるとは思えず、時期を見てベリーと結婚し跡取りを作るものだと考えるのは極普通のことであった。
貴族にも女当主は存在してはいるが、出産は命の危険もある行為。
婿を取りながらも死産し、血を継ぐことなく産褥熱で死去することは決してないわけではなく、そのせいもあってか普通は男児を正嫡とする。
差別的なものがあるわけではなかったが、歓迎はされぬこと。
ベリーは出自と立場から、半ば当然のように彼女らから次の辺境伯夫人であると思われていた。
そしてボーガンが頑なに使用人――女を屋敷に入れようとしない理由は何かと考えれば、彼女の性格的な問題、その嫉妬深さにあるのではないかと邪推もしている。
そういう理由で、使用人達にとってベリーは極めて危うい存在。
決して無礼や不作法を働いてはならない相手であった。
とはいえ、ベリーはそんな彼女らの緊張など露知らず。
貴族としての作法は知るものの、体が弱かったベリーは姉とは違い表に出ることも少なかったため、社交界に関する知識は薄いもの。
自身がまさか彼女らの中でそのような扱いになっていることなど知るよしもなく、自分も見習わねばと素直に彼女らを感心したように見つめていた。
案内された屋敷の中はクリシュタンドのそれよりも豪奢であった。
絵画の類があちこちに掛けられ、調度品がずらりと棚へと並ぶ。
エントランスには煌びやかなシャンデリア――クリシェは手入れが大変そうだと思いながらも、ベリーに手を引かれ二階にある部屋の一つへと入った。
「ここがクリシェ様のお部屋となります。アルガン様のお部屋は……」
「後ほどで構いません。荷物はクリシェ様のものでございますので」
「畏まりました」
使用人の少女――アーネは頭を下げつつ、ベリーが持っていた手荷物――籠の中にある無数の果物を見る。
よほど果物が好きなのか、と不思議に思いながら眺め、その間にクリシェの外套をベリーが受け取ってしまっていることに気付き、慌てる。
使用人とはいえ、辺境伯夫人にさせることではなかった。
すぐにベリーから畳まれた外套を受け取り、部屋に置かれた洗濯籠の中に入れる。
「お部屋、別ですか?」
「え、ええ、と……そうですね、わたしは使用人でございますし……」
ベリーに顔を寄せると小声で尋ね、ベリーもまた小声で囁く。
黒に銀の刺繍を施されたワンピース。
透けるようにさらさらとした銀の髪と、整った妖精のように愛らしい顔のクリシェ。
そして赤毛を綺麗に肩の辺りまで伸ばした、同じく童顔ながらも女らしい美貌を持つベリー。
そうした二人が顔を寄せ合う姿に少し見惚れ、アーネは頬を赤らめる。
クリシュタンドの令嬢二人と使用人は大層美しいと噂は聞いていた。
とはいえ、アーネの想像以上のもの。
そこそこ可愛いと自負している自分が馬鹿らしいと思えるほどで、まるで物語の登場人物のようだと感嘆する。
その上、二人の距離の近さは何やら背徳的な香りであった。
アーネは自分の暴走しがちな思考を慌てて止める。
クリシェは十代半ば。
小柄で細身ながらも女性らしい成長をしっかりと見せていて、早いものであればこのくらいには嫁に出て子供を産むものもいる。
ベリーはそれを意識し、甘えがちなクリシェとの距離感をここでは気を付けているつもりではあった。
が、しかし普段の習慣というのは滲み出るもの。
体を離していてもやや寄り添うような距離。
クリシェは体をすり寄せるようで、その手はベリーの腕に添えられている。
年頃の美しき令嬢と使用人――妙に背徳的な印象を抱かれてもおかしくはないほど、二人の距離は近くあった。
ベリーは体を離しているだけで節度ある距離を保っていると思い込んでいたが、実際の所はそのようなもの。明らかに一歩、優しい目で見ても半歩ほど二人は近い。
これが二年ほど前であったなら自分で気付けていただろうが、彼女は彼女でクリシェに関する距離感というものが麻痺している。
ともすれば噂話の種になりかねないものであったが、アーネは随分と仲が良いのだろうと実に真っ当な解釈にとどめた。
アーネ自身が物語を好み、自分の想像力が豊か過ぎることを自覚していることもあって、二人が随分と綺麗だからそのような想像をしてしまうのだと押しとどめたのだった。
その性格のせいで、二人の滞在中は数多の苦悩が待ち受けるということを彼女はまだ知らない。
クリシェはやや唇を尖らせ、ベリーは苦笑しながら、ひとまずお茶にしましょうかと口にした。
そして彼女がポットに向かうのを見て、慌ててアーネが先んじる。
アーネは真面目な気性ではあったが、あまり要領が良くはない。
それは彼女の認識する七色の欠点の一つであった。
「こ、紅茶でございますね。そのような些事はお任せ下さい」
「え? あ……そうですね、出しゃばってしまうところでした」
「いえっ、えと、大丈夫です……っ」
言ったあとに、何が大丈夫なのかと自分を罵倒する。
ベリーは少し驚いたようにしたあと、静かに笑った。
上品な笑い方で嫌味がなく、目には優しさが満ちていた。
よろしくお願いします、と軽く会釈するさまは見事なまでに美しく、所作は流れるよう。
明らかに使用人として格上であると、それだけでアーネは確信する。
今日到着すると聞き、アーネは入念に準備をした。完璧である。
部屋については七度確認したし、沸かしたての湯を使えるようにと一刻ごとに新しい水へと入れ替えている。
茶葉の香りを引き立たせるため、新鮮な湯が良いとされていることをアーネは知っているのだ。
しかしに近づいたところで、ぽこぽこと音が響いていることに気がついた。
蒸気が噴き出している。
「あら、ポットの湯が沸かしっぱなしになっていますね」
「あ……」
アーネは硬直する。
ベリーの手が魔水晶へと伸び、魔力を通す。
音はそれで弱まり、アーネは顔を真っ赤にした。
新鮮な水。
湧かしすぎな湯は御法度。
早くも入念な準備による完璧が崩れたことでアーネの平常心は崩れていた。
あがり症で打たれ弱いこともまた、彼女の自認する欠点である。
「ゆ、湯を入れ替えて参ります……っ」
「え? いえ、何もそこまで」
「だ、大丈夫ですっ」
何が大丈夫なのか。
再び自分を罵倒しながらアーネはじっとベリーに見つめられ、再び硬直。
アーネもまたベリーを見た。
軽く七三に分けられた程度。
だというのに赤毛の髪は細くさらさらとして、不思議な清潔感があった。
細く形整った眉と長い睫毛に包まれた瞳は優しげで、ぱっちりとした二重。
鼻筋はすらりと通って、唇は桃色。輪郭も綺麗で、全体としてどことなく色気がある。
体つきが実に女らしいためだろう。
胸は形良く豊かで、しかし腰周りはきゅっとくびれている。
同じエプロンドレスでもこうまで違うものかとアーネは思う。
綺麗、かわいい、すごい。
エプロンには染み一つなく、まるで新品のようだった。
ベリーはふ、と笑みを浮かべた。
笑みもまた綺麗で、アーネは再び見惚れてしまう。
「そう緊張なさらないでください。クリシェ様はお作法をあまり気にされない方ですし、わたしもそうです。いつも通りで良いのですよ」
「は、はい……」
固まるアーネにもう一度微笑むと、手慣れた様子でベリーは紅茶を準備する。
アーネはその一つ一つが気遣いに満ちていること、そしてそれが淀みなく流れていく様に感動した。
よもや、紅茶の用意をする程度のことでこれほどまでの感動があるとは。
アーネには感動しやすいという美点があった。欠点であるかも知れないとも思う。
ベリーは紅茶の準備だけをして元の場所へと戻り、クリシェがちょこんと座るソファに腰掛けた。
距離はやはりどうにも近い。
クリシェがそこから更に擦り寄るようにベリーに近づくと、顔を寄せ興味深そうに――とはいえ無表情にアーネを見ながら尋ねる。
「……どうかしたんですか?」
「いえ、ちょっと緊張なさっているようでしたので。クリシェ様とわたしに、気を使いすぎていらっしゃるのですよ」
アーネは芸術品とも言える紅茶を盆に載せてゆっくりと近づく。
湧かしすぎた湯が注がれたとは言え、やはりそこにあるのは芸術である。
アーネは震える手でティーカップをソーサーの上に置き、ゆっくりと紅茶を注ぐ。
二人の視線が集まると手は余計に震え、それを見たクリシェは随分と不器用なのが恥ずかしいのだろうとようやく理解した。
未熟な部分を見られるのは誰もが恥ずかしいものである。
下手な兎の解体をゴルカに見られて恥ずかしかったことを思い出す。
クリシェは知らない人と共感できたと一人で喜び、どこか嬉しそうにベリーに顔を寄せる。
「わかりましたっ。へたっぴなのが恥ずかしくて緊張してるんですね」
「ひっ」
紅茶がやや飛び散り、ソーサーに水滴を零す。
「す、すみません、すみません……っ」
「く、クリシェ様っ、駄目ですよそんなこと言っては……っ」
「えと、でも、へたっぴなのを見られるのは恥ずかしいことで……」
「ストップです」
「ぅむ……」
慌てて布巾で零れた紅茶を拭うアーネは、横目にベリーがクリシェの唇に人差し指を押しつけるのを見た。
もはやいつもの癖である。
鼻先が触れ合うような距離でベリーはクリシェをじっと見て告げる。
「一生懸命やっているところに下手だなんて言われると、余計に緊張してしまいます。……そうですね、お料理を試行錯誤して上手く行かない時に、下手だなんて言われたらとお考えください」
「……それは、嫌です」
「そうです。そういう気遣いというのは、とても大切でございますよ。些細なことで人は傷つくもの、お気をつけくださいませ」
「はい……」
目を泳がせるクリシェに微笑み、頬を撫で、親指で唇をなぞった。
怒っているわけではありませんよとベリーが笑うと、唇を撫でられながらクリシェは頷き更に顔を寄せた。
それはもはや鼻先が触れ合うような距離ではなく――しかし二人きりという条件が満たされていないため、クリシェは仕方なく離れ、ベリーもまた「だめですよ」と困ったように小声で囁き手を離す。
アーネは粗相の後始末をしながらその光景を目撃し、もしかしてキスをしようとしたのではないか――などという事実の多分に入り混じった想像に顔を真っ赤にした。
すぐにそれを妄想と断じて首を振る。
これほど無様を重ねておいて、そんな想像に耽っている余裕はなかった。
「茶葉はグラベラスのようですね。いつも飲んでいるアルマレイと比べると随分さっぱりとした香りがしますよ」
ベリーはそんなアーネの百面相に気付いた様子もなく、話題を変えるようにそう告げる。
叱ったことでクリシェが落ち込んでいないかが少し心配だったのだ。
クリシェはクリシェでいつも通りの様子のベリーに、本当に怒ってないのだと安堵してほっとしたような顔になり、紅茶の匂いを嗅ぎながら答えた。
「ジリアン……よりもアセムみたいな感じですね」
「ええ。香り付けしたアルマレイと違って茶葉の香りがそのまま。そういう意味ではジリアンとアセムと同じですが、ご明察です。アセムの姉妹茶葉です。こちらはアセムより更にさっぱりした風味ですから、ストレートやレモンティーがオススメですね」
紅茶を注いでいたアーネはその言葉にはっとなる。
『こちらはグラベラス。さっぱりした味わいの茶葉で、ストレートやレモンティーにするのがおすすめでございます』などと尋ねられた時の答えまで考えていたのに、肝心のレモンを持って来ていないのだった。
「れ、レモンをお持ちしましょうか?」
「いえ、わたしは……クリシェ様はどうなさいますか?」
クリシェは湯気が立ち上る紅茶を見ながら迷う。
一緒にしようかと思いつつも、クリシェは猫舌なのである。
それも極度の猫舌である。
ベリーはその逡巡を見て取って、くすりと笑う。
蜂蜜を取って自分には一杯、クリシェは少し多い目に入れてやる。
それからゆっくりとかき混ぜ冷ましてやりつつ、アーネに尋ねた。
「明後日の日程はどうなっているのでしょう?」
「は、はい。朝の四つ鐘に城へ来られるようにと」
日の出を始まりとし、日は二十四刻に分けられていた。
魔水晶による大時計により正確な時刻を知ることはできるが、そうでない場所においては季節によって変わる日の出の時刻によって時間は変化する。
そのため、七刻や十刻などという言い方ではなく朝の何刻、日が天を示してからの昼の何刻、日の入りから何刻、という言い方をされることが多い。
鐘は一刻ごとに鳴らされるため、朝の四つ鐘と言えば日の出からの第四刻を示した。
「クリシェ様、明後日は日の出から湯を浴びて準備をしましょうか。髪を結い上げねばなりませんし、色々と忙しいですから」
「はい。髪、結うんですか?」
「ええ。クリシェ様はそうしてさらさらと流していても綺麗でございますが、時にはしっかりと結い上げるのも素敵でございますよ。ベリーがしっかりと整えさせて頂きます」
「……えへへ、はい」
クリシェは嬉しそうに微笑む。
綺麗な笑みで、美しく、可憐であった。
妖精のようなご令嬢であるという話は聞いていたが、クリシェは噂通りの神秘と幻想を秘めていて、それがこうして表情を作ると途端に血が通ったようなものになる。
ベリーに身を寄せ――じりじりとクリシェが擦り寄った結果もはや二人は密着していたが、知らぬ間にアーネにもそのことへの違和感が失われていた。
午後の差し込む光の中、二人があまりにも絵画的であったためだ。
「さ、どうぞ、クリシェ様」
適度に温んだ紅茶を差しだし、クリシェはそれに口付ける。
微笑む二人の姿をただ、アーネはぼーっとしながら見つめた。
仕事を忘れて注意力散漫になるのもまた、彼女の欠点の一つであった。