憧憬無垢
「……勝手に入ってごめんなさい。でも、セレネとお話ししたくて」
ノックに応答はなく、魔力を操り鍵を解除し。
セレネの部屋に入ったクリシェは、顔を上げず、こちらも見ないセレネを眺め、彼女が眠っているのではないと理解し近づいた。
「一人にして、って言ったわ」
「……はい。ごめんなさい」
「明日聞いてあげる。……だから、今日はやめて」
クリシェは少し迷い、何も言わずベッドに腰掛けた。
それから少し部屋に視線を。
思えば、こうしてセレネに会いに彼女の部屋へ訪れるのは随分と久しぶりのことだった。
いつもはセレネがクリシェの部屋に訪れる。
クリシェは背中を向けるセレネの頭を撫でた。
「……クレシェンタに言われたんでしょう?」
「……はい。クリシェが一人であれこれ考えるより、ちゃんとお話ししてみるべきだって」
「何を?」
問われてクリシェは考え込み、それから懐かしむように微笑み、言った。
「なんだかクリシュタンドに来た頃を思い出しますね。……あの時はクリシェ、ご当主様にセレネの話し相手になって欲しい、って言われて、何も考えずセレネの所に行ってました。……何をお話ししようかだなんて、全然考えないまま」
セレネのさらさらとした長い髪を撫でて、指に絡める。
「クリシェは理由が知りたいです。セレネがどうして嫌なのか。……理由が分かれば、クリシェもセレネが嫌じゃなくなるように色々と考えたいです」
「……お願いだから明日にして。言ったでしょう? 疲れてるの」
「理由を明日教えてくれるって約束してくれるなら、帰ります」
でも、そうじゃないと思うのです、とクリシェは続けた。
「……セレネは本当に怒ってないのかも。でも、クリシェに呆れてがっかりしてしまったのでしょうか。……だから、お話するのも嫌なのでしょうか?」
「……やめて」
「クリシェには分からないって、セレネ、言いました。確かにクリシェはお馬鹿です。普通の人なら分かることでも分からなかったりします。でも、クリシェはちゃんとセレネのことを理解したいです。だから――」
「――やめてッ!!」
響いた声に一瞬クリシェは固まり、セレネは抱いた枕に強く顔を押しつけた。
「……本当に、やめて。これ以上、惨めな気持ちになるのは嫌なの。うんざりなの。……お願いだから、今は放っておいて」
「セレネ……」
肩を震わせて泣いていた。
セレネはよく泣く。けれど大抵、それは安堵であったり、喜びで――しかし今日のそれは明らかに違っていた。
クリシェはその背中を抱きしめる。
「……ごめんなさい」
理由が分かったわけではなかった。
ただ、セレネが泣いているのはきっと、クリシェのせいだった。
少なくとも、こんな風に泣いてしまうくらいに、クリシェは彼女を傷つけたのだ。
震える背中は子供のようで。
意地っ張りな、いつもの姉の姿はそこになかった。
――何が原因なのだろう、とただ考える。
思えば、つい先日戦場で見たときにも普通ではなかったように思えた。
クリシェが出て行く時にも泣いていて――思い当たるのはそのくらい。
クリシェは半ばセレネを無視したような形で、酷いことをしたという自覚はあったが、セレネならば事情を了解してくれそうな気がしていた。
もちろんクリシェの勝手な思い込みであったのかも知れず、今の結果を見るにそれは違ったのであろう。
考えても分からず。
かと言って、何が惨めなのかと尋ねることは余計に傷つけてしまうような気がして。
少し考え込むとひとまず思考を後ろに。
「クリシェ、お屋敷一つあればいいって、ずっと思ってました」
クリシェは言った。
「お屋敷でなくても、小さな小屋だって。……そんな場所でずーっと、みんな一緒に暮らせればそれでいいって。危ないこともしなくて良くて、戦もなくて、悪い人もいなくて……内戦の時にもセレネが頷いてくれるなら、全て放り出して山奥に逃げ込んで、ひっそり暮らしたいって思ってました」
こういうのは夢と言うそうですね、とクリシェは微笑む。
「内戦が終われば、周辺国との戦が終わればしばらくは――そう思っても、平和というのは永遠ではないです。戦がなくたって問題はあって、色々あります。クリシェにはクリシェの事情がありますが、他の人だって当然そうで、同じものを望んでくれるとは限りません」
セレネの首筋に顔をうずめて、目を細める。
「クリシェはもう、うんざりです。いっそ、全部壊してしまえば良いのかも、とすら思えましたけれど……それよりずっと、クリシェ達がお引っ越しする方が平和的ですから、それが一番かなって思って、それで」
エルデラントのあの男は、クリシェが殺した誰かの仇を討つために。
結局、クリシェがどうしようと、戦の火種はどこかに生まれる。
悪意を持つものはどこかに現れる。
間接的なものを含めれば、クリシェが殺した相手は十万を優に超えていた。
何人の人間が自分を恨んでいるかなど分からない。
クリシェは誰にどれほどの恨みを抱かれたってどうでもよかった。
ただ、そうしたものはクリシェのみならず、その周囲へと手を出しかねない。
この先も、そのまた先も――続けば続くほどにその数は増えていくだろう。
何百何千、億を超えて。
『――小さな世界のことだけを考え望みのまま、自身に仇なすものを処罰するお前は、多くの力なき者にとって恐ろしい存在であるに違いない。少なくとも多くの弱者――貴族達はお前によって安心を脅かされたと感じたに違いない』
祖父の言葉を思い出す。
『そして恐れは必ず敵意に変わる。今はお前を恐れ、彼等は従うことにはなるだろう。しかしそれは禍根となって、十年、二十年の先に再びお前と周囲を脅かすのかも知れない』
――お前はその度、同じことを繰り返すのかい?
お馬鹿なこと、と目を閉じる。
行き着く先は見えていた。
リスクは積み重なって増えていくばかりで、クリシェが望む永遠など、それこそ永遠に来ないだろう。
巡り巡った因果はいつか、クリシェの安心を脅かす。
どこかでそれを断ち切る必要があった。
だから――でも。
「……クリシェが永遠を望むことは、間違いなのでしょうか?」
ベリーはずっと、と約束した。
けれど、いつか来る死を受け入れているように見えた。
ガーレンは自分の死に満足していて、エルーガも同じく。
これで良い、と二人は言った。言葉通り、そんな笑顔でクリシェに言った。
『――しかし人とは個ではなく、集団で紡ぎ、多くの繋がりを築き上げて生きるもの。私はこれまで我らの先祖がそうであったように、この身をその流れに委ねたいと思うのです。……永遠の大花より、枯れて種を残す凡百の花の姿に美を感じ、生を全うしたいのです』
クリシェはただ、永遠の幸福を望んでいるだけ。
おかしいとも思わなかった。
単純に、クリシェが普通に考えれば、最終的な結論はそこにしかない。
けれど、多くのものにとってのそれは、普通のことではないのだと思う。
「セレネは、クリシェのことを愛してくれていると勝手に思っています。クリシェもセレネのことを愛しています。……だからずっと、そんな関係が続けばいい――そう考えることは、間違いなのでしょうか?」
――人は、死ぬべきなのでしょうか。
続けられた言葉に、セレネは体を強ばらせた。
枕を抱く手に力を込めて、ただただ顔を押しつける。
愛しい妹の言葉を否定する文句など、思い浮かぶこともなかった。
母が死んだとき、どれほどその死を嘆いたか。
その時の気持ちは忘れていない。
仮に母を救える方法があったならば、どんなことだってしただろう。
両親とベリーとの永遠を、あの時はセレネだって望んでいた。
受け入れたのは、どうしようもなかったから。
人はいつか死ぬもので、それは早いか遅いかの違いでしかなく――生きている以上、死ぬことは当然の摂理であると知っていたから。
大人になる、ということは単なる方便であった。
世の中にある理不尽を受け入れるための、そして、そんな理不尽を甘んじて受け入れたものが大人と呼ばれていくに違いない。
クリシェは、子供のように純真だった。
きっと彼女は永遠に、子供の純真さを保ったままなのだろう。
彼女はこの世界で唯一、永遠の幸福すらを実現出来る存在だった。
あらゆる理不尽すらをねじ曲げ、己の望みの全てを叶える力を持っていた。
――彼女は諦めないし、受け入れない。
己の望まぬ全てを認めず、そして認めないままでいられるもの。
彼女に、大人になる、などという方便など必要なかった。
彼女は理不尽を受け入れる側ではなく、理不尽を生み出す側の存在であり、未来永劫穢れる事なき、そんな魂の持ち主であったから。
「……わたしが死ぬべきだと言ったら、あなたは諦めるの?」
酷い質問だ、と思った。
深く考えてした質問ではなかった。
「……クリシェの望みが独りよがりなものならば。セレネがそう言うなら、きっとベリーも――」
「結局、ベリーなのね」
自嘲するようにセレネは言った。
背中でクリシェが、不思議そうな顔をしているのが見ずとも分かった。
「どうしてわたしに聞くの? わたしのことなんて気にしないで、勝手にすればいいわ。……わたしがいなくたって、あなたたちはこれまで通り、十分にやっていけるもの」
「セレネ……?」
「わたしは、お荷物なの。わかるでしょ? どうして戦場に出てきたの? 不安だったからでしょ? ……わたしには任せられないって思ったから、あなたはベリーを置いてまで、戦場に出てきたの」
違う、と知っていた。
どうあれ、彼女はセレネを心配したから来てくれたのだ。
ベリーを置いてまで、セレネを助けるために。
「……わたしは普通の、凡人なのよ。あなたやクレシェンタとは比べものにならないくらいちっぽけで、ベリーみたいに、あなたたちに安心一つ与えてあげることさえ出来ないの」
拳を痛いくらいに握りしめた。
「教えてちょうだい。あなたのいう楽園で、一体わたしは何をするの? 頭も悪くて力もなくて、そんなお荷物に何が出来るの? ……置物みたいにただ、あなたたちを見て笑っていればいいのかしら」
そして、自分をあざ笑うように息を漏らす。
「……お願いだから、もうやめてちょうだい。わたしはもう、うんざりなの」
告げると自分に失望して、けれど少しだけすっきりした。
諦めることへの誘惑は、いつだって甘美に見えていた。
いつもずっと側にあって、見ないようにしていたもの。
認めないようにして来たもの。
張りぼてのような建前が、随分と負担になっていたのだと気付いて、笑う。
自分への失望には、暗い愉悦と安堵があった。
「ベリーだけでいいでしょう? わたしと違ってきっと、ベリーはあなたの望む楽園でずっと一緒にいてくれるわ。わたしがいなくなってもしばらくすればそれに慣れるし、いつかわたしのことなんて思い出さなくなる」
――わたしと……これからもそうやって、ずっと一緒にいて頂けたらと思います。
王都に向かう途中で聞いた、そんなやりとり。
――……クリシェも、ベリーとずっといたいです。
本当はあの時に理解していたのだろう。
自分は外側に立っているのだと。
気付かない振りをしていただけ。
二人の関係は、踏み入れる余地などないほどに完成されていた。
互いに互いが求めるものを持っていて、それはまるで割り符のように。
セレネはそこから溢れて、こぼれ落ちた愛の恩恵を受けていただけ。
「……最初からわたしなんて必要なかったの。ベリーだけいれば、あなたは十分幸せになれたわ。だから――」
「セレネ」
不意に肩を引かれて、枕を取られ。
腰の上に跨がられ、押しつけられたのは唇だった。
ほんの少しだけ驚いて、それからは無感動に彼女を見つめた。
稚拙な愛情――幼稚な純真。
いつもの口付け。
ただただじっと唇を重ねる少女の紫を眺め、その内に視線を逸らした。
今更、照れたわけでもない。
眺めるには少し、綺麗に過ぎただけ。
「クリシェは優秀じゃないと価値がないって、ずっと思ってました」
唇を離すと、クリシェは告げる。
紫の瞳は揺らぎなく、その真円をセレネに向けた。
「……でも、セレネはクリシェに、ベリーとずっと料理をしてていいって、そう出来るようにしてあげるって言ってくれました」
同じ事だと思うのです、とクリシェは言う。
「食事のことだけを考えるなら、お屋敷のお料理はベリーだけで十分、クリシェは何の役にも立ちません。すごく無駄なことで……でも、セレネはそれでいいって言ってくれたんです」
忘れちゃいましたか、とクリシェは尋ねた。
セレネは答えなかった。
忘れているはずなどないのに。
「確かにセレネは賢くないですし、よわよわかもです。すっごく不器用で大ざっぱで、何をさせてもへたっぴで……でも、そんなことは関係ないと思うのです。……少なくとも、クリシェにそう教えてくれたのはベリーで、セレネですから」
クリシェは微笑み、セレネの頬を撫でた。
ひんやりとした手は、不思議と温かかった。
「……クリシェはずっと、何でも出来るクリシェが理想でした。でも、セレネやベリーがお馬鹿でもいいって、受け入れてくれて、愛してくれるから……クリシェ、お馬鹿でもいいかもって思えるようになって……」
少し言葉を探すように指先で唇をなぞり、もう一度口付けを。
「少なくともクリシェは、同じ事をセレネに思ってます。確かに正直、セレネの能力がとてもすごいだなんて、これまで思ったことはないですけれど……それとこれとは全く関係のないことではないでしょうか」
彼女はセレネを見下すようで。
そうでいながら愛しげに。
「……クリシェはきっと、セレネの言う無能なセレネが大好きなのです。怒りっぽくて、意地っ張りで、色々変な拘りが多くて……でも優しくて、一生懸命な、そんなセレネを愛していると思うのです」
彼女は言葉を飾らなかった。
常に真摯で、愚直なほどに真正面から。
罵倒のような文句であったが、けれどもそんなつもりは欠片たりともないのだろう。
「セレネが、お馬鹿なクリシェを愛してくれるように」
その紫に宿る輝きには、例えようもない情が映っていた。
微笑みは見た目通りの少女のようで、人形のような美貌には色が宿っている。
いつからか少しずつ変わって、記憶にある姿を思い返すと別人のようにさえ見えた。
変えたのは誰か――その内の一人に自分が含まれていないだなんて、流石に思わない。
けれど、ただ。
「……これでは駄目でしょうか?」
クリシェはずるいと思う。
どうしようもないくらいに綺麗で、純粋な愛情を何も考えず他人に注げるのだから。
それに頷いてやればよいと思う。
いつものように、彼女の純真に応えるように。
最良の結果は手を伸ばせばすぐそこにあった。
少なくともセレネが一番に願っているのは彼女の幸福なのだから。
それを叶えてやることは容易に違いなく、セレネはただ頷くだけでよいのだ。
「あなたって、本当にお馬鹿ね」
けれど、視線を逸らして言った。
「……約束できない。これは、わたしの中の問題なの」
「セレネ……」
クリシェが自分を愛してくれていることは知っている。
ずっと前から、その愛情の美しさも。
「愛してるわ、クリシェ。世界で一番あなたのことを」
彼女の頬を撫でた。
滑らかで、柔らかい――赤子のような肌だった。
「でも、きっとわたしの愛の器は、底が浅くてとっても狭いの。自分勝手で独りよがりで、……ベリーのような愛じゃない」
全てを理解した上で受け入れられるような、そんな愛ではない。
真実の愛とはきっと、見返りを求めず、相手の全てを包み込む――そのようなものであろう。
けれどセレネの愛とは欲望の愛であった。
徹頭徹尾己のためにある愛は、己の内に生じたとは思えないほど歪で穢らわしかった。
認められたいと思うのは、己のため。
結局セレネは、彼女にとっての自分が、ただ一人の特別なのだと思いたかったのだ。
彼女はセレネのためなら命だって賭けてくれるだろう。
十分に過ぎて、それ以上何かを求めるのは過剰であった。
けれど、それでも、それ以上の何かが欲しかったのだ。
どこまでも貪欲に、彼女を貪るように――矮小な人間でありながら、どこまでも強欲で、傲慢で、セレネ=クリシュタンドは足るを知らない人間だった。
身の丈以上を求める悪癖は、こんなところにまで入り込んでいる。
己の器が知れてなお、受け入れられない情念があった。
「ベリーが妬ましいわ。……嫉妬してるの」
「……嫉妬?」
そう、とセレネは答え、彼女を押し倒した。
彼女の腰の上に跨がって、今度はセレネが見下ろした。
「わたしは世界で一番あなたを愛してるわ。でも、あなたの一番はベリー。……もしかしたら、ベリーがいなくなることをわたし、喜んでいたのかも。ベリーがいなくなれば、あなたがわたしのことだけ見てくれるのかもって」
両手をその細い首に伸ばして巻き付ける。
「……あなたのこと、独り占めにしたかったの。でも、ベリーが死んだって、死んでなくたって、あなたの一番は変わらない。……これから先もずっと、永遠に」
己の浅はかさに辟易する。
彼女の首に魔水晶は掛けられていなかった。
クリシェが自ら置いてくるとは思わない。
きっと、クレシェンタの提案。
セレネの浅い考えなどお見通しなのだろう。
彼女の紫は、セレネの葛藤も何もかもを見透かしているに違いない。
だからこそ、こうしてクリシェをセレネの所に送り込んだのだ。
――お好きになされば?
馬鹿にしたような、そんな言葉が聞こえるようだった。
これは据え膳。少なくとも、それで解決する程度だと思っているのだ。
不愉快で、けれどその考えは遠からず。
だからこそ余計に不愉快で。
「わたしのいないところで、あなたたちがこの先の永遠を、幸せに過ごすことを想像するのも嫌。だからと言って、それを見続けるのも嫌。……素直に喜べない自分も、嫌」
このまま力を込めてやれば、こんな首は一息だろう。
クリシェはセレネを驚いたように見上げたまま、けれど、抵抗するでもなく。
「……全部、嫌なの」
いっそ、殺すことが出来たらどれほど良かっただろう。
殺して、自分も死んで――そうすればさぞ、すっきりとするに違いない。
絶対に手の届かないところへと、彼女を追いやれば。
心の底からそう思えるのに、手は震えていた。
魔力は乱れて、一切の力を生み出さない。
「どうすればいいのか、分からないのも、嫌」
乾いた頬の軌跡をなぞるように、新たな雫が流れて汚す。
自分はこの世界で、誰よりも無能な人間であった。
愛する使用人のことを喜ぶべきなのに、喜べず。
あるいは悲しむべきなのに、恨むべきなのに、悲しめず、恨めず。
どの方向にも向かえない心の内側に、混沌だけが渦巻いていた。
そうして溢れた頬の雫が、親指で優しく拭われる。
「……、クリシェの一番は、確かにベリーなのかも知れません。いつもベリーのことばっかりで……」
クリシェは言って、考え込み。
「でも、セレネのことだって同じくらい、大好きです。だから、セレネにも来て欲しくて、だから、その……、いえ、だからと言って、どうすればよいのかも分かりませんけれど……」
視線を惑わせる姿は、どこまでも愛らしかった。
「……でも、セレネが辛いのは、クリシェも嫌です。そのことで、ベリーのことが辛いなら……セレネがちゃんと落ち着くまで、クリシェはなるべく口にしないようにします」
それでは駄目でしょうか、とクリシェは尋ねた。
セレネは答える言葉を持たなかった。
それをどう受け取ったか。
クリシェはセレネの頬を包んで、引き寄せ、口付ける。
「大丈夫ですよ。泣かないで下さい」
愛おしげに頬を撫でて、口付け。
まるで、子供をあやすように。
「……セレネが落ち着くまで、ちゃんと辛くなくなるまで。……クリシェはずっと、セレネの側にいますから」
微笑はどこまでも優しげだった。
セレネは袖で目元を拭い、その首筋に顔をうずめた。
クレシェンタはきっと、それで解決するのだと知っていたのだろう。
どうしようもなく稚拙で、純粋な、クリシェの愛情がその内どうにかしてくれる、と。
ずるかった。クリシェも、クレシェンタも。
ずるいところは皆、セレネの愛しい使用人に似ていた。
「……、大嫌い」
「……えへへ」
呼吸を整え、それから少し顔を上げて口付けた。
押しつけて、味わい。
それを繰り返せば、頭の中の全てを塗りつぶせるような気がした。
だから没頭するように、様々な感情を馴染ませるように、彼女に唇を押しつけていく。
繰り返し、繰り返し。
ゆっくりと、次第に密に。