陰影彩美
エルスレンとの戦。
戦場に同行したい――父にそう嘆願した時のことだった。
『一般的には、努力は尊ばれるべきものと言えるだろう。努力すること自体に価値がある。……仮に結果が伴わなくとも、その努力は次に繋がる糧となる。だからこそ、目的があるのならば考えるよりまず、その成就のために努力すべきだ。結果はいずれはっきりと見えてくるし、そして努力し続けること自体に価値があるのだから』
しかしこれは民草の論理だ、と父は言った。
『軍人として戦場に立ったならば、努力になど何の価値も存在しない。……必要なものは結果だけ、勝利という成果ただ一つ。何故ならば結果を持ち帰らない軍人に、次というものを考える機会など与えられんからだ。間抜けを犯して死ぬのが己だけであればまだしも、自身の敗北は仲間の命を、そして守るべき民草の命をも脅かす』
射殺すような瞳であった。
優しい父であったが、父は父である以前に戦士であり、そして戦士達を束ねる長。
軍人として対するときは、常に険しく、厳しい姿をセレネに見せた
『努力などあって当然、評価になど値しない。戦場には結果も出せぬ兵士など必要ないし、当然そのような指揮官も必要ない。努力家の無能と怠惰な有能であれば、考える余地なく後者だろう。結果を示せぬ人間は私の軍に必要ない。……それはお前であっても同様だ』
『……っ』
『お前は自慢の娘だ。才能もある、頭も切れる。それに驕らず努力を重ねてここまで来た。年齢を考えれば飛び抜けた、滅多にいない逸材だろう。――だが、お前は私の軍団長達と比べてあまりに弱く、未熟で、安定感もなく、経験を含めた総合的な能力は大隊長達にも見劣りする。お前の年齢を考慮せず、冷静にその能力を眺めれば、お前は所詮その程度の人間でしかない』
言葉は断じるように、一切の反論を許さない高圧的なもの。
父は部下達に慕われ、崇められ、そして恐れられていた。
周辺世界において最強――迅雷のクリシュタンドとその麾下達は紛う事なき王国の英雄であり、決して敗北を許されない王国の剣であり、盾である。
そうであるが故に、父は軍に一切の緩みを許さなかった。
相手がセレネであっても、使えないと判断したならば軍人としてのセレネ=クリシュタンドなど呆気なく切り捨てるだろう。
父は誰より、軍人としての責務を重んじる人間であると知っていた。
だからこそ、誰より誇らしく思えたのだ。
『一度戦場に立てば、その道を選べば後戻りは出来ない。言い訳や泣き言は決して許さん。娘だからと恩情を掛けることもありはしない。お前が戦場で無能を晒すようなことがあれば軍人として不適格と見なし、私の軍から永久に除名する。……その上でもう一度問う。お前はそれを理解した上で同行を願うつもりか?』
セレネは真っ直ぐとボーガンを見つめ、左胸に右の掌を。
踵を打ち鳴らすように姿勢を正し、敬礼する。
『はい、お父様。……名に誓って、必ずお役に立ちます。同行をお許し下さい』
英雄――ボーガン=クリシュタンドは鷹のように鋭い眼光でセレネを捉え、頷き。
『……了解した。クリシュタンド軍、将軍副官を命じる。立場以上の責務を果たせ』
左胸に右手の親指を突き立てるようにして、セレネに対して答礼する。
その時の感覚をどのように表現すれば良いのかは分からない。
軍人としてのセレネに対する、初めての答礼。
生まれて初めて、父に認められたと思えた瞬間であった。
『頑固な娘だ。ラズラといいベリーといい、これはきっとアルガンの血だな』
呆れたように溜息をつき、父はソファに腰掛けた。
『しかし、一人の貴族として名に誓った以上はその撤回を許すつもりはない。軍人としてありたいならば常に結果を示せ。私の娘だからと陰口を叩かれるならば、納得させるだけの能力を周囲のものに見せつけて黙らせろ。少なくとも私は、お前ならば可能であると見たから認めたのだ。私の目に狂いはなかったのだと行動で証明を』
『……はい。必ず結果を。お父様に決して恥は掻かせません』
軍人には結果が全て。
それが、父が何より大事にした言葉であった。
セレネにとっても何より大事にすべき言葉であり、父がいなくなった後も、そうである限りセレネは父の娘であり続ける。
『――じゃあ、わたしはあなたが酷い目に遭わないよう、ずっと守ってあげるわ』
誰かのために剣を振り、その全てを守り。
そうする限り、そうである限り――セレネは自分が父の娘であると誇れる気がした。
努力ではなく、結果が全ての世界にセレネは自ら踏み込んだのだ。
泣き言などは、セレネ=クリシュタンドには許されない。
柔らかいベッドの感触――自分は何をしているのだろう、と薄目を開いた。
未だ西では小規模ながらも戦闘が続いているはずだった。
けれどセレネはそれを指揮するでもなく屋敷にいて、怠惰にベッドへ転がっていた。
『酷いお顔だ。……無礼を承知で軍人として言わせてもらうなら、今のセレネ様は危うい。今は無理をなさるな』
何一つ出来ずに追い返されたから。
コルキスが悪いわけではない。彼は正しく軍人であるだけ。
悪いのはセレネであった。
――何をしているのだろう、と繰り返す。
クリシェやクレシェンタを、何か手伝えたわけでもなかった。
元帥として与えられた役割さえ、まともにこなせはしなかった。
そしてその間に、ベリーは死んだのだ。
姉としても、軍人としても、一家の主としても――セレネは何一つ結果を示していない。
それどころか、その足を引っ張る始末。
そんな自分に価値などなかった。
『ベリーはここにいますから、もう安心です。これから準備して、クリシェはベリー達が安心して過ごせる世界を作ります。これなら、これから先もずっと――』
クリシェを止めようとして、けれどクリシェはどうあれベリーを連れ帰り。
クリシェは約束を違えたことなどなかった。
やると言ったなら必ず結果を示した。
それを信頼せず、彼女の邪魔をしようとしただけ。
結果は全て――セレネが彼女を信じていたなら、可能な限りの安全策を取れるような提案が出来たのかも知れない。
魂などと未知の領域だからと言って、常識的にそんなことは不可能だからと言って、それは言い訳になどならない。
あの場で感情的にならなければ、論理的に考えられていたなら、少なくともクレシェンタが来るまで彼女を引き留めることは出来たのかも知れない。
少なくともクリシェには何かしらの確信があったから、それを行動に移したのだ。
だからこそ結果を持ち帰ることが出来た。
彼女にも必ず成功できるという確信があったとは思えなかったが、選択には常に、リスクがあるもの。
リスクがあったとしても、それと結果を天秤に掛け鑑みる時間くらいは作れたし、そのリスクを明確にしていれば、彼女を止める事は出来ずとも話程度は聞いてもらえたかも知れない。
――あるいは、それが自分の望みであったのかも、とさえ思う。
セレネが望んだ結果は、クリシェが彼女の死を受け入れてくれることでしかなかった。
セレネの中で、ベリーは既に死んだものだった。
全てを最適解に導けたとして、危険を冒してでもクリシェが彼女を助けたいと言ったとして、セレネに彼女を万全の状態で送り出せたのかと言えば怪しい。
やはりセレネは彼女も失ってしまう可能性を恐れて、それを止めただろう。
少なくとも、クリシェを失うリスクを受け入れられなかったに違いない。
そのためならば、ベリーは死んだままで良い、と自分は考えたに違いない。
「……どうして、あなただったのかしら」
もしもベリーがセレネの立場であったならば、どうだっただろう。
考えるほど、自分が汚らしく見えた。
ベリーではなくセレネであっても、きっとクリシェは助けようとしてくれただろう。
けれどベリーならばきっと、あんな状態でもクリシェを落ち着かせることが出来ただろう。
『――下らないことですよ。……いつぞや申し上げた通り、クリシェ様はそういう方ではございませんし……そういうところがわたしは大好きなのです』
クリシェが解法を見つけたならば、そのリスクを鑑みて――それでも最後にはきっと、自分の気持ちがどうであれ、セレネのために、彼女の望みのためにクリシェを送り出しただろう。
『もしわたしに何かあったら、クリシェ様の事、よろしくお願いしますね。……答えはいりません』
生まれた時からベリーを見てきた。
ずっと憧れてきた。
だから、確信を持って想像できた。
『――手探りで、不器用に、でも誰より一生懸命で……そんなクリシェ様に一生を捧げたいと思いました。……お許しくださいませ』
きっとあの時から、彼女はクリシェの全てを受け入れた上で、全ての選択を受け入れた上で、彼女を愛する覚悟を決めていた。
ベリーの愛には一切の濁りがなかった。
隠し名とはただの言葉。
けれど隠し名を――真名を捧げるとはそういうことなのだと思う。
そしてそんな彼女の真名であればこそ、そこに意味が宿るのだ。
クリシェが自分を愛してくれていることは、疑う余地ない事実であった。
セレネが危険な状態なら、ベリーが言ったように、クリシェは危険を承知で助けようとしてくれるだろう。
セレネも彼女を愛している。
けれどベリーのように、濁りのない愛であるかと言えば、違うのだ。
セレネのそれは単なる『愛情』でしかなく、クリシェやベリーのような、疑う余地のない『愛』ではない。
ベリーに感じていたどうしようもない劣等感は、そこから生じていたのだろう。
嫉妬しながらも仕方ないと受け入れていたのは、無意識に分かっていたから。
彼女がクリシェやクレシェンタの心を解きほぐす事が出来たのは、色んなものを与えることが出来たのは、その信頼を勝ち取ることが出来たのは――きっと、彼女であったからなのだ、と。
――クリシェ様のこと、お願いしますね。
セレネには、その言葉に頷く資格などない。
魔水晶の内側に宿る輝きはどこまでも美しく、それがベリーの魂なのだと言われれば、納得できるものがあった。
魂というものが存在するならば、ベリーの魂はどこまでも美しいものに違いないと、セレネにはそう思えたし、クリシェやクレシェンタのそれも、きっとそうなのだろう。
けれどきっと、セレネの魂はそうではない。
「……わたしは、あなたたちと違うの」
永遠を創るのです、とクリシェは言った。
誰にも脅かされることのない楽園――子供染みた理想の世界。
けれど、クリシェ達ならば必ずやり遂げるという確信があった。
クリシェの絶対は、文字通りの絶対だった。
避けられぬはずの死でさえ、彼女の絶対は乗り越えた。
だから、クリシェ達は楽園を手に入れる。
疑う余地なく絶対に。
それについて行ける自信などなかった。
清らかなるものが生み出す楽園の世界は、セレネにとって終わりのない地獄だろう。
これから先の永遠を、濁った異物として過ごすことなんて――自分は彼女たちと違うのだと、それを見せつけられながら永遠を過ごすことなんて。
それでも、彼女たちはセレネを愛してくれるだろう。
どこまでも純粋な、優しい愛で。
真綿でゆっくりと、セレネの首を絞めるように――いつか、セレネが耐えきれなくなるまで。
「……なんで、わたしはこんななのかしら」
漏らすと情けなさに視界が滲んで、顔を押しつけ枕を汚す。
自分がどこまでも情けなく、弱い人間に思えた。
ベリーならば、どこまでもついて行く、と返す言葉で言っただろう。
それが愛するものの願いであれば、彼女はきっと躊躇などしない。
どうして、自分はそんな人間でなかったのだろう、と思う。
どうして、そういう風になれなかったのだろう、と思う。
口から出るのはどうしようもない泣き言だけだった。
今すぐにでも死んでしまいたいくらいに自分が情けなく思え、何一つ胸を張って誇れない自分が、ただただ恨めしかった。
一日とはいえ城を空けたため、多少の騒ぎになっているかと思われたが、機転を利かせたエルヴェナが、クレシェンタは体調を崩し休んでいる。と伝えていたらしい。
転移の際に生じた光柱もあり、クレシェンタが何かしらのことを行っていたのではないか――と考える者もいるのかもしれないが、真夜中のこと。
衛兵程度しか目撃したものもいないし、報告には上がっているもののそれとクレシェンタを関連づけるものはそれほど多くはいないだろう。
半ば側付きであった使用人が死んだという噂は知れていたし、前日の欠席は騒ぎというほどのことにもならなかった。
いつものように政務を行い、屋敷に帰り、
「……まだ拗ねてますの?」
「……クレシェンタ、そういう言い方はしないで下さい。悪いのはクリシェの方です」
部屋に姉の姿がないことを見て取るとキッチンに。
トレイの上の食事をじっと見つめる、エプロンドレスのクリシェがいた。
食事はセレネのものだろう。手は付けられていない。
クレシェンタは近づくとスープの皿を取り上げ、机に腰を預けるとそのまま食事を口にする。
少し咎めるようにクリシェはクレシェンタを見たものの、何かを言うこともなく黙り込んだ。
少なくとも、今日セレネが食事を取ってくれないことは確かであった。
「おねえさまの手料理もなんだか久しぶりですわね。美味しいですわ」
「……温め直しましょうか?」
「平気ですわ。冷めた料理は慣れてますもの」
言って、食べ終えたカボチャのスープをテーブルに置き、クリシェの頬を撫でた。
温かい食事を日常的に食べるようになったのはクリシュタンドに来てからのことである。
食事は冷めていたが、王族の食事とはそもそもそういうもの、特に気にならなかった。
当然温かいものの方が美味ではあるが、この状況でわざわざそれを求める気にはならない。
「……クレシェンタにはわかりますか?」
「大体は。……別におねえさまを怒っているわけじゃありませんわ」
「じゃあ、どうして――」
「セレネ様は面倒くさい方ですの」
クレシェンタは言って、姉を引き寄せた。
それから椅子に腰掛け、クリシェを膝の上に。
「ああいう方には大体、ルールがあるのですわ」
「……ルール?」
「そう。貴族としての責務だとか、大義がどうだとか――そういうものと同じく。自分の中のルールがどこかにありますの」
彼女が首から提げた魔水晶を手に取り眺めた。
「誰にも知られなければ人を殺したって構いませんわ。殺した方が良いと思えるならばそうするべきでしょう。法の処罰は露見しなければ無効ですもの。……でも、多くの方はそうしない。人を殺すことが怖い、法を破るのが怖い、という臆病者はともかく、そうでなくともその選択を取らない方は多くいらっしゃいますわ」
弄ぶようで、愛でるようで。
クリシェはそんな妹の手を黙って眺めた。
「そういう方には決まって、自分の中にルールがありますの。社会的にどうであれ、必ず守ると決めた個人的な決めごと。……名に誓う、という文句もそうですわね。別に単なる口約束、破ってしまっても構わないはずなのに、仮にそれでどれだけ不利益を被ろうと多くの貴族はそれを守りますわ」
「……名に誓う」
「そう。場合によっては死さえも選び――あるいは、どれだけの苦痛を味わおうと、必ず守ると決めた何か、かしら」
お馬鹿ですの、とクレシェンタは言って、両の掌で魔水晶を包み込んだ。
クリシェからはその表情が見えなかった。
「もちろん、そのルールをどこまで守るかなんて個人差がありますし、その内容も様々。セレネ様があんな風になってる理由もそれが理由でしょう。……わたくしからすれば馬鹿馬鹿しいことですわ。くだらないことに拘ってますの」
「……クレシェンタ」
咎めるようにクリシェは名を呼び、事実ですもの、とクレシェンタは言った。
「……くだらない拘りですわ。単なる意地でしかありませんもの」
クレシェンタはそのまま、姉の首から魔水晶を紐ごと抜き取り、自分の首に。
クリシェが首を傾げて振り返ると、クレシェンタは続ける。
「おねえさまがここで考えたって、良くなることなんてありませんわ。セレネ様の所に行って、直接話せば済むのではないかしら」
「セレネの部屋、鍵が掛かって……それに、なんでベリーを」
「多分、着けてない方が良いですもの。それに鍵くらい勝手に開ければ良いのではなくて?」
「それは……」
「別に怒られませんわ。セレネ様はおねえさまに怒ってるわけじゃありませんもの」
クリシェは少し考え込んで、頷き。
それから、クレシェンタの膝の上から飛び降りる。
「……クレシェンタの言っている意味、ちゃんとわかっているかはともかく、ちょっとくらいわかります。……もう一回、セレネとお話してみます」
「ええ、行ってらっしゃいまし」
クレシェンタは微笑み言って、クリシェもまた微笑んだ。
「ベリーをお願いしますね、クレシェンタ」
何度聞いたかわからない言葉を繰り返すと、クリシェは小走りにキッチンを後にして。
残されたクレシェンタは、扉をしばらく眺めて、それから少し魔水晶を持ち上げ、眺めた。
輝きを放つその内側を、ただただじっと眺め続けた。





