真名
世界にはいくつもの次元が折り重なって出来ている。
物質的次元をベリーが読んでくれたような本の中――物語の世界だとするなら、そのページを捲るベリーやクリシェが存在する次元もあるように。
例えるならば、魔力はインクであった。
物語に何かを書き加えるように、魔力は世界そのものに何かを書き加え、改竄し、変質させて変更する。
物理的な法則というものは『今安定している一つの法則』に過ぎず、粒子の相関によって物質的次元を動かす単一の概念に過ぎない。
魔力というインクを使うならば、時間を止めることも、空間をねじ曲げることすら彼女には容易であった。
問題はそのインクを、誰がどうやって使っているのか。
それは物質的な存在ではない。
物語の住人が、自分の物語に何かを書き加えることがないように、それを行えるのが更に高次元の存在であることは確かだろう。
――多くの者が神と呼び、あるいは魂と呼ぶそれが、恐らくはきっとそうなのだ。
ふわり、と体は浮かんでいた。
リーガレイブが見え、魔水晶の岸壁のある窪地が見え、空が見え――物質的な世界を俯瞰していた。
その表現が正しいものかは分からない。見下ろしている訳ではなかった。
ただ、俯瞰しているという表現は正しいもののように思える。
少なくとも物質的次元より遥か高みから、クリシェは全てを眺めていた。
薄紅色の兎がいる、とそれを見つめる。
クリシェが先ほど殺した兎であった。
彼はまるで物質世界の大地へ潜っていくようにふわふわと漂い、その形を変質させる。
その形が溶けるように、薄紅の光を放つ球体に。
ああ、と思い出した。
この次元では自然と、体はそうなろうとするのだ。
両手足を眺めた。
紅色を帯びた半透明な体――その隅々にまで無数の青い魔力のラインが走り、形を整えていた。
紫色に変じた霊体は確かに自分の姿を保っていたが、見れば足の先にあった魔力が薄れて形が崩れかかり――すぐにそれを魔力で整える。
思考には靄が掛かっていた。
自分を保つ意思がなければ、あっさりとこの体はあの球体へと変わろうとする。
――いや、変わるのではなく戻るのだ。
そういう確信があった。
元々あのような形にあったものが、肉体という容器に形を合わせただけ。
それは自然の摂理であった。
魂とは液体のようなもので、本来形などはない。
瓶に詰められればその形で維持されるが、一度容器を失えばすぐに原形へと変わる。
霊質には緩やかに結合を保つ性質があるだけで、その形状は容れ物の形状でしかなく、無重力に水を浮かべたように球体を作るのは自然であった。
「――――」
前回もそうなろうとしていたのだ。
クレシェンタが肉体に魔力を送ってくれなければ、いずれあのまま原形に戻っていただろう。
リーガレイブから物質世界の肉体へと送られる魔力を感じ取り、大丈夫、とそのまま兎を追った。
――いつの間にか物質世界は見えなくなっていた。
兎を見ているといつの間にか、天も地もない世界は玉虫色に、様々な色が混ざり合った混沌に変わっている。
もはや自分の位置さえ分からず、自分の肉体に送り込まれる魔力――その感覚が無ければ帰り道すら分からない。
『――――、竜でさえその深奥にある何かには呑まれて消えるのだ。やめておけ。……これは友としての忠告だ、クリシェ』
きっと、竜もあんな風に球体へと変わったのだろう。
ただただ思考を保つ努力をする。球体になろうとする力は決して強いものではなかったが、けれど、どうしようもない心地よさがあった。
身を任せれば全部が消えてなくなるような、そんな心地よさ。
何も考えなくて良いという、どうしようもない誘惑。
――ああ、自分はどうしてここにいるのだろう?
ふと疑問を覚えて、霊体の首を振る。ベリーを連れ帰るためだった
一瞬の思考の空白が、思考を歪めた。
自分を保つ意思を持たなければならない。
両手足を眺めて、動かす。魔力を通し、霊質の体を再び青い曲線の檻で閉じ込めた。
兎であった球体は更に先へ。
それを追う。
方向感覚も無かった。
自分の肉体に注がれる魔力との位置関係から、地の底へ向かっているのだろうと当たりを付ける。
信仰によっては空の上に天国があるとされることが多い。
けれど本当は地の底にあるのだろう。
空の上にあるものは広大な物質的空間と他の星であった。
重力であらゆるものが大地に縛られるように、魂も大地に縛られるのだろう。
ふと周囲に目をやると、様々な球体が兎と同じ方向を目指して飛んでいた。
手足はなく、けれど人の形を未だ保つものもあった。
『墓の木札を考えないとね。紐はどうしようか。……二人の気持ちを考えると、おばさんは太い紐の方がいいと思うんだけれど』
賊の襲撃でグレイスとゴルカが死に、ガーラはそんなことを尋ねた。
村の風習――死人には墓として、木札を紐で木々に結びつける。
『……?』
『クリシェちゃんは初めてだったね。木札に繋ぐ紐は、亡くなった人の魂を繋ぐためのものなんだ。太い紐にすれば、きっと二人の魂はクリシェちゃんをこれから先もずっと長く見守ってくれるだろう』
繋ぐ紐が切れるまでね、とガーラは言った。
『逆に切れやすい細い紐は、亡くなった人の魂が未練無く、早く来世に生まれ変われるように。クリシェちゃんはまだ小さいから、太い紐を編む方が良いかと思ったんだ』
『ん……クリシェは一人でも大丈夫なので、細い紐でいいです。かあさまやとうさまには心配しないで、早く旅立ってもらった方が――』
――未練があると魂はちゃんと旅立てない、とそんな風にガーラは言った。
兎や獣には未練が無いから、それを考える思考能力がないからすぐに球体に。
逆に、人の形を保った彼等は、もしかすると死んだことに未練があるのかも知れない。
ここにいるということは死んだと言うことで、けれど球体に変わらず自分の形を維持している。
きっと、何かのことをずっと考えているのだ。
今いる場所よりずっと遠く――恐らくは地表付近だろう。
そこでも沢山の霊体が見えた。
それと同じく、周囲の数個が、溶けるように形を崩した。
身を任せたのだろう。
幸せなことなのかも知れない、と考えて――どこか怯える感情があった。
何に怯えているのだろう。
疑問に思って、
『――――』
気付いて、名を呼んだ。
――彼女は、どうなのだろう。
もしかしたら、その形もなくなっているのかも知れない。
だとすれば、自分はどうしたらいいのだろう。
そうなれば、どうしようもないと気付いていた。
考えないようにして兎を追った。
また手足の先が溶けようとして、意思を保つ。
聖霊の窪地。
ネグリジェが汚れることも構わず、女王は膝を突いて目を閉じ、横たわる少女の体にただただ魔力を流し込む。
背中には青き光が四対の翼のように光っていた。
単に、翼のように見えるだけ。
翼を構成するのは極めて緻密な魔術式。
青く精緻なラインの常軌を逸した密度が翼のように見せているだけだった。
その翼から青い幾何学曲線が周囲の空間に編み目のように展開され、窪地の全てを満たしていた。
時折、硬質な音が響いて巨大な魔水晶の固まりが砕け散り、そこに繋がるラインから翼へ、翼から少女の手へと集約される。
少女は何も言わず、竜も何も言わなかった。
居合わせたクレィシャラナの戦士達も何かを口にすることは出来ず、いっそ幻想的な光景をただ眺める。
――それは彼等がアルビャーゲルに住み着く前の、古き創世神話の一つであった。
創世神はその絶大なる力を使い多くの神々を生みだし、大地と空を創り出し、そしてそこに住まう、竜を含めた生物達を生み出した。
人間とは創世神の僕であり、神に近しい存在。
空を自由に飛ぶ翼を持ち、永遠の命を持つ天の使いであったが――様々な理由で地に堕とされたものの末裔が人間であるとされ、故に神の住まう天へと戻れぬよう、永遠の命と共にその翼は失われた。
ありふれた物語。
部族が群雄割拠する時代には、それに似た神話が多くあった。
アルベランにおける創世神話も近しいもので、クレィシャラナがアルビャーゲルではなく平地にあった頃は同じような神話を信じていた。
大抵は時代もあったのだろう。
武によって関連付けられ、戦場で剣を手に死んだ勇者達は、死後に許され神の国へと戻される、という教義が多い。
クレィシャラナでは聖霊信仰へと置き換わり、神に等しき竜の力からその信仰はもはや形骸化していたが――目の前で起きているそれは、その薄れた神話を思い起こさせるには十分なものであった。
魔力を束ね翼を手にした少女の姿――その神々しさは、眠る少女の見せた武と同じく、まさに神話の如くであった。
伝承にあるような存在として、十分な美と見る者を圧倒させるような説得力を持ち合わせている。
アルベランとは、神の子を示す言葉であった。
驕り高ぶったその名にしかし、少女の姿はどこまでも相応しいものがある。
歴代のアルベラン王はどうであれ、少なくともこの女王クレシェンタがアルベランを自称することに異を唱えるものなどどこにもいないだろう。
羽音が響き、グリフィンに乗った少女が彼等の側に降り立った。
胸と腰に布を巻いただけ――飾り気はなくとも美しい少女。
女と呼ぶべき年齢ではあったが、彼女は今でも幼く見えた。
リラ=シャラナはこの光景と言葉一つ発さぬ男達を見て、そして聖霊に。
それから女王、クレシェンタに視線をやる。
「……あの、女王陛下」
「少し、静かにして下さいまし。おねえさまが死にそうですの、気を散らしたくないですわ」
はい、とリラは頭を下げ、兄に目をやる。
兄は真剣な顔で頷き、リラはその隣に行って黙り込む。
近頃は少し、リラとの会話も増えた聖霊も何一つ言葉を発することなく、自分の眼前の少女を眺めていた。
であれば、リラも黙って少女を見つめる他なかった。
そしてクレシェンタにも余裕はなく、考えられる限りの事態を想定し、探り、魔力をクリシェの体に送り込む。
前回、どのようにしてクリシェが帰ってきたかなどクレシェンタは知らなかった。
魂という概念自体彼女は知らなかったし、理解もない。
ただ、憶測に憶測を重ねて魔力を送る。
『……決して、ご自分を責めないでください』
その言葉だけが、彼女の頭を満たしていた。
進んで行けば――玉虫色の空間を抜ければ。
そこに見えたのは目映い光。
天地の果ても見えない広大な空間と、とてつもなく巨大な球体であった。
いや――巨大、と表現することも難しいだろう。
少なくともクリシェは竜や山をそう捉えたことはあっても、自分が普段足を着いている天体を巨大と表現したことも、そう考えたこともない。
それは有って当然の大地であって、巨大などという言葉で表現するものではないのだ。
ただ、途方もないもの。
空に浮かぶ星や月、太陽の如き天体を間近で見たならば、そのように思うのかも知れない。
その全貌すらをクリシェには眺めることも出来ず、それが持つその魔力の総量は一目で計り知ることも出来ない。
人の魔力と竜の魔力を比べることが愚かであるように、それ以上に。
ここにあるのは竜の魔力と比較にさえならない、根源的な力そのものであった。
無数の、夥しい数の魂が、そして漂う魔力がその巨大な球体の周囲を回っていた。
引き寄せられるように、吸い込まれるように。
そして同時に、そこから小さな飛沫のように莫大な魔力の流れと魂が吐き出され、遠くへ流出していく。
それを眺めることで、少女は全ての理屈を理解した。
結晶化しなかった魔力は引力によってここに導かれ、そして同時に、飛沫のように飛び出した魔力が大気に滲む。
魂もまた引力によってここに導かれ、飛沫のように飛び出して新たな容れ物へと宿っていく。
巡る輪廻――そしてここが、その全ての終わりと始まり。
人が神と空想する、途方もない力そのもの。
――根源、であった。
もはや兎を追う必要もなく、流れに任せて漂い始める。
同じように漂う魂は万などと言う単位ではない。
大小合わせ億を優に超える夥しい魂が、この根源の周囲を漂い、周回していた。
――徐々に根源へと近づきながら。
そこから一つを探し出すことなど、砂漠の中から一粒の金を探り当てるようなもの。
不可能とはそのような事例を指すものであろう。
ただ少女は、世界における一つの異常であった。
途方もない数の魂――それが周回する規則性から明確な法則を割り出していく。
天文学者が星の軌道を算出するによく似ていた。
ただ、長年の試行検証さえも彼女には必要なかった。
億を超える魂から、相対速度を一目で割り出し、確定させる。
周囲数千万に及ぶ魂を認識し、その中から飛沫として外に向かう魂を排除し、周回し根源に向かう魂だけを捉え、ここに来てからどれだけの時間周回しているかを精査、算出する。
法則が存在するならば算出すればいい。
少女には当然の作業であって、計算で弾き出される答えなどあってないようなものであった。
周囲の魔力を掌握し、創造するのは無数の頭脳――魔力演算術式。
それによって新たな演算術式を生み出させ、生み出された演算術式は新たな魔力演算術式を生みだし、ねずみ算式に少女の周囲に適した環境が出来上がる。
計算に時間を食うならば、計算処理を行える頭脳を創り出せば良い。
瞬く間に天文学的な計算作業を同時並行処理し、解を容易く弾きだし――彼女に取ってはこれほど簡単な事もなかった。
一つの文明が莫大な年月を積み上げてようやく得られる問いの答えでさえ、彼女には軽く手を伸ばせば届く程度のものでしかない。
障害にすらなり得ない。
それが、明確な答えのある問題である限り。
――自分が戦場に出た日の内に、彼女は亡くなったのだと聞いていた。
その時間に魂が体を抜け出たとするならば、そこから逆算すれば位置の特定は容易い。
問題は前提となる時間の曖昧さと、現在位置の曖昧さ。
もはや、自身の肉体に注がれる莫大な魔力も微かなもの――遥か遠くであった。
「――――?」
感じる魔力が変わっている。
その魔力の質は彼女がよく知るもので、けれど名前が出てこなかった。
恐らく妹であった。
疑問に思って首を傾げ、いつの間にか自分の名前さえ分からなくなっていることに気付く。
――まぁいいです、とそのまま進む。
途方もない魔力を容易く掌握し、根源の周囲を周回し、探さなければ、と周囲の全てを観測する。
誰を探しているのかすら曖昧だった。
ただ、探さなければならないのだ。
周囲にあった無数の魂。
その内のいくつかが自分の周囲から逃げていき、いくつかが迫ってくる。
手もないのに、まるで何かを振るうように、霊体を操り、ぶつかり、弾けるように霧散した。
「――?」
それを意に介することなく数十、原形を僅かに保った魂がこちらを目掛けて飛んでくる。
まるで槍で突くように、剣を振るうように。
ぶつかり弾け、少女は首を傾げつつ迫るそれを掻き消した。
どこまでも脆い何かであった。
触れるだけで崩れて飛沫に変わる。
けれども少女の霊体も丈夫ではなく、ぶつかる度に気持ちの悪い揺れが内側を満たした。
いい加減に嫌になって、小さな飛礫を無数に作り、迫ってきた全てを撃ち抜き、掻き消す。
掃除が終わって、ああ、と両手を眺めた。
これまでずっと、同じようなことをやってきたような気がして、うんざりしていた。
そして今の一瞬で、自分が何をしようとしていたのかさえ忘れて。
このままふわりと溶けてしまいたい感覚があり、それを押しとどめて周囲を探る。
当てずっぽうにこの付近、と考えながら、何を探しているのだろう、と改めて考えた。
見つければ絶対に分かると思って、けれど何一つ当てがない。
何をどうすれば見つけたと分かるのかとまた首を傾げ、もういいのではないかと溶けたくなり、大きな何かに近づくほどにその気持ちは強まった。
そこに入ればとても楽になれるように思えた。
何も考えなくて良いのだ。
なのにどうしてこんなに、必死で、うんざりしながら何かを探しているのだろう。
「――――」
もっと幸せなのだ、と少女は否定する。
見つければ、連れ戻せば――そこに自分の欲しい全てがあるのだ、とただ思う。
『……少しずつ、わたしと色んな――様を見つけていきましょうね』
そう、見つけないといけない。
『わたしと……これからもそうやって、ずっと一緒にいて頂けたらと思います』
そういう約束だった。
ずっと、自分は彼女と一緒にいるのだ。
思い出せない名前を呼んだ。
声は聞こえない。ただ、記憶の中で呼んでいたように。
何度も繰り返して名を呼んだ。
忘れていても、彼女が探しているものの名前だった。
繰り返し、繰り返し。
それからふと、一つの魂に目を留めて、近づく。
――他とは違う魂だった。
その魂の全てを幾重にも、極めて精緻な魔術式が覆っていた。
少女もよく知る術式だった。
世界を隔てて時間を止める、ただそれだけの魔術式。
その術式の上から更に覆うように、時間を止める魔術式が幾重にも。
その魔力は彼女もよく知っていた。
よく知っていた誰かのものだった。
中にある薄紅色の魂は、全身に刻まれた魔術式と共に紫を帯び、完全な姿を保っており。
それは少女が探していたものであった。
――きれい、とただ告げる。
何億と見て来た魂の中で、その一つだけがどこまでも輝いて見えた。
薄紅色の体へ刻まれた極めて精緻な青いライン。
透けた薄紅と混じり紫色の霊体は、少女が見慣れたままの姿で膝を抱いていた。
彼女を包む殻のような時間停止の魔術式――そこに小さな穴を開け、少女はするりと入り込む。
そして彼女を傷つけないよう、手を包んでいた魔力を消して、手を伸ばし、
「――?」
けれど彼女の体に触れようとすると、強い反発があった。
伸ばした手が霧散し、慌ててそれを集めて元に戻し、戸惑って。
どうするべきか分からず、思い出した名前を呼ぶ。
反応はなく、彼女は膝を抱いたままこちらを見ることもなく。
何度も呼んで、途方に暮れて、どうしようかと考えて。
しばらくすると諦めて、彼女の側に寄り添った。
きっと気付いてもいないのだろう。彼女はずっと眠ったままなのだ。
それでも少女は幸せだった。
――ずっと一緒。
約束は守れて、それだけで良かったのだ。
このまま一緒にいられるなら、一緒に溶けてしまうのも良いかも知れない。
ずっと一緒は変わらない。
『……ベリーは、――――が人を怖がらせたりするのは嫌ですか?』
『正直に申し上げれば……そうですね。好きではありません』
もうベリーの嫌がることはしないし、やらなくてもいいのだ。
『――でも、――――様が好きでそうしているわけではないことを知っておりますから、大丈夫ですよ」
優しいベリーとずっと一緒に、ベリーのように。
同じように膝を抱いて側に身を寄せ、微笑んだ。
けれど本音を言うならもう一度、忘れてしまった名前を呼んで欲しかった。
柔らかい愛情に満ちた彼女の声で。
お帰りなさい、とただそれだけ、そんな言葉が欲しかった。
もう一度名前を呼ぶ。
彼女は反応せず、目を閉じたまま。
困って、けれど他に手段もなくて。
『――貴族というものは生まれた時に、秘密の隠し名を両親からつけてもらいます。……口に出すのは初めてで、両親は既に亡くなっておりますから、知っているのは――――様だけですね』
まぁいいです、と諦めようとして――
『はい。大した意味はございません。ただの言葉で、わたしの小さな秘密です』
そんな言葉を、ふと思い出した。
ただ、――――様と二人だけの秘密を作ってみたいと思ったのです。
彼女は言って、一度だけそう呼ぶことを望んで。
二人だけの秘密の言葉、秘密の名前。
『……その真名をこの身と共に、あなたに全てを捧げます』
愛を伝える、ちょっと古い作法の一つ。
それは、なんとなくの気まぐれだった。
彼女が反応してくれないから、気付いてくれないから、少しムキになって、ただそれだけ。
それは、彼女が捧げてくれた大事なもので、少女が己の生でようやく手にした幸せの象徴であり。
――リプス。
意図はどうあれ少女は一言、確かに、愛おしげに彼女の名を呼んだ。
返事を期待してなどいなかった。
側にいることを伝えたくて、知って欲しくて、ただそれだけで――だからこそ、
「――――」
その唇が柔らかく、寝言のように口ずさむ、返ってきた声なき声に。
その単語が奏でた例えようもない愛情に、少女はただただ目を見開いて。
何も考えずにただ、溢れた感情を押し重ねた。





