永遠の雛鳥
一国の王でありながら護衛すら引き連れず。
月明かりに赤い黄金を棚引かせ、薄いピンクのネグリジェを身につけたまま、クレシェンタは翠虎の背中を叩いた。
「……あっちですわ」
姉がどこに行こうとしているのか――分からなかったが、少なくとも何かをしようとするなら大量の魔力を要するだろう。
地下の実験室を先に見て回り、次に向かうのは工廠であった。
翠虎の硬い毛を掴み、王領から一級市街の屋根へ。
「っ……」
――そこで目にしたのは工廠から天へと伸びる光の柱。
膨大な魔力が立ちのぼる様子であった。
何が――と考えるまでもない。
それを行ったのが姉の他ないと理解していた。
遠目からそれを睨み付けるように、その魔力の意味を読み取る。
僅かな時間でも無駄にしたくはない。
若干の不安はあったし、予想もしていた。
とはいえ、想像よりもずっと状況は悪い。
まるで、積み木の根元を引き抜いたように。
クレシェンタの周囲を保っていた様々なものが、音を立てて崩れていくような感覚。
それだけは避けなければいけなかった。
『……決して、ご自分を責めないでください。結果がどうであれ――クレシェンタ様の選択は、決して責められるべきものではないでしょう』
『あなたって本当、どうしようもないですわね。……今から死ぬのに、人の心配かしら?』
『ええ。わたしが死ぬのであればこそ、でしょうか。……わたしはクレシェンタ様を心の底から愛しておりますから』
――クレシェンタ様がわたしを愛して下さるように。
思い返して、ああ、と思う。
全部が狂ってしまったのは、あれからだった。
あの使用人が体を病んで、それから全てが狂ってしまった。
「……、あなたのせいですわ」
胃の中でぐるぐると、重たいものが渦巻いていて。
吐き出したくても吐き出せないものが溜まっていって。
やつれた顔が思い浮かんで、苦しみ歪むその顔が思い浮かんだ。
『……仮に持つとしても、あなたは何年待つつもりなのかしら?』
『もちろん、クリシェ様が望む限りに何十年でも』
『今より酷い生活が続いても?』
『考える余地もありませんね。……わたしは誓っておりますから』
そして、そんな笑顔も。
終わらせてやろうと思ったのか。
それ以上見たくなかったのか。
明らかに死にかけた姉が、危険な研究に向かうのが心配だったからか。
理由なんて自分の中でもあやふやだった。
ただ、それ以外に選択肢などないように思えて、だから――
「じょ、女王陛下ッ!?」
「ネイガル様、おねえさまは?」
無数の屋根を飛び越え、城壁を越えて。
王都外の工廠まで辿り着くには翠虎の足ならば小半刻も掛からない。
外の平原――歪な壁に囲われた工廠では馬に跳び乗ろうとしていた工廠責任者、ネイガルの姿。
彼はクレシェンタを認めると、慌てて今乗った馬から降りて膝を突く。
「挨拶はいいですわ。状況を」
「は! 先ほど来られて……魔水晶を使うと言って、突然――」
「どこですの?」
「っ、あちらです!」
寝起きなのだろう。
寝癖のついた髪、顔には困惑がありありと浮かんでいた。
それでも彼は寝巻き姿のクレシェンタに火急の用だと理解していたためか、すぐさま走り出し大きな倉庫の方へ。
クレシェンタは翠虎をそのまま帰らせ、それに続く。
そこには見上げるほどに積まれたバゥムジェ=イラ用の低純度魔水晶。
文字通り小山のような備蓄があったはずだが、しかし、その三分の一が消失していた。
「女王陛下――」
「少し黙っていてくださいまし」
消費された魔水晶は尋常な量ではない。
四方半里もあるこの大倉庫に積まれていた魔水晶は、国が年単位で買い集めたもの。
低純度とはいえクリシェやクレシェンタがその気になれば、消失した魔水晶だけで城郭都市一つ容易く消滅させられる。
その金銭的損失などはどうでも良かった。
それだけの魔力を使って、姉が何をしたかだけが知りたかった。
光の柱はここに間違いない。
周囲の魔力には空間を湾曲させる術式の名残――遠目に見たものと一致している。
「おねえさまは何か?」
「……古竜様のところに向かわれると」
「……空間転移、かしら」
クレシェンタは腕を振るうと周囲の魔水晶を適当に砕き、魔力と不純物に変える。
低純度な魔水晶には色々と混じり、術式を刻むには多少手間があるものの、単に魔力へ変えるだけならば何ら問題はなかった。
クレシェンタは竜の正確な所在を知らない。
ここからアルビャーゲルまでの正確な距離も分からなかった。
けれど近くに飛べさえすれば良いだろう。
空間転移などしたこともなかった。
やり方も分からない。
ただそれはこの場で編み出せば良いだけだった。
生まれながらに手にした叡智。
『ここでさえも役に立たない』のなら、それに価値などないだろう。
踊るようにスカートを揺らし、金の髪は赤に煌めきふわりと舞った。
くるりと回る彼女の姿は一種の舞か何かのようで、それに応じるように魔水晶が硬質な音を響かせ砕け散っていく。
青い光はまるで妖精の如く、少女の周囲を踊り、宙空へと優美で、しかし夥しい術式を刻み込んでいく。
その幻想的な光景にネイガルは目を奪われ、そしてすぐに閉じた。
少女の周囲からは次第に、目を開けていられぬような光が放たれ――そして、
「っ――」
体が吹き飛ばされんばかりの暴風が渦巻き、二度目の光柱が天へと伸びた。
――アルビャーゲルの禁域。
戦いの名残が残る溶岩の跡、遠くには削れた山。
巨大な窪地には一人と一柱。
月夜に身を起こす巨大な獣――竜を前に銀の少女は歩み出た。
ネグリジェ姿で手に掴むのは、暴れてもがく兎が一羽。
『我には保証しかねる頼みだが。別段魔術に長ける訳でもなし、お前のように細かい操作は不得手だ』
「魔力を供給してくれるだけでいいです。とりあえず、ベリーを探しに行くのに沢山魔力が要りそうですから、リーガレイブさんにお願いしているだけで」
銀の髪の少女は、月明かりに紫の瞳を輝かせ。
リーガレイブは目を細め、少女を眺めた。
『竜の多くは戦いで死んだが、それ以外で死んだ者もいくらかいる』
「……?」
『お前のやろうとしていることがそれだ。魔術に興じた竜達は、疑問と探究心から世界の深奥を探ろうとし、そしてそのまま帰ってこなかった』
その塔のような首を伸ばし、その巨大な顔を少女の前に突き出す。
『あの小さきものが我の魔力に呑まれたように、竜でさえその深奥にある何かには呑まれて消えるのだ。やめておけ。……これは友としての忠告だ、クリシェ』
魔力を揺らして語りかけた。
『お前は我等と同じく、永劫の時を刻めるであろう。そしてそれを味わえば、今行おうとしているそれがどれほどの短慮であるかを理解が出来る。お前が執着するあの小さきものも、高々十数年を共にした程度――数千年の歳月から比べれば、瞬きのような時間のことでしかない』
「……瞬き」
『左様』
断続的に魔力を震わせる。
『我等にも若い頃があった。同じように、些細な事に喜び、恐れ、怒り、悲しむ時期もあったが、それも今は遥かな過去。時折思い出しては楽しむ、そのような記憶の一部でしかない』
――お前のそれも、いずれそうなるものだ、と。
リーガレイブはそう続ける。
『だからこそ、そのような短慮でお前のようなものが失われることは残念に思う。お前の心中は察するが、いずれは――』
「時間じゃないです。……ベリーはクリシェと約束したんです」
遮るようにクリシェは言った。
「クリシェの帰りを待ってるってベリーは約束して、ずっと一緒って約束して、クリシェがうんざりするくらい一緒にいる、って」
クリシェを悲しませることは絶対しないって言いました、と。
記憶にある言葉をただ紡ぐ。
「クリシェ、まだお帰りも言ってもらってません。でも、クリシェがまだ全然うんざりもしてないのに、ベリーは約束を破ったりはしません。クリシェの帰りが遅くて、ちょっとお出かけしちゃっただけです」
だから連れ帰ってくるだけなんです、とクリシェは言った。
瞳だけが月明かりに、狂ったように輝いていた。
「ベリーは絶対、クリシェと一緒なんです」
幼子のように純粋で、けれどやはり、それは狂気と称するべきだろう。
彼女はその潔癖なまでの純粋さに、僅かな濁りすらを許さない。
常人が持つ僅かな迷い一つもなく、ただ自分の欲求に貪欲であり続ける。
「これから先もずっと、永遠に、クリシェはこれから先もずっとベリーと一緒なんです」
彼女は永遠の雛鳥であった。
初めて目にしたものを追い続ける、永遠の雛。
空を自由に舞える翼を手にしても、あらゆるものを切り裂く爪を手にしても、全てを飲み込む嘴を手にしても、彼女は巣立たず、自由を求めず。
「……何百年だって、何千年だって、何万年だって、クリシェはベリーに一生うんざりなんてしませんし、ベリーはちゃんと、クリシェとの約束は守ってくれるんです」
世界の覇者になれるだろう。
この世全てにその翼で嵐を起こせるだろう。
けれど彼女が求めるものは、どこまでも優しい小さな鳥籠。
美しいものだけを閉じ込めた、自分だけの小さな檻。
どれほど優美で強大な体を持とうと、彼女にとっての己は雛であった。
「クリシェと一緒にいてくれるんです」
一切の瑕もなく、完全として生まれ、何かを求めて鳴くことすらもなかった赤子は、己に生じた瑕を埋めるただ一つだけを求めて鳴いていた。
完全として生まれたからこそ、鳴いていた。
「クリシェはこれから先もずっと、ベリーのなんです」
少女の完全に瑕を作り、そこに入り込んで埋めたのは彼女であったから。
リーガレイブはその赤紫の瞳で少女の顔を眺め、目を閉じた。
不思議と人間染みた、呆れたような仕草に見えた。
『あの小さきものの死に、我とお前の約定が関わりないとするのはいささか無責任であろう。――望むのなら止めはせぬ。協力もしよう。ただ友として、お前の無事を願っておるよ、クリシェ』
クリシェはリーガレイブを見上げたままにこりと笑い、腕を振る。
リーガレイブの背後にあった魔水晶の岸壁が瞬時に削り取られ、魔力へ。
空を満たすほどの青い光が少女の体に纏わり付いた。
そしてその手に掴んでいた兎の首を無造作にへし折り、その場に横になって目を閉じる。
少女の肉体を包んだ魔力は少女を包んだまま、狂気に等しき膨大なラインを描き出し、凝縮され――そして、ふとその動きを止めた。
リーガレイブはそれを眺め、それから随分と西の空に目をやる。
上空から彼女が現れたときと同じく、光の柱がそこに生じていた。
「……何故クリシェ様とアルベランの女王が?」
「俺に聞かないでくれヴェルヴァス。クリシェ様とその妹君……光の柱はそれが原因だろうが」
ヴェルヴァスの言葉にヴィンスリールが首を振る。
現れたのは禁域の守手ヴェルヴァス、そしてクレィシャラナの戦士長ヴィンスリールと他数名。
天から生じた光の柱――それを認めてすぐにグリフィンを羽ばたかせたのであった。
しかし異常に気付いたクレィシャラナの戦士達が到着したのは、後に現れた少女よりも後のこと――彼等は動揺していた。
魔力を翼のように変えて。
二本目の光の柱――西の空から莫大な魔力を使い、文字通り飛んで来た少女は放たれた矢の如く彼等を追い抜き、竜の所へ既に辿り着いていた。
天の柱、グリフィンに乗るでもなく空を飛ぶ少女。
それもアルベラン女王である。
異常と呼ぶには十分過ぎる事態であり、聖霊の所には二人の人物。
アルベラン王国女王クレシェンタと、横たわる王姉クリシェである。
二人ともこのような場所にあるにもか変わらずネグリジェ姿――様子は剣呑で、ヴィンスリールが以前見た女王の雰囲気とは大きく異なり、彼女は感情を露わにしていた。
「どうして止めませんでしたの!!」
『止めはしたが、意思は固かった』
「っ……」
クレシェンタは苛立たしげにリーガレイブを睨み付け、告げる。
「……この蜥蜴、おねえさまが帰ってこなければ覚えておくといいですわ。わたくしが殺して差し上げますから」
少し離れて着地しようとしていたヴィンスリール達はぎょっと顔を見合わせる。
あまりに不敬な暴言であった。
ヴィンスリールは一層、以前見た彼女の印象との乖離を見て警戒を強める。
ヴィンスリール達に気付いていないはずがなく、その上でこの様子。
彼女は感情的になっていた。
そして一目に、尋常ではない魔力をその体に纏っている。
いつぞやのクリシェの戦いを思い出せば。
そしてこの少女が先ほどグリフィンを追い越したところを見れば、アルベラン女王があれに近しい力を持っているであろうことは容易に想像が出来た。
ヴィンスリール達は目を見合わせ、しかし当の聖霊は愉快げに、断続的に魔力を揺らして目を細める。
『愉快なことだな。しかし、丁度良い。お前が代われ、クリシェと同じく魔力の扱いには随分と長けるようだ。多少戻ってくる可能性も上がるだろう』
「……言われなくても、あなたになんか任せられませんわ」
そしてクレシェンタも、それ以上何かリーガレイブに敵意を向けるでもなく、息をつき、目を伏せた。
汚れることも厭わず、少女の側に膝を突くとその手を当て、彼女の体に魔力を流して整える。
先日と同様、心臓は動いている。
しかし彼女の体には魔力の動きが一切無かった。
「……おねえさまは、算段があると?」
『そのように聞いた。あの娘は全てのものに宿る、魂なるものを見いだしたそうだ』
「見いだした?」
クレシェンタは眉を顰め、
『後はあの小さきものからそれを抜き出し、新たな体に移し変えるだけだったそうだが――その前に死んだのだろう?』
硬直し、リーガレイブを見上げた。
その瞳を不安定に揺らしながら。
「……おねえさまが、そう言ってましたの?」
『聞いておらぬのか?』
目覚めた時、随分と上機嫌そうだったクリシェのことをふと思い出して、
『えへへ、ありがとうございますクレシェンタ。クリシェ、今度は失敗しません。ようやくクリシェ――』
クレシェンタは呆然と口を覆った。
リーガレイブは返ってこない言葉を待たず、そのまま続ける。
『獣を殺して、その魂の行く先を追いかければ、あの小さきものが向かった場所に辿り着く――しかし、あの娘にある算段はそこまでだろう』
落ち着いた響きで淡々と。
『あの娘が向かった先は恐らく、竜ですら帰ってこられなくなる場所だ。そこであの娘がその身を保てるかどうか、その魂とやらが見つかるかどうか、残っているのかどうか、そこから無事に帰ってこられるかどうか――』
リーガレイブはその身を伏せて、目を閉じた。
『我が軽く考えるだけでも問題は多分にある。あの娘が無事に戻ってくるより、我とお前が殺し合う可能性の方が高かろうな』
それを聞くクレシェンタは、
『……決して、ご自分を責めないでください』
自分が殺した、そんな使用人の言葉を思い出して、
『結果がどうであれ――クレシェンタ様の選択は、決して責められるべきものではないでしょう』
言葉もなく、ただ固まっていた。





