凍った激情
木々の生い茂る樹海――行軍出来るほどの道は限られる。
小路に分かれて軍を進ませながら連携を密に。
互いの先頭が衝突したのは森に入って二日目、日が傾き始めた午後。
馬車が辛うじてすれ違えるような、そんな道の途上であった。
指揮官自ら先頭に立ち、棍の如き大鉄槍を振り回し敵をなぎ倒すは虎面をした銀鎧。
その甲冑を真紅に染めながら敵の肉を貪り喰らい、その場に生じるのは一方的な虐殺であった。
王国で――周辺世界を全て含め、最も精強なる第二軍団を前にすれば当然のこと。
コルキス率いる第二軍団の前に立てるものは、同じく地獄の鍛練を積んだ兵士以外に存在しない。
遭遇戦の結果としては疑問の余地なく当然であり、しかしだからこそコルキスは違和感を覚えた。
「軍団長! カーナリウス将軍が後退指示を」
「……早いな」
――同じことを考えている、とコルキスは当然のように断定した。
第二軍団が正面衝突で打ち勝つのは当然の結果。
ただこの状況で、その当然はあまりにも考えがたい。
あまりの歯応えのなさに、コルキスもまた違和感を覚えていたのだ。
コルキスが頼るのは常に思考ではなく、経験からの直感であった。
これまで蓄積された莫大な経験――そこから弾き出される答えは何よりも早く、何よりも正しい。
立ち止まって頭を捻って出した答えが百点満点のものとするならば、直感的な判断は良くて精々七十から八十。
だが、戦場で重要なのは早さであった。
遅きに失した百よりも、思考の時間を削った七十。
仮に三十が足りないならば、それは軍の練兵で補えば良い。
それがコルキスの長年積み上げた、単純明快な戦術論であった。
コルキスは己の頭脳に信頼を置くことはついに出来なかったが、英雄クリシュタンドに剣として、盾として頼られ、戦い抜いた己の経験だけは疑わない。
実力はノーザンが上回る。
武人としてもコルキスが上だろう。
防衛ならばテリウスに、頭脳ならばエルーガに負ける。
英雄ボーガン=クリシュタンドは優れていても、決して最強の将ではなかった。
されど一点、抜けたところがあるとすれば、それはまさにその目であろう。
人の能力を見極めることに掛けて、ボーガンの上に出るものなどいない。
鋭き鷹のような眼光は、敵だけではなく配下一人一人を冷酷に評価する。
人民から慕われる英雄クリシュタンドは、戦場においては一切の慈悲もない、病的なまでの実力主義者であった。
そんなボーガンに選ばれ、己に与えられた軍団長の地位。
第二軍団はコルキスの誇りそのものであり、己の直感を信じることはまさに、自身を選んだボーガンを信じることに等しい。
今は亡き主君の目に一切の狂いはないと信じるそれは、まさしく狂信の類であり、そしてそれ故に一切の躊躇もなかった。
眼前の敵兵を薙ぎ払い、穂先を天に。
穂先を揺らして合図を送る。
声を張り上げるでもなく、ただそれだけで配下達は動き出した。
接敵から小半刻も経っていない。あまりに早すぎる後退の指示。
しかし声を張り上げ指示を出す必要もない。
軍団長であるコルキスが合図を送れば、兵士達は疑念など欠片もなく指示に従う。
第二軍団を無敵にするのは、偉大なる戦士コルキスへの狂信というべきもの。
疑う余地なく、指示一つで死兵にもなる。
第二軍団は主従を含め、皆が皆狂った戦士の軍団であった。
狂気に満ちた第二軍団との正面衝突。
一息の間に崩壊した敵先頭の残骸を眺め、第二軍団は反転、後方に。
まさにそれは一切の迷いも無い判断が為し得たものだろう。
「やはりな、来ると思ったぞ!」
――第二軍団の分断を狙っていた獣の横撃は、読みを外して銀虎の真横から。
道の脇の森から音も無く飛び出した、魔獣の如き怪物。
身の丈近い巨剣を振り回すレド=ラーニを、まるで予知したかのようにコルキスは回避する。
「――ッ」
静かな舌打ち。
素肌を晒した軽装――ヴェーゼの狩人はしかし、その想像を絶する反応に対して動揺を浮かべなかった。
左から横薙ぎに振り回した巨剣。
それをその慣性のまま振り抜くと、後方へ跳躍して回避したコルキスの側面へと滑るように踏み込む。
滑るように、ではない。
事実、その巨剣の遠心力に身を滑らせ、その体からは一瞬体重の全てが消えていた。
初見であれば反応も出来ぬ動きだろう。
相手が名だたる猛者であろうと続く二閃目は避けられない。
奇襲という条件が噛み合えば、それは必殺の刃であった。
「温いッ!!」
――だが、眼前にあるのは名だたる猛者などという存在ではなかった。
ただ一人を除けば王国――周辺世界に一の戦士であろう。
コルキス=アーグランドは大鉄槍の柄をしならせ、続く切り上げに対し、その巨剣をかち上げた。
総身鋼、先端には小剣のような切っ先。
石突きはもはや騎兵槍のそれ。
常軌を逸した大鉄槍を小枝のように操り巨剣をかち上げれば、間髪入れずに放たれるは石突きでの刺突であった。
レドは咄嗟に身を捻り、そして巨剣の遠心力を利用して距離を開く。
あの戦からの十年近く、レドは地獄のような戦場に身を置いた。
生死を彷徨いながらもその身に鞭を打ち、血反吐を吐いて森の戦場を駆けずり回り。
溢れんばかりの才覚と、血の滲むような努力を持って手にした力――しかし、そんな男は彼一人などではなかった。
真紅に煌めく銀虎の鎧。
あれだけの大槍を振り回しながら、その重心には一切のブレがなく。
一見荒々しく見え、しかしどこまでも繊細で、効率を極めた槍の軌道。
戦闘術とは暴力でしかなく、けれど一定の領域を超えた暴力は、暴力でありながら美が宿る。
レドのそれがそうであるように、コルキス=アーグランドの振るう槍も同じく。
目を奪われるような槍の美しさ。
立ち姿の静謐さ。
才覚と魂を削り、至った境地はまさに芸術のそれであろう。
獣のように四足を突き、レドはそれを見上げながら魂が震えるのを感じた。
「……見覚えがある。カナルアの戦士達の仇だ」
あの夜に見た男であった。
アルベリネアの軍団長――その出現で、狩猟隊が援護していた戦列は崩壊した。
「俺にもその巨剣、見覚えがあるな。あの夜取り零した威勢のいい小僧だ」
コルキスもまた同じ光景を逆の視点から思い返し。
そしてバイザーを下ろしたまま、音だけで周囲の様子を探る。
敵は精鋭――奇襲という条件を加味しても、コルキスが側に置く戦士達と噛み合っている。
並の隊ではない。
恐らく、この男の直轄兵であろう。
あの夜も第二軍団の突破に対し、抵抗を見せた遊撃隊――その実力を思い出して、これが偽攻の類ではないと理解する。
「予定が狂ったな小僧。狙いはこちらの横腹――しかし、読みは外れて頭同士がかち合った。蛇の首を切り落とすには少し遅かったな」
森での進軍は必然、縦列を作る他無い。
脇の森を歩かせていたものも含め、ここにあるのは第二軍団でも数百名。
横合いからこれほどの伏撃を受ければ、いかに第二軍団とはいえ分断される。
あちらの誤算はコルキスの判断の早さ。
そのせいで首を分断するはずの一撃を硬い頭に喰らわせることとなった。
これは少なくともあちらの意図した結果ではない。
「ゆっくりでいい! 構わず後退を続けろ! 敵の兵力は知れている!」
コルキスは声を張り上げた。
真正面――敵の縦列先頭は壊滅。先ほどの戦闘で怯えきってすぐには動けない。
気にするべきはこの男の率いる横撃部隊だけだ。
そして伏撃という条件が時間と共に消え――いずれこの場はこちらの優勢へと変わる。
相手は精強、しかしコルキスが率いる直轄兵を相手に真正面からは荷が重い。
後退は十分に可能であった。
「中央アルベリネア直轄軍、第二軍団長コルキス=アーグランドだ。……名乗る名くらいはあるんだろう?」
槍の切っ先を向けて告げる。
四足の体勢を取っていた黒髪の青年は身を起こし、アルベリネア、と小さく呟いた。
「戦姫、シェルナ=ヴェーゼが直轄。ヴェーゼの狩猟隊、隊長――ラーニのレドだ」
「……それも聞き覚えのある名前だな」
シェルナ=ヴェーゼ――エルデラント側の大将。
前回の戦でクリシェが討ち取った相手の名前だった。
「なるほど、つまるところ復讐か。……そりゃ分かりやすくていい」
レドは何も言わず眉を顰め、コルキスはバイザーの内側で笑った。
「何、馬鹿にしてる訳じゃない。妥当な理由で妥当な恨み、戦場ではいくらでも転がっているもんだ。戦う理由としちゃ悪くない」
相手が悪いだけでな、とコルキスは続けた。
「同じ言葉はキースリトンにも聞いた。……アルベリネアはどこだ?」
「さてな、出来るなら力尽くで聞き出して見るといい。言っておくが、俺相手に手こずる程度じゃ、クリシェ様の影すら踏めやしないだろう」
言いながら、相手には次の手があるのだとコルキスは考えた。
そうでなければ相手は死に物狂いで迫らなければならない状況――これまで来た道を思い出しながら、大外からの迂回があるとコルキスは踏む。
敵は四万から六万――この衝突位置から考えるに強行軍ではなかった。
強行軍となっているのは恐らく両翼だろう。
大外から囲い込むように森を迂回している。
――そちらの狙いはこちらの本陣。
本陣の動きを封じて、その上で先頭の第二軍団を分断、各個撃破が敵の狙い。
目論見を外したせいでそれは敵わないだろう。
少なくとも第二軍団は本陣へと合流できる。
だが問題はそこから、どれだけ全体の被害を抑えてこの樹海から脱するか。
そればかりはアレハやキースに任せる他あるまい。
男――レド=ラーニから目を離さぬまま音を聞く。
奇襲の効果は失われ、周囲に生じるのは膠着。
「……この場からは既に火が消えた。来ないならばこのまま退かせてもらおう」
そして膠着が生まれるならば、ここには第二軍団の局所的な優位が出来上がる。
相手はコルキスを殺さねば、ここでの優位を取り戻せない。
とはいえコルキスもその目的を考えれば、優位とは言えこの突出した状況を継続させたくはない。
互いにここでの長期戦を望んではいないはずだった。
「来るなら受けて立ってやる。お前とならば良い闘いができるだろう。――無論、お前も俺も、互いに命を賭けたものとなるだろうが」
周囲にあるレドの直轄兵――その男達は指揮官たるレドを見た。
その目には未だ戦意。
指示をレドに求めていた。
「……すぐにまた会う。決戦の地はここではない」
レドは平手を軽く上げ、その合図に兵達は緩やかに後退する。
ただ、コルキスが目を留めたのは彼の側にあった兵達の視線。
明らかにその男達数名は戦闘の継続を望んでおり、一瞬その瞳に、再考を促す色が宿った。
すぐにそれは消え――しかしコルキスはそれを見逃さない。
「そりゃ物わかりが良くていい。……何を見せてくれるか期待をしておこう」
――それだけではない。
確信であった。
大回りな本陣への迂回攻撃、そして第二軍団への奇襲。
その目論見が崩された上で敵は、この場でコルキスを討つための手段か何かを隠し持っていた。
戦術的なものか、それとも別な何かか。
しかしそれを温存したのだ。
コルキスはレドを見たまま後ろへ下がり、距離を離す。
警戒の必要があった。
少なくとも、コルキスの想像を上回る何かがあると考え、背を向けるまでにはいつもよりも倍の距離を取る。
レドは動かず、不気味にコルキスを見つめ――それをただ見送った。
そうして去っていく第二軍団を見送りながら、レドは崩れた縦列先頭を再編する。
矢継ぎ早に指示が飛ばされ、士気が失われた先頭は森の中へ。
縦列後方がそのままに、足並みを揃えて先頭と入れ替わる。
「……いいんですか、隊長? あの男は並の戦士ではありません。今始末しておかねば――」
「いい。今回の的はアルベリネアだ」
部下の言葉にレドは答えた。
アルベリネアの直轄軍――出てきたのは予想通り。
しかし、未だアルベリネアの所在を掴めていない。
「アルベリネアを考えるとき、シェルナのことを考える」
「それは……」
「感傷的な理由じゃない。……シェルナは異様なほどに勘が冴えていた。戦場全体を空から見下ろすように、いつだって断定的に結論を出した」
戦略、戦術、剣技の上で、今もレドはあの当時のシェルナに勝てる気はしなかった。
この場でコルキス=アーグランドを討つことは難しくなかっただろう。
魔力を攻性粒子として撃ち出す青の杖――その魔水晶の力があれば。
だが、あれほどの戦士。
それが討たれれば、アルベリネアは必ず何かのカラクリがあると気付く。警戒する。
少なくとも、シェルナであればそれに気付くと思えるからだ。
仮に千年、戦場にあったとしても討たれることはない。
どれほどの窮地に陥っても、その剣技と知略で必ず脱することが出来るだろう。
シェルナはそのような天才であった。
けれどそんなシェルナを、残してきた狩猟隊ごと容易く討ち取ったアルベリネア――その実力はもはやレドの理解を超えている。
最善に最善を重ねて、ようやく討てる相手であろう。
そのためには一切、情報を与える訳にはいかなかった。
「アルベリネアを討たねば、アルベランを相手に戦争継続は不可能だ。決めたとおり、今回はアルベリネアのみを狙う。確実に仕留める条件を整えるために」
――戦士コルキスを前に血が震えた。
仮にあのまま戦っていれば、コルキスの言うとおり互いに魂を賭けた死闘となったであろう。
あるいは、そう感じる心にも理由があったのかも知れない。
あれほどの戦士を、そのような卑劣な手段で殺したくはない、と。
少なくとも心中で混ざり合った計算と心理、理性と感情、それらが合わさった結論であることは間違いなかった。
それが己の弱さであるのかも知れないと思う。
一切の感情を捨てるつもりでこの場にあり、どれほどの非道であっても行う覚悟でここにある。
しかし手段はいくらでもあっただろう。
これほど大がかりな手段を用いずとも、年月を掛けて王都に地盤を作り、その暗殺を狙っても良かった。
戦――戦場という場を選んだのは、レドの中に未だ残る何かはここにあったから。
戦友達の笑顔や、シェルナの声。
脳裏に焼き付いたものは皆戦場にあって、ここに至った選択はどこまでも感情的なものでしかない。
キースリトンとの戦いでは、心の中に納得があった。
戦場というものはどう飾ろうと理不尽なものでしかない。
強い者が弱い者の命を一方的に奪うというただ一つの掟が支配する、そういう残酷な世界であった。
そこに足を踏み入れた時点で、言い訳など出来ない。
死んだものは、弱かったから死んだ。
答えはそれ以上も以下もなく、そしてその掟に従い、正義を振りかざしてシェルナもレドも多くを殺した。
散々殺してきて、殺されたから恨むというのは道理ではない。
自分達が殺してきた者達に、謝罪などしたこともなかった。
結局、アルベリネアに対する己の復讐心は、理屈ではない、感情からの答えでしかないのだ。
当時感じていた正当性は、時間と共に薄れて消えた。
それでもなおこうしてこの場にある理由は何か。
「忘れ物だな」
「……?」
「どう答えても、どんな理由を付けても、結局、俺はあの日置き去りにしてしまったものを、ただ取り返したくてここにあるんだ」
内戦が終わってからは、毎日のようにシェルナ達の墓に行った。
妻は途中から、何も言わずにそれについてきて何かを供えた。
そこにはどこまでも優しい幸福があって、全ては思い出になろうとしていた。
「単なる感情論。……俺は、どこまでも愚かな人間だ。それを取り戻すまで前には進めない。……だからこそ、お前達が付いてきてくれたことを心の底から嬉しく思う」
男は目を見開き、それから、何を言ってるんですか隊長、と笑って見せた。
生き残った狩猟隊は、その半数以上が今もなおレドと共にこの場にあった。
レドと同じように、忘れた何かを取り戻すために。
「剣姫の猟犬――その長はあなたです。あの時と変わりなく。俺達は死ぬまで、隊長と共に剣を振りますよ」
その言葉は染みこむように、レドの内側を流れた。
ほんの少し目を閉じ、開き。
「……、ありがとう」
言って、それが随分と口にしていなかった言葉だと気付いた。
トーバにも、フェニにも、彼等にも。
当たり前の人間としての、当たり前の言葉。
それもきっと、レドが置き忘れてきたものの一つなのだろう。
「アルベリネアを討つ。……協力して欲しい」
そんな言葉に男達は、笑顔を浮かべて頷いた。
アルベリネア軍は中央をコルキスの第二軍団、右翼をアレハの第四軍団に任せた。
キースの第一軍団は後方左翼側で民兵と共に後退のための工作を行い、左翼は中央本陣にあるベーギルの第三軍団が警戒に当たる。
左翼を薄くしたのは主要な道となる中央と南は川で隔てられているため。
セレネ達が進んだのは偶然にも、アウルゴルン=ヒルキントスとの決戦の舞台であった。
右手――北側を森に。
左手――南側を流れの急な川に挟まれながらも、樹海には随分とひらけた空間。
クリシェによって落とされた背後の橋は丈夫なものに造り直され、後退にもそれほど難が無い。
北の迂回はアレハが、川の南から敵が大きく迂回してきた場合はキースが対応して時間を稼げばそれで済む。
「レーミン軍団長が迂回する敵集団を発見。遅延を行っています」
「アレハにはそのまま出来る限り遅延を行うよう伝えて。第二軍団と合流次第、本陣は後退開始する」
セレネは馬上から伝令に指示を飛ばす。
第二軍団は敵縦列先頭と既に接敵。
後退を始めた彼等が無事こちらに帰ってきている姿を眺め、セレネは安堵する。
縦列先頭を囮に奇襲を仕掛けてきたのは敵の総大将、レド=ラーニであるらしい。
第二軍団の分断が狙いだったのだろう。
一見、無謀に思えるほど攻撃的な指揮官であった。
兵力優位であるにも関わらず手勢を率いて敵戦力を自ら削りに行く。
自分の武力に随分な自信があるのだろう。
だが、猪突猛進な馬鹿ではない。
敵はこの電撃侵攻と戦力優位にあって、一切の油断をしていないのだ。
優位にありながら更にこちらの戦力を削り、圧倒の状況を作り出そうとしている。
無謀なのではなくむしろ慎重であった。
北側の迂回を見る限り、兵力劣勢なこちら側が樹海へ踏み込むことを前提にこの戦へ臨んでいる。
「油断ならない相手ね」
「そうですな。この状況でこちらが踏み込んでくるとは普通考えないものですが……相手は的を絞っているのでしょう」
側にいたベーギルは言い、セレネは頷く。
「やっぱりこのアルベリネア軍を打破することが目的、かしら?」
「私にはそう思えます」
普通の軍ならば、普通の将軍ならば踏み込まない。
兵力劣勢、情報も無い状況で敵の侵攻する樹海へ踏み込むなど愚かである。
セレネが選択した理由はあくまで、これが『王国最強の軍であるから』でしかない。
そうでなければ何を言われようとこんな樹海に踏み込むことなどしなかった。
そしてその動きを読んでいたと言うことは、相手は最初からここにアルベリネア軍が来ると想定していたと言うこと。
――王国最強の軍を打ち破り、初動を完全に制する。
それがあちらの目的であると見て良いだろう。
「少し早いけれど、予定通り後退するわ。あれだけの大敗を喫した上でクリシェとやり合おうとする相手だもの。森の中はあまりに危険すぎる」
「異論ありませんな。ここが相手の選んだ戦場というならば避けるべきでしょう」
ベーギルは答え、尋ねた。
「後退後は予定通りに?」
「レーミン将軍と合流、後方から兵力を集めつつ樹海の王都側を封鎖する。相手がこの軍を狙ってたとするなら、既に軍を分けているという可能性は低い。上手くやれば王都圏に被害を出さずに勝利を目指せるかも知れないわね」
相手が最初からこの軍が踏み込むことを考えていなかったのなら、外で留まるのは危険であった。
相手が王都圏を荒らすつもりであった場合、どうしても対応が後手に回る。
しかし相手がこの軍だけに狙いを絞っていたのなら、話は異なってくる。
相手も相手で方針変更のため、若干の遅延が起きるだろう。
こちらを無視して王都圏に進出するにしろ、即座にとは行かない。
セレネはテックレアと共に、ある程度外の状況を整えることが出来る。
「執拗な追撃を受けるようなら、やっぱりジャレィア=ガシェアをぶつけるわ。後がちょっと辛くはなるかもだけど」
「迷う必要はありませんな。無数の翠虎を森に放たれるようなもの――遅延としてはこの上ない」
ジャレィア=ガシェアは工作班と共に、後方のキース、第一軍団に持たせてある。
追撃が苛烈であればそれをばらまき、追撃部隊を壊滅させることになっていた。
問題は見通しの悪い森の中ではばらまいた後の回収が出来ないことであったが、それは戦の後にでも考えればいい。
――悪くない、と頷く。
頭痛がするほど考えて結論を出したのだ。
セレネは自分の能力が優れているとは思っていない。
経験不足な自分の頭脳に瞬発力などは無かったし、咄嗟の判断となればまともな答えを出せるという保証もない。
だが一つ一つあらゆる可能性を検証し、積み上げていけば、将軍として不足のない指示を出すことは出来る。
どのような状況であれど、全てを先に想定し、結論を出しておけば、考える余地なくそれを選択することができる。
それは未熟なセレネが、唯一他と対等に戦うための術であった。
少なくともこれだけの軍があれば、決して負けない戦いは出来る。
そしてこの戦、セレネさえ負けなければそれが勝利と直結する。
前方、森が狭まる辺りから第二軍団と共に先行していたトルカが縦列と共に姿を現し、それから少しの時間を空けて銀虎の鎧――コルキスが。
「ベーギル、先に第二軍団を行かせるわ。あなたは殿を」
「ええ、予定通り――」
――そしてベーギルが頷こうとしたとき、後ろから悲鳴のような声。
咄嗟に振り向き、しかしその目はその原因を捉えることなく。
「セレネ」
それは頭上から、振り返ったセレネ達の背後に着地する。
「……、クリシェ」
「状況は?」
八尺二丈の翠虎――腰に大きな袋を二つ提げ、威圧感のある巨体が目の前にあった。
その上に腰掛けるのは銀の髪の少女。
長い髪を二本の尾のように揺らし、外套の下にはワンピース。
手甲と脚甲、そして腰には二本の曲剣。
その妖精の如き美貌はどこまでも冷ややかで、その紫の瞳には何の感情もなく。
「……どうしてここに?」
「クレシェンタから、セレネでは危なそうな相手だと聞きましたから。……すぐ終わらせます。状況を」
セレネは一瞬目を見開き、唇を噛んで拳を握る。
それから色んな感情を押し殺すと、目を伏せて告げた。
「敵は四万から六万、今は樹海から侵攻する敵の初動をくじくために打撃を加えた後。これから後退するつもり」
「そうですか。敵はあっちに?」
「ええ、敵の大将らしき姿が見えたとコルキスから」
その言葉を聞いて、クリシェは前方を見つめた。
クリシェを認めてか足を早めたコルキスが既に近くにあった。
「……、クリシェ様」
「総大将は向こうから?」
「恐らくは」
「では、予定変更です。セレネ、このままここに布陣します」
「っ、ちょっと待って!」
セレネは首を振って見上げる。
「ここで迎え撃つには準備も何もできてないわ。いくらなんでも無茶――」
「――セレネ」
クリシェは言って、翠虎の上から飛び降りる。
そしてセレネに近づき、頬を撫でた。
「クリシェ、こんな下らないことさっさと終わらせて帰りたいんです。準備だとか、そういうのはどうだっていいです。クリシェが準備しましたし、クリシェが全部終わらせますから」
紫の瞳は有無を言わさぬ何かがあった。
それでいてその言葉は、まるで駄々を捏ねる子供を、忙しい母親がなだめるように。
仮に相手がセレネでなければ、もっと高圧的な言い方だっただろう。
クリシェに取って何より優先されるベリーを残して、ここに来たのだ。
彼女の感情は誰よりセレネが理解出来ていた。
「……セレネは何も心配しなくていいです。いつもみたいに、全部任せてくれればそれでいいですから」
だからこそ、そんな彼女の言葉はどこまでもセレネの胸を抉る。
体が固まって、視界が滲み、それが溢れ出さないように目を閉じて下を向く。
「……、わかった」
そう告げるとクリシェはそんな姉の様子にも気付かず、コルキスに向き直る。
コルキスは痛ましいものを見るような目でセレネとクリシェを見ていた。
「第二軍団と第三軍団はこの場で横列を。やるのは残敵処理ですから、大した仕事じゃありません」
「……残敵処理?」
「はい」
クリシェは翠虎の腰に提げた袋に触れる。
着地したとき、響いたのは硬質で高い音色。
「クリシェが大体殺しますから、その残りの始末です」
――袋の中に大量に詰め込まれた魔水晶の音色だった。





