愛の形
外套を身に纏い。
長い髪は二本の尾のように、薄紅の花を模した髪飾りで括り。
後ろ腰には曲剣が左右に二つ、戦の準備を整えていた。
ベッドに腰掛ける使用人に、クリシェは静かに抱きついた。
近頃はこうして、エプロンドレスを身につけていることの方が珍しい。
ネグリジェ姿で一日を過ごすことが大半。
エプロンドレスを着ているからと言って、調子が良いというわけでもない。
「まぁ。そんなお顔をせずとも大丈夫ですよ。ちゃんとお帰りをお待ちしておりますから」
「……はい」
告げる顔は青白く、血色が悪い。
慢性的な貧血であった。
食べても吐くことが多く、日に日に痩せていく体。
液化魔力による補助がなければとうの昔に死んでいるだろう。
魔力は全ての根源であり、全ては魔力である。
魔力は理論上、この世全てのものへの可変性があった。
濃密な魔力を液化させ、それを与えて馴染ませれば、瀕死の人間ですら起き上がらせる。
そしてそれは疑う余地なく、その効力を十全に発揮していた。
死にかけるたびに引き戻されて。
毎日のようにベリーは彼岸と此岸を往復して、やっとその息を繋げているだけ。
それでも彼女はエプロンドレスを身につけいつも通り、使用人としての姿でクリシェに接した。
その手がクリシェの髪を優しく撫で――小刻みに震え。
すぐに離すと力を込めて、震えを殺して抱きしめる。
隠すように、恥じらうように。
それが分かってもクリシェは指摘もしなかった。
指摘したところで何の意味もないことを知っている。
少なくとも、ベリーはそういう人間だった。
意地っ張りで、頑固。
セレネが彼女に対して告げる言葉も、今ではクリシェにもよく分かる。
彼女は彼女の決めたルールを決して破らない。
自分の望む自分に対し、誰よりも忠実であった。
あるいは、それが矜持と呼ぶべきものなのかも知れない。
その矜持に触れることはクリシェであっても出来ないし、そしてベリーもそれを理解した上で、その矜持を見せつけるのだ。
どうしようもなくずるい、と思う。
けれどクリシェは、そんな彼女を愛していた。
「待ってもらうの、本当に後ちょっとだけです」
「……はい」
「今度は、本当に本当です。今度は、ベリーをがっかりなんてさせません」
告げるとベリーはくすくすと、肩を揺らして笑う。
「何でも出来るクリシェ様に難しいことがあるとすればきっと、わたしをがっかりさせることくらいですよ」
どこまでも優しい声音だった。
「後はわたしに嫌われるだとか、失望されるだとか。ふふ、そんなお約束はお約束にもなりません。わたしにがっかりさせようだなんて、クリシェ様では一生掛かっても不可能――」
「そういうことじゃないです」
見つけましたから、と首を傾げるベリーの胸に顔を押しつけたまま。
クリシェは更に言葉に重ねた。
「魂です」
「……魂?」
「はい。人にはちゃんと魂があるのです」
言って顔を上げる。
「おばさんやベリーの言っていたとおりです。クリシェはちゃんとそれを見つけました」
そして目を細め、いとおしげに頬を撫でた。
「もう痛い思いも苦しい思いもしなくていいです。後はそれを安全に取り出して、安定させる手法を見つければそれで全部解決――観測できた以上、クリシェは絶対に失敗しませんし、その手法を確立するのもすぐですから」
だからほんの少しだけ待ってて下さい、とクリシェは告げる。
魂、とベリーは繰り返し、苦笑する。
心の底からそれを信じていたわけでもない。
突拍子もない言葉に思え、けれど彼女はクリシェを疑わなかった。
「興味がそそられますね。詳しく聞いてみたいですけれど……」
ポケットから小さな袋を取りだして、その紐をクリシェの首に掛けた。
「まずはご無事にお嬢さまとお帰りになってから。ふふ、ひとまずはこのキャンディと一緒に、後のお楽しみでしょうか」
丁寧に、長い二本の銀の尾を紐から引き抜き。
それから髪飾りをなぞり、綻びがないかを確かめた。
その姿を眺めて目を細め、ゆっくりと口付ける。
触れる程度で、けれど静寂が時間に満ちた。
離れてからは少女の桜色の唇をなぞり、いつものように微笑む。
「お帰りをお待ちしておりますね、クリシェ様」
「はい。……、すぐに帰ってきますから、その、絶対――」
「ええ、名に誓って。ふふ、わたしがクリシェ様とのお約束を破った事なんてありましたか?」
「……ありません」
クリシェは答えて、口付け。
「じゃあ、行ってきます」
「はい、お気を付けて」
クリシェは頷くとベリーから離れ、振り返ることなくそのまま部屋を出る。
色んな感情が、それ以上ベリーを見ることを許さなかった。
扉を閉めると、拳を握り、唇を噛んで。
――途端、その紫の瞳は凍り付くような冷気を帯びた。
「ちょっと弱気かも知れないけれど、言った通り、現状で無理はしたくない。せめて動くならレーミン将軍が来てから、というのがわたしの考え。異論はあるかしら?」
接敵は早ければ明日。
敵が侵攻している西の大樹海から、少し離れた天幕。
その中で地図を指で示しながらセレネは告げる。
キース、コルキス、ベーギル、アレハ。
そして合流した西部将軍トルカ=カーナリウス。
将軍と四人の軍団長は真剣な顔で地図を眺め、セレネの言葉を聞いていた。
「……こちらは仮に民兵を合わせても3万。最低でも4万から6万になり得る敵軍を相手に、あの樹海へ踏み入れるのは多少危険がありますな」
キースが告げ、セレネは頷く。
数の優位はあちらにあり、そして森という条件――そこへ飛び込むのは危険であった。
エルデラント出身の兵士はその全てが狩人のようなものだ。
森という地形に慣れた彼等を前にしては、同数でも劣勢を強いられるのは間違いない。
対して見通しの利く平地ならば、多少分は悪くとも負けはしないだろう。
単純な論理であった。
誰であっても普通はまずそう考えるし、そして戦略としても妥当である。
問題は、こちらがそれを選ばざるを得ない状況である、ということ。
現状、主導権を握っているのはあちらなのだ。
選んだのではなく、戦場を選ばされている。
懸念はそこにあった。
「我々はここに釘付け――私が不安に思うのはそこですね」
茶金の髪を掻き上げるように額を押さえ、アレハが口を開く。
「樹海は広い。望めば敵は北東、南東から我々を無視して王都周辺に進出することも可能でしょう。敵がその選択をした場合、その時我々は一切動くことが出来ない」
情報と機動力を失うべきではない、とアレハは続けた。
「我々は確度の高い情報から即座に動いています。猶予がない訳ではない。相手が森に長けるとはいえ限界もある。このまま樹海の東に入り、伏撃の体勢を整えるべきでしょう」
その言葉にはベーギルが頷き、続ける。
「私も同意ですな。確かに真っ向からの遭遇戦という多少のリスクはありますが、その場合相手も相当な強行軍。その蛇の頭とぶつかるだけなら数の優位は後続の有無でしかない。相手が数で勝るならむしろ、遭遇戦は喜ぶべき状況でしょう」
「……それは」
「クリシェ様がいらっしゃらないことに不安を覚えてらっしゃるのかも知れませんが、この軍は真っ向からの遭遇戦で敗れるような軍ではありません。仮に不測の事態に陥っても、ここまで退いて仕切り直しも可能でしょう」
セレネとキースは防御的。
そしてアレハとベーギルは攻撃的。
彼等の言い分も間違いではない。
相手に数の優位があるのならば、その戦闘正面幅を削ることを第一に考えるというのは理に適う。
両者が行軍中にぶつかれば、仮に百万の大軍であろうと戦うのは先頭だけ。
数の優位は言ったように、どれだけの後続があるか、という要素でしかない。
西部将軍トルカは撤退中にも相手の動向を探っている。
この西の樹海――その東端に至るには、強行軍でもまだ僅かな時間があった。
「カーナリウス将軍はどうかしら?」
「心情的には後の二人の言った通り、遭遇戦を覚悟で出鼻をくじきたいところ。これ以上国土を荒らされるなど耐えられません」
細身な老将であった。
刃傷の目立つ顔と高い鼻、険しい瞳。
剃り刀を丁寧に当てた頬と、整えられ後ろに撫で付けられた白髪。
真面目な気性が表に出た、静かな圧のある男。
フェルワースの副官として共に無数の戦場を駆けた老将は、敗戦の将となれど落ち着きを保っていた。
「とはいえ、相手が容易ならざる相手というのは留意しておいた方がよろしいでしょう。雰囲気があります」
「……雰囲気?」
「ええ。あなたの父――先代のクリシュタンド辺境伯や、後に名を残す英雄と呼ばれた方々……敵味方含め、その若い頃の姿を何人も、私はフェルワース様と見て来ました」
匂うのです、と告げて、セレネを見た。
「今回の総大将――レド=ラーニは以前の大戦で見掛けた時、小兵を率いてこちらの本陣へ。取り逃がした際、いずれ名のある将となるだろうと思いました。事実として、この十年近くで力を付け、軍の総大将として再び我々に剣を向けている」
「……レーミン将軍も聞き覚えがあると言ってたかしら」
トルカは頷き、黒豆茶を一息に飲み干す。
「兵力劣勢とは言え、相手が並の将であればもうしばらく持ちこたえることは出来たでしょう。しかし結果として、フェルワース様に殿となってもらう他なかった」
後悔を押し殺すように拳を握り、続けた。
「……ここにアルベリネアがいらっしゃったならば、これも無用の心配であったでしょう。しかし、真っ向から軍と軍で組み合うならば決断は慎重に。踏み込むこと自体は私も軍団長の二人と同意見――ですが、後退を前提としたものであるべきです。少なくとも、そのまま崩してしまえるような生温い相手には見えません」
セレネはその言葉に少し目を伏せ、頷く。
「分かっているわ。優秀な部下があっても、私はクリシェとは違う。自分の力は分かっているつもり。……コルキスも意見はそっちでしょ?」
「まぁ、噛み合わずに素通りされるよりは危険を承知でぶつかる方がいいですな」
コルキスは笑って言った。
「戦は単純な方がいい。どう動くかわかりにくいときは何も考えず一発入れて後退、それくらいが良かったりします。先頭は俺が行きましょう」
「ええ。カーナリウス将軍、コルキスの軍団と前を行ってもらえるかしら?」
「是非もなく」
コルキスとその第二軍団は、正面戦闘において最強と言える軍団だった。
森という戦術が強まる状況には不安があるものの、そこに誰より経験豊富なトルカがいれば不足はない。
この二人を前に出すのは確定でいい。
頭脳と機転に優れたアレハを出す案もあったが、今回は後退を前提とする。
最大の打撃を加えた後の後退に彼を使いたかった。
セレネは慎重と臆病、大胆と無謀を明確に理解し、そして考えるのは常に、どうすれば優秀な部下が最大限の力を発揮出来るか。
セレネには勇敢なる英雄の資質はなかったが、代わりに勇敢なる英雄達を束ねる資質を備えていた。
求めるものは常に名誉や名声などではなく、未熟な己が出来る過剰なまでの最低限。
己の能力に対する自信や矜持、期待でさえもセレネは持ち合わせてはいない。
優秀過ぎた周囲の全てが、彼女から有って当然の感情すらも奪い去っていた。
――この程度をこなせない自分に価値はない。
強迫観念に似た思考は義妹のそれと近しく、そしてそうであるが故に彼女は誰より役に徹する。
セレネは黒豆茶に口づけ、告げた。
「森へ踏み込む。キース、あなたは最後方で後退のための工作を。アレハはコルキス達の後退支援、ベーギルはわたしの手元。基本の形は以上とするわ。進軍ルートと細かい配置について詰めていきましょ。カーナリウス将軍、撤退中に見た樹海の状況を」
「は。では――」
空は薄く雲が掛かり、欠けた月を朧に映す。
平原の小さな丘――そこにある天幕の裏で、木箱に腰掛け空を見上げる。
「いやぁ、なんとも絵になりますな」
乗馬ズボンと外套、色気もない姿のセレネに声を掛けたのは太い声。
見ると鎧姿のコルキスが笑みを浮かべて、両手にコップを持っている。
コップからは湯気と、ほのかに甘い乳の匂い。
セレネは苦笑して受け取る。温めたミルクであった。
「そんなことを言いながら、持ってくるのが温めたミルクだなんて。子供扱いが抜けてないわよ」
「はは、たまには良いでしょう。酒と違って寝付きが柔らかい」
コルキスは水の入った樽を軽々と動かし隣へ。
月を見上げて目を細め、笑う。
「思い詰めたような顔をしておられましたからな。心配になりました」
「正直すぎて嫌だわ。もう少し遠回しな言い方はないのかしら」
「くく、どうにも気の利いたセリフとやらは母親の腹に置き忘れてしまったようでして」
「みたいね」
くすくすとセレネは笑い、心配はご無用よ、とコルキスに言った。
「……クリシェもベリーも、クレシェンタだって無理をしてるわ。平気なのは何も手伝ってあげられないわたしだけ。……だからせめて、安心させてあげたいだけなの」
外の事は任せてちょうだい、って。
セレネは寂しげに言った。
「危うい橋を渡るつもりはないし、言った通りレーミン将軍が来て、ガーカ将軍達が回り込むまでここを維持することが主目的。手柄も何も求めてないわ。わたしは二、三ヶ月掛けるつもりでここに来てるから、コルキス達にはちょっと悪いけれど」
「クリシェ様がおかしいだけでそれが普通です。気遣われる必要もない。ボーガン様も流石にこの状況で急いだりしないでしょう」
呆れたようにコルキスは言って、コップを傾けた。
「そうご自分を卑下なさるな。客観的に申し上げて、セレネ様は凡百の将とは比べるまでもないし、経験が不足する不安こそあれど、これまでの指揮に不満もない。お気持ちはわからんでもないが……」
そして恥ずかしそうに告げる。
「俺もヴェルライヒであればこそ切磋琢磨も出来たが、それは上の相手でも手の届く範囲にあったからこそです。俺の若い頃にクリシェ様が側にあれば、やはりそのような気持ちは生じたでしょう」
セレネはそんなコルキスを見て苦笑し、両手でコップを包みながら言った。
「……そういうことだけじゃないわ。そういうことに拘ってるだけじゃなくて……もっと単純で」
少し考え込んで、嘆息し。
コルキスは首を傾げた。
「……?」
「驚くかしら。……わたし、クリシェを愛してるの」
コルキスは目を見開き、セレネは苦笑する。
「愛する人の役に立ちたいと思うっていうのは、とっても自然な感情だと思うわ。わたしが考えてるのはそれだけ。……ベリーのことで何もしてあげられないなら、せめてあの子がそれに集中できるようにしてあげたい」
足手纏いは嫌なの、と呟いた。
静かに響いた言葉に、色んな感情が詰め込まれていた。
「わたしは……わたしが、あの子の側にいる意味が欲しいの。だからせめて、わたしのやるべき最低限のことはこなさなきゃ、わたしはわたしが許せないもの」
コルキスはセレネをじっと見つめ、同じように苦笑して。
それからしばらく、空の月を見上げて言った。
「なるほど。確かに複雑そうで単純な事情だ。……俺の気遣いも的外れだったらしい」
そしてコップの中身を飲み干し、照れたように頭を掻いて立ち上がる。
「ありがたいのは事実よ? ちょっとすっきりはしたわ」
「慰めんでください。……俺はヴェルライヒの野郎と違ってこういうことには全くだ」
聞けばボーガン様も驚くだろう、とコルキスは言い。
孫の顔は諦めてもらうわ、とセレネは笑う。
「しかし、そういうことならば俺も一層頑張らねばなりませんな」
「……?」
「そんな乙女の秘密を主君に打ち明けられた男としては、全力で協力せねばなりますまい。元より考えていた最善に、更なる最善を尽くしましょう」
いつも通りの豪快な笑みで、巌のような右手を差しだした。
セレネは笑ってその手を掴み、引き上げられるように立ち上がる。
「ええ、頼りにしてるわ。でもやっぱり、無茶はしないでちょうだい。言った通り、無理にならない範疇で――手柄も何も求めてないの」
「……欲しいものはただ、愛するものからの言葉だけ。くく、セレネ様のような美女が仰ると、やはりどうにも物語でも見ているようだ」
「……、からかわないでちょうだい」
恥ずかしそうにセレネは言い、ミルクを飲み干しコルキスに手渡す。
「気を使わせて悪かったわね。おかげですっきり休めそう」
「この程度で礼も何も。……どうあれ明日からは過酷な戦場です。今日はゆっくりとお休みを」
「ええ、あなたもゆっくりと。お休みなさい」
コルキスはコップを振って歩いて行き、セレネはそれを見送り天幕に。
それから簡素なベッドに腰掛け、息をつく。
「……安心してちょうだい、クリシェ。わたしはちゃんと大丈夫だから」
腰から剣を引き抜き、祈るよう。
剣に額を押しつけた。
「おねえさまは行ったかしら?」
「はい、先ほど」
クリシェを見送り、ネグリジェに着替え終わり。
料理日誌を眺めていたベリーは身を起こすと、愛らしい訪問者に目を向ける。
クレシェンタはいつものようにベッドに腰掛け、サイドテーブルに小瓶を置く。
それを見たベリーが微笑んだ。
「いつもありがとうございます。……ふふ、クレシェンタ様にはいくらお礼を言っても言いたりませんね」
「そーですわね、わたくしに感謝なさるとよろしいですわ」
クレシェンタも言って微笑み。
「ちょっと薬を改良してみましたの」
「改良……」
いつものように、液化魔力に混ぜ合わせ、コップに注ぐとベリーの口へ。
いつものように、ベリーもそれを口にする。
それから、クレシェンタは言った。
「ずーっと思ってましたわ。いつかあなたを殺してやろうって」
「……クレシェンタ様?」
「それが叶って、今はすっきりかしら」
クレシェンタは笑みを浮かべて、ベリーの頬を撫でた。
どこまでも愛おしげに、いたわるように。
「安心なさって。痛みなんてありませんもの」
いつものような笑みには強張りがあった。
目には怯えるような揺らぎがあった。
「……アルガン様は、眠るように死にますの」
いつもとは違う紫の瞳で、クレシェンタはベリーを見つめ。
ベリーはその意味を理解して、ゆっくりと目を見開いた。





