神の子
ウルフェネイト南西の平原では神聖帝国軍弓騎兵と中央将軍、エルザルド=ゴッカルスの戦闘が行われていた。
砦の櫓から、片目を潰した刃傷、虎髭。
「兵士達よ、戦いと思うな。来たら撃て、これは簡単な作業だ。お前達は飛び出した間抜けを針山にすれば良い」
体格の良い将軍は落ち着いた――しかし良く響き渡る声音で兵士に指示を出す。
実に簡単な戦であった。
弓騎兵が王国中央へ向かうだろうことは事前に想定されていた。
王国中央では村人の一時的な収容を行い、彼等の糧食を奪い自滅を待つ。
弓騎兵が抜けた後には用意してあった無数の衝立を平原に広く並べ、縄を張り、敵の弓と突破に対する構えとし、それを軸に徹底的な防御戦闘。
弓兵だけではなく、歩兵にもアーナから貸与された弩を持たせている。
「これだけ状況が整えば小僧の仕事だな」
「そうですな、憐れみすら覚えます」
エルザルドの言葉に副官は頷き、敵を眺めた。
最初の突撃で多くの被害を出し、突破は難しいと考えたらしい。
矢の届く範囲からギリギリの距離で弓を放つが、こちらの弓兵の間合いでもある。
敵の攻撃は散発的にならざるを得ず、半里の先で敵の弓騎兵は手をこまねいていた。
平地での戦において、この世界で弓騎兵の右に出るものはいない。
弓騎兵の恐ろしさは機動力。
戦場選択を自在に行い、優位を取っての攻撃――彼等の攻撃は実質、常に奇襲をしているようなものだ。
そして劣勢に陥ることなく、彼等は絶対に奇襲を受けない。
勝てない戦いからは逃げ出せば済むからだ。
彼等は勝てる戦にだけ手を出せばよく、真っ向から戦えないなら相手の補給路を遮断し、あるいは行軍中に襲撃し、そうして敵の戦力を削って優位を取る。
だが、今の彼等には自由がなかった。
糧食の枯渇という問題が、彼等から選択肢を奪っている。
こうなった彼等はもはや、馬に乗っただけの弓兵。
彼等の強さを裏付けるのはあくまで戦略的な要因であった。
馬に乗ったせいで的の大きい彼等では弓兵に対し真っ向から戦って勝てはしないし、防御拠点を単独で制圧する能力も持たない。
元々ウルフェネイトに来ていた中央軍二つには弓兵が多く配されていた。
これを見越して、だ。
損害は2万を有するこちら以上にあちらの方が多い。
勝敗は既に決していた。
彼等は王都圏に入り込んだ時点で負けているのだ。
「……真に恐ろしきはアルベリネア、か」
三大国に対する防衛戦――予定通り、一ヶ月と少しで終わりにしてしまったのだ。
総勢40万近くを呆気なく。
二ヶ月前には既に、エルザルドが行っているこの『的当て大会』が企画されていた。
開戦時にはあまりに侮りすぎではないか、と考えていた戦況は、全てが予定通りに転がり、アルベリネアは半月で二国を破っている。
正直どのような魔法を使ったのか、エルザルドには想像がつかない。
弓騎兵一万――難儀な相手。
本来は高々二万の兵力でどうにかできる相手ではなかったが、アルベリネアはこれを封殺。
策一つでアルベリネアは、彼等をこちらの真正面に引きずり出した。
容易な戦い、だがエルザルドの手柄ではなかった。
行うのは殲滅ではなく防衛戦――仮にここを守るのがエルザルドでなくとも、状況に変化はなかっただろう。
「頭を使う余地もなく、戦としては面白くはない、が……兵に死人が少ないことは感謝すべきだな。多くを家族の所へ返してやれるだろう」
エルザルド=ゴッカルスは敵と兵の様子をつぶさに観察しながら告げる。
兵の損害を減らし、敵の損害を増やす。
戦術は単にそれだけ、シンプルなものだと考える。
奇策を用いず、強引な勝ちを取らず。
相手をすり減らし、疲弊させて勝利するこの将軍の戦いには華々しさなどなかったが、その代わりに緻密な計算に裏付けられた安定感があった。
敵味方の顔色、敵の行動。
戦場を乱さぬ事で、ただ冷ややかに思考へ力を注ぐ。
「馬の体力が持たん。そろそろ引き上げるだろうが、夜にもう一度来るだろう。敵が狙うは右翼――伏兵にそのつもりで準備をさせておけ」
敵の指揮官がそこに何度も視線を向けるのを目にしていた。
手薄にさせているのは左翼――山側だが、敵はこの露骨な構えに山裾の森に伏兵があると警戒し手を出さない。
とはいえ、そちらには伏兵など存在しなかった。
勝手に相手が警戒することを想定したはったり。
ただでさえ広い平野を守るのだ、無駄な兵など用意する理由はない。
右翼側は多少起伏が大きく、馬の通行は多少難がある。
それ故兵を減らしている――ように見せかけていた。
敵は馬の扱いが巧みな軽装騎兵、ここを超えてくるだろう。
伏兵を配しているのはこちらであった。
敵は矢雨に怯んでいる。
最初に痛手を被り、士気が落ちた状態――とはいえ飢えに苦しむ彼等にはそれを回復させる時間を取ることも出来ない。
多少の被害は覚悟で右翼の突破を図ることは間違いない。
心理戦での勝利で重要なのは、相手に予測させてやること。
相手の思惑を看破した、と思わせることだ。
相手は左翼の露骨な構えから罠を警戒し、それを看破したと思っている。
そしてその上で、こちらの右翼に穴があると見いだした。
自分が優れ、相手が劣る。
そういう考えはどこまでも魅力的なもの。
特にこういう切羽詰まった状況では何よりも。
将軍に必要な能力とは『相手がぎりぎり理解出来る無能さ』を演出する力である
エルザルドは自身の能力を高く見ていない。
自分の実力では華々しき勝利とは無縁――それでも危うきなく、無数の勝利を収めてきたことには確かな理由があった。
戦争は兵士と兵士の戦いであると同時、将と将の心理戦である。
そして心理戦の敗北が戦の敗北。
無理に成功を収める必要などない。
相手を失敗に誘えば同じこと。
無理を可能にしたアルベリネアの華々しさには憧れるが、自分にその器はなく。
「後に備えて仮眠を取る。後は任せたぞ」
「は、お任せください」
エルザルド=ゴッカルスの美点は、自分の器を誰より真摯に見つめる冷静さにあった。
――夜を目前に、神聖帝国軍に訪れたのは恐慌であった。
戦列を組み替えるために指揮官は声を張り上げるが、それが精々。
疲弊がある。心理的にも肉体的にも。
昨日一昨日と仲間の『惨殺死体』を埋葬し、今日は城壁を登って殺される仲間の姿を一日眺め。
あのアルベリネアが現れてから、彼らには一切、勝利の喜びも達成感もなかった。
今晩行われる夜襲次第で多少、士気が持ち直すこともあっただろう。
だがそれは行われることなく、彼等は前後を挟み込まれる形となった。
昨日ようやく『労役』から解放され、陣の後方にある野営地で作業を行っていた兵士達は、背後から現れた二万の軍勢を見て呆然と立ち竦む。
彼等は理解していた。
呆気なく解放された理由は簡単。
アルベリネアは北の軍の『取りこぼし』を改めて殺すため、自分達を解放したのだ。
他の理由など想像もつかなかった。
彼等の誰もが、アルベリネアという狂った殺戮者を理解している。
彼等が兵士達の死体を解体する側で微笑を浮かべ、平然と見下ろした悪魔。
戦列を整え始める背後の軍が掲げるのは王国旗と雷と鷹の紋章。
クリシェ=アルベリネア=クリシュタンド。
そこにあるのは、アルベリネアの――クリシュタンド本軍であった。
かつての雷と鷹、ボーガン=クリシュタンドの紋章を多くの者が知っている。
エルスレン神聖帝国を幾度となく打ち負かしてきた王国の英雄。
その紋章は王国最強の軍を示す紋章だと知っている。
クリシュタンドの一軍団長であったノーザン=ヴェルライヒの軍ですら、あれほどの強さ。
だとすれば、クリシュタンド本軍の強さは一体いかほどのものか。
その指揮者たるアルベリネアの圧倒的な強さを理解すれば、背後から迫る2万の軍勢は10万の大軍にも見えた。
黒旗特務の存在を除けば、ヴェルライヒ軍とアルベリネア軍の純粋な戦力に大きな違いなどないことを彼等は知らない。
だが彼等が知る噂とアルベリネアの存在、そしてこの心理的状況は、彼等から真っ当な判断能力を奪っていた。
アルベラン側は城壁にも当然兵を残さねばならず、そして南側を攻撃する軍の対処にも兵力を割かざるを得ない。
正面側に1万5000、背後に2万。
4万から減って前後を挟まれたとは言っても、ルーカザーン本軍と兵力はほぼ同数。
南側3万5000の兵力を含めればエルスレン優位な兵力差と言える。
彼等が皆士気を保ち、指揮を完璧にこなすならば、真っ当な戦いには出来た可能性はある。
ただ、当然ながらアルベリネアに『真っ当な戦い』を行うつもりなどなかった。
彼等が最初に目にしたのは、八尺を超える青眼の巨兵であり、そして背後から空へと舞い上がる獅子鷲騎兵であった。
帝国軍戦列を通り過ぎる途中でぱらぱらと何かをばらまき、青い閃光。
響くは爆音と悲鳴。
戦列を整えている途中の混乱を狙ったもの、数はそれほど多くもなく、被害は精々数百名。
しかし兵士達にそれを知る由もない。
北壁内部の青い光――その正体を間近で見ることになった彼等は唖然とする。
ただ空を飛び、空からばらまく。
それだけで自分達を殺す手段をあちらが持っている。
そんな相手に対し、戦えるはずもない。
「怯むな! 被害は少ない、隊列を整えろ!!」
指揮官は叫ぶ。
しかしその指揮官ですら震えを隠しきれないでいた。
バズラー=ルーカザーンは敵に残弾はそうないと彼等に告げ、だが――仮にそうであっても、このような真似を続けられては士気が保てなどしない。
この状況で現れた獅子鷲騎兵、その存在は万の大軍に匹敵する脅威であった。
巨兵に続き、ヴェルライヒ軍も徐々に表に。
戦列を組み始めていた。
城壁上からはアルベリネアが夕焼けを背後に、紫の瞳を輝かせていた。
並の人間では立ち向かうことすら出来ない翠虎をペットのように。
その上に座って戦場を見下ろし。
その側に獅子鷲騎兵が黒塗り鎧の兵士を乗せて舞い降りる。
風に優美な銀の髪が、夕焼けの光で金に輝き。
小柄な体躯にも関わらず、どこまでも巨大に見えて。
あるいはそれは、神の如く。
アルベラン――神の子が舞い降りし国。
過去、彼等の半身であったエルスレン神聖帝国にもその逸話は深く伝わる。
弱小部族であった彼等の中に生まれた泣かぬ赤子。
かつて、神の子と称された神託の子ら。
生まれながらに叡智を授かった彼女らは、その力を彼等に分け与え、導き、周辺部族を併呑し――そうして生まれたのは建国王バザリーシェ。
アルベランの歴史は初めから、泣かぬ赤子と共にあった。
そしてその最後の正しき神の子――エルスレイネが失われてから、アルベランにおいても神の子は失われたとされ。
だが、彼等の目の前にあるあれこそまさに、それそのもの。
半ば神話めいた、泣かぬ赤子の数々の逸話。
古竜に対し、真名を勝ち取ったとされる現代の神の子は、その逸話に違わぬ実力を見せつけこの場にあった。
投石機をただ槍の一投で破壊し、理解も及ばぬ兵器を使い、蟻のように兵士達を惨殺し。
かつて大陸を席巻し、恐怖に陥れた悪しき神の子――グラバレイネを彷彿とさせる邪悪なる者。
あれはまさしく、アルベランの忌まわしき子であった。
歴史を知る者は半ば思考も消え失せて、ただただ呆然とその姿を眺める。
あのような存在に、挑むべきではなかったのだ、と。
子のなかったエルスレイネ。
故に、正しき神の子はエルスレンには存在せず。
多くを孕んだグラバレイネ。
その悪しき血脈は今なお、アルベランに深く根付いていた。
再び、獅子鷲騎兵が上空へ。
翠虎に乗ったアルベリネア――天剣が、その淫らな曲線を描く刃を空へと向ける。
十四体の黒き巨兵はその青き単眼を輝かせ。
再び彼等を、爆音と悲鳴が包み込む。
それは戦いなどではない。
――もはや、勝敗など決していた。