心配するものされるもの
差し込む朝日――いつもなら起きている時間をとうの昔に過ぎていた。
小柄な、けれど女らしい裸体を起こし。
両手で顔を覆うと、ベリー=アルガンは嘆息した。
「……あぁ」
――わたしはなんということを。
嘆く言葉は声もなく。
随分前から目覚めてはいたが、目覚めたくない気分があり。
眠った振りを続ける努力をしてみたものの、やはり自分は騙せない。
「えへへ、おはようございます……」
絡めていた腕を解かれたことに気付いたか、ふにゃふにゃとした声でクリシェが告げた。
小さく欠伸をして、ベリーに寄りかかるように裸体を起こして伸びをして。
「……?」
両手で顔を覆うベリーに首を傾げつつ、ベリーの太ももの上に跨がった。
そしてベリーの顔を、覆われた手の上からじっと眺める。
「どうかしましたか?」
「はぁ……なんでもありません」
諦めたように両手を離すと、自分に跨がる少女を眺め。
その頬に両手を当てると軽く口付け、微笑んだ。
「……おはようございます、クリシェ様」
「はい、おはようございますベリー」
上機嫌にクリシェは告げると考え込み、大きな発見をしたかのように笑って告げる。
「クリシェ、初めて知りました」
「……えと?」
「異性がするものかと思っていたのですが、女性同士でも交――むぐっ」
しかし言いかけた口をすぐさま掌で覆われた。
ベリーは顔を真っ赤にしながら顔を近づけ、クリシェを見つめる。
「……クリシェ様が何を仰ろうとしているのかはわかります。意味合いとしては確かに間違っておりませんが、その言葉はとても不適当――出された料理を餌と呼ぶようなものです。……決してお口に出さないように」
いいですね、とベリーが尋ねると、口を押さえられたクリシェは驚きつつもこくりと頷く。
ベリーは睨むように目を細め、クリシェの様子を眺めると再び溜息。
「……もう。着替えて食事の仕度と致しましょう。お腹も空いていらっしゃるのでは?」
口を押さえた手を離すと、苦笑するようにベリーは言って。
「えへへ、はい。お腹、ぺこぺこかもです……」
恥ずかしそうに、しかし素直にクリシェは答えた。
夕暮れ――王都とウルフェネイトを繋ぐ大道。
その帰路にある馬車の中。
「しっかし、あなたって本当演説は上手よね。よくもまぁあれだけ心にもないことが言えるものだと尊敬するわ」
「失礼ですわね。心にもないことなんて言ってませんわ」
クレシェンタはいつもの如く行儀悪く、馬車の中で横向きに座ると壁にもたれ、セレネの太ももを足でパタパタと叩いていた。
つい先ほどまでの優しげな微笑を浮かべた女王陛下はどこに行ったか。
人を小馬鹿にするような笑みを浮かべてセレネを見つめた。
「頑張ってもらいたいのも事実ですし、兵士に死んで欲しくないのも事実、領土を荒らされたくないのも全部全部事実ですわ。心のまま口に出したらああなりますの」
「ああ、はいはい……それは失礼しました」
呆れたようにセレネは告げる。
予定では最後にクリシェが打破することになっているエルスレン神聖帝国軍。
当然南部や西部に比べて長期の防衛戦とならざるを得ず、守勢のまま戦線を維持することになる東部は兵達の負担も大きい。
防衛戦というものは、そもそもが士気との戦いなのだ。
攻める側であればともかく、相手の攻撃を受け止め、受け流し続けることに対する心理的負担は非常に大きく、そして長期に渡れば渡るほど、それは顕著に士気の低下として表面化していくことになる。
その上三国から攻められている状況で、終わりも見えず、援軍すら定かでない。
そんな状況で敵の攻勢を受け止め続けなければならない兵達の精神的疲労は、アルベランの戦略を知る指揮官達とは比べものにならないほどに大きい。
ノーザン=ヴェルライヒがいかに希有な指揮官とはいえ、そうした不満や疲労の全てを取り除くことなど出来はしない。
そこで女王陛下直々の戦場視察と演説であった。
クリシェのガルシャーン撃破が王都に伝わるや否や、即座に動き出し東へ。
兵士達へ希望を与え、この戦が長くは続かないことを伝えてやり、落ち込んでいた士気を取り戻すというのが今回の目的であったのだが、やはりクレシェンタは傑物と言うべきであろう。
ウルフェネイトのみならず、その途中で立ち寄る街一つ一つで彼女は演説を繰り返した。
全て決まり切った文句ではなく、内容は全て異なり。
多くの兵士を出した街、避難民の多い街、多くの金銭的援助を出した街、経済的余力すらもなかった街――恐らく王国全土の街に関する情報が頭にあるのだろう。
いや、場合によれば街ですらない、小さな町や村の一つに至るまで。
街によって切り出す言葉も、語る言葉も大きく異なり、街の状況によっては協力ではなく感謝のみを民衆に伝えた。
全ての街で異なる演説――聞いていた護衛の兵士達までもが驚愕を浮かべ、ただただ彼女への敬意を強め、感涙すらするものがある。
「決めた内容を読み上げるだけの無能とわたくしは違いますの。適当な場所に適当な言葉を、為政者とはそういうものですわ。馬鹿な民衆や兵士を喜ばせることなんて簡単、欲しい言葉を掛けてあげるだけですもの」
多少飾りをつけて、とクレシェンタは指先で自身の瞳を示した。
彼女は容易に涙を流した。負傷兵と語る時も、まるで溢れん涙を堪えるよう――彼女の演技を見破ることなど誰にも出来まい。
セレネですら、間近で見れば信じてしまいそうなほどの迫真の演技であった。
どうであれ、やはりクレシェンタはクリシェと変わらぬ存在。
方向性こそ違いはあれど、常識を超えた存在には違いない。
「あなたもアルガン様も、もっとわたくしを敬うべきなのですわ。ふふん、教えてくださいと頭を下げるなら演説のやり方というものを教えてあげても良いですわよ」
「んー、そうね。あなたはお馬鹿だけれど、そういうところは素直に尊敬するわ。褒めてあげる」
「む……」
クレシェンタの頭を撫でて微笑むと、クレシェンタは不機嫌そうにセレネを睨んだ。
「今度教えて頂けますか、女王陛下?」
「そーいうところが気に食わないのですわ」
セレネはくすくすと肩を揺らし、対面に腰掛けたエルヴェナは呆れたように。
クリシュタンド家におけるよく分からない力関係――これだけ付き合いも長くなると流石に彼女も把握していた。
女王陛下の素の姿はむしろ好ましくあり、エルヴェナは静かに微笑む。
「ですが、あれだけの歓声と敬意……本当にすごいです」
声を上げたのはその隣――アーネであった。
クレシェンタは首を傾げてそちらを見る。
「欲しい言葉を掛けるだけ。簡単な事を仰るようで、けれど難しく……そうして多くの方に希望を与えて心を救い。改めてわたしは女王陛下の偉大さを目にして感動致しました」
思い出したのか、アーネは感涙というべき涙を浮かべつつ。
「あなたは何回認識を改めますのよ……」
この流れは既に七回目である。
クレシェンタは少し迷惑そうに、どうにかしてくださいまし、とセレネに目をやり。
セレネは少し楽しげに笑って、いいじゃない、感動したそうよ、とクレシェンタを見返した。
この旅に出てからというもの、アーネは毎日の如くクレシェンタを称賛している。
その様は太鼓持ちか何かの如く――しかしアーネにそのような意図はなく、素直で正直な感想であった。
「自らの行いを悪し様に仰いながらも、しかしその裏側にある民への気遣いと、心配り……心から女王陛下にお仕え出来たことを誇りに思います」
「あ、あなたの気持ちはわかりましたわ。それくらいにしてくださいまし。うんざりするくらい聞きましたの」
「はい、申し訳ございません。どうしてもお伝えしたく……」
アーネは鼻を啜って、横からエルヴェナにハンカチで目元を拭われ。
セレネは言葉通りうんざりした様子のクレシェンタを眺めて苦笑した。
クレシェンタはその利益を抜きに見れば心底民衆のことなどどうでも良いのだろうが、アーネはどうにも、それを素直になれないクレシェンタの演技であると考えているらしい。
確かに普段の彼女を見ていれば然もありなん。クレシェンタは言葉こそ苛烈なことが多いがなんだかんだで身内に甘く優しい少女であった。
実際行為と結果を見ればその通り――アーネの理解が全くの勘違いとも言い難く。
面倒くさそうなクレシェンタの頭を再び撫でる。
「ふふ、良かったわね。帰ったらベリーも美味しいご馳走を用意してくれるわ」
クレシェンタはセレネを睨みつつ、反転。
椅子の上に寝転がるとセレネの太ももに頭を乗せる。
「アルガン様、また暗いことばかり考えて悪化させてたりしないかしら」
「……心配?」
「誰が。そうだったら面倒なだけですわ」
セレネはそんな彼女の言葉に苦笑し、クレシェンタの額を撫でつつ考え込んだ。
「まぁ……意地っ張りだものね。やっぱり無理矢理にでもどちらか残せば良かったかしら」
一人でこじらせたら大変だと、アーネかエルヴェナ、片方を残してこようかと考えたのだが、使用人の世話に使用人を残すのは本末転倒と断られ。
ベリーは頑固で言い出したら聞かない性格。
微熱とは言えないまでも一晩で大分落ち着いたこともあって仕方ないかと置いてきたのだが、やはり多少の心配はセレネにもある。
屋敷とクリシュタンド家のことをほとんど一人でこなして、空けた時間にセレネやクレシェンタの仕事まで手伝って、ここのところは休む間もなく。
雑に任せている屋敷とクリシュタンド家の仕事だけでも相当なもので、常人ならば毎日泣きながら深夜仕事だろう。
疑問に思うことも時折忘れてしまうが、控え目に言っても超人的な仕事量で、ベリーはベリーでちょっとおかしい。
とはいえ、流石にそんなベリーとはいえここのところは疲労があるはずで、熱はそれに心労が重なったものだろう。
彼女が軽い風邪を引くことはたまにあったし、元々は随分病弱であったということも聞いている。
無理をさせすぎた自覚もあって、セレネは深くため息をついた。
「わたしたちがいないから普段より大分仕事も楽なはずだけれど、ちゃんと大人しく休めているかといえば不安ね。あの性格だもの」
「……全く。帰ったら説教しないといけませんわ。使用人の分際で肝心なときに熱を出すだなんて。自己管理が出来ていない証拠ですわ」
「素直じゃない子ね。……まぁでも、あなたに自己管理だなんて言われたくないと思うわクレシェンタ」
人目がなくなれば転がり、眠り、朝の寝起きもすこぶる悪く。
わがままそのもののクレシェンタ――今も膝枕で壁を蹴りつつぷりぷりと頬を膨らませていた。
膨らんだ頬を指で潰すとぷひゅーと間抜けな音がして、セレネは楽しげに笑い、不満げにクレシェンタは睨み付ける。
「ふふ、ベリーが来なくて寂しいんでしょ?」
「そんな訳ありませんわ。わたくしを馬鹿にしてらっしゃいますの?」
「思ったままを口にしただけよ。お許しを」
そんなクレシェンタの頭を撫でつつ微笑む。
「ま、明日には王都。帰ったらちょっと休めるようにしてあげないとね。クリシェもしばらくしたら一度帰ってくるでしょうし……」
十万のガルシャーン軍に対し、半数の軍で半日掛からず圧勝した。
伝令の報告では戦いにもならぬほどのもので、クリシェにもさしたる疲労は見えなかったらしい。
手放しで安心出来る、というわけでもなかったが、もはやセレネにも大きな不安はない。
心理的な重圧もある程度解消され、調子もよく。
「アルガン様の心配性はどうにかしたいものですわ。ちょっと目を離したら上の空ですもの。なんとかしてくださいまし」
「……やっぱり心配なんじゃない」
「心配なんてしてませんわ」
ぷりぷりと再び頬を膨らませ。
セレネはくすりと笑って頬をつついた。
同じく夕暮れ。
朝から二人並んで料理して、屋敷の掃除に馬と翠虎の世話をして、風呂に入り。
二人は幸せにいつもの生活を満喫していた。
「どうですか? これで調節出来ると思うのですが……」
舌には淡い青色、幾何学紋様。
活性化した魔術式であった。
クリシェはベリーの舌から指を離して、様子を見ながら尋ねる。
ベリーは目を閉じ舌を動かし、それから手の甲に垂らした蜂蜜を舐め取った。
それを味わった後、手に持った魔水晶――味ぴりりんに魔力を流し。
「……そうですね。慣れるまではちょっと時間が掛かりそうですが」
刻み込んだのは甘味と酸味を感じ取るための魔術式。
朝に刻み込み、一日試し結果としては上々。
ただ、舌に刻み込むのと魔水晶から感じ取るものではやはり、多少の差異がないではない。
そのためそれを微調整するための魔術式も書き加え、細部に微細な変化も加えた。
不安そうに見つめるクリシェに微笑んで、大丈夫ですよ、とベリーは微笑む。
「お料理と一緒です。すぐに最上の結果を目指さなくても、時間はいくらでも。少しでも味を感じ取れるようになっただけで、すごく幸せな気分ですから」
「……はい。えへへ」
頭を撫でられると微笑んで、クリシェはベリーの膝へと横乗りに。
「もっとクリシェもぱぱっと探せたら良かったのですが……」
「内容を聞く限り、クリシェ様だからこそ出来る領域の話です。理屈を学んだわたしが仮に同じことをやろうとしても、一生掛かって出来るかどうか……」
机の上――羊皮紙に描かれたクリシェの図解を眺めて告げる。
クリシェの言う無数の粒々なるものがそこに描かれていたが、ベリーであってもそれだけでは難解。
少なくともベリーには知覚出来ず、まずはそれを見るための道具を作り上げる必要があるだろう。
視覚を拡大させる極めて高精度のレンズのようなものか、あるいは魔力による知覚を増幅させる術式か。
クリシェのような知覚を得るための手段を手にして、そこでようやくスタートライン。
そしてスタートラインに立てたとしても、食物の中から特定の因子を見つけ出すのに掛かるであろう莫大な年月――想像するだけで途方もない作業だった。
不可能であるとも思わなかったが、少なくとも一朝一夕で出来るようなものとは思わない。
「……いずれはこういう研究も盛んになるのかも知れませんね」
「んー、そうでしょうか?」
ベリーはぼんやりと言って、クリシェは首を傾げた。
「ええ。金を生み出そうとする錬金術の話はご存じでしょう?」
「はい。なんだかよく分からない事を繰り返してる人達ですね」
「ふふ、色々な試行錯誤ですよ。本当に彼等が探しているのはクリシェ様の仰るこの粒々なのかも知れません」
クリシェが描いた図解を指さしベリーは告げる。
「例えば全てのものがこうした粒々で出来ていて、その何らかの組み合わせが物体を形作るのであれば、後は二つ。それを観測し、安定して変化させる手段を手にすれば、単なる石を宝石に、銅から金銀を作り変えることも可能かも知れません」
「それは……確かに」
「錬金術師の方々でも、金自体を錬成することを本心から目指している方は稀でしょう。それは建前、要するに彼等は物質を自在に変化させる術を探しているのですよ」
ベリーは指を立てて微笑んだ。
「クリシェ様の仰るこの粒々を観測させる道具を手にして、細部に干渉するための特殊な術式を手にして。クリシェ様ほどの能力を持たない人間でも研究を行えるような、そんな環境が整えばきっと、いくつもの技術的な革命が生まれてくるでしょう」
ベリーは言いながら考え込み、ポケットから銀貨を取り出す。
「そうなると貨幣もより概念的なものになっていきそうですね。今のように貴金属による取引ではなく、高度な術式の付与された何かや、証文取引のようなものになっていくのかも……」
ふと視線に気付いて下を見ると、クリシェはじっとベリーを見つめて微笑んだ。
「どうされましたか?」
「えへへ、ベリーが楽しそうで良かったです」
「あ……」
言われた言葉に顧みて、頬を染め。
少し恥ずかしそうにクリシェを抱きしめた。
「ベリーは色んな事を考えるんですね」
「色んなものに興味があったので……とはいえ、クリシェ様と違って全部囓ったくらいなので、お恥ずかしい限りですが」
「……囓る?」
「鼠のように、美味しいものを一口だけ囓るのです」
頭に囓りつく振りをすると、クリシェはくすぐったそうに身をよじる。
「色んな知識を深めるのではなく上辺だけ。広く浅く、ですね。……熱を入れてるのはお料理くらいでしょうか」
くすりと笑って頭を撫でると、クリシェもまた嬉しそうに微笑み。
「……ベリーがお料理に熱を入れてて良かったです」
「はい。……わたしもそう思います」
クリシェは少し身を起こすと、唇をゆっくり押しつけた。
しばらくそうして。
離れてからはじっと見つめて。
それからふと、クリシェは棚の上――補充された寝酒のワインに視線を向けた。
その視線に気付き、ベリーは頬を赤らめ。
「……今日も寝酒、飲みますか?」
聞こえた言葉に大きな瞳を見開いた。
クリシェの顔を見つめ返して、わるいお方、と困ったように。
ほんのり赤い頬を引っ張る。
「うぅ……」
「……もう、寝酒は寝付けない時に飲むものですよ?」
そう言いながらも考え込んで、囁くように彼女へ言った。
「……でも、クリシェ様が飲みたいと仰るなら、わたしはお付き合いしなければいけませんね」
いかがでしょうか、と尋ねると、クリシェも同じく考え込んで。
首をこくりと縦に揺らした。





