番外編 始まりの英雄譚
森の中。
数十名の兵士が焚き火の周囲に集まっており、中央には二人の男。
「どういうつもりだクリシュタンド? 深追いはするなと言ったつもりだが」
雑に切られ、伸びた髪を後ろに掻き上げ。
鋭い瞳で睨み付けるは弓を担いだ百人隊長、ガーレンだった。
対する兵長、ボーガンはその体格と険しい顔に見合った、堂々とした態度でその目を見返す。
「は。命令は承知の上――ですが深追いではありません。私の足なら仕留められる範囲、事実仕留めました」
少し伸びた金の髪を揺らし、涼しげにボーガンは告げる。
逃げだした副官相当の男を仕留めた――手柄としては悪くはない。
「……お前が優れた能力を持つことは認める。手柄も良い。だが、兵長でありながらわしの指揮下を離れ、お前の独断行動が許されるかと言えば否だ。三人が負傷した、お前が指揮を放棄しなければ防げたかもしれん」
「は。ですが三人とも少し休めば戦闘続行可能、怪我の内に入りません」
「……ガーレン隊長、負傷はクリシュタンド兵長に一時隊を任せられた私の責任です」
二人を囲む男達の中から声を上げたのは美麗な顔――赤銅の髪。
ノーザンであった。
言葉とは裏腹に、ガーレンに対し敵意を向けるような目。
ガーレンはそれを見返し、笑った。
「責任の原則も知らぬはなたれが良く言える。お前は伍長であり、兵長ではなく、クリシュタンド指揮下の一班長。わしはお前に隊を指揮しろと命じた覚えはなく、クリシュタンドにそうするよう命じたつもりもない」
そして目を細める。
「……口を挟むな。責任はクリシュタンドであり、そしてわしが取るものだ。自分の尻を拭けるようになって出直せ」
ノーザンはあからさまな不快を浮かべながらも、失礼しました、と一歩下がる。
再びガーレンはボーガンへ視線を戻す。
「……お前は一人で戦っておるのかクリシュタンド。お前の判断がわしより正しく、そして大隊長より正しく、軍団長、将軍よりも正しいと?」
「……いいえ、違います」
「お前にとっては小物の首でも大手柄だ。嬉しかろう。だが、戦は敵のより高位な指揮官、将の首を取らねば終わらぬ。お前はまるで、目の前の餌に飛びつく駄犬のようだ」
ボーガンは眉間に皺を寄せ、ガーレンは近づくと睨み付ける。
「任務の主目的はあくまで敵輜重隊の襲撃。やむを得ない遭遇戦は仕方ない。だが、お前の蛮勇と戦果で敵は警戒を強めただろう。少なくともわしの意図と食い違う結果、これが積み重なれば大隊長、軍団長の戦術構想にまで影響を与える。理解しておるのか?」
「……は」
「そしてお前のそうした行動はいつか己のみならず、仲間の命を奪うことになると理解しておけ。……今日は終わりだ。各員配置に、休息を取れ」
ガーレンはそう言ってその場を後にし、その様子を見ていた男達も各々休息に入り。
憮然とした顔のボーガンにノーザンが声を掛ける。
「……小言が多くてうんざりしますね、兵長」
「理屈は正しい。正論だ」
言いながらもどこか納得のいかない様子で歩き出し、木に背中を預けると座り込む。
ノーザンはそれに続いて隣の木に。
「私は生まれを呪いたい気分ですね。男爵家の三男坊に生まれなければ、泥まみれになることも、猪の尻を追っかける狩人から偉そうにされることもなかったでしょう」
「そう言うな。少なくとも隊長は弓の名手だ。指揮に関しても悪くない」
隊長ガーレンは魔力を扱えぬが、無能ではなく兵卒からの叩き上げ。
悪くはない上官であった。
「……少し臆病だがな」
だが問題は、あまりにも慎重に過ぎる所。
あまりにガーレンは兵の損耗を恐れる。
「確かに。我々のように腕がないからでしょう」
笑ってノーザンは同調する。
彼は隊で最も若いが才能に溢れ、剣技においては隊内でもボーガンに次ぐ。
侮りではなく事実であった。
貴族と平民――魔力の有無は戦場において絶対的な差であった。
どのような状況であっても、魔力保有者であれば切り抜けられることが多い。
しかしガーレンは魔力保有者ではなかった。
彼の臆病さはそこから来るものなのだろう。
戦列を組む一般歩兵隊ではなく、特殊軽装歩兵隊に配置されたまでは良かった。
がっかりしたのは、その隊長が平民出、魔力を扱えない人間であったこと。
隊長の能力は自ずと戦術選択を左右する。
ガーレンは任務に忠実、規律を重んじ、軍人としては尊敬に値する男ではあったが、あまりに隊の損耗を恐れる欠点があった。
彼に従い、この隊で戦果を挙げるのは簡単な事ではない。
「将軍までの道は遠い。まぁ、これも勉強だ。生まれつきの大隊長に比べれば、我らが得られる経験というものは貴重なものに違いない」
「そういう考え方を見習いたいものですね。兵長が早く上に行って、私を引っ張り上げてくれることを期待しますよ」
――その数日後。
険しい顔を兜に包み、ボーガンは睨むように藪の向こうを眺め。
「……どうします、隊長の指示まで待ちますか?」
笑って尋ねたのはノーザン。
ボーガンは渋面を作り考え込んだ。
「命令違反は二度目。望ましくはないが……」
眼前には道を歩くエルデラント軍の敵輜重――馬車は80、護衛は約150人。
東西を森に囲まれ、伏撃には絶好のタイミングであった。
森の西、こちら側にはボーガンの50人、東には百人隊長ガーレンの50人。
タイミングを合わせての挟撃。相手を一息の間に一網打尽にする。
そういう作戦であったが、敵指揮官らしき騎馬の男は予想された中央でも後方でもなく先頭。
迂回していたガーレンは未だ配置につけていない。
襲撃はガーレンが合図を送ってから――しかしこのままでは取り逃す恐れがあった。
エルデラント人は森を住処とする。一度逃げ出されれば追撃は困難だろう。
挟撃は確かに利が大きいが、そのために機を逃すのは間抜けのすること。
ここで行かない手はなかった。
こちらにはノーザンもいる。それだけで状況は悪くない。
「今しかないな。ノーザン」
「は」
左手を挙げ、後方へと合図を送る。
相手は無警戒に見えた。横のものと談笑しながら道を歩いている。
兜を被らず、編み込んだ髪を揺らす敵指揮官。
その男は時折周囲に目を向け警戒している様子が見えたが、しかし部下が悪い。
「……行くぞ」
道を挟んで対面に小石を投げつけ、枝葉を揺らす。
一瞬敵兵の視線が左に――その瞬間長剣を引き抜き、誰より先に踏み込んだ。
藪を飛び越え、道へ踊り出るとまずは一人。ノーザンがそれに続いて更に一人。
「敵しゅ――」
そして声を張り上げかけた敵指揮官の首を刎ねる。
怯えた顔――まだ若かった。経験不足だったのだろう。
そうして更に数人を斬り殺せば、後ろからこちらの兵達が続いた。
しかし、あまりの手応えのなさにボーガンは一瞬違和感を覚える。
エルデラントは戦士社会、基本的に家柄よりも強さこそが重んじられた。
当然敵指揮官はある程度の強者となるが、護衛も指揮官もあまりに弱い。
殺される寸前の怯えた眼――どういうことか。
ボーガンは考え、すぐに答えが出た。
「――出たぞ、先頭だ!! 行け!!」
張り上げたのは縦列の中程にいた男。
兜を脱ぎ捨て叫び、側にある馬車の中から兵士達が現れた。
顔に入れ墨を入れ、髭を生やし――大きな違和感はそこ。
これまで戦っていた敵の精鋭と見られる相手は皆、そうであった。
入れ墨と髭、恐らくそれは部族の中でも戦士を示す象徴なのだ。
「やられたな、ノーザン」
「蛮族のやりそうな手です」
しかしボーガンは冷静さを失わず、そしてノーザンも同じく。
兵達には一部混乱が見られるが、こちらも精鋭の軽装歩兵。大きな問題はない。
敵のそれも単なる小細工――馬車から現れたのも精々30といったところ。
偽装馬車はそれだけで、150人が180人に変わっただけだ。
ガーレンの言うとおり、これが警戒を強めさせた結果かとも考えたが、今考えるべき事ではない。
「私が斬り込み役を」
「任せた」
言うが早いかノーザンが敵指揮官へ。
「敵指揮官は私とノーザンに任せよ! お前達は護衛を潰せ!!」
兵達に叫び、そしてすぐさま後を追う。
ノーザン=ヴェルライヒの剣は流麗――鮮やかに敵指揮官、その護衛を切り崩す。
――だが、敵も中々のもの。
振るう大槍は風を貫き、ノーザンへ。
間一髪身を躱すが、続く薙ぎ払いは躱しきれず、ノーザンはそれを剣で受けざるを得なかった。
その体は弾き飛ばされ、即座に受け身を取って立ち上がったがしかし、相手の方が一瞬早い。
ボーガンは短刀を引き抜き投擲、男は上体を反らしてそれを躱し、大きく後方へ跳躍。
距離を開く。
「アルベランの腑抜けにしては中々やる。俺の名はミークレアのゲイルビーグ。お前達を殺す者の名を覚えておくがいい」
――精強なる魔力保有者であった。
ノーザンに対し真正面から打ち勝つ相手――果たしてボーガンでも勝てるかどうか。
とはいえ、逃げる選択はない。
「ボーガン=クリシュタンドだ、覚えておくといい蛮族!」
叫び踏み込む。相手の選択は突き。
相手の大槍に対し、左の手甲をぶつけて軌道を変え、相手の間合いの内側へ。
男は僅かな後退、その身を捻る。
こちらに背面を向け――ボーガンの困惑、一瞬の隙に、脇の下から伸びるは槍の石突き。
ボーガンは咄嗟に後退するが、避けきれず。
革鎧の腹に石突きが命中、貫かぬまでも衝撃が走った。
「ッ、兵長!!」
右手からノーザンが迫り、男へ一刀。
しかしそれさえも男は躱し、ノーザンの胴を蹴り飛ばすとこちらへ。
「終わりだ!!」
頬を吊り上げ大槍を。
ボーガンは体勢を整えきれず、咄嗟に防御を選択し。
だが――
「――、ぁ?」
迫っていた男の側頭部を矢が射抜いた。
男の目玉がぐるりと上を向き、崩れ落ちる。
「敵指揮官は死んだ! 残りを始末しろ!!」
放ったのは、東の森から現れたガーレン。
指揮官首に目も向けず、身を起こしたボーガンを一瞥する。
「コーズ、お前の班はクリシュタンドが指揮を執れるようになるまで補佐をしろ!」
「は!」
「他のものは後方へ。モーラズ、お前は半分を率いて最後尾に向かえ。優先すべきは輜重を焼くことだ。敵を追い払うだけで良い」
指示を飛ばすと再びガーレンは矢を番えた。
短いながらも硬い、私物の剛弓を容易く引き、放たれる矢は次々に敵を射抜いた。
並の相手など寄せ付けぬ速度と正確性。
先ほどの手柄を誇るでもなく、彼はただ、着実に相手を仕留めていく。
「クリシュタンド兵長、怪我は?」
「……ない。ノーザン?」
「っ……私もです」
咳き込みながらもノーザンは立ち上がり。
大柄な班長――コーズは困った相手を見るような眼で二人に告げる。
「ガーレン隊長の指示です。すぐに立て直しを」
「……、わかっている」
少なくとも、その命令に逆らえる気はしなかった。
後始末を終え、後退し。
ガーレンは何も言わなかった。
後にしろと謝罪も聞かず、必要最低限。
ようやくそのことについて口を開いたのは二日後の夜――味方の側まで戻って、安全が確保されてからだった。
「――まぁ、いくら口で説教しても変わらんだろう。剣を抜くといいクリシュタンド」
「は……?」
「ヴェルライヒもだ。まとめて相手をしてやろう」
ボーガンとノーザンは顔を見合わせ、笑うガーレンに目を向ける。
「お前達が勝てば、わしはそれで軍を去ろうじゃないか。クリシュタンド、その際に百人隊長が至当であると大隊長に推薦してやる。隊は好きにすれば良いだろう」
「が、ガーレン隊長……」
「黙っておれコーズ。……なんだクリシュタンドその顔は、不満か?」
ガーレンは小馬鹿にするような眼をボーガンに向け。
ボーガンは眉を顰め、見返して言う。
「お怒りはもっとも。窮地を救われたのも認めます。……ですが、それはあまりに侮り過ぎではありませんか? 恥を掻かせるのは本意ではありません。ガーレン隊長ではどちらか一方でも勝ち目がないでしょう」
「やるのかやらんのか、それを聞いておるのだクリシュタンド」
腰の小剣、その鞘を叩いて笑った。
「くく、豊かな街で育てられた飼い犬は吠えるしか出来んと言うが、まさにその通りだな」
その言葉は明確な挑発であった。
もはやボーガンもノーザンも明らかな敵意を見せ、ガーレンを睨み付ける。
「……、私も貴族の端くれ。いくら上官と言えど、それを侮辱されては笑って受け流せはしません」
「お前は矜持だけだな、クリシュタンド」
「……忠告はしました。ノーザン」
苛立った様子でノーザンは剣を引き抜く。
魔力も使えぬ相手に対し、二人がかりなどそれこそ恥であった。
ノーザンは剣を構え、呆れたようにガーレンは弓と矢筒をその場に置いた。
そして小剣を引き抜き、
「まとめてで構わんと言ったはずだが」
「っ……!!」
その声にノーザンが踏み込む。
一息の間に五間を押し潰し、剣を振りかぶり、
「な……っ!?」
眼前に投げつけられたのは小剣の鞘。
それを躱すためノーザンは咄嗟に身を躱し、体勢を崩しながらもガーレンの横を。
だがガーレンは横をすり抜けようとしたノーザンに、足を引っかけ転倒させる。
そして転がったノーザンが立ち上がろうとする前に、短刀をその顔の真横に投げつけた。
「これで戦死だな。貴族の家だ、盛大に弔ってくれるだろう」
ノーザンは言葉も出ずに硬直し、ガーレンは笑ったままにボーガンを見る。
「何をしている、……来ないのか?」
「……単なる小細工の結果です」
「そうだな、ヴェルライヒは単なる小細工で死んだ間抜けだ。だがまぁ、お前も似たような間抜けを晒すことになるだろう」
ボーガンもまた剣を引き抜いた。
「……怪我をさせない自信はありません」
「口を動かしていないで、自慢の剣を振って見せてはどうだ?」
舌打ちをして踏み込む。
一歩で間合いを潰しきらず、剣を持たぬガーレンの左手へと回り込んだ。
大上段から長剣を振るい、
「っ!?」
ガーレンはまるで倒れ込むようにボーガンの足元へ。
ボーガンの足を取るとそのまま身を起こし、その大柄な体躯を大地へ叩きつけた。
そしてその右腕と胴を踏みつけ、小剣の切っ先をボーガンの首へ突きつける。
「これでお前も戦死。……この隊の兵長と班長ともあろうものが、二人揃って間抜けだとは悲しい限りだ」
呆然とボーガンは、自らの首に突きつけられた小剣を眺め、ガーレンを見上げる。
ガーレンの顔に笑みはなく、猛禽の如き鋭い眼光がボーガンを射抜き。
「……どうだクリシュタンド。異論はあるか?」
見ていた誰一人として声を発さず、空気は凍り付いていた。
ガーレンに声を荒げる様子はなく。
だというのに臓腑にまで響くような声。
「……、ありません。隊長」
その声にガーレンは小剣を引き、ボーガンの腕から足を降ろした。
「お前の言うことはもっとも。お前もヴェルライヒも、わしと比べればあらゆる能力に優れる。強弱で言えばわしと比べるまでもなかろう。だが、お前達は己の力を過信する。勝てば百人隊長、稀な機会を前にして矜持にこだわり、連携を取らず」
寝転がったまま、ボーガンはそれを聞き。
「結果が優位な状況を自ら捨て、各個撃破だ。戦術としてどう思う」
「……下の下です」
「そうだな。その上、剣で挑むことにこだわった。わしはルールを提示したか? 勝てと言っただけだ。わしがそうしたように、お前もわしに剣の鞘を投げつけてやれば勝負はそれで終わり――お前達の弱点は全て全て、己の力への過信と驕りだ」
ガーレンは放り投げた鞘を拾い上げに行き、ようやくボーガンも身を起こす。
小剣を鞘に、再び腰に取り付けながらガーレンは続けた。
「お前達は己が勝てる相手にしか勝てんだろう。それどころか勝てる相手にすら、そうして命を奪われる。……何のために班を組む? 隊を作る? 戦術は何のためにある?」
「……戦力で勝る相手を破るためです」
「そう。矜持を排した本心では理解しているはずだ。……今回戦った敵で分かっただろう。二人がかりでも勝てぬような猛者が敵の中にはいる」
敵指揮官を思い浮かべ、拳を握る。
少なくとも、相手は互角以上の強者――いや、二対一でこちらは仕留め損ない、窮地へ追い込まれた。
仮にあのまま戦っていたところで、討ち取れたかと言えば怪しいところだった。
「だが、そんな相手に対してであっても、軍人に負けることは許されん。故に勝つため優位を手にする。わしが口うるさく言うのはそのため」
「…………」
「とはいえ、これ以上小言を言わんでもわかるだろう。既にお前は己の選択――その中で何が失敗でどうするべきであったか、心ではわかっているはずだ」
側まで来ると、再び見下ろす。
怒りではなく、どこか優しさを帯びた瞳。
「お前達は若く、才がある。……まずはその驕りを削ぎ落とし、学べる内に多くを学べ。そして学ぶために生き残る術を身につけろ」
言って、ガーレンは右手を差しだした。
「功を焦らずともお前達ならば、いずれ知らぬ間に相応の立場になっているだろう」
ボーガンはじっとその手を眺めて。
それから右手を応じるように差しだした。
体は、力強く引き起こされる。
ガーレンはその顔を見て頷くと、周囲に目をやる。
「今日はクリシュタンドとヴェルライヒが食事の当番をやりたいそうだ。兵長と班長をこき使える貴重な機会、大いに楽しむといい」
周囲から笑い声が響き、ガーレンもまた笑みを浮かべてボーガンに目をやる。
「異論はないな? クリシュタンド」
ボーガンは唖然としながら、近づいてきたノーザンと目を見合わせ。
それからゆっくりと、左胸に右手を当てて、敬礼する。
あなたに命を捧げます――それは、そういう意味を持つ敬礼だった。
「……これからは家名ではなく、呼び捨てで構いません。隊長」
ガーレンはその目を見てまた頷くと、
「……わかった、ボーガン。作業に入れ」
左胸に親指を。
その忠誠を我が血とする――それは、そういう意味を持つ答礼であった。
椅子に腰掛けたボーガンは、まだ小さなセレネを膝の上に乗せ。
語るのは昔話。
屋敷に昨日訪れたガーレンについてであった。
「――そんな私の窮地を救ってくれたのが隊長だったんだ」
「そ、そうなの……あの、お父様、やっぱり戦場のお話はこわ――」
「現れた隊長は、ただの一矢で敵の指揮官の頭を貫いた」
「ひ……っ」
ボーガンはセレネの小さな頭、そのこめかみに指を押しつけ。
怯える娘には気付かず、心は過去に。
「びゅん、と飛んで来た矢で頭を貫かれ、私の前で男の目玉がぐるりと上を向くのが見えた。まさに正確無比、男はきっと痛みを感じる間もなく――」
「も、もうそのお話やだっ」
「? セレネ、どこへ……」
膝の上から逃げ出すようにセレネが走り出したのと、扉が開いたのは同時。
「お、お嬢さま、どうされましたか……?」
「べりーっ、ガーレン様のこと、聞いたら、お父様が、っ、怖い話ばっかり、して……っ」
クッキーを盆に載せたベリーに抱きつくとセレネはわんわんと泣きだし。
ベリーは困ったように、盆を棚に置いてセレネを抱き上げ。
「……ボーガン、あなたね」
その背後からこめかみをぴくぴくとさせながら、ラズラは仁王立ちでボーガンを睨む。
ボーガンは唖然としたまま泣くセレネを見つめ、ラズラを見た。
「ベリー、ちょっとセレネを宥めてあげて」
「えーと、はい、ねえさま……お嬢さま、大丈夫ですよ。平気ですから。……クッキーを焼いてきたのですがいかがでしょう? 自信作なのできっと……」
ベリーはセレネを抱きながら片手でソファに。
ラズラは美貌に怒りを浮かべて、クリシュタンド家当主を手招きする。
「ボーガン、ちょっとこっち」
「あ、ああ……」
それからしばらくラズラの罵声は部屋の中にまで響き渡り。
セレネもまた、それが終わるまで泣き止むこともなかった。





