死を振りまくもの
昼前――キースリトン軍野営地。
「……今後、ミアは寝るときに両手足を縛りつけておいた方が良いですね」
「おお、それは名案――」
「馬鹿、冗談でも乗らないの! く、クリシェ様、今後はちゃんと……」
「これに関してミアの気を付けますはもう57回聞きました。こういうのを口先だけの反省というのです。わかってるんですか?」
ぷりぷりとクリシェは腕を組んでぐるるんの上からミアを睨み。
そしてカルアに目をやった。
「カルア、普段一緒に住んでるんですからあなたが何とかするべきです。あなたは今日から正式にくろふよの特務班長兼ミアの寝相指導役ですからね」
「えぇ……? あのねうさちゃん、世の中にはどうしようもないことも――」
「カルア、うるさい」
ミアはカルアを睨みつつ、嘆息した。
眠っている間に起きた事故で何故こうまで不利益を被ってしまうのか。
実に理不尽である。
自分の体が呪わしい。
これで今日一日、事あるごとにクリシェに小言を繰り返されることが確定したのだ。
「はぁ……ご飯を食べれば機嫌が直ると思ったのに」
「……、聞こえてますよミア」
「あ、ああいえ、今のは言葉の綾で……」
「言葉の綾でクリシェをお子様やぐるるんのような扱いにしたんですか?」
「まぁまぁうさちゃん、ほらほら、美味しいパンだよ。おお、切れ込みの入ったパンに腸詰めとチーズが……」
籠に入れてもらってきた間食セットからカルアは手早くサンドを取りだし、ふりふりとクリシェに見せびらかすように左右に振る。
クリシェはむすっとしたまま飛び降りるとそれを受け取り、小さな口を広げて囓った。
肉の旨味が詰まった腸詰め、まだ温かく柔らかいチーズは塩気が強め。
しかしパンに挟まる事で味の濃さが軽減され――シンプル、豪快ながらも非常に美味な一品であった。
悪くないと頷きつつクリシェはそれに齧り付き、ぐるるんはどこか期待するような目でそれを興味深そうに眺めた。
「ぐるるんは食い意地が張ってますね。そんなに食べてばっかりいると太っちゃうんですから」
クリシェがパンを隠すようにすると、ぐるるんはぐるるぅ、と情けない声を上げ。
それを見たクリシェはむぅ、と考え込み、四分の一ほど千切って彼女の前に放ってやる。
ぐるるんは嬉しそうにぐるるぅと鳴いて、ぺろりとそれを平らげた。
「……全く。もう間食は駄目ですからね」
パンを囓りながら跳び乗り、横腹をぺちぺちと叩くクリシェを眺めつつ、カルアは何とも言えない顔で上機嫌なぐるるんを見た。
昨晩死闘を繰り広げた怪物が、これと同じ生き物だったとは思えない。
無論、ぐるるんと名付けられたこの『大きなにゃんにゃん』の活躍振りを知ってはいるが、やはり自分が貧乏くじを引いたような気分であった。
カルアが嘆息しながら視線を逸らすと、横から馬に乗って現われたのは女将軍、テックレア=レーミンだった。
「……アルベリネア」
「あ、おはようござ……こんにちは? んん……しばらくぶりですレーミン将軍」
「お久しぶりです」
兜は身につけぬまでも鎧姿。もはや大きな危険のない状況だが、性分なのだろう。
やや緊張を浮かべた顔で翠虎を見やり、馬から降りるとクリシェに敬礼――隣にあった副官ミルカルズもそれに倣う。
クリシェはぐるるんに乗ったまま親指を自身の胸に向け、答礼を行い、ミアとカルアも敬礼を。
「キースがお礼をと。レーミン将軍が残党狩りを手伝ってくれたおかげで随分楽が出来たと言ってました」
「は。当然の責務を果たしたまでです、アルベリネア」
テックレアがそう告げると、クリシェは二本の尻尾のように銀の髪を揺らしながら嬉しそうに微笑む。
彼女が座る翠虎を無視し、こうして間近で見るならばやはりどこまでも愛らしい少女に見えた。
外套の内側はワンピース、戦場に不似合いな姿もあるのだろう。
「キースリトン将軍はともかく、正直レーミン将軍は穴というか……んー、不安要素があったのですが、期待以上の活躍でした。いくらか損害があると思っていたのですけれど、想像よりも軽微、悪くない結果です」
ただ言葉は実に直接的、明け透けだった。
気遣いを感じるようで一切感じぬ物言いである。
カルアとミアは呆れたようにクリシェを見たが、テックレアは気にした風もない。
特に悪意もないことは知っていた。会議で似たような言葉を何度も聞いている。
これはむしろ、褒め言葉として受け止める所だろう。
「は。しかし私の指揮で軍団長を一人失い、自身の未熟を知りました。それ以上の失態を犯さずに済んだのもファレン元帥補佐、キースリトン将軍の助けがあればこそ。……以降、より身を引き締め、研鑽に努めようと思います」
テックレアはそう告げると、クリシェの瞳を見つめる。
「アルベリネアのご活躍とは比べるまでもなく。……此度の武勲、お見事でした」
「むぅ……クリシェとしてはちょっと今ひとつだったのですが」
クリシェは困ったように腕を組み、ぺちぺちと翠虎の肩を叩いた。
翠虎は歩き出し、テックレアは手綱を手で引き歩きながらそれに続く。
「取りこぼしがありましたし……」
「とはいえ、十分過ぎる成果です。今回のエルデラントによる侵攻は完全に打破したと見て良いでしょう」
一晩で十二万からなるエルデラント軍は壊滅状態であった。
少なくとも、組織的に撤退を行えたのは北部に展開していたアーカズ軍のみ。
その軍さえも撤退中クリシェに本陣を強襲され、追撃で後方を失い、風前の灯火だった。
もはや彼等には逃げ帰る以外の手もない。
「クリシェの目標は打破ではなく全軍掃討だったのです。北部は相当量の敵兵を逃がしてしまいました」
もっとぼんじゃらを持ってくるべきでしたね、と唇を尖らせ。
少し不満そうにクリシェは告げる。
一晩の内二つの軍を壊滅させ、残る一軍を戦闘継続不能な状態にまで追い込み、それでなお彼女に取っては今ひとつ。
テックレアはこの戦いを勝てるかどうかで見ていたが、根本的に違うのだろう。
彼女は勝利を前提に、その上で結果を選んでいた。
「後始末はキースリトン将軍とレーミン将軍にお任せですね」
アルベリネア軍で出されていたのは、夜明けまで敵兵の降伏を認めぬという旨の命令――殲滅戦であった。
彼女は言葉通り、可能であれば夜の内に12万全てを殺す気でいたに違いない。
戦後のために。
「西の平和のためにも、ここで敵兵力を削ぎ落としておくことには大きな意味があるのです。気を抜かないようにして下さい」
どこまでも冷酷で、敵兵に対する情などなく。
彼女に取って、それは単なる数字であった。
「二人の要望次第ではもう少し残ってお手伝いをしようか迷いはするのですが……」
どれだけ少なく見ても、昨晩死んだ敵兵は5万を容易に超えるだろう。
戦意を失った兵も、逃亡兵も、執拗に殺されたと聞く。
あまりに残酷な状況――わざとテックレアの所に、降伏した敵兵を送りつけた隊すらもあった。
聖霊協約の穴を突くようなアルベリネアのそんな命令には思うところがないではなく――だが、力なきテックレアに彼女を非難する言葉などない。
彼女の選択は少なくとも国防上正しく効果的で、軍人として正当であるのだから。
「いえ。……残る仕事は私とキースリトン将軍にお任せください。アルベリネアのお手を煩わせるほどのことではありません」
だから、発することが出来るのはそんな言葉だけ。
戦場には崇高なる理念があるべきだとテックレアは考える。
踏み越えてはならない一線が、どこかにあるのだと。
間違っているとは思わない。己も、彼女も。
だからこそテックレアは己の裁量で、やれることをやるだけだった。
「えへへ、そうですか。ならお任せします」
「……は。予定通り、アルベリネアはファレン元帥補佐と?」
「そうですね……」
クリシェはその言葉を聞いて、首から提げた小袋を大切そうに握り締め、
「……ただ」
「……?」
そして幸せそうに頬を緩めた。
「クリシェはここで一旦別れて、王都を経由して東、ですね」
敵将に背を向け、右翼から本陣へ戻る途中、南――右翼側面から現われたのは敵軍団。
大規模な敵の側面奇襲であった。
レドはまずそこで選択を迫られた。
無視して本陣へ戻るか否か。
レドの率いる狩猟隊1000――これの援護がなければ右翼は壊滅するだろう。
本陣の異常は無視すべきではない。
だが、この右翼への奇襲も無視すべきではない。
――状況は混沌としていた。全体像ははっきりとしない。
少なくとも、前線にあったレドにミークレアが既に崩壊し、南から一軍規模の軍が迫っているなどという事情を知る由もなかったのだ。
間違いなくこちらの本陣は奇襲を受けているが、レドはあくまでこれを精鋭の伏兵による少数奇襲だと考えていた。
既に状況が詰んでいるなどと、彼は夢にも思っていない。
あくまで彼の頭にある構図はヴェーゼ軍対キースリトン軍。
そこから推察していけば、本陣奇襲以上に恐ろしいのはこの右翼の壊乱、キースリトン軍の正面突破。
『っ……、本陣はシェルナ、ズレン達やジーグレット様もいる! 俺達は右翼の後退を支援し、敵の突破を防ぐための遊撃に動く!!』
現場指揮官として彼の判断に誤りはない。
私情を排した勇敢なる隊長レドの言葉に、ヴェーゼの狩猟隊は力の限りの奮戦を見せた。
彼等の活躍なければヴェーゼ右翼は一息の間に壊滅していただろう。
とはいえ、右翼に側面から迫っていたのは王国最精鋭、アルベリネア直轄――コルキス=アーグランドの第二軍団。
内戦を戦い抜き、ガルシャーンを真正面から打ち破り、士気練度共に全盛。
真正面からであってもヴェーゼ右翼を圧倒したであろう一個軍団。
それによる側面奇襲はとても耐えきれるものではなかった。
既に正面からキースリトン軍の猛攻を受けている状況、レド達の奮戦は焼け石に水であり、
『威勢がいいな。随分耐えると思ったが……お前が遊撃隊の指揮官か』
『っ……』
その守りを突破したのは、血に塗れた銀虎の鎧。
総身鋼の鉄棍が如き大槍を易々と振り回す化け物であった。
今のレドからは遥か格上、男が引き連れる精鋭達――少なくともボロボロになった狩猟隊で戦えるような、生易しい相手ではなかった。
『レド、カナルア戦士長としてお前達に心より感謝する。……だが、もういい。右翼はもう耐えられん。お前達はシェルナ様の所へ行け』
『だが――』
『カナルアの戦士よ! 刃を手放さず、死を恐れずに戦い抜け!! 我らの血と武勇――必ずや未来に語り継がれることとなろう!! アルカンド!!』
『は!!』
右翼――カナルア戦士長は自ら精鋭を率い、敵軍団長へ。
レドはそれに背を向ける他なかった。
状況を理解したのはそこに至ってから。
明らかに、先日まで戦っていたキースリトン軍とは毛色が違う。
キースリトン軍とは全く別の軍がこの戦場に存在しているのだ。
十分な時間が経った。
しかし、南のミークレアがこちらの援護に動いた気配がない。
彼等が攻撃を受けたとの報告を、カナルア戦士長から聞いていた。
続報はなく、冷たい汗が背中を伝う。
――森を抜けて本陣に出れば、そこは既に敵に制圧されていた。
野営地は乱れ、大地に倒れるのはエルデラント兵――戦闘が行われたと思えないほどに一方的な様子。
敵兵の死体は少なくとも見えなかった。
『森から出てきた不埒者を射抜いてやれ! ファグラン、森に対し広く戦列を組め、あちらと挟み込むぞ!!』
敵は数千、一個軍団とするなら5000はいる。
少なくとも手負いのレド達――500を切った狩猟隊にどうにか出来る相手ではなく、レド達は森の中を北に進む。
どうあれ、この戦いにこちらが敗れたことは気付いていた。
本陣は崩壊、中央も統制を失い、左翼もそうだろう。
ヴェーゼ軍は壊滅と言うべきで、逃亡兵が森の中を埋め尽くし北へと走っていた。
森にいるヴェーゼ軍は東西を挟み込まれ、南から敵――もはや逃げ場は北にしかない。
レドはこれが本陣救援ではなく、単なる敗走に変わっていることに気付いていた。
副官ベズを犠牲にして、多くの隊員を犠牲にしての敗走。
それでもただ、シェルナの無事を祈り、兵を鼓舞する。
本陣にはズレンもいた。シェルナは誰より強い。
少なくとも、生き延びているはず――そう考えて北に。
中央後方を抜けて進んで行けば、矢の突き立った無数の死体。
本陣に残してきた狩猟隊の姿もそこに混ざっていた。
本陣から逃げる途中、追撃を受けたのか。
それにしてもあまりに一方的で、戦闘の形跡すらなく。
誰もが一本の矢で命を奪われており、そしてへし折れた木々が見えた。
向かっているのは本陣から北東――キルスの左翼。
真っ直ぐ北に逃げていく兵達を無視し、レドは狩猟隊を引き連れそちらに向かった。
首のない司祭長、ジーグレットの死体を目にしてからは部下達を置き去りに。
枝葉が顔を傷つけることすら気にも留めず、
「ぁ……」
――そして。
キースリトンの大天幕ではしばらく、今回の戦闘被害について報告と話し合い。
クリシェは終始上機嫌であった。
損失は軍団長一人、倍の戦力を相手に兵の損失も1万に届かない。
多少の消耗はあれど6万3000対12万で始まった戦として考えればないに等しい被害であった。
直接戦闘を可能な限り避けたエルーガ主導の段階的な後退戦術、フェルワースの指揮が上手く噛み合った結果と言え、三分の二に近い敵兵を始末出来たことを思えば文句のない大勝と言っていい。
「――概ね問題なく、互いの状況報告はひとまずそのくらいでしょうか。ガイコツっ、えへへ、改めてお疲れさまでした」
「ええ、クリシェ様も。しかしお早い到着でしたな、おかげで損失も少なく済みました」
「ガイコツが頑張ってくれたからですよ。ガイコツはいっつもクリシェの期待通りです」
エルーガの手を掴むとぶんぶんと振って嬉しそうに、エルーガも嬉しそうに邪貌を歪めた。
美少女と好好爺の一幕に見えなくもないが、その邪貌はどうにも邪悪。
女将軍テックレアは何やら後ずさりたくなる気持ちを堪え、踏みとどまる。
エルーガの副官クイネズとミアは何やら彼女に通じ合うものを感じながら目を見合わせた。
不思議な友情と言うべきものがこの場には存在している。
「キースリトン将軍、レーミン将軍もお疲れさまです。予定通りガイコツはこのままもらっていきますから、以降はそちらで残党狩りと占領された街の開放をお任せします」
「……しかと」
「キースリトン将軍達は適当に北にいるアーナと協力を。残党狩り程度であればそれなりに有用でしょうし、相手はエルデラント兵です。なるべく取り除いておかないと戦後賊に悩まされることになるでしょうから、念入りに」
クリシェは困ったように言った。
「未届けの村も沢山焼かれてるみたいなので、その辺りもついでに何とかしてあげてください。そういうのが沢山作られていたようですし、ヒルキントスが民衆保護を怠ったことが原因と考えれば放置は何やらかわいそうです」
その言葉にフェルワースは意外そうな顔をして、じっとクリシェを見つめた。
クリシェは小首を傾げ、フェルワースは苦笑する。
「いえ、少し意外でしたので。そういうことならばもちろん」
「……? まぁいいですけれど……クレシェンタは速やかな失地回復と安定を望んでいますから、適当にやっても多分希望に合うでしょう」
「は。畏まりました」
ほんの少し嬉しそうにフェルワースは敬礼し、テックレアもそれに倣う。
クリシェは頷き、甘ったるい紅茶を口にして、再び視線をエルーガに
「ガイコツはおじいさまやにゃんにゃん達と北を回って東ですね。長旅ですし、行軍はそこそこ急ぎつつ適当に……」
「ええ。……現状東はどのように?」
王国では情報封鎖が行われており、エルーガ達は他の地域の情報を知らない。
クリシェは予定よりちょっと調子が良さそうです、と微笑んだ。
「ガルシャーンは素直に降伏してくれて一時的に問題がなくなったので、南からガーカ将軍達がそのまま東に回っています」
東は当初の予定以上であった。
本来は無傷の中央軍と共に王国南部を解放しつつ、ダグレーンは折を見て東に向かう予定だったのだが、ガルシャーンが降伏したため一時的に問題が解消。
ダグレーンと中央の将軍は最低限の兵力を南に残し、南東部からエルスレンへの圧迫を開始している。
最低でも4万の兵力。王国北東の樹海にアーナの軍があることもあり、エルスレンの気を削ぐには十分な兵力だった。
エルスレンは北と南から圧迫を受けている状態となっている。
「こっちも終わったようなものですね。詳しい状況はわかりませんが、ヴェルライヒ将軍なので大丈夫でしょう」
クリシェは言った。
特にウルフェネイトは強固な城郭都市であり、率いるのは内戦からそれなりに評価の高いノーザン。
彼が指揮するとなれば、クリシェとしても防衛戦に問題は感じていない。
「……そうですな。その状況、ヴェルライヒならば上手くやるでしょう。先日の戦い振り――今ではクリシェ様を除けば、王国一の将と言える」
フェルワースは頷く。
元より単なる一軍団長の身であったのが勿体ないほどの男であった。
「クリシュタンドも私も殿下も――」
殿下、の響きにクリシェが眉間に皺を寄せ、失礼、と苦笑する。
「……クリシェの前で口にしないように、って言いましたからね、もう」
ぷりぷりと頬を膨らませながらクリシェは告げ、隣のエルーガはまぁまぁ、と困ったようにクリシェの頭を撫でた。
「申し訳ありません。悪気はなかったのですが」
「……、まぁいいですけれど」
ふくれっ面のまま告げるクリシェは子供そのもの、あまり事情を知らないテックレアは困惑しながら副官と目を合わせる。
カルアは少し表情を硬くして、ミアは黙ってその手を引っ張った。
二人も静かに視線を合わせ、再び普段通りに。
「まぁ、ともあれ……彼を知る者は皆、将軍になるべきだと考えていた男です。そこにガーカが加わるとなれば、私としても安心が出来る」
「同意見ですな。兵力十分と言えぬまでも、元々三方で最も厚い。ゴッカルス将軍、リークルス将軍も悪くなく……不足はないでしょう。最も難儀な相手ではありますが」
エルスレンは三国の中で最も装備が整い、将も優秀。
そして何より遊牧民出身の騎兵が強い。
防衛戦はともかく、相手が機動力を十全に活かせる平野での決戦となれば、仮に兵力優勢であっても真っ向からぶつかり合うのは中々危険な相手であった。
ダグレーンにも独断で行動はせず圧迫に留めるよう事前に伝えてある。
「まぁ剛柔兼ね備えたヴェルライヒ将軍、防衛戦に限れば危うきはない。クリシェ様も随分な働き、お疲れでしょう。これを機会に少し羽を休めてください」
「……えへへ、はい」
そう告げるエルーガに照れた様子で赤くなった頬を両手で押さえた。
それを見てテックレアは、思い出したように尋ねる。
「……そう言えば、アルベリネアは王都を経由され東に向かうのでしたね」
「はい、セレネやクレシェンタへの報告や、先行してヴェルライヒ将軍と打ち合わせをしたりだとか色々……そ、そのついでにちょっと、お屋敷で……家のお手伝いをしようかなと」
照れ照れと恥ずかしそうに告げるクリシェを見ながら、エルーガは邪貌を歪めて苦笑して。
「この戦果です、クリシェ様が少しお休みになったところで責めるものなどいませんよ。むしろ息抜きは必要です。軍が向こうに行くまでそれなりに時間が掛かりましょう。それまではごゆるりと。また私もクリシェ様とベリー君の手料理を頂きたいところです」
「はいっ、戦争が終わったら宴にしようってベリーも言ってましたから、ガイコツも招待しますね。帰ったらベリーと色々考えます」
少女はどこまでも、幸せそうに微笑んだ。
――シェルナ=ヴェーゼの周囲に現われたのは単なる精鋭などではない。
アルベリネアが率いるは、黒塗り鎧の百人隊。
精鋭という噂は聞いていて、けれど想像は出来なかった。
その全員が、魔力保有者で構成された部隊など。
シェルナが先行して連れてきた精鋭は17人。
皆シェルナの足についてこられる魔力保有者であり、十人を相手に切り抜けられる猛者であった。
だが、相手は二百人を超え――彼等が魔力保有者であることなど何の優位にもなりはしない。
何故この短時間で追いついたか。
どうやってこの包囲を完成させたか。
その解答は目の前にあった。
「ッ……!」
単なる投槍ではありえぬ速度と威力。
それを見てなおシェルナはその身を旋風に。
彼女は人の知覚の限界を超え――時間の流れすらを緩やかなものに変化させていた。
身を捻り、踊るように自身を狙う七つを避け、内の一本を掴み取る。
その槍の威力をただ足運び一つで我が物とし、遠心力へ。
迫っていた三本の矢を掴んだ槍でへし折り弾いた。
シェルナが率いた精鋭は単なる奇襲程度であれば容易くしのぐ猛者達であったが、これは単なる奇襲ではない。
17人連れてきたはずの精鋭は、その一瞬で10を切り、残るは7人。
アロンの護衛も半壊――そして翠虎がそれを更に薙ぎ倒していた。
150人はいたはずの本陣、その周囲に残ったのは73人。
これでは戦いにならないとシェルナは即座に理解した。
「っ、シェルナ様、お逃げを!」
ズレンが叫んだ。
理性はそれが正しいと知っていた。
ただ、一瞬の躊躇――情がその行動に待ったを掛け、
「く、っ」
視界の端、真横から振るわれた刃を咄嗟に躱す。
鋭く、速く。瞬時に並の剣腕の持ち主でないと理解する。
だからこそ次の一刀を読み、更に半歩後ろへ。
その瞬間振るわれたのは斬り下ろしからの斬り上げ――繋ぎ目すらない高速の上下二段。
避けながらも槍の柄でその剣を横から弾き、身を低く。
腰を捻ったシェルナが背面から放つは、轟音響く右の踵であった。
しかし男の美麗な顔、そこからは一寸遠く。
後ろ回し蹴りは一撃を加えることなく空振った。
瞬時に飛び退き、樹上に。黒塗り鎧の男と距離を開く。
「……これを躱されるとは。並ならぬ剣腕の持ち主と聞いていたが、確かに見た目で侮れぬ相手だな」
男は笑う。
少なくとも容易く切り捨てられる相手ではなく、この状況ではなおさらだった。
生き残りは今の一瞬で更に半数。考える猶予もない。
「行ってください!! シェルナ様!!」
ズレンの言葉が響いた。
左腕を負傷し、右腕一本で大槍を振り回しながらズレンは叫ぶ。
「あなたは生き残ってください!!」
「っ、ズレン!」
頭上からグリフィンの羽ばたきが聞こえ。
「が……っ!?」
戦士そのものと言うべき巨躯を、肩から真下に貫いたのは槍。
頭上から飛び降りてきた獅子鷲騎兵はズレンを貫いた槍を手放し、曲剣を引き抜く。
先の男と変わらぬ手練れ――もはやそれで、見知った顔のほとんどが消えた。
「っ……」
跳躍すると、振り返らず森の中へ。
一瞬で失ったものの大きさを考えぬようにしながら、背後からの矢と投槍を躱し、木々と藪を盾に前へ。
森を遊び場に育ったシェルナに追いつける者などいない。
そのはずで、けれどこの場には一つの例外があった。
走るシェルナの後方へ易々と追いすがる何か。
木々をへし折りながらシェルナの逃走を阻もうとするそれが何か、見ずともわかる。
それが単なる翠虎であったならば、何一つ問題はなかった。
翠虎を恐れたのは昔の話――シェルナは翠虎に恐怖を感じない。
ただそれが乗せている存在を恐れた。
木々を抜け、森の隙間に出来た小さな草原。
脇から眼前に踊り出たのは肩高八尺の巨大な虎と、銀の髪。
――星明かりに輝く紫の瞳。
「もう、逃げちゃ駄目ですよ、面倒くさい人ですね。アレハも後で叱らないと」
見た目通り、少女のように怒り顔を浮かべ。
シェルナを相手にしてすら、彼女は何ら緊張や警戒の一つを浮かべていなかった。
翠虎からぴょんと飛び降り、アロンの曲剣を手の内でくるくると回す。
「……ヴェーゼ将軍として、降伏する」
勝てはしない。逃げられもしない。
シェルナはもう理解していた。
戦っても、逃げても、自分はこの少女に殺されるのだろう。
「認められません。ほら、ただでさえ月の出ない夜なのに視認性も悪い森の中です」
少女は周囲を示して微笑んだ。
「しかもエルデラント軍の兵士は非戦闘員を虐殺したりと質が悪いですし、指揮系統も不明瞭……降伏からの停戦でこちらの兵士に余計な被害が出る恐れがあります。アルベラン軍の指揮官として、クリシェはそれを拒否します」
大人しく死んでください、と少女は告げる。
少女のような愛らしい笑みで、だからこそどこまでも狂って見えた。
けれどなんとなく、理解が出来る。
何をどう言っても、彼女は自分を殺す気なのだ。
平然と人を殺す姿――彼女は自分にどこか似ていた。
「……どうしても生きて、会いたい人がいるの」
「えへへ、奇遇ですね。クリシェもですよ」
きっと、人の痛みが分からない人間なのだろう。
「でもあなた達のせいでクリシェ、こんなところで、こんな下らないことをしてるんです。クリシェはとっても不愉快で……」
微笑を浮かべながらも、その紫の瞳には感情の一切がないように見えて、無機質で。
けれどそこに映った確かな殺意が、シェルナには理解が出来た。
「……だからもう二度とこんなことが出来ないように、悪い人はみんな殺すんです。そうすればクリシェの周りも平和……クリシェもずっと楽しいことだけ出来ますから」
シェルナはいつからか、歪な自分に気付いて。
それを支えてくれる人もいて、幸せで。
そのうちきっと、もっと幸せになれると信じていて。
――でも、今日終わるのだ。
「無駄話をしちゃいましたね」
彼女は楽しげに微笑んだ。
無数の死をシェルナが振りまいてきたように。
彼女もまた、死を振りまくもの。
シェルナが望みのために多くを殺してきたように、彼女の望みのために殺されるのだ。
何故ならば彼女は、シェルナよりもずっと純粋で、強いから。
「さようなら」
間合いは六間――踏み込みはあまりに滑らかであった。
シェルナの理想を体現するような、足運びと加速。
全身をくるりと回転させて、アロンの曲剣を投擲する。
色褪せ音すらも聞こえない、そんな緩やかな時間の中でも、理解出来るその刃の威力。
並の相手ならばその一手で死んでいるだろう。躱せもしない。
だがシェルナはそれに踏み込み、その旋風に右手を突き入れた。
高速回転する刃を避け、柄を掴み、その遠心力に身を預ける。
そしてその回転を利用しながら、左手の槍を大きく振るう。
この少女、アルベリネアなら容易に躱す。――いや、違う。
速い程度の槍では、彼女の動揺すら誘えない。
重さを失った槍を瞬時に手放す。
見ることもなく、槍が中程から断たれていることに気がついた。
遠心力で右に回る体――少女に向けるのは背面。
間に合うか、いや、間に合わない。
このまま曲剣でシェルナが薙ぐより早く、少女の刃が届くだろう。
瞬時に切り替え、左足を軸に右足を振るう。
遠心力を利用した踵は風を切り裂き、しかし振り抜いても感触はない。
そもそも既に、少女はそこに存在していなかった。
「っ……」
――咄嗟に気付いて首を仰け反らせる。
見えたのは、独楽のようにぐるりと体を捻り、振るわれる右の刃。
少女が迫っていたのは背後からであった。
シェルナが掴んだ曲剣を追うように、アルベリネアはシェルナの描く螺旋――その死角に身を滑り込ませ回り込んでいたのだ。
それを毛の先ほどで躱し、
「……ぁ」
――しかし続く左の刃が、その白い喉笛を裂いた。
間髪入れず胸甲の上から衝撃、シェルナの体が草の上に転がる。
「むぅ、浅いですね。避けちゃ駄目ですよ、もう。痛いだけですからね?」
「っ、ぁ……」
血が溢れ、呼吸が出来なかった。
喉を押さえて蹲りそうになり、けれど堪えて立ち上がり、蹴り転がされ。
痛みの中、脳裏に笑顔を浮かべる彼の顔が浮かんだ。
少し照れ屋でぶっきらぼうな、そんな彼の顔が、紫の輝きに重なる。
「っ、……ぇ、ぉ」
シェルナは呟き――クリシェは胸甲を踏みつけるようにしてその体を押さえつけた。
そして何かを呟く敵将の首を呆気なく斬り裂くと、血を避けるように飛び退く。
「んー、もーちょっと簡単に殺せると思ったんですが」
クリシェはまだまだです、と困ったように『軽いの』を右腰に。
『重いの』についた汚れを死体のズボンで清めた。
少し向こうの敵左翼本陣では音が鳴り止み、そちらも戦闘終結だろう。
「クリシェ様、敵将は……」
森から現われたミアは言いかけ、クリシェの側――女将軍の死体を見て、納得する。
「終わりです。ちょっとすばしっこくて面倒でしたね。ミア、適当に晒しておいてください。あそこの左翼本陣は敗走した兵の通り道ですし、丁度良いでしょう」
「えぇ……」
「あー、はいはい、あたしがやるよ、もう」
心底嫌そうなミアを見て、カルアが呆れたように死体の顔を眺めた。
そこに浮かんだ涙を見て、目を細め。
「美人なのに勿体ない。……まぁ、ある意味うさちゃんに殺されただけまだマシかな」
指で目を閉じてやると大曲剣を肩に担ぎ、
「……来世があるなら幸せに」
その首へと振り下ろした。
篝火に照らされるヴェーゼ左翼――キルスの本陣。
既にキルスの兵は皆、逃亡していた。
生きている人間は誰も、そこに存在していない。
代わりにあるのは無数の死体であり、いくつか首の欠けた死体が見え。
「……嘘、だろ」
そしてそこに並び立つキルスの旗を見て、レドは呆然と膝を突く。
なんとかレドに追いついた狩猟隊の男達も、言葉を失い、剣を取り落とした。
そこに立っていた旗には、いくつもの首が刺さっている。
レドが心の底から嫌いだった、アロン=キルスの首。
何年も過ごした、狩猟隊員の首。
尊敬する司祭長ジーグレットの首。
大親友、ズレンの首。
――そして、栗色の髪。
「……シェル、ナ」
レドが誰よりも愛する、シェルナ=ヴェーゼの首だった。