藍と紫
星明かりと僅かな灯火――キースリトン軍左翼、テックレア=レーミンの本陣。
もはや立ち上がれはしないだろう。
倒れ込む敵指揮官らしき男には未だ息があったが、全身に投槍を喰らっている。
腹に槍が突き刺さり、左腕は千切れ掛かっている。
突出していたこの男の部下――敵の強襲部隊も大方片付いていた。
「見事な奮戦であった。蛮族と蔑んだことを撤回しよう。……少なくとも、貴君らは武人として称されるべき者達だ」
鋼の盾を置くと、憤怒の描かれるバイザーを上げ、長剣を右肩に担ぐように。
テックレア=レーミンは素直に男を称賛する。
後退した青年のためか、意地か。
どうあれ男に生きて帰る気などなかったのだろう。
寡兵であったが、皆が死兵となっての奮戦――優位であるにも関わらず、テックレアが身の危険を感じるほどの気迫。
「ベズと言ったか。その武勇に敬意を表する。……何か言い残すことはあるか?」
「……ねぇ、な。……悪くねぇ、死に様だ」
男は言った。
女としては精悍な顔に、テックレアはほんの少し柔らかいものを浮かべ、頷く。
「潔い。貴君らの信仰を深く知りはしないが……」
転がっていた剣を取り、男の手に。
エルデラント――かつてはアルベランにも広く伝わっていた信仰の一つであった。
戦士が死ぬ際には、武器を手に。
そうすれば死後の世界に英霊として旅立てる。
「戦士として死ぬが良い。貴君は少なくとも、そうして死を迎えるが相応しい男だ」
「……感謝、する」
その言葉を聞いて、倒れ込んだ男の首へ長剣を突き立て。
そうしてトドメを刺すと血を払う。
もはやこの状況、首を晒す必要もなかった。
「ひとまず、乗り切りましたな。見事な指揮でございました、お嬢さま」
「お嬢さまはやめろ。いくつになると思っているんだミルカルズ」
テックレアは既に40前。お嬢さまなどと呼ばれる年齢はとうに過ぎている。
副官の老人――ミルカルズは楽しげに笑った。
「お嬢さまが身を固めるまではそう呼ぶと誓いましたからな」
「ふざけた誓いなど無効だ。カーレアが三人も男児を生んだのだ。今更私が子を作らずともレーミンの家は誰かが継ぐ。いい加減諦めろ」
呆れたように不機嫌そうに。
告げるテックレアをますます楽しげに見て、ミルカルズは言った。
「こんなことならば剣など教えるべきではありませんでしたな。虫も殺さぬ乙女であったお嬢さまが、このような……なんと嘆かわしい」
「人には向き不向きがあるものだ。私がドレスを着て踊る姿を見たいのはこの世界でもお前くらいだろうよ」
ミルカルズの軽口に言葉を返し、敵本陣――森の向こうへ視線をやる。
南側に展開していたミークレアなる部族の軍は、完全に敗走を始めていた。
伝令の報告ではアルベリネアが本陣を強襲、敵将を一息で討ち取ったらしい。
そしてそれからほとんど間を置かず、敵本陣で起きた爆音。
何を行ったかは知らない。だが、それもアルベリネアによるもので間違いない。
エルーガの予想通り――あまりの早さに驚愕すらを覚えた。
会議で座る少女の顔はよく覚えている。
年齢からすれば信じられないほどの落ち着きを見せる元帥――その隣に座る少女には覇気もなく、見た目通りの少女のよう。
正直に言えばほんの数日前まで、不安しかなかった。
アルベラン王国の運命をその少女一人が担うのだ。
当然のように彼女を中心として組み上げられた戦略構想。
それは全て彼女の勝利を前提としたあまりに都合が良いもので、とても正気の沙汰とは思えないもの。
同じ中央将軍ゴッカルスに説得され、三国からの侵攻という半ば詰んだ状況――藁にでも縋る他ないと承諾したものの、しかしその結果、これほどの状況が生まれるとは思っても見なかった。
アルベリネアは開戦から半月でガルシャーンのみならず、既にエルデラントを打破しようとしているのだ。
『クリシェが王国をぐるりと一周して、ぱぱっと敵軍を撃破するまでの間、適当に持久してくれればそれでいいです。クリシェもお屋敷のお手伝いだとか色々忙しいですし、一ヶ月ちょっと……んん、伸びても二ヶ月くらいで全部終わらせたいところですね』
誰もが平然と告げる彼女の正気を疑った。
けれど表立ってそれに対し声を荒げるものがいなかったのは、きっと皆が同じものを感じていたからだろう。
言葉に出来ない感情だった。
美しい銀の髪から覗く、宝石の如き紫。
そこに映るは有無を言わさぬような、絶対的な自信。
明日のちょっとした予定を語るように告げる彼女の姿は、どこか反論を許さぬものがあり――今になれば理解が出来る。
「……理性と常識が邪魔をした。だが、聖霊と盟約を結びし者。本当は、最初からわかっていたのかも知れん」
「お嬢さま……?」
「王都に現われた聖霊の姿を見て、すぐに一軍を率いて勝てぬと理解した」
あの時、訓練場にはテックレアもいた。
巌のような鱗の剥がれ落ちた、王城にすら匹敵する巨体――その場にあるだけで大気すらを歪める魔力。
その背中から、翠虎を従え降り立った少女。
まるで絵画の世界にあるような、現実味を逸した光景。
「国家の全力を注いですら、あのようなものを討てるものかとそう考え――だがアルベリネアはただ一人で、神というべき存在に挑んだのだ」
表向きは謁見であったと言われている。
だがアルベリネアは全身に包帯を巻き付け、竜と同じく傷だらけ。
そしてその前日に空を貫いた光。唐突なクレィシャラナとの国交回復。聖霊と武を尊ぶ、彼等からの紛れもない敬意。
王都では竜の来訪について、様々な噂や憶測が流れていた。
だがあの場に居合わせた者にだけは、どれが真実であるかは理解出来ていただろう。
女王への暗殺未遂――巻き込まれた使用人。
報復として殺された無数の大貴族も恐らくは、彼女の手によるものに違いない。
アルベリネアはただ、愛する使用人一人を救うためだけに聖霊に挑み、それを成し遂げる存在なのだから。
「意思の一つで国すらをねじ曲げるほどの才覚者――あれこそがまさしく神の子、アルベラン。天剣とは、人の身にて聖霊にさえ至る者の称号なのだろう」
理性では今回の戦をあまりに無謀だと感じていた。
やる気の見えない、会議室の少女を見れば尚のこと。
けれど、テックレアが見たその光景はあまりに深く心の中に焼き付いていたのだ。
多かれ少なかれ、中央の将軍達が今回の戦を前向きに考えた理由はそこにあるに違いない。
「聖霊を味方につけたようなもの。それを理解出来たことは心強いが……恐ろしくもある」
涙を溢れさせながら、使用人を抱きしめる少女の姿を目に浮かべ。
その過程で起きたであろう、全てを思い浮かべて目を閉じた。
王家の血流れる公爵家の生まれ。
王家の忌み子という悪習は知っていたが、それを信じてはいなかった。
だが、個人が手にするにはあまりに強すぎる力――彼女のような者が忌み子と呼ばれる理由はよく分かる。
神すら恐れぬ個があるならば、それは多くの者にとって究極の理不尽と言えるだろう。
どのように真摯な願い、望みであっても、彼女はそれをねじ伏せる。
望む全てを手にする個というものは、その存在そのものが天災に等しく。
「考えても詮無きことか。……願わくば護国のためにだけ、その剣が振るわれることを祈るしかない」
とはいえ、その理不尽を与えられるのが、相手だけであるならば。
人とはそのように、都合の良い生き物だとテックレアは考えた。
そこはヴェーゼ軍左翼本陣、篝火が煌々と照らす森の中。
エルデラント軍中央、ヴェーゼ軍に現状余分な予備など存在しない。
東――正面から夜襲を仕掛けたキースリトン軍からの猛攻。
それを防ぐため右翼中央左翼、いずれも全力を注いでいる。
シェルナが逃げ込むのもまたこの内のいずれかしかなく、そして敵は南と西から――彼女らが最左翼を担当するヴェーゼ傘下部族の荒くれ者、キルスの軍団に向かうことになったのは半ば必然であった。
「アロン! すぐに南の本陣方向へ戦列を。北のアーカズと合流し、すぐにここから撤退する」
息を切らせ、そこへ先行したのはシェルナとズレン、そして少数の精鋭だけだった。
後方は司祭長ジーグレットに任せ、足の速い魔力保有者のみを連れ、合流したのはアロン=キルス率いる軍団7000の本陣。
長身の戦士長、アロン=キルスはその顔に困惑を浮かべ、シェルナを見下ろす。
入れ墨を施した筋肉質な上半身をさらけ出し、防具の類は手甲を身につけるのみ。
夜襲であったためか、胸甲と手甲を身につけただけのシェルナ以上に軽装だった。
「……妙な音が聞こえたと思えば、まさか本陣を捨ててここに?」
「緊急だったの。南からはガルシャーンを破った一軍規模の敵が迫ってる。敵はクレィシャラナのグリフィンを連れた精鋭、破裂する魔水晶で本陣予備は壊滅」
矢継ぎ早に告げると嘆息した。
「……すぐにでも動かなきゃ奇襲を仕掛けてきた敵だけじゃなく、敵の本軍からの追撃を受けることになる」
「……気でも狂いましたか? いくら奇襲を受けたにしろ動揺しすぎだ。この状況で本陣を捨てていきなり撤退だなんて――」
シェルナは剣を引き抜き突きつける。
「アロン、問答をしている暇はないの。黙って従って」
「……でなけりゃ決闘ってか」
苛立たしげに頭を掻き、アロンは背後の男達を見た。
キルスの兵達は殺気立ち、得物を手に取っていた。
「そりゃ恐れ入る。確かにヴェーゼの剣姫様にゃ勝てはしないが、俺をここで殺してこいつらが従うとでも? 頭ごなしに命令するのはそっちの権利だ、否定はしねぇが、状況を考えたほうが賢いと思いますがね」
アロンはシェルナを睨み付けながらも剣は抜かない。
剣も構えぬ相手を問答無用で斬ることに、どうあれ正当性は存在しないためだ。
それは掟に則った決闘ではなく、ただの殺人でしかない。
「本陣を捨ててケツを捲った人間に、はいそうですかと従うのは懐いた子飼いの犬だけだ。それじゃ道理が立ちはしねぇ。レドじゃあるまいし、ちっとは理性的に話し合う気はないんですか?」
「……後でいくらでもその話には付き合ってあげる。状況は一刻を争うの。お願いだから黙って従って」
「はっ、脅しの次はお願いですか」
「……アロン」
負傷した左腕から血を流しながら巨漢、ズレンが前に出る。
そして両膝を突くと頭を下げた。
シェルナ達がズレン、と声を掛けるが、彼は黙って額を地面に押しつける。
「何の真似だズレン、野郎に頭を下げさせて喜ぶ趣味もねぇが」
「急を要する。……今だけでいい。今は大人しくシェルナ様に従ってくれ。その後で不満が残ったなら、俺を八つ裂きにしてくれても構わん」
アロンは頭を下げるズレンを眺め、頭をガリガリと掻いた。
そして舌打ちをするとシェルナを睨み付ける。
「……これはヴェーゼに対するキルスの貸しだ。まさか否とは言わないでしょう?」
「……、ええ。それで構わない」
「気分が萎えた。黙って従ってやるが……ズレン、言ったことを忘れるなよ」
「誓って。……恩に着る」
アロンは背後を振り返り、
「前衛に伝えろ! すぐにケツを捲る準備だ、アーカズと合流する。予備は全て後方に――っ!?」
そう指示を出そうとした瞬間、その場にあった者達の中でも数人のみが跳躍した。
アロンが一瞬前まで立っていた場所を暴風が突き抜け、そしてその先にあった巨木をへし折る。
――それは人ではない巨獣。
戦士達は瞬時にそれが何かを理解し、
「ッ――翠虎!?」
「それだけじゃない! 避けて!!」
そしてそれが単なる魔獣一匹でないことに、いち早く気付いたシェルナが叫んだ。
どういう意味か――遅れて気付いたアロンは跳躍したまま、咄嗟に空中で大振りの曲剣を引き抜き振るう。
その剣が弾いたのは矢であった。
だが、彼が咄嗟に行えたのはそれまで。
「がっ!?」
その体に振るわれるのは、巨木をへし折ることで反転、跳躍を済ませていた翠虎の右腕――宙にあった体が足をつく間もなく、そのまま大地へと叩きつけられた。
そしてその上に跳び乗った小柄な影は短弓をしならせ、呆気なく。
――放たれた矢は頭蓋を貫通、キルス戦士長アロンは絶命する。
「アロン様――、ぁ!?」
矢は無差別にばらまかれるようだった。
贅肉を纏わり付かせた副官の頭蓋が射抜かれ、それに続いて放たれる矢は7本。
3人がそれを回避し、4人の兵士がそれで死ぬ。
「むぅ、結構避けますね。ここまで中々調子が良かったのですが」
少女は弓と空の矢筒を放り捨て、側に落ちていた大振りの曲剣を拾って眺めた。
黒い外套に身を包み、身につけるのは手甲とブーツ。
戦場には不似合いなワンピースドレスが外套の隙間から覗き。
篝火に煌めく真白い肌と、二つに分かれた尻尾のような銀の髪。
そしてどこまでも無機質で、凍えるような紫の瞳。
「……まぁいいです。ぐるるん、ここでは遊んじゃ駄目ですからね」
ごろごろと喉を鳴らす翠虎は、少女にその身をすり寄せて。
篝火に照らされたこの場の空気は、ただの一瞬で冷気を帯びていた。
シェルナでさえ息を飲み、一瞬の硬直。
この場にある戦士達の中で、目の前の少女が誰かを理解出来たのは彼女だけ。
しかし誰もが、この少女がどのような存在であるかを理解していた。
敵地の真ん中で一人、平然と立つ少女の異様さ。
それは彼等の意識から現実感を薄れさせ――刃を向け、踏み込む意志を奪っていた。
動けたのは、ただ一人。
「この……っ!」
剣を引き抜いたシェルナ=ヴェーゼは、風に栗色の髪を走らせ。
姿勢を低く、一息の間に最高速へ。
誰もが目を疑うような疾風の如き踏み込みであった。
対する少女はちらりとそれを横目に見ると身を捻り、
「――ッ!?」
瞬間、放たれるのは空間を裂くような一閃。
大振りな曲剣――戦士長アロン=キルスの曲剣は既に、主を少女に変えていた。
傍目に見てなお捉えられぬほど、滑らかな剣の軌跡、速度。
ただ一人、シェルナの藍の瞳だけがそれを捉える。
虚を突いたはずの奇襲的な一撃。
だが少女は拾った剣を易々と振るって、どこまでも正確にシェルナの首を狙っていた。
相手の意識の隙間を抜く加速――烈風と謳われる剣姫の踏み込み。
そこに生じる不可逆の慣性。
少女の紫は当然のようにそれを見切り、放たれる後の先は決して躱せぬ一瞬に届く。
シェルナは強引に踏み込んだ愚を悟り、長剣を走らせ盾に。
愛剣は当然のように両断され、そして辛うじて生まれた一瞬を用いて後方へ。
藍と紫の瞳が交錯する――優劣は既に明白であった。
ヴェーゼの剣姫、彼女の振るう宝剣がただの一刀でへし折られ。
対するキルスの曲剣には、刃こぼれの一つさえ見えなかった。
誰もが目を疑うような踏み込みに対し、翠虎を伴う少女の顔に欠片の動揺――驚きすらも浮かんではいない。
「んー、形は悪くないのですが、ちょっと重いのが良くないですね」
殺し損ねてしまいました、と困ったように。
手甲の革に包まれた指先で、桜色の唇をなぞり。
アロンの曲剣を眺めると、くるくると手の内で回し。
戦場には不似合いなほど彼女は美しく、邪気がなく――数人を殺してなお気にも留めず、花畑にでも立つようなその自然さ。
少女はどこまでも狂って見え、そして彼女とは対照的。
シェルナ=ヴェーゼは破裂しそうなほど心臓を跳ねさせていた。
顎先を汗が伝い、背筋が凍り付くような感情。
「……、これが、アルベリネアって訳」
聞こえた言葉に少女――クリシェ=クリシュタンドは首を傾げた。
そこには人形か何かのような歪さが有り、
「……? よくわかりましたね。どこかに水漏れがあったのでしょうか」
見開かれた瞳は真っ直ぐと、シェルナ=ヴェーゼを捉えていた。
篝火に揺らめき、輝く紫。
それそのものが光を放つようにすら見えて、シェルナの体に震えが起きる。
子供の頃に、翠虎と遭遇したとき以来だろう。
――それは長くシェルナが忘れていた、捕食者への恐怖であった。
「今後のためにお話を聞きたいところですが、でもまぁどうでもいいですね。……エルデラントもこれで終わり」
「っ……」
南、シェルナ達が抜けてきた森から放り投げられ、転がってくるのは何か。
見覚えのある老人の顔。
司祭長ジーグレットの首であった。
どよめきが広がる。
ふと気付けば南だけではなく、西と北にも敵の気配があった。
どういう魔法かわからなかった。あのグリフィンによる先行か――いや、それにしてはあまりに数が多く、あまりにも早すぎる。
東にある7000の左翼はそのほとんどが正面のキースリトン軍と喰らいあっており、この短時間では戻れない。
この場所はこの瞬間、三方からの包囲を受けていた。
彼女がただ一人で現われたのは、それまでの足止め。
この包囲を完成させるためだったのだ。
そして彼女は少なくとも、剣においてシェルナを遥かに上回る。
選択は逃げるか――戦うか。
「……これで西も平和。クリシェもお屋敷に帰れるというものです」
シェルナの逡巡を気にも留めず、少女は微笑を浮かべると、左手を上に。
そして、それが合図だったのだろう。
「ッ、散開!!」
――その場を無数の矢と槍の嵐が貫いた。