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新月の三日月

一尺=約30cm→八尺=約2.4m

一丈=十尺=約3m

一間=六尺=約1.8m

黒の百人隊に入る前であったなら、その一撃で殺されていたか重傷だろう。

単なる一兵卒として軍にいても同様。

天性の才覚は当然ながら、カルアがそれを避けることが出来たのは、最前線での戦闘を繰り返す黒の百人隊で得た莫大な経験と蓄積――そして、間近で化け物と言うべき何人もの戦士を繰り返し見ることが出来たため。

彼女の愛すべき上官がペットにしていた翠虎――ぐるるんの存在も大きかった。


少し遠くに見えた黒い影。

その獣は既に、こちらを間合いに収めていると彼女は正しく理解していたのだ。


「ミア、跳んで指示!」

「ぁ――う、うんっ」


単独で避けるだけではなく、硬直する親友の手を引く余裕すらその心の内にあった。

翠虎出現時における最悪――現場指揮官の死亡という状況を避けることが出来たのはまさに、彼女の瞬間的判断能力の為せる業。

ミアが樹上に飛んだのを視界の端に捉えた後は完全に思考を切り替えていた。


「特務班、あたしが囮、あんた達は横と後ろ! トドメを狙うよりは怪我を負わせて、この巨体は簡単に沈まない」


樹上からミアが弓兵と投槍兵を連れてくるよう指示を出すのを聞きながら、心臓が破裂しそうな混乱と恐怖を押し殺す。

翠虎は信じられないような機敏さで軌道をこちらへ。

カルアは転がるようにそれを避けたが、八尺二丈の化け物は後ろにあった巨木を易々とへし折った。

四足歩行でありながら、その肩の高さはカルアの頭頂からも二尺は上。

その巨体に夜闇で敵意を向けられれば、カルアですら戦意喪失しかねない。


冷静さを残せているのはぐるるんという珍妙な名を思い出して。

クリシェに腹を見せ転がる翠虎の姿は何度も見ていた。

これは化け物ではなく、単なる獣であるとカルアは知っている。

知能と戦闘能力が、獣の範疇を外れているだけで。


――自分一人で戦えるか。

答えは否だった。コルキスやベーギルですら危険であると明言する獣。

それより劣る自分がこれを圧倒出来るなどとは考えない。

カルアは誰より、自分の弱さと無力さを知っていた。


転がった状態から起き上がり、斧が如き曲剣を振るうと翠虎の左後ろ足へ。

類い希なる魔力保有者――カルアの一撃。

しかしその腿に当たった感触は斬撃ではなく打撃であった。


翠虎の体を覆う翠の体毛はまるで金属で出来た繊維のようであった。

内側の筋肉は、肉と言うより古木のそれ。

カルアの一撃、その威力を受け止めながら受け流す弾力をも併せ持っていた。


いつぞやの鑑賞会の後、クリシェが語った言葉を思い出す。


『大きい道具を使えば真っ二つも出来るかもですが、結構毛も筋肉も丈夫なので刃を痛めるだけです。おじいさまの言ったとおり、適当な槍やなんかでぐさーが一番簡単でしょうか』


翠虎が悲鳴を上げる。

致命とはならないだけでダメージがない訳ではない。

クリシェならば同じ得物で切断出来ただろうが、自分の力ではその程度だと理解する。


怒らせ、敵意を自分に向けさせる。

カルアがこれまでの人生で鍛えた刃はその程度――それを今ここで嘆いても仕方がない。


『この体毛は線での斬撃に対しては強いが、槍のような点での攻撃にはそれほど強くない。矢も至近であれば肉に食い込む。投槍も同じく、剣を使う場合には刺すようにして使えば、わしのような老いぼれであっても殺せるだろう。要は正しい対処ができるかどうかだ』


カルアの持つ剣は、まともに振るえば鎧ごと敵を両断出来る。

しかしこのような相手に対し、自分がそうできるかと言えば否だった。

誰かが明確な隙を作りさえすれば――だがこの状況、ダグラやアレハ、ワルツァがこちらに来るまで一時掛かる。

この先頭集団、守勢であっても相手が出来るのはカルアだけ。


特務班の二人が同じく攻撃を。

一人は斬撃、一人は貫く。

腰の上から長剣が一本食い込んだが、暴れた翠虎に体ごと振り回されて剣がへし折れ、一人が転がる。


「刺したらすぐに跳んで! まずは動きを鈍くすることを優先!」

「――カルア!」


側に突き立つのはミアの直剣だった。


「折ったら承知しないから!」

「ふふ、きっとミアが持つより剣も喜んでる、よっ」


右腕を叩きつけようとした翠虎の一撃を躱し、転倒寸前の体でその直剣を掴み取る。

カルアの剣が有効でないと即座に判断したのだろう。

剣はへたっぴ、壊滅的不器用。

けれど少なくともミアは、身内びいきを除いても命を預けるに足る指揮官だった。

視野は広く思考も早く、混戦であっても周囲の状況を把握し、適当な指示を出す。


「前はカルアに任せて距離を取って! 他の人間はカルアに食いついた時に武器を突き立てその援護! コーザ!」


ダグラ達のいる中央で休息を取っていたはずのコーザが既にこの場にあった。


「おう、散開! 弓兵は樹上から狙え、投槍は指示があるまでばらけて待機。合図で一斉に投げつけろ!」


ミアが増援を呼ぶより早く、前で起きた混乱に気付いたダグラが向かわせたのだろう。

弓兵隊長コーザと弓兵が十人ほど。

それから五人の投槍兵。


この状況――敵の襲撃ではなく、相手が魔獣であると決めつけた判断だった。

少数を先行させたのは混乱を生じさせないよう、また敵襲撃の可能性も考慮したため。

安定を取りながらも即座に必要な増援を送り込み――ダグラはこの暗闇にあって、僅かな情報で最適な対処を行っていた。


一兵卒からエルーガ=ファレン指揮下で戦い、山中や森で積んだ経験は群を抜いている。

視野の広い弓兵隊長コーザを送り込んだのも、ミアとカルアが負傷、あるいは死亡していた場合に備えてだろう。

ある種の冷徹さすらがそこにはあった。


「あたしが隙を作る!」


コーザの到着を確認し、翠虎の猛攻を躱しながらカルアが叫ぶ。

混乱と緊張――それさえどうにかすれば、全く相手にならないような敵でもない。


『うさちゃん、ぐるるんは使わないの?』

『グリフィンに乗りますし、お留守番ですね。草原じゃ危ないですし、怪我をしたら可愛そうですし』

『うーむ、何やら勿体ないような……』

『速いですけれど重くて大きいので、やっぱり旋回速度は魔力保有者ほどでもないですし、奇襲を繰り返せる状況じゃなければよわよわですよ。森で相手にするのが困難なのは単に角速度の問題でしょうか』


翠虎は知能が高く、そしてその運動能力を活かす術を知っている。

危険を冒さず、執拗に背後を狙うのだ。


先ほどからの攻撃――相打ち覚悟で体ごと叩きつけてくるならば、カルアには避けようがなかった。

だが翠虎はそうせず、横をすり抜けざま、その腕でカルアを仕留めようとしている。

仮にそれで仕留められずとも、真横を抜ればカルアの視界から自分の巨体が消えることを理解しているからだ。

そうして相手の視野からその姿を消し、死角から確実に相手を仕留める――翠虎とは狩人だった。


『遠くで横に一間動いても相手からは些細な違い。でも至近で半間も動けば完全に、相手の視界から自分を消してしまえるわけです。ぐるるんみたいなおっきなにゃんにゃんはそこそこ賢いですから、それをちゃんと理解してるんです。遠くから踏み込んで、間近に迫ると横にすり抜け相手を狙う――えへへ、まぁ大体クリシェと同じですね。効果的です』


クリシェは相手の視界を視覚で捉えるかのようだった。

一人を殺せば姿勢を低く、相手の横をすり抜け死角へその身を。

側にいる相手からすれば突如、彼女の姿が目の前から消えたようにすら見える。


彼女は体力さえ無限に続くならば、一万の兵すらそうして殺してみせるだろう。

一方的に、安全に。

自らに一振りの刃を向けさせることすらなく。

クリシェ=クリシュタンドはその存在そのものがある種の芸術であり、完成形であった。


翠虎は森という空間、その視認性の悪さを利用し相手に近づく。

至近距離の戦いであれば、その速度で敵を振り回し、圧倒出来ると知っているからだ。


だが、優れるとは言え旋回速度単体を見れば有利はこちら。

相手はその加速度でこちらを振り回し、こちらの死角へ消えようと動いているだけで、冷静に見ればクリシェと違い決して捉えきれない相手ではない。

その巨体、重量から来る機動力の限界――それが翠虎の弱点であった。


何本かの矢を浅く突き立てられながらも、致命傷にはなり得ない。

苛立たしげに弓兵の乗った木を蹴りつけへし折りながら、再びこちらに。


カルアは右手――斧の如き曲剣、その切っ先を翠虎に向け踏み込む。


――翠虎は来ない。

確信だった。


翠虎は攻撃を加えず、頭上を大きく飛び越えた。

向かうのはカルアの背後にあった巨木。

それをへし折りながら跳躍し、カルアを後ろから仕留める気だった。


カルアはしかし振り返らず、体勢を崩したように前へ。


「っ、カルア!」


ミアの叫びを聞きながら大地に右足を。

全身の力を振り絞るように身を捻り、その大曲剣を振り回し背後へ。


巨木をへし折り、大地に足をつけることなく――こちらに迫っていた翠虎の鼻っ面に投げつけた。


「――――ッ!?」


悲鳴を上げた翠虎が体勢を崩して転がり、カルアは跳躍。


「やれッ!!」


コーザの合図と共に一斉に五本の槍が投げつけられた。

魔力保有者による投槍――威力は矢などの比ではない。

その巨体に三本の槍が突き立ち再び悲鳴。


――そして。


「終わり……ッ!」


再度跳躍したカルアは転がり悶える翠虎を頭上から。

体重を乗せた直剣をその喉へと突き立てた。

次の瞬間には即座に翠虎の側から離れ、息を切らしながらも自身の大曲剣を手に構え。


なおも暴れまわる翠虎、その姿を緊張したように眺める。

無数の矢と剣を一本、槍を三本、そして喉に直剣。

その状態にあっても致死に至らぬ体――それが魔獣と呼ばれるものだった。


「……投槍」


コーザが合図し、再び槍を。

四本が更に突き立ち、その体がようやく動きを止めて痙攣した。


それを見たカルアはふっと力が抜けたように腰を落とし、すぐにミアが駆け付け抱きついた。

ぎしぎしとカルアの革鎧が音を立てる。


「大丈夫? カルア、怪我――」

「あ、あのね……ミアの馬鹿力で怪我しそうなんだけど」

「え、ぁ……ごめん」


慌てたようにミアが手を離し、カルアは苦笑し荒い呼吸を整える。


「……気が抜けたのと疲れただけ。本気で死ぬかと思ったよ」

「いやはや、しかし流石カルアだな。見事なもんだ……素直に尊敬する」


コーザは労うようにカルアの肩を叩き、周囲を見渡す。


「しばらく休め。……音を立てた、哨戒はこちらでやる」

「うん、そうして……ちょっと限界」


カルアは水筒から水を飲んで嘆息した。

ミアはほっとしたようにカルアの頭を撫でて、視線を後方に。

現われたのはダグラであった。


「……やはり。負傷者は?」

「弓兵が一人……まぁ木の上から転んだくらいです」


へし折られ樹上から投げ出された一人が腕を痛めた程度――結果的には重傷者なし。

全てが魔力保有者で構成される黒旗特務とは言え、相手は翠虎。

相応の被害を想像していたダグラにも安堵の笑みが浮かぶ。


「カルアが囮になってくれたので、最小限に」

「……そのようだな」


ミアの言葉にダグラが頷く。


「不幸中の幸いだ……お前がここにいてくれて良かったと心の底から思う」

「……あたしとしてはアレハ副官の最後尾に行って欲しかったところですけれど。おかげで死にかけました」

「ははは、だが、大いなる武勲には違いない。……お前のような部下を持てたことは私の誇りだ。これで軽口を慎めば言うことはないのだが」


言いながらダグラは周囲へ。

哨戒に立っていた敵のいくつかはこれに気付いたと見ていい。

ここから大きく距離を離すか、それとも――


「悩ましいところだな。奇襲としてはすぐに動いたほうが良いところだが」

「……そうですね。結構距離が離れているはずですが、誰にも気付かれていないと考えるのはあまりに」


気付いた歩哨が報告を行う前に、奇襲を行うという選択肢。

黒旗特務は強力だが、所詮は寡兵による奇襲。

気付かれ戦列を組まれた状況で突撃も被害が大きい。

この時点で中止を決断するというのも通常なら有力な選択の一つであった。


ただ、指揮官であるクリシェはどう考えるか――それが問題。


「ん……うさちゃんのことだし少し待ってればすぐ来るんじゃないかな? 相手は敵本陣、うさちゃん抜きで動くにはリスクが大きいし、うさちゃんが来たらすぐに動けるよう準備して待機が一番――」


そうして話していると、がさがさと右手の茂みを抜けて、再び現われたのは翠虎であった。

ミアは悲鳴を上げかけ、上に乗った少女を見て慌てて口を押さえる。


「全く、あなた達は奇襲だと言うことをわかってるんですか? 敵の後方でこんなに騒いで」

「……クリシェ様」


クリシェは翠虎の死体を眺め、翠虎から飛び降りると、ぐるるん食べ過ぎちゃ駄目ですよ、とその肩を叩いた。

翠虎は嬉しそうに声を上げ、転がる翠虎の腹に牙を突き立てる。


「あたし結構頑張ったんだけどなぁ……」

「見つけたらぐさーってやるんです、ってカルアに教えたと思うのですが」

「……そんな簡単に翠虎をぐさーって出来るのは世界でうさちゃんくらいだよ」


カルアは呆れたように。

クリシェは頬を膨らませながら、ダグラを見る。


「ハゲワシ、状況は?」

「極めて軽微な負傷が一名、カルアの働きも有り作戦行動には支障なく」

「ん、及第点ですね」


クリシェは頷き、内臓を美味しそうに貪るぐるるんの背中を手甲で撫で、敵本陣の方角へと目をやる。


「騒いでた歩哨を途中で二人くらい仕留めましたけれど、他にも気付いたのがいそうです。早めに動いた方が良さそうですね」

「は。ではこのまま?」

「そうですね。ハゲワシ達はこのまま……ヴィンスリール」


左手から現われたヴィンスリールは翠虎の死体を眺め、感心したようにカルアを見ながらクリシェへ近づく。


「くろふよとクリシェはここから本陣へ。ヴィンスリール達はミア達を乗せて予定位置から盛大にぼんじゃらを。この場合は分けた方がいいでしょう」

「は」

「投下後クリシェ達がここから森を出ますから、空中から適当に援護を。適当なタイミングで降りて残党狩りを手伝ってください」


ヴィンスリールは頷き、カルアに目を向ける。


「森の中でこれほど被害も無く翠虎を仕留めるとは、武人として誇るべきものだ。しばらくはグリフィンの背で休むといい」

「えーと、はい……お言葉に甘えます……」


多大なる栄誉、繰り返される褒め言葉。

それを聞いてもカルアに喜びは特になかった。


「……はぁ、疲れた」

「ふふ、お疲れさま」


ミアは我がことのように嬉しそうな顔をして、頭を撫でてくる。

そんなミアを眺め、嘆息した。

命懸けの戦い――それを楽しむ時期はきっと、知らぬ間に過ぎたのか。


カルアの体にあるのは安堵と疲労。

二度とやりたくない、という言葉だけだった。











――野営地の中央にいたシェルナが数里先の音を聞いた訳ではない。

本陣は東――キースリトン軍との戦いで響く音で満ちていた。


「予備を後方に集めて。奇襲に備えてちょうだい」

「は!」


少なくとも意識下で捉えた訳ではなく、それは無意識だった。

直感的に、何かが迫って来ているのだとシェルナ=ヴェーゼは理解し、軍を動かす。


前方から来るキースリトン軍の対処ですら容易ではない。

この状況下では考えがたい夜襲であった。対応は後手に回っている感を否めない。

だが、それでも側背への危機感に対応策を練っていた。


北部、南部にも軍が展開している。

その中央へわざわざ敵が飛び込んできたのだ。

相手は自ら包囲へ飛び込む愚を理解しない凡将などではない。

そうであるならば既にこちらが勝利している。

フェルワース=キースリトンはその名声に相応しい将軍。


そんな彼がこの大胆な夜襲――何かあるに違いなかった。

未来予知めいた直感は、複数の状況、想定から無意識に導き出された正答。

本来あり得ないはずの位置から奇襲を喰らう可能性を、彼女は情報を得る前から事実として受け止めていた。


「――――」


無数の伝令、その報告を聞きながら思考する。

それら全てへの対応策を瞬時に弾き出し指示を出しながらも、その内の一つを聞いて彼女は眉間に皺を寄せた。


「――翠虎?」

「は、恐らく――それと交戦しているらしい敵部隊の声も。危険性を考慮し、偵察ではなく報告を優先しました」


小部隊による迂回か、あるいは伏兵か。

あり得るか、あり得ないかで言えば十分にあり得る。

どこかに伏せて隠していたか、気付かれずに進ませたか。

とはいえ、多くとも500を下回るだろう。

この状況――限界がある。


――でも、本当にそれだけ?

シェルナは目を細めた。

間違いなく精鋭だろう。本陣奇襲、成功すればそれなりに効果がある。

シェルナを討てずとも大きく指揮は乱せるに違いない。

そうして敵は正面突破を成功させ――その可能性は十分にあり得た。

こちらに対し、真正面突破を狙えるだけの力を相手は有している。


この夜襲。

間違いなく、敵は三軍の不仲を理解していると見ていい。

この中央単独相手ならば十分に勝てると踏んで、このような行動を――だが、引っかかるものがあった。


少しでも長引けばあちらは包囲の憂き目に遭う。

フェルワース=キースリトンはアルベラン西側、唯一の守りなのだ。

相手の状況は決して、そのような博打を打てる状況ではない。


仮にこの中央を壊滅させ、シェルナを殺せたとしても、彼等が得られるのは単なる有利。

この戦争の勝利ではない。

対するこちらはここで勝てば、アルベランを征することも視野に入る。

賭け金はどう見ても釣り合わない。


――絶対に勝つ目があるのであれば、ともかく。


「あの……、シェルナ様?」

「少し黙って」


そんな目なんて存在しない。

敵の戦力から考えて不可能だった。

奇跡のような偶然が重なり合うならばともかく、そんな勝算の薄い賭けでは意味がない。そんなものではこんな大勝負に出られない。


――シェルナが知らない戦力を、彼等は隠し持っているのだ。

確信であった。シェルナ=ヴェーゼは自分の能力を疑わない。

シェルナに出せない目を、想定も出来ない目を相手が出せるとは思わない。


敵はこちらの誘引を図った。

防衛線を縮めるため――その理屈は良い。

だが、本当の目的は別にあるのだ。


敵が隠しているのは最低でも軍団、あるいは一軍規模。

勝利の確信を持ったこちらを、一手で瓦解させうるだけの戦力に違いない。


段階的後退は意識を彼等に向けさせ、その戦力を秘密裏にこちらへ運ぶため――そう考えればつじつまが合った。

北のアーナは動いていない。これは考慮の外。

では、東からの迂回――これも考えにくい。

アルベラン西の樹海、その南側の平原を進ませたなら流石にミークレアが気付く。

だとすれば南からであった。


――そして、南は。


「……ガルシャーンは既に敗れている」


敵はアルベラン南部でガルシャーンを即座に打ち破り、南西からこちらに。

一軍規模の軍を警戒の薄い南西部から北上させ、ミークレアの後背を狙っている。

そしてこの本陣に迫っているのはキースリトン軍の伏兵ではなく、得体の知れないその軍による迂回攻撃。


そうだとすればつじつまが合い、


「シェルナ様! ミークレアが後方から襲撃されたと報告が――」

「……わかった」


そしてその報告は、その推測を確たるものとした。


「恐らくガルシャーンを打ち破った敵が南から来てる」


ガルシャーンの指揮官はエルデラントを長年苦しめた名将オールガン。

率いるのは出せる限り最高の戦力に違いない。

それをあっさりと打ち破る戦力をアルベランは用意したか――いや、三国に攻められるこの状況。

その戦場はここと同じく、アルベランの兵力劣勢となっただろう。


相手はその状況で容易く、あのオールガンを打ち破れるほどの将というわけだった。

尋常の相手ではない。

少なくとも知る限り、アルベランにそのような将の存在を知らなかった。


――アルベリネアの名を除き。


開戦時期が早まった理由は、古竜の王都訪問。

人の身で古竜と盟約を交わしたその少女にあった。

元々危険な状況、そのような真似をしたのが何故か、いかなる理由なのかは分からない。

どうあれ少なくとも、彼女について聞く噂の全てを今は信じるべきだろう。


最初から少し不思議であった。

宰相クロルスは気にくわない、とアルベラン女王のことを悪し様に罵っていたが――アルベランは内戦を終えて国力低下、下手をしなくとも三国を敵に回しかねない状況だったのだ。

ならば下手に、少なくとも敵意を先延ばしにするよう演技でも幼い女王を装い、穏便に事を運ぶのが最善だろう。

大国女王としての矜持というものか、と深く気にはしなかったものの――しかし最初からアルベランが、この三国侵攻に勝利する気でいたとするなら。


アルベリネアが古竜とすら比肩する怪物であると知っていたなら、その態度にも納得がいく。

この状況の全てに。


空となった村、段階的後退、誘引。

この状況はきっと、最初から全て想定されていたのだ。

ガルシャーンを打ち破った軍による、この戦場への戦略的奇襲――それが最初から予定に組み込まれていたに違いない。

だからこそ、フェルワース=キースリトンはこの大胆な夜襲を敢行した。


「想定は一軍規模。ミークレアは壊滅してるでしょう、そっちに増援は出さない。本陣は戦線を維持しつつ北上、前衛とアーカズに伝令を」

「……シェルナ、それは」


大きなつば広の帽子を被り、長衣を着た髭長の老人。

魔水晶のついた杖を手に、ヴェーゼの司祭長ジーグレットが眉間に皺を寄せた。

シェルナは一瞬唇を噛み、目を伏せ、告げる。


「全て罠。……わたしたちの負けです、ジーグレット様。すぐにでもアーカズと合流、軍を退き仕切り直しをしなければ厳しい撤退戦になります」


ジーグレットも周りにいた男達も、彼女の言葉に困惑を示した。

彼女がどうしてそのような結論に至ったか、理解出来るものが存在しなかったのだ。


推論に推論を重ね、それは彼女の妄想と言ってよい。

そもそもこれは、負けることなど一切想定していない戦であるのだ。


「シェルナ様、いきなりのことで何が何だか――」

「黙っていろ、カーラン。……シェルナ、何か確信があるのだな?」

「はい。中央単独では無理です。アーカズと合流し、一時的にでも全面協力の関係を取るべきでしょう。責任はわたしが取ります」


シェルナは藍色の瞳で真っ直ぐとジーグレットを見つめた。


ジーグレットはそれを見て、頷く。

彼女の事は子供の頃から知っている。

類い希なる天才であり、常人とは比べものにならない知性を有する。

その藍の瞳はヴェーゼが有する一番の宝であった。


彼女がその結論に至った理由を理解している訳ではなかったが、少なくともこれまで、彼女が過ちを犯したことはない。

彼女には時折、天啓と言うべき神がかり的な直感が働くのだ。


「司祭長として同意する。シェルナの指示に従え、責任の全てはわしが取ろう」

「……、は!」

「ありがとうございます、ジーグレット様――」


ただその狂気、天啓と呼ぶべき結論ですら、一足遅いものであったと言えるだろう。

シェルナの目に映ったのは西――背後の森から上がる影。


「……獅子鷲騎兵?」


見えたのは、三十騎のグリフィン。


――月のないはずの夜空に、黒旗の月が浮かんでいた。

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  2024年11月20日、第二巻発売決定! 
表紙絵
― 新着の感想 ―
圧倒的だ
カルア、大金星なのに………。
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