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夜の王

――夜襲であった。


「どけぇっ!」

「ひ――っ!?」


抱いていた女を乱暴に横にどかすと、ミークレア族長、ゲイン=ミークレアは入れ墨の施された筋骨隆々の裸体を起き上がらせる。

ズボンを引き上げ、そして剣帯を腰に。

右手に大斧を掴むと鎧も着込まず半裸ですぐに表に出た。


突然の夜襲、ここから僅か北東にあるアルベラン軍ではあり得ない。

何故ならば襲われているのは前衛ではなく、ゲインのある本陣であったためだ。

予想だにしない襲撃――僅かな時間の遅れすら命取りになり得る。


その性格は良好とは言えず、性質で語れば賊と変わらぬものだろう。

しかしゲインは少なくとも大部族ミークレアが大族長、獣の如き反応で自身の窮地を理解し、その状況を打破するため、状況的混乱すらをねじ伏せすぐさま頭脳を酷使する。


「――敵は少数! ミークレアの戦士よ、冷静さを保ち落ち着いて対処しろッ!!」


敵の姿を目で捉える前に、状況を把握しきる前に叫んでいた。

敵本体は北東、ならばこれは単なる伏兵。

襲撃方向はこの本陣野営の南から――であればそれほど敵戦力は大きなものではない。

森の中とは言え、こちらの索敵に引っかからず伏せられる兵力などたかが知れていた。


鋭敏にして果断。

将として必要な資質を彼は十分以上に備えている。

この状況で最も危険なのは、兵達の混乱、指揮系統の崩壊。


「兵は至近にある指揮官の下に集え! 混乱と各個撃破こそが敵の狙い、孤立こそを何より恐れよ! ここは夜の森――我らの領分であることを忘れるな!!」


全く予想もしていなかった夜襲にも関わらず、既にゲイン=ミークレアは戦士として覚醒していた。

野生の獣が如き切り替えの早さ。

少なくとも彼は凡庸などという言葉からは遠く離れた才覚者。

ミークレアという小国、その武王として彼ほどに相応しい人間は存在しない。


半裸で飛び出しながら動揺もなく。

そんな指揮官の姿に慌てふためいていた兵達は精神を立て直す。

元より本陣直下の精鋭――並外れた戦士のみがこの周囲にあった。


この本陣野営地に兵力は1000。

敵は間違いなく精鋭であろう。

だが、この本陣の兵力を上回る訳もない。精々500と考えられた。


「ゲイン様」

「遅いぞカーネザルド」

「はは、女が離してくれませんでしたので」


現われたのは同じく半裸――大槍を担いだ巨躯の男。

ゲインと同じ流線古文字の入れ墨を整った顔にまで施し、編み込まれた頭髪を手でなぞるように後ろに流す。

カーネザルド=ルーライン、ゲイン=ミークレアの片腕たる男であった。


「相変わらず巫山戯た奴だ。……状況が掴めん。お前は前で指揮を執り報告をよこせ」

「了解、それじゃついでにお楽しみの邪魔した野郎を討ち取るとしましょうか――、っ!?」


カーネザルドが応じる寸前、響いたのは獣の咆吼であった。

単なる獣ではない――大地すらを響かせ、木々の枝を揺らし、葉を舞わせ、一吠えで周囲の生物全てを凍り付かせるような。


「族長! 西から翠虎が――」

「聞こえておるわ!」


ゲインは報告に来た兵士を黙らせ、カーネザルドは不快そうに眉を顰めた。


「くそったれめ、タイミングがいい。どういう仕組みかはともかく、相手の仕掛けですな、翠虎をこちらにけしかけた」

「そういうことだ。やってくれる……カーネザルド、取り止めだ」

「仕方ありませんね。俺が行きましょう」


カーネザルドは慌てて鎧を持って来た兵士に、いらん、と槍を振って拒絶する。

身一つで踊れるような猛者でなければ翠虎狩りなど自殺でしかない。

翠虎を相手に鎧など気休め程度の意味しかなかった。


カーネザルドは苛立たしげに顔を歪めて、再び大槍を肩に担ぎ。


「毛皮は俺がもらいますよ、ゲイン様」

「ふん、好きにしろ」


この状況下で翠虎の出現。

それにすら二人は怯えることはなかった。

当然のようにカーネザルドは西へ走り、ゲインは次なる指示を集まりだした兵達に飛ばす。


自分達を率いる戦士に恐れるものなどなく。

その姿を見た兵士達は自分達に生じていた怯えの一切を消失させ、ただただ戦意を滲ませた。









巨木を足場にへし折って、跳躍は容易く森から空へと踊り出る。

肩高八尺、頭から尾までを合わせ、その体長は二丈に及び。

人の胴や丸太の如き腕は鎧の上から人体を損壊、へし折るに十分であった。

その体毛は柔軟ながらも硬く、打撃斬撃を容易に防ぎ、力のこもらぬ槍などはその筋肉を貫くことすらも出来はしない。


――翠虎とは森の王。

ミークレアの本陣、その西は殺戮の場であった。


突風の如き踏み込みは人間の動体視力を超え、その速度でありながらその巨体は直角軌道を難なく描く。

南を警戒していた兵達は突如横合いから現われた化け物になすすべなく吹き飛ばされ、弾かれ、内臓を口腔から吐き出すように宙を舞う。


国土の多くを森が占めるエルデラントにおいて、決して見ない獣ではなかった。

精鋭たる本陣護衛、魔獣と戦ったことのある兵士もそう少なくない比率で混ざっている。


だが、あまりにも一方的に彼等は虐殺されていた。


「ぐぁっ!?」

「エルウーカッ!!」


翠虎が一匹、ではない。

その上にあるのは黒き外套とワンピースドレス――星明かりに煌めく銀の髪。

高速運動と殺戮を繰り返す縦横無尽の翠虎に座り、あるいは立って、宙に跳んでは着地して。

曲芸染みた動きを繰り返しながら少女は短弓に番えた矢を次々に放つ。

矢筒から矢を引き抜き、番え、狙い、放ち――瞬きの間に次の矢が。

一瞬で三十本の矢の入った矢筒を空にしては放り捨て、翠虎の腰、その脇から新たな矢筒を肩に担ぐ。

狙いをつけているとも思えない、常識外の速度で連射される矢はしかし、風や翠虎の高速運動などはものともせず正確無比――翠虎の姿すらをまともに追えぬ兵士達に、そこから放たれる矢を避けることなど不可能であった。


見開かれ、篝火に輝く紫の瞳。

それに対する怯えからの偶然か、あるいは経験と実力か。

かろうじて真正面から飛来した一つの矢を防いだ次の瞬間には、真横から放たれた矢にこめかみを貫かれ、あるいは背後から脊椎を貫かれ。

魔獣狩りの経験を有する兵士の全てがそうして次々に射殺される。


分類するならそれは弓騎兵という存在だろう。

しかし魔力保有者すら圧倒する速度を持つ翠虎に騎乗し、常軌を逸した速度、正確性で命を奪い続ける彼女の存在は単なる弓騎兵などとは一線を画していた。

本来騎兵の嫌う森の中こそ彼女の狩り場。

この世界において、彼女は単独で精鋭一個大隊すらを圧倒する人虎一体の魔獣であった。


彼女の背後からは無数のグリフィンと戦士達が踊り出ていたが、そちらに意識を回す余裕すら彼らにはなかった。

逃げ出すものは容赦なく矢で貫かれ、彼らは悲鳴を上げ続ける他なく。


「ぐるるん、そっち」


ぐるるぅ、と不思議と高い声で獣が唸り、左手にあった兵士の胴をへし折った。

クリシェは右手にあった兵士を射殺し、こちらに向かって高く跳躍していた魔力保有者に矢を放つ。

咄嗟に弾かれ、逸れた矢が脇腹を貫き、仕方なく二射目を使ってその目を貫き殺し。

クリシェは唇を尖らせる。


仕留めるなら一人を一射――そう考えるクリシェには不満であった。

矢筒をその場に放り捨て、新たな矢筒を斜め掛け、肩に背負い、矢筒に被った長い髪を引き抜く。


二つを使い切って五十人、十発ほど矢を無駄にした計算。

クリシェは自分の未熟に不満を強めて目を細める。

殺した五十の命については欠片の考慮もしなかった。

彼女に取って彼等の命は自身の放つ矢と等価、二本を使うのはちょっと勿体ないという程度の存在でしかない。

座りながら新たな矢筒から矢を抜き放ち、


「ぐるるんこっち」


クリシェは翠虎の右肩を叩く。

翠虎は大きな跳躍で右手に跳び、そして彼女らのいた場所を貫くのは投槍。

人虎の前に現れたのは巨躯で半裸、入れ墨だらけの男であった。


クリシェは投槍で体勢を崩した男へ空中から矢を放ち、翠虎が着地してからもう一射。

しかし男は編んだ髪を振り回しながら身を捻り、それを避け。

更なる一射すらを大槍で弾く。


クリシェの眉が不愉快そうに動き、二本の矢を掴むと纏めて放つ。

翠虎を男の背後に走らせ、それを避けた男に更に一射――しかしこれすらを男は躱した。


放った矢は既に五射、命中はゼロ。

更にぴくぴくとクリシェの眉が動き、その眉間に皺が寄る。


対する男はこの一瞬で、相手が常軌を逸した化け物であると理解し、叫ぶ。


「――貴様! 何者だッ!?」


クリシェはそれを無視して飛び降りると無言で踏み込んだ。

一息で男の目の前に。振るわれた大槍を横から右足で蹴り飛ばし、


「が――ッ!?」


そのまま腰を捻って無防備な鳩尾に左の踵を抉り込む。

男の巨躯が浮かび上がり、クリシェはその顎の下を狙って矢を放ち――そこから脳天を貫いた。


「クリシェです。さようなら」


死体となった男を見ることもなく、聞かれた礼儀と一応名を名乗り。

そして大槍で弾かれ折れた一本を除いた、地面に突き立つ四本の矢を眺めた。


少し考え込み、それらを何事もなかったかのように回収し矢筒に入れ、


「……ん、二射ですね」


どう見ても二射です、と満足げに頷きつつ、再び翠虎へ。

怯えきった兵士の一人を前脚で転がし、何やら楽しそうにしていたぐるるんに跳び乗ると、その玩具を射殺して周囲を眺める。


カーネザルド様が、と膝を落とす兵士があり、呆然とする兵士があり、大方戦意を失っている様子が見えた。

気にすることも躊躇もなく、動かないなら当てやすい的でしかない。

それらを適当に撃ち殺しつつ、近くに来た獅子鷲騎兵に声を掛ける。


「ヴィンスリール」

「先に向こうが到着のようですね。コルキス殿が敵将らしき男と戦っているのが見えました」


ヴィンスリールは言って、半裸の男の死体に憐れむような目を向ける。

尋常ならざる手練れであった――しかしただ、相手が悪かった。

それ以外に掛ける言葉はない。


「じゃあそれを始末しに行きましょうか。ぐるるん」

「いえ、クリシェ様――」


声を掛けかけたヴィンスリールに一瞬首を傾げたが、指示を受けた翠虎は一瞬で距離を離す。

まぁいいか、と翠虎を走らせ野営地中央に向かえば、もはや完全に優勢はこちら。

敵本陣約1000と、アルベランで最も精強なるアルベリネア直轄第二軍団5000。

奇襲という条件がそこに加われば当然の結果であった。


南から来ている第二軍団に抵抗を続ける敵指揮官を背後から撃ち殺しつつ、中央の大天幕に。


「おの、れ……」

「鎧を着込んで同条件であれば、良い勝負が出来ただろう。……しかし戦――これも仕方のない結果だ」


そこには既に銀虎の鎧――コルキス=アーグランドの大戦槍が半裸の男の胸を貫いていた。


「この状況で俺の鎧に傷をつけたこと、それを誇りに思って死ぬといい」

「ぁ、が――」


そのままコルキスは無造作に槍を振るい、強引に槍から引き抜くように。

筋骨隆々な男の体を容易く大地へ転がらせる。

そして絶命した男の首を小剣の如きその切っ先で両断した。


「クリシェ様、こっちも終わりです。中々の猛者でしたが……」


コルキスは鎧の胸にある傷を示して笑う。

相手が相当な猛者と見て、わざと鎧で剣を受け、返り討ちにしたのだった。

どれほど優秀な戦士と言えど、常に金属鎧を一刀両断するような一撃を放てる訳ではない。


「順調そうでいいですね。クリシェ達はくろふよの方に行くとします」

「ええ、……?」


決闘の結果を見て意気消沈しているらしい兵士を眺め、クリシェは矢を番え。

そして無造作に矢を放ち、矢筒を使い切るまで横から順に躊躇なく射殺した。

悲鳴が上がり、その場の空気が凍り付く。


クリシェは矢を使い切ると矢筒をその場に――翠虎の腰から四つ目、最後の矢筒を手に取り肩に担いだ。

そして兵士達から向けられる視線を眺めて首を傾げ、ああ、と頷く。


「ぐるるんがちょっと矢筒を邪魔そうにしてたので使い切っておこうと。にゃんにゃん、後も適当に殺しておいてください」


コルキスは何とも言えない様子で周囲を眺めた。

普通であればこの本陣はもはや降伏だろう。

だが、クリシェは全く容赦もない。


――捕虜は取らない。

事前に明言し、通達しているクリシェに取って、戦意を無くした兵士とそうでない兵士に区分けなどなく、殺して当然の存在であった。

単に矢筒を使い切りたいという理由で呆気なく、十数名はそれで死んだ。


「聞いたとおりだ。……殺せ」


コルキスの言葉に悲鳴を上げ、硬直していた敵残党は逃げだし、そして第二軍団兵士は一瞬顔を見合わせながらもそれを追う。

翠虎に座る狂った少女に、隠しきれぬ怯えの感情を浮かべながら。


クリシェはそれを満足そうに見送りつつ、ぐるるんの腰に巻かれた余計なベルトなどを外しながらコルキスに告げる。


「大体の目途がついたらにゃんにゃんの方が先行してガイコツのところに。ベーギルの第三軍団の方が掃討戦は得意でしょうし、あっちはちょっとの間残って残党狩りが安定するまでキースのお手伝いです」

「……は」


クリシェは兵士達の目など気にしない。

そんな彼女にコルキスは何かを言おうか迷い、


「えへへ、順調で何よりですね。クリシェも予定よりちょっと早くお屋敷に帰れそうです」


幸せそうに、子供のような笑みを浮かべたクリシェを見て黙り込んだ。


彼女はコルキス達とは違う。

国と名誉のため身命を捧げた軍人ではなく、ただの少女なのだった。

ここは彼女の望む場所ではなく、望んでその手を汚している訳でもない。

そう望まれて、彼女はこの場にあるだけで。


彼女に掛ける言葉など何もありはしないのだ、とコルキスは気付いた。

状況が許すなら、今頃幸せそうにベリーと料理を作り過ごしていただろう。

だがその異常なまでの才覚が、ただの少女として彼女が過ごすことを許さない。


――これはそういう、単なる悲劇であった。


「ベリーにもプレゼントが出来たので、早く渡してあげたいのですが……」

「……そうですな、クリシェ様がお戻りになればベリーも喜ぶでしょう」


コルキスが言うと、クリシェは嬉しそうに首から下げた小袋を両手に包んだ。

そして中からキャンディを取りだし、コルキスの手の上に。


「にゃんにゃんも頑張ってくれてるのでご褒美です」

「……ありがたく」


苦笑して口に入れると、同じくクリシェも一つを口に。

転がせば戦場にはどこまでも不似合いな、甘く優しげな蜂蜜の味がして――コルキスはその歪さに目を伏せる。


それからクリシェの背後からは少し遅れ、三十騎の獅子鷲騎兵。


「流石に地上を走っては翠虎には追いつけませんね」


上空か、それとも地上か。

乱戦下の獅子鷲騎兵にとって、中途半端な高さでの行動こそが最も危険となる。

空を飛ぶのは偵察に限り、基本的に彼等も地上で行動を行っていた。

足自体は馬より多少遅いが、翼を使えば加速も出来、グリフィンは地上での行動速度もそれほど低いものではない。


「もうにゃんにゃんの勝ちだって言おうとしてたんですね、ちゃんと話を聞いておけば良かったです」

「ええ、コルキス殿の優勢でしたから」


ヴィンスリールは答え、見渡す。

本陣はもはや壊滅、生き残りも逃げだしている。周囲には第二軍団兵士達。

血濡れの槍を担ぐとクリシェを見た。


「どうされますか?」

「予定通り、先行してるくろふよと合流しましょうか。この状況ですし、低空なら飛んでも大丈夫でしょう。予定通り少し大回りに……くろふよは索敵しながらなのですぐに追いつけるでしょう」

「は。ついでに一度、キースリトン将軍達の確認をしておきましょうか?」

「んー、そうですね。ここでやっておきましょうか。迂回してから見るよりはいいです」


ヴィンスリールは頷き、ベーグ、と一人の獅子鷲騎兵に声を掛ける。

ベーグはすぐさまグリフィンの名を呼び南へ、低空から徐々に空へ。


篝火で明るい野営地周辺で空に上がると、夜の闇でも意外なほどにグリフィンは視認されやすい。

そのためだった。


「では、クリシェ様」

「ええ。にゃんにゃん、後はお願いしますね。クリシェは敵将の首を狩ってきます」

「は。ヴィンスリール殿も気を付けた方が良い。エルデラントは森に慣れた狩人が多い。山に住むクレィシャラナの人間であればこそ、その怖さは理解しているだろうが」

「念頭に置いておこう。空気に慣れた頃が一番危うい。……コルキス殿も更なる武運を」


言ってヴィンスリールは槍を突き出し、コルキスは笑って槍を重ねる。

クレィシャラナにおける、戦士同士の挨拶のようなものだった。


クリシェはそれを見ながら、ぐるるん、と翠虎を走らせ、ヴィンスリール達も続いていく。

コルキスは見送ると槍を担ぎ、目を細めた。


「逃げる敵も容赦なく……あんまり気が進まねぇが、状況が状況、愚痴ったって仕方ねぇか。……おい、そこの本陣旗にその首を突き立てろ」

「は!」










黒旗特務は素早く、しかしある程度の索敵を行いながら敵本陣後方へと進む。

敵との遭遇あれば大部隊でない限り即時殲滅、優先すべきは速度であった。

現状は巡回していた歩哨以外との遭遇はなく、行軍は順調。

特に問題と言うべき問題は起こっていなかった。


中隊を十字に、左翼と右翼に百人隊長タゲルとコリンツを。

最後尾を総合能力に優れたアレハ、中央に中隊長ダグラとワルツァ。

そして先頭がミアと特務班長カルアであった。


カルアの特務班は現在彼女を含めて7人で構成され、古参からの特殊技能者で構成されている。

傭兵出身者など剣の腕も当然ながら、裏稼業あがりや商人の倅――偽装や工作、様々な状況下に対応出来、視野の広い兵士達。

クリシェが戦場、街中問わず、手元で使いやすい人材をそこに纏めている。

カルア自体頭の回転が良く様々な状況に対応出来る人間であるため、それを活かした形であった。

歩哨4人を既に仕留めてなお先頭の彼女らは警戒を怠らず。


「ミア副官、中隊長から小休止をと」

「……ん、了解」


ミアは中央から来た兵士に頷き、右手を上に。

そして左手で少し前方を歩いていたカルアの側に小石を投げる。

カルアは振り返りミアの手を見て同じく右手を上に。

静かな森に響いていた枝葉の擦れる微かな音もそれで消える。


敵本陣からすれば右斜め後ろの辺りだろう。

四里ほど距離は離してある。警戒はそれほど必要ない。

ミアはそのまま少し歩いて、木に背中を預けたカルアに近づく。


「……疲れた?」

「多少はね。これを平然とこなせるうさちゃんはやっぱり病気だ」


カルアは嘆息し、目頭を揉む。

月もない暗い森の中、常に敵の歩哨を警戒し、物音を逃さず――神経の使いすぎで頭がおかしくなりそうだった。

訓練も嫌になるほどやっているが、訓練は所詮訓練。

ベルナイクでもひたすらそれを繰り返していたものの、その先導は常にクリシェ。

クリシェ抜きの実戦としては初めてであった。

油断なく敵を警戒しながら当然のように先頭を進み続けられるクリシェという人間は、その戦闘能力を抜きにしてもやはり超人である。


「コーザと交代させようか?」

「あたしはまだ大丈夫。他ももうしばらくは行けるでしょ。多分すぐにうさちゃんも追いついてくるし、そん時コーザに任せようかな」


カルアは素直に言った。

意地を張るつもりはなく、まだしばらくは集中力も持つ。

動きはじめはコーザ達が前に出ていたこともあって、もう少し彼等は休ませておきたいところであった。


「そ。わたしも変わってあげられなくて残念、む……っ」


にやにやと笑いながらミアが言い、カルアはその頬をつまんだ。


「ふぅん、いつもの仕返しのつもり?」


ミアは副官。

立場上斥候として前に出て神経をすり減らす苦労は免除されている。

とはいえ、それも軽口。

決してミアが楽をしているというわけではなく、彼女は彼女で隊の掌握や進路選定に神経を張り詰めさせていた。

斥候と出会えば処理すれば良い。

だが、理想は出会わないこと。


リスクを極力避けるため、頭に入れた地理とクリシェの指示を思い浮かべ、状況に応じて進路を変更――敵との接触は自分の責任であると考える。

カルアはミアの頭を叩いて、似合わないことは言わなくていいよ、と苦笑した。


「むぅ……」

「次の進路は?」

「……もう少し西に行ってから北に。想像よりちょっと斥候が多いようだし、迂回を大きくして安全側に回ろうか」

「りょーかい……、っ?」


カルアは咄嗟に前方を見て、鉈のような大曲剣を引き抜く。

ミアはそんな彼女の様子を見て、咄嗟に腰の剣を抜いた。


木々の隙間から差し込む星明かり――人にしても、獣にしても巨大な影。

見覚えがあった。


「なんだ。クリシェ様、もう――」

「違う、離れて!」


――影は気付かれたことに悟ったか。

木々を振るわせ大気を歪め、木々をへし折り一息で距離を詰めた。


翠の体毛、黒き縦縞。

肩高八尺の怪物――その名は翠虎。


森の支配者とも呼ばれる巨大な獣は、二人を目掛けてその腕を振りおろした。

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  2024年11月20日、第二巻発売決定! 
表紙絵
― 新着の感想 ―
にゃんにゃんもやっぱり強いなあ。わんわんとどっちが強いんだろう? 野性の翠虎が現れた! デカい! 強い! 暗い! 足場悪い! ヤバいな………。
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