暗い夜
アルベラン西部軍――キースリトン本陣。
そこにあるのは西方将軍フェルワース=キースリトン。
そして元帥補佐エルーガ=ファレン。
中央から来た女将軍、テックレア=レーミン。
そしてその副官達三名。
従兵すらを人払いのため外に出し、六人の前に片膝をつくのは密偵ダグリスであった。
「ガルシャーンを討って……もう側まで来ていらっしゃるのか、アルベリネアは」
男と並ぶ長身と、くすんだ金の髪。
整いながらも女としての柔らかさのない顔――テックレアはダグリスの言葉に、信じられないといった様子で驚愕を浮かべた。
彼女の副官も同じくであったが、エルーガとフェルワースにはしかし驚く様子もない。
自身の驚愕を恥じ入るようにテックレアは表情を戻し、申し訳ありませんと一言告げる。
歴戦の将たる二人を前にして、数段劣ると自覚する彼女は萎縮している様子があった。
公爵家という血筋だけで中央将軍になった訳ではなく、能力的にも優秀な人間ではあったが、内戦にも参加せず、実戦経験も僅か。
将軍としては初めての戦場――少しやる気が空回りしているところもある。
エルーガはその様子に邪貌を歪め、苦笑する。
「驚くのも無理はない。ただ、クリシェ様はそのような方だ」
「……は」
緊張した様子でテックレアは頭を下げ、エルーガは少し困った様子で顎に手を当てる。
人柄も悪くなく、頭の回転も悪くない。軍人として見れば良い軍人だろう。
ただ女であることにコンプレックスを抱いているのか、気を張りすぎ、失敗を恐れすぎるのが問題であった。
所詮女と侮られるのが嫌なのだろう。
鍛え上げた体、常に険しい表情――先日指揮下の軍団長を一人討ち取られたこともあってか、より硬直している部分がある。
彼女の緊張をほぐすため、何かないか――
「……私であってもクリシェ様を知らずに聞けば耳を疑う。はは、驚き腰を抜かして骨を折ってしまうかも知れんな」
「……申し訳ありません」
――失敗であった。
クリシェやセレネ以外には非常に稀な上官の気遣い。
彼の副官クイネズはそのあまりに似合わぬ言葉に驚天動地の困惑を浮かべつつエルーガを見るが、しかしすぐに彼に睨まれ視線を戻す。
彼の上官はクイネズに対してはいつも非常に厳しかった。
フェルワースは肩を揺らして笑い、慣れない真似はせんほうがよいな、とエルーガに告げる。
「レーミン将軍、気負うことはない。戦場の失敗には二つ。明確な判断の誤りか、それとも敵が想定以上に強かったか――前者はともかく、今回は後者。戦場の混沌で君は最善の策を取り、その上で相手が上回った、それだけの話だ。そしてそれだけの精鋭を相手が有するという情報を得られたことは我々全体、後の行動に繋がっていく」
戦場とは混沌の暗闇。
指揮官は常に僅かな情報で無数の選択を迫られる。
当然、どのような状況下であっても最善の手を出し続けることなど人間には不可能で、時には失敗を受け止める度量も必要となる。
戦は単に目的を達成する手段に過ぎない。
それを考えれば軍団長一人の損失は小さなものであった。
自身を含め、軍は最終的に目標を達成するための駒でしかない。
「君のおかげで中央の敵将は果断で攻撃的――数で押し潰す安定よりも戦力の集中による突破を狙う人物であることが理解出来た。今後の考慮材料としては大きなものだ」
時には駒を捨ててでも相手の指揮官、その性質を探ることも必要となる。
失敗は受け止め、一つの情報として飲み込み。
そうして相手の輪郭を浮き彫りにしていく。
フェルワース=キースリトンは天才ではなく、将としては凡庸であった。
クリシェやノーザン、エルーガのように才覚によって相手を圧倒する力を持たない。
だからこそ情報を余さず手にし、精査し、小さな敗北を重ねても慌てず、確たる勝利を得るまで粘る忍耐強さを持つ。
士気絶頂のヴェルライヒ軍を相手に内戦で生き残ったのも単なる運ではない。
初日にギルダンスタインの影武者を討ち取られた時点で、あちらの決着も想像以上に早いと見越していたのだ。
時間を稼げば決着を知らせる報が戦場に届くと考え、時間を稼いだまで。
戦場の闇に情報と理屈を重ねて光を照らし、目的を達成することに全力を。
失敗を恐れず、全てを受け止め動じることなく。
それ故にフェルワースは老いてなお錆びぬ名将と謳われる。
「後悔は戦の後……わしは君を戦友として見ている。老人からの小言が欲しいならこの戦が終わった後にいくらでもわしとファレンがしてやろう。君はまだ若く、故に失敗は成長の糧となろう。今は恐れず責務を果たしなさい」
「は。……ありがとうございます、ファレン元帥補佐、キースリトン将軍」
フェルワースは満足げに頷き、エルーガは眉間を揉んだ。
「本当に、老人になって慣れぬ事はせぬほうがマシですな」
「ははは、君のそういう姿は見ていると面白くはあるがね。……新月の夜、クリシェ様の要求は?」
「いえ。ただ伝えろと」
ダグリスはただそう告げた。
ガルシャーンを初日で撃破。密偵を処理しこちらに向かい、新月に敵の南軍――右翼を潰す。
伝えたのは端的で必要最低限、指示はなかった。
「こちらに全て任せると言うことか。よほど君を信頼しているらしいな?」
フェルワースは笑みを浮かべてエルーガを見やる。
髑髏のような邪貌に深い皺を刻んで邪悪に――いや、嬉しそうにエルーガは笑った。
「くく、なんとも嬉しいものですな。……ダグリス、続けてくれ」
「は。捕らえた密偵と敵の隊から聞き出したものですが――」
ダグリスが語るのは拷問し聞き出した敵の内情であった。
三軍に別れる敵はそれぞれ別の部族が指揮している。
この戦は戦後の権力争いに大きく関わるものであり、表向き共同歩調を取るが不仲――どの軍も内心では他の二軍を出し抜き、大きな戦功を挙げたいと考えている。
現在の王は病に伏せっているとの噂があり、戦場に出てきていないこともそれに拍車を掛けているらしく、実際的に三軍はそれぞれ別々の国の同盟軍というべきもの。
それぞれの軍内でも随分な派閥闘争があるらしい。
既に三人が知る情報も当然あったが、だからと言って口を挟むことはない。
情報は重なるほどに確度を増すと彼らは知っている。
こちらの捕虜から得た情報との僅かな差異に目を向けつつ、ダグリスがすらすらと語る内容に耳を傾けた。
その他内部事情や野営の方針、指揮に関してなど様々な事についてが語られよどみなく。
三人の将軍を前にしたこの場においても彼は緊張とは無縁であった。
「――南部、敵右翼将軍ゲイン=ミークレアは部下を恐怖で縛る無法者の蛮族ですが、軍規が緩く、略奪を繰り返すこともあって兵の士気は高い。中央の総大将シェルナ=ヴェーゼは反対に規律を重視するが、その分兵達からの受けも悪く……北部、左翼将軍トーバ=アーカズがそうした二つからはみ出たものの受け皿になっている、と」
ちぐはぐな軍ですね、とダグリスは笑う。
「利益と理想と中庸と。ただ、実際どうかはともかく、シェルナ=ヴェーゼが彼等の中で図抜けた存在であることは確かなようです」
「……図抜けた?」
「女の身でありながら、エルデラントの戦士達が敵わぬ並外れた技量を持つ戦士だとか。エルデラントは武を重んじる社会――軍がそのような状態で崩れていないのは彼女の存在が大きいと」
どの程度かは分かりかねますが、と続けた。
ダグリスが想像するのはクリシェであり、聞いたエルーガもまた同じく。
「くく、仮にクリシェ様が相手なら既にこの首が飛んでおるだろうな。とはいえ……しかし、傑物であることは確かだろう。考慮するべき情報ではある。……以上かね?」
「は。将軍達から別の指示がなければ王都に戻るようにと命じられております」
「……キースリトン将軍、レーミン将軍からは何か?」
「いや。……優秀な密偵だ、早めに王都に返した方が良いだろう」
「私もありません、元帥補佐」
エルーガは頷くとダグリスに目配せを。
彼は立ち上がると一礼し、そのまま天幕を出て行った。
それを見送ると、フェルワースはただでさえ細い目を更に細めた。
「立ち姿、呼吸――中々見事なものだ。見慣れぬ男であるが」
「元は悪徳商人の密偵です。今はクリシェ様に忠誠を。……計算高く人としては信用ならぬ男ですが、信念や道義に縛られぬ利己主義者――クリシェ様の密偵としては信頼出来る。損得で考えればクリシェ様を敵に回すほど愚かなことはありませんからな」
楽しげに笑って告げる顔は邪悪そのもの。
女将軍テックレアは僅かに怯えを見せ、クイネズは上官の顔を決して見なかった。
エルーガの邪貌は見続ければいつか見慣れるというものではない。
「……こちらも同じく、新月の夜襲としましょうか」
「果断だな。理由は?」
「我々は敵中央にあからさまな夜襲を仕掛け、同時にクリシェ様が敵右翼を壊乱。あちらの中央は頼みの片腕を失ったことに気付き間違いなく混乱する。元より連携の取れていない軍のようですからな」
地図を指で示し、目を細める。
「敵は全力で我々の攻撃を防ぎに来るでしょう。突如右翼軍を失えば予備を使ってこちらの攻撃阻止を図らざるを得ない」
想定されるアルベリネア軍を敵右翼と重ね。
そこから大外周りに中央へ背後から。
「クリシェ様はその間、機動力に長けた黒旗特務を率い、敵右翼から大きく中央後方まで迂回……背後から敵将の首を取る」
楽しげにエルーガは言い、フェルワースは眉根を寄せた。
「打ち合わせでもしてきたようだな、ファレン。その想定、自信の程は?」
「……クリシェ様は終わらせると仰いましたからな。であれば、自信などと不確かなものではありません」
黒豆茶に口づけ、舌を湿らせ息をつく。
「彼等がアルベリネアという存在を知らず、そしてこの状況に気付けなかった時点でもはや詰み。……戦ではなく、これは単なる後処理ですよ」
明日の夜――新月に備え、アルベリネア軍の大天幕では会議が開かれていた。
「くろふよは敵後方を迂回して先行。クリシェとヴィンスリール達は一緒に右翼の夜襲に同行しますが、すぐに抜けてそっちに合流します。おじいさまと各軍団はそのまま組織的抵抗力を失うまで右翼を叩いて、最終的な敵右翼の後処理はキースの第一軍団。にゃんにゃんとベーギルは落ち着いたらガイコツの応援です」
まぁこれは良いですね、とクリシェは微笑み、台の上に乗ると背後の地図を指し棒で叩く。
「その頃にはクリシェとくろふよによる敵本陣の後方奇襲も済んでるでしょう。基本的には掃討戦です。同士討ちなんていうお馬鹿な真似だけはしないように注意しながら、虱潰し――捕虜はなるべく取らず敵を始末します」
そしてクリシェは明確に告げた。
各軍団長と大隊長――その場の空気に一瞬緊張が走る。
「視界不良な条件下、相手は国土の大部分を森に覆われたエルデラント兵です。小部隊での逆襲は十分に考えられますし、また敵編成は同じ部族の出身者で区分けされ、指揮、命令系統の見定めが困難。人道的理由で捕虜とするにはあまりに不安要素が大きいです」
クリシェはあらかじめ考えていた内容をさらさらと口に出した。
そこに戸惑いも躊躇もない。
「あくまで聖霊協約に定められているのは敵が武装解除し戦意喪失、継戦の意志がない場合において、戦闘終結後の虐殺、捕虜の虐待を禁じるというもの。敵に小規模であっても組織的逆襲の可能性があり、警戒態勢を解けない視界不良の条件下では適応外です」
微笑を浮かべて指を立てる。
今回の夜襲には戦略的、戦術的理由ももちろんあったが、誰もが理解していた。
目の前の少女は、合法的な虐殺を行うためにあえて新月の夜を選んだのだ。
「捕虜とするのは夜明け以降、こちらの視界が確保された後に降伏した兵士に限ります。夜間でこちらの連携も十分とは言えません。それ以前の勝手な捕虜の確保は大きな混乱を招く恐れがあり、軍行動全体を危険に晒すものであると理解してください。大隊長は戦闘前、指揮下の百人隊長に厳命を」
それは暗に、その意にそぐわぬ行動を禁ずる言葉。
彼女の目的は明らか――戦後におけるエルデラント王国の立て直しを困難にするため軍事力、兵力そのものを削ぎ落とそうとしているのだ。
合法的な虐殺によって。
良心に呵責の念を覚えるものもあったが、とはいえこの状況下。
ガルシャーンを相手に圧倒できたのは、そしてこの優位を手に出来たのは、あくまでこのクリシェ=クリシュタンドの存在があったからこそ。
本来絶望的な戦況には変わりなく、相手に慈悲を与える余裕などはアルベランに存在しない。
そして誰もがクリシェが率いるこの軍の重要性を理解していた。
それ故、鉛を飲み込むように彼等は黙ってそれを聞く。
いくらか反発を予想し、様々な答案を用意していたクリシェとしては少し肩すかしを食らった気分であった。
何やら事前の準備が無駄になった気分になりつつ続ける。
「キースリトン軍の状況が不確かなので、指示は出さず完全にお任せする形にしました。夜襲は伝えていますしガイコツがいるので、よほど状況が悪くなければこちらに合わせて正面から敵中央に攻撃してくれるでしょう。これがなかった場合、あなたたちは待機――クリシェ達も敵後方で機会を待つ、と」
この心配はあまりなさそうですね、とクリシェは言って、椅子に座り直す。
万が一にでもクリシェ達の存在を知られてはならない。
相手は南からの侵攻に対し、一切の懸念を覚えていない状態なのだ。
先日よりも距離は縮まっている。ここからグリフィンを飛ばすだけでも疑念を抱かせる恐れがあり、優秀な密偵であるダグリス一人を片道で走らせたのはそういう理由だった。
フェルワースやエルーガに指示を出さなかったのも、あちらの詳細な状況が掴めないため。
だが戦闘開始からの経過日数、敵右翼の配置から推察するに、概ね予定通り、特に問題なく段階的な後退は行われていると見て良い。
フェルワースのことはあまり好きではないが、その実力は過去の記録、内戦での戦い振りからそれなりに評価しているし、エルーガはアルベランでクリシェが最も信頼を置く指揮官であった。
森が多く複雑な地形が多い西に彼を配した理由もそこにあり、そこには強い信頼。
よほどの状況に追い込まれてなければ確実に夜襲連動は行われると見ており、現状の戦略配置から見てクリシェに不安はなかった。
仮定に推論を重ね――戦争が始まる前からこの状況も、想定の一つとして彼女の中に。
これは彼女に取って、出来上がった方程式に数字をはめ込む作業でしかない。
「あ、そうでした」
クリシェは思い出したように告げる。
「エルデラント兵の質が良くないことは確かなようで、クリシェが始末した隊では民間人が無理矢理交尾――違いました。……ええと、捕まって乱暴されてたようですね」
男達は眉根を寄せ、聞いていたミアとカルアは頭を押さえる。
間違っていないが正しくないクリシェ。
そのことについて話すならこういう言い方を、と二人で事前に説明していたのだが、案の定であった。
「二百人規模の隊でしたが、村を二つ襲ったのだとか。その内一つは見つけましたが村は焼かれて皆殺し。届けのない村がこの辺りには良くあるそうですし、多分他の所でもそういうことがあるでしょう」
困ったものです、とクリシェは頷き、彼らの視線を気にせず続ける。
「あれではこちらの捕虜も悪い敵兵に酷い扱いを受けている可能性がありますし、民間人がいくらか囚われてる可能性も非常に大きいでしょう。捕虜は取らないと言いましたが、この辺りは臨機応変に……んー、方針は統一していた方が良いでしょうか」
「……そうですな。そのような連中が相手となると、追い詰められれば何をするかは分かりません」
第一軍団長キースは答えた。
「悪あがきに捕虜を盾や人質に。そうしたこともあり得るでしょう」
「そうですね。そういうこともあるでしょうか……」
人質は実際、中々の有効手段ではあるし、少なくとも過去、母グレイスの際にはクリシェですら動きを止めた。
クリシェは困ったように首を傾げ、
「……その状況は大いに想定されますが、原則通りと行きましょう。優先すべきは任務、人質はその時点で死人として扱うべきだ」
腕を組んだコルキスが明瞭に告げた。
それを最初に発言するのは少なくとも彼の役目。
クリシェであってはならないと考えたからだった。
「ですな。問答無用で攻撃されれば人間、人質を殺す手間より逃げることを優先させるもの。冷酷であっても、結果的にはそれが最も被害が少ない」
ベーギルが続く。
人質を盾に逃げようとする相手――心理は自身の生存にあるもの。
そういう輩は交渉が一切通じぬ相手に対して、十中八九逃げ出すことを優先する。
ついでに人質を殺せるような人間であれば、交渉の成否に関わらず人質は殺されるだろう。
民間人や捕虜を人質に取られたからと、躊躇することは無意味であった。
「ん……、やっぱりそういうものでしょうか」
どこまでも合理的な少女。捕虜は取らないとする先ほどの発言。
当然のようにあっさり理解を示すと誰もが考えていたが、クリシェは少し考え込むように。
男達は僅かな困惑を浮かべ、ガーレンだけが理解したように目を細め、彼女の肩に手を置いた。
不思議そうに見上げたクリシェに頷き、代わりに告げる。
「残酷なことだが、軍人である我々の背中にはアルベラン王国――そこに住む全ての人間の命が乗っている。数人の命と引き替えに出来るものではなく、ここは感情を律し、倫理ではなく数学の論理を優先させるべきだろう」
皺の深い顔に険しいものを浮かべつつ。
しわがれた老人の声は不思議とよく響いた。
「アーグランド軍団長の言った通り、人質は死人として。単なる捕虜や民間人に関しては一班を張り付け最低限の対処。戦闘が安定次第、順次こちらで対応しよう。今回、諸君らはあくまで敵軍の打破掃討を優先……異論、改善点あれば手を」
ガーレンは一人一人を見渡し、手をあげたのは第三軍団長、ベーギルの副官ファグランだった。
「意見があります、将軍副官」
「よろしい。言ってみたまえ」
ファグランは立ち上がり、胸に手を当て敬礼する。
「これはまぁ、賊のやり方ですが……そういう相手ならば捕らえた女に身内や密偵を混ぜ、内側から監視させるという手段が考えられます。どういう場合であっても、指揮官が直接その対応に当たらないよう取り決めておいた方が良いでしょう」
ファグランはグランメルドの古くからの部下で、元々野盗出身。
賊が使う手口はよく知っている。
「なるほど。確かに考慮すべき想定ではある。……大きな混乱が予想される。この場にある人間は警戒を。捕虜や民間人から情報提供という名目であっても近づかず、下士官に対応させよ」
クリシェはそうした言葉を聞きつつ甘ったるい紅茶を飲み。
他に意見のない様子を見て頷く。
「そのくらいでしょうか。……今回はおじいさまの言った通りのことを対応の方針としましょう」
捕虜は取らず皆殺し。
でも巻き込まれた民間人はなるべく助ける方が良いだろう。
クリシェの狂った良心回路はどうするべきかを迷っていたが、ガーレンが言うなら間違いないかと受け入れる。
死んだグレイスを思い出し、もし躊躇なく斬りかかっていたなら死なずに済んだのだろうかと考え、答えは出ない。
クリシェであっても過去は不可逆。
考えたところで無意味であることは理解していた。
「んー……さて、ひとまずおおよその行動目的、考えられる状況については先の通り。あとは翠虎なんかの魔獣についてですが、こっちも以前言った通りですね。各百人隊長に再度周知し、改めて警戒させておいてください」
クリシェは言って、軽く伸びをすると続けた。
「次は細部、今後の進路と配置についてですが――」
――月のない夜であった。
篝火と星の光だけが草原を照らす、静かな夜。
明日にはシェルナ=ヴェーゼの決めた決戦がある。
ここで勝ちきらねば、戦は終わり――切り取った領土を維持するための防衛戦以外の行動、攻撃侵攻を中断する。
一番の理由は地形にあった。
この辺りは森と平野が斑であったが、ここより東にアルベラン軍が逃げ込めば、そこにはアルベラン中央と西部を遮る大樹海が存在する。
森は天然の要害。
いかに森に慣れたエルデラントの兵であれど、そこで勝利を収めるには膨大な血量を必要とするだろう。
中央ヴェーゼ軍は平野に野営地を設け、森を挟んで東の対面の平野にキースリトン軍。
エルデラント軍全体はくの字に折れ曲がり、北、左翼アーカズはやや先行し、こちらも間に森を挟んでキースリトン軍の側背面を脅かそうとしている。
南のミークレアも同様、やや先行して彼らの南、そこにある大きな森の中に軍を伏せていた。
明日は夜明けと共に三方からの攻撃――上手く行くかに確証はない。
半包囲、というには左翼、右翼共に若干の突出程度。距離もある。
敵もそれを想定していることを考えれば、そのまま東に逃げおおせる可能性も十二分にあった。
彼等の後方、東の樹海では野営のような篝火が焚かれているという情報もある。
兵を一部先行して送り込み、こちらの追撃に対し万全の体勢を取っていると見て良かったし、樹海の手前には大きなものではないが砦も存在しており、そこまで逃げ込まれれば少なくとも、この戦は終わりとなる。
――これは賭け。
追撃戦で首を獲れるか、獲れないか。
これはそうした戦いであった。
フェルワース=キースリトンの首さえ獲れれば、そうでなくとも大打撃を与え、それで敵を混乱の渦に叩き込めば、こちらは樹海での決戦に挑むことも視野に入れることが出来る。
「おい、交代の時間だぞレド。早く寝ろ」
「……眠くねぇよ、ズレン」
箱の上に腰掛け、焚き火をぼう、と眺めていると、現われたのは無骨な顔の大男。
ヴェーゼの狩猟隊――その一番隊、切り込み隊長ズレンであった。
大槍を担いで酒瓶を手に、レドの横に座る彼の顔には人を小馬鹿にしたようないつもの笑み。
「なんだ、明日の戦が怖くてぶるっちまったか?」
「抜かせよ。お前じゃあるまいし」
苦笑し告げる。歳はレドの三つ上――けれど古くからの親友だった。
子供の頃はガキ大将、どうしようもないいじめっ子でろくでもない男であったが、今は副官のベズと同じく、誰より頼りになるレドの戦友となっている。
「お前が翠虎にびびって鼻水垂らして、腰を抜かしてたのは良く覚えてるぜ、ズレン」
「ガキの頃の話だろうが。……それにお前も一緒だろう、レド。戦士長が来た途端泣きわめいてみっともねぇ」
「うるせぇよ」
子供の頃、ちょっとした冒険。
ラーニの大集落に訪れていたシェルナ。
彼女に綺麗な滝を見せてやろうとレドとズレンは意気揚々と案内し、森の中で翠虎に出会った。
翠虎が空腹でなかったのは幸いだったのだろう。
その気なら一瞬で殺されていたはず――しかし翠虎はいきなり襲い掛かってくるようなことはなく、うなり声をあげながらゆっくりと近づき。
あの場で冷静さを保てたのはシェルナだけだった。
落ちていた木の枝を手に構え、レドとズレンに決して動かぬように告げ――そんな彼女の体も震えていたのを良く覚えている。
三人がいなくなったことに気付いたレドとシェルナの父、そしてベズ達が駆け付け翠虎を討ち取り。
あの時のことは忘れない。
「……陛下も親父さんもすごかったな」
「ああ。……格好良かった。今も追いついた気がしねぇよ」
傍らの巨剣を撫で、目を細めた。
これを手に翠虎に斬りかかった父の姿は、今もこの目に焼き付いている。
槍を手にしたシェルナの父――王と二人、翠虎の敵意を引き付け森の中を跳び回り、ベズ達は無数の投槍と矢を放ち。
トドメを刺したのはこの巨剣。
「あれほど痛い思いをしたこともない」
「……だな。シェルナ様まで叩くとはびっくりだったが」
それでも怪我人が出た。
三人は当然のようにこっぴどく叱られ、温厚だったレドの父も大激怒。
三人揃って平手打ちを食らって、三人揃って抱きしめられて、三人揃って小屋の中に閉じ込められ――その後もじんじんと、それは単なる体の痛みよりも、ずっと痛い平手打ちだった。
「……シェルナにもあの時の恩返しがまだ済んでない。明日はそういう意味じゃ、願ってもない機会だ」
「だからって、あんまり無茶を考えるなよレド。……お前が死ねば恩返しどころじゃねぇんだ」
「心配してくれてんのか?」
「どうしようもねぇ奴を好きになっちまったシェルナ様のな。お前の心配じゃねぇぞ?」
この野郎、とレドは笑ってズレンの頭を小突こうとし、ズレンはそれを手で弾く。
二人笑って、焚き火に目を向け。
そしてズレンは持って来た酒を口にし、レドに手渡す。
レドはそれに口付けると、息を吐き出し顔を上げた。
「……まぁ、多少の無理はしなきゃならねぇよ。少なくとも、ミークレアに手柄を独占されるのはまずい」
「……初動をミークレアに譲ることになるとはな」
「じゃなきゃ、こっちの作戦には乗らないって言ってんだ。仕方ねぇ」
ヴェーゼ、ミークレア、アーカズ。
三つの部族は仲間であり、将来の敵でもある。
要請には基本的に従うが、指揮権は各々に、この軍はある意味同盟軍に近い。
「シェルナはミークレアが決める可能性はないと考えた。あいつらじゃキースリトンを討てねえってな。俺も同意見だが……乱戦になりゃわからねぇ」
攻撃は右翼ミークレアから開始され、間髪入れずに左翼のアーカズ。
そして中央ヴェーゼが後詰めとなり、正面から敵を圧迫。
敵が東に後退すれば敵将を狙いやすいのはミークレアとアーカズ。
ヴェーゼが狙えるとすればやはりその殿の将となるだろう。
これは確実にヴェーゼが仕留めておく必要がある。
ミークレアとアーカズが本命に手こずり、なおかつ足止めすれば、ヴェーゼにも手を出す余地が生まれ――可能性はどうあれ、五分よりも低かった。
次善策として敵戦力の削り取りもあったが、どちらにせよヴェーゼの戦いは苛烈なものにならざるを得ないだろう。
「……足並みさえ揃ってりゃ、12万の大軍対6万。もっと簡単に勝つことは出来たはず……だってのに、情けねぇ」
「それは仕方ねぇさレド、どの部族もお互い様……言い分はそれぞれにあって、俺達だって譲れはしねぇんだ」
そう言って、まぁ今だけだ、とズレンは続ける。
「……数十年後にはきっと、こんな下らない悩みなんてなくなるよう、シェルナ様やお前が国を変えてくれるんだろう?」
「……、そうだな。悪い、愚痴っぽかったか」
ズレンは笑い、肩を叩く。
「結果がどうなろうが、適度に頑張れよレド。俺はお前の結婚式でシェルナ様を横から掻っ攫ってやりたくてたまらねぇんだ」
「はっ、お前なんか三つ数える前に返り討ちにしてやるよ」
レドは笑って、ズレンの厚い胸板を拳で叩き。
「っ!?」
――森に響いた鐘の音。
二人は同時に立ち上がる。
単なる間違いではない。
森から鐘の音が重なり響き、無数の鐘が夜の空気を振るわせる。
「ヴェーゼの狩人は今すぐ目覚めろ! 戦闘準備だ!」
ズレンが吠えるように叫び、レドは眉を顰める。
――敵の選択は夜襲。
狙いは何か、規模はどれくらいか。
「ズレン、このタイミングの夜襲だ。何があるかわからねぇ、お前はここに残ってシェルナを守れ」
「だが――」
「俺は何人か率いて様子を見に行く。すぐにベズと他の奴らを送ってくれ。どうあれこの状況じゃミークレアとアーカズは即座に動けねぇ。場合によっては俺達中央軍単独で敵の初動を防ぐしかない」
ズレンは神妙な顔で頷き、わかった、と一言告げる。
レドはすぐに起きていた兵を纏め、集合させ――すぐに栗色の髪を揺らし、その場にシェルナが現われた。
「レド、ズレン!」
薄手の寝巻き姿で汗を掻き、天幕から飛び出してきたらしいシェルナは周囲を見渡す。
篝火の明かりでうっすらと肌と下着が透けていた。
「……お前その格好」
「格好なんて気にしてる場合じゃないでしょ。……まずは様子を見るだけ、無茶は駄目。分かった?」
「そんなことを言いに来たのか……」
「レドは馬鹿だからね」
シェルナは呼吸を整え、目を閉じる。
「夜襲の可能性は伝えてある。指示があるまでは前に出ず、前衛後方で待機。突破があった時だけ対応して。わかった?」
「……ああ、むっ!?」
それから飛びつき口づけをして、藍の瞳で睨み付けた。
「もし死んだら殺すからね」
「わかってる。……また後で、だな」
「わかってるならいい。――それじゃ、後で」
シェルナは言い切る前に踵を返して走り去り。
周囲の兵士とズレンは唖然としたように、羨ましいものを見るようにレドを見た。
「……何見てんだよ」
「くそ、羨ましいぜ。俺もキスされてぇ」
ズレンの言葉に頷き、兵達は口々に同じことを繰り返し。
レドは顔を赤らめながらガリガリと頭を掻いた。
鎧も着ずに飛び出したのはこのためだったことには気付いている。
「下らないこと言ってないで行くぞ、お前ら。……夜の森は俺達の庭だって事を奴らに教えてやる」
「顔を真っ赤にして言っても格好付かねぇぞレド」
「殺すぞズレン。……ともかく、行くぞ!」
――空は暗き新月の夜。
火照った頬が冷めるような、硬質な大気に満ちた世界。
そうしてこの西部における、アルベラン軍最初で最後の攻撃が始まった。