よるのしじま
目標はすぐに見つかった。
村の女を十数名連れ、派手に騒いでいたのは二百人ほどのエルデラント兵士達。
野営をしながら騒いでいた彼等を奇襲によって壊滅させるのは容易であった。
どうにも南を監視する役目を持った隊であったらしいのだが、ガルシャーンの大軍に迫られるアルベランが南から現われることなどはあり得ないと高を括っていたらしい。
全くの無警戒で、旅人や村を襲っていて楽しんでいたらしくあの村も二件目。
元々アルベラン西部はアウルゴルン=ヒルキントスの戦略――要するに敵の誘引撃退によって土地を荒らされるのは常。
税を納めながらも軍に見捨てられる状況が長年続いており、税も納めず森の奥にひっそりと暮らす人間というものはそこそこいるらしい。
あの村もそうした一つであったのだろう。
彼等はエルデラントでも南東の部族出身者で、アルベラン西部の事情にはクリシェが感心する程度に詳しかった。
銀の髪の少女は天幕の中、エルデラント兵士の長剣を手に、なるほどなるほどと彼等の言葉に感心したような顔で頷く。
エルデラントで話される言葉は訛りが強いが、基本的には西部共通語。
より西部の奥地へ行けば話も変わるが今回の侵攻軍も同様で、この辺りには手間が無かった。
書物として存在する大抵の言語についてはクリシェも学んではいるが、聞き取りや発話は難しいし、そもそも会話自体得意な訳でもなし。
西部共通語である方が齟齬もなく都合も良い。
生き残りでも比較的階級の高そうな男を含め十人ほどを残した。
その内一人を残る九人の前で指の全てを斬り落とし、目をくり抜いて鼻を削ぎ、両手足を切断――何でも話すと答える男に何一つ問いかけることもなく見せしめとして殺した後、ようやく一人一人個別に尋問を。
個別に尋問するのは情報の精査のためだった。
軍務を無視して略奪と陵辱を満喫する軍人崩れ――この状況で嘘を吐くとは思えなかったが、とはいえクリシェにそうした理屈も通じない。
人殺しを楽しむ人間というものをクリシェはあまり理解出来ない。
そこには彼等なりの美学というのがあるかもしれないと、彼女はどこまでも『生真面目』であった。
「お願いします……助けて、助けてください……お、お話しすることは全て、お話ししました……」
尋問が終わり、クリシェが最後に残した隊の指揮官が告げる。
彼は小部族の戦士長であったが、真っ当な悪党であった。
少なくともクリシェのように『根本から狂った人間』ではないし、顔色一つ変えず、飴玉を味わいながら人間を解体するような異常者を彼は理解出来ない。
多くの快楽殺人者を知ってはいても、目の前にあるものは明確に別物だった。
「ん、聞きたいことは聞きましたし、用済みですね。クリシェはちゃんと約束を守りますよ。正直に答えてくれましたし、指を切り落としたり鼻を削いだりなんてこともしません」
「じゃあ……」
安堵したように男は顔に希望を浮かべ。
「ハゲワシ、終わりです」
「は。連れて行け」
「ふぐっ!?」
男に再び猿ぐつわと目隠しを噛ませると、二人の兵士はそのまま男を天幕から連れ出す。
後は殺して終わりであった。
外で自分達の墓穴を掘らせている男達と同様、生かすつもりは元々ない。
痛い思いをして死ぬか、それとも素直に喋るかであって、クリシェは生かして解放すると約束した覚えもなかった。
最初から最後まで見届けたのは、ダグラとアレハ、ダグリスだけ。
他はクリシェの人間解体ショーの途中で気分を悪くして出て行っている。
「ダグリス、聞いた情報をキースリトン将軍とガイコツに。それから三日後、新月の夜に右翼を潰して終わらせると。何か言われない限りはそのまま王都に戻っていいですよ」
「わかりました。それでは先に失礼を」
クリシェの『拷問の先生』となっていたダグリスはそのまま天幕を出て行く。
それを見送りながらクリシェは指先で唇をなぞった。
「エルデラントの軍人は質が悪いですね。何やら賊の集まりのようです。みんなこんななのでしょうか?」
「全員、というわけではないでしょうが……アルベラン軍と比べて質が悪いことは確かでしょう。戦争を大義名分に欲望のまま獣の如く、荒くれ者が多い」
ダグラは答えた。
見せしめの拷問時に覚えた気分の悪さはようやく落ち着いて来ている。
「これも、戦争という一面。死を間近にした極限状態では、普段取り繕っている本性が剥き出しにされるものです」
「……そういうものでしょうか。知識としては知ってましたけれど、クリシェもちょっとびっくりです。本当に楽しんであんなことを出来る人がいるんですね。クリシェの村もちょっと間違えるとあんな風になっていたのかも……」
カルカに来た賊の事を思い出して、クリシェは目を細める。
むごたらしく一人を殺して見せたのは、あくまで仕事であったため。
純粋に人間を損壊させて楽しむ輩というのはクリシェの理解の外であった。
戦争では略奪が起きるもの、と知識では知っている。
聖霊協約は都合良く解釈すればどこまでも都合良く解釈出来るもの――やろうと思えば反抗の意思を見せたという理由で村一つを皆殺しにすることは容易である。
村に対する略奪禁止が明文化されている訳ではないし、記されているのは無抵抗の民間人を意図的に傷つけ、殺害してはならないという文言だけ。
物資の収奪過程で村人が抵抗し、やむを得ず殺害、あるいは処刑したという言い分は、あくまで聖霊協約に反したものでないと論理的に説明が行えれば十分に通りうる。
ただ彼らは村の女性を拉致、虐待を加えていた現行犯――言い逃れなど出来ない状況で、クリシェとしては都合良く何よりであった。
しかし話を聞いたクリシェにあるのは困惑である。
占領した村での略奪は当然暴力的なものとなることは理解していたが、とはいえ、彼等の行動は明確にそれと異なっていた。
軍事行動上の必然ではなく、そこでの殺傷と暴力そのものが目的となっているのだ。
再三どのような目的であのようなことをしたのかを尋ねたが、彼等の答えは娯楽である。
クリシェの考える善良さとは真逆――彼らは全くの別人種であった。
「ああいうのを野放しにするのは良くないですね。今後のことを考えると丁度良い機会ですし、やっぱりこの際一掃しておくべきでしょうか」
明瞭に。
二人はその言葉の意味を違えなかった。
彼女の言葉が比喩ではないことを知っている。
外では悲鳴が聞こえた。先ほどの男達が殺されたのだろう。
「中々耳の痛い話です。神聖帝国では、あえてこのようなことが行われていましたから」
「あえて?」
「法の下で満たされていれば、犯罪を犯す者もそうはいない。とはいえ実態として社会的弱者は存在している。国内で満たされない彼等の鬱屈を解消させるために、他国での略奪は都合が良い、という訳ですね」
アレハは苦笑しながらも、目は笑わず。
「不穏分子の間引きを兼ねて。敵国を侵略すればその土地で暴れられるというのは大義名分の存在しない兵の士気を高めるには良い口実です。理屈としては彼等と変わらぬものでしょう」
言って天幕の外へと視線を向ける。
「……なるほど」
「アルベランの兵士達が優秀で、統制が保たれているように見える理由は恐らく兵站が大きい。商人を同行させ、兵達の欲求を満たすことを常に重視している。……女性兵士が多く存在することも理由にあるのかも知れませんが、良い仕組みです」
アルベランはどうあれ豊かで安定している。
そして豊かであればこそ、人は人でいられるもの。
そこで生じる金銭的コストは莫大であったが、アルベラン兵士の強みは何よりそこにあるのだろう。
そうして動物的な欲求を充足させることで、人間を崇高なる使命に命を投げ出す軍事部品へと変えてしまうのだ。
形のない夢と理想に抱かれた兵士達――彼等が統制崩れぬ強兵で知られる理由はそこにある。
方法論の違い。
どちらが正しいとも言えないし、エルデラントやエルスレンの在り方が全くの間違いとも思わないが、好ましいかと言われればそうではなく。
少なくともアレハの好みもこちらであった。
「んー……セレネもなんだかその辺りは気を付けるようにって言ってましたね。ちゃんとおじいさまやキース達の意見を聞くようにって。クリシェ、いまいちよく分からなかったので全部任せてるのですが」
「くく、それで良いでしょう。あなたの指揮官達は皆優秀です」
クリシェは少し考え込んで、まぁいいですね、とすぐに投げた。
兵士達の理屈を自分がしっかり理解出来るとは思っていなかったし、それはクリシェではなくその下の人間の役目である。
「まぁ、どちらにせよガルシャーンでは予定がちょっと狂ってしまいましたし、エルデラント軍の質が悪いのは事実のようです」
クリシェはただただそう告げて、
「これでクリシェも気兼ねなく始末が出来るというものですね。二度とアルベランに攻めてこないよう、これを機会に徹底的に潰しておくことにしましょう」
微笑を浮かべて頷いた。
――戦闘の翌日。
野営地をレドが歩いている途中、聞こえた悲鳴に足を止め。
向かった先はヴェーゼ傘下の部族、キルスの所であった。
「……アロン、何のつもりだ?」
「あん? なんだ文句があるのか?」
満足げな顔でズボンを引き上げるのはアロン=キルス――キルスの戦士長。
細身ながらも長身――軽薄な顔に笑みを浮かべ、楽しげにレドを眺めた。
天幕は捕虜の一時収容所、中にいるのは王国の女兵士であった。
「単なる尋問だ、俺の隊で捕まえた捕虜をどうしようが俺の自由だろうが」
「ふざけるな! お前のやっていることのどこが尋問だ、屑野郎」
「おい、やめろレド、仲間割れをする気か?」
剣を引き抜きかけたレドを壮年の男――副官ベズが止め、それを見ていたアロンは笑う。
「おぉ怖ぇ。まさかアルベランの捕虜如きのために、キルスに喧嘩を売るつもりか?」
「……聖霊協約違反だ、屑野郎。お前の首をすげ替えることが出来ないとでも思ってやがんのか?」
「思ってるね。冷静に考えてみりゃ分かるだろ」
アロンは楽しげに傍らの男を見る。
アロンの腰巾着――醜悪な肉達磨は豚のように笑った。
「……戦場で内輪揉めは何よりの重罪ですぜ、レド戦士長。キルスは今回7000も兵を出してるんだ、こんな下らないことで揉めたって得はどっちにもない」
「道理の問題だ。無抵抗の捕虜を弄んでいい理由にはならない」
「ガキの論理だな。そりゃあお前は毎晩シェルナ様と合法的に楽しんでるのかも知れないが、俺達には宛がわれる女もないんだ。それともあの捕虜の代わりにシェルナ様を俺達に恵んでくれるのか?」
「……本気で殺すぞお前」
ベズを跳ね飛ばし、背中の巨剣を引き抜く。
呆れたようにアロンは両手を広げた。
「別にからかってる訳じゃねぇぜ? 当然のことを聞いてるだけだ。現地調達でもしなけりゃ実際問題どうするって言うんだ?」
それからアロンは腰――くの字に折れた大振りの曲剣を引き抜き、肩に担いだ。
「くその役にも立たねぇ大義名分、誰かが実利を取らせなけりゃ兵は従わねぇよ。俺がイカレてるんじゃなくて、イカレてんのはお前だぜ」
アロンは頭を指で示して笑う。
「黙って見とけば世はこともなし、これも回り回ってお前達の利益になるんだ。ちっとは賢くなったらどうだ?」
「ふざけんな。建前の大義名分だろうが、それを守らなけりゃ戦なんて獣の縄張り争いみたいなもんだろう。それともお前は犬畜生と同じか?」
「ははは、見解の相違だな。俺は人間が犬畜生より上等だなんて思ったことはねぇよ」
「お前――、ッ!?」
頭上から現われたのは栗色の髪。
呆れたような顔でレドとアロンの間に降り立ち、外套を翻らせて。
そこまで、と彼女は一言告げた。
「レド、アロン、やめなさい」
「……ちっ」
アロンは舌打ちしながらも剣を鞘に。
シェルナはレドを睨む。
「大人しくしてなさいって言ったでしょ、もう。……納刀」
「……分かったよ」
レドも不承不承といった様子で巨剣を背中にバンドで留める。
シェルナは嘆息しながらアロンを見て、それから捕虜の天幕を見た。
「捕虜は以降、こっちで管理する。アロン、速やかに移送を」
「……兵達から不満が出ますが。ただでさえこっちにも死人が多いんだ。多少目を瞑ってもらわないと兵達の士気と統制に関わりますよ?」
「聖霊協約違反を理由にアルベランを攻めてるの。堂々とそれを破る訳にはいかないことくらいわかるでしょ? ……キースリトンを打ち破ればそれなりに大きな街があるわ。ヴェーゼがお金を出してキルス優先で遊ばせてあげる。大人しくわたしに従うなら、という条件付きだけれど」
シェルナは言って、腰の長剣を叩いた。
「それとも、戦士長としてわたしと決闘を? ふふ、それはそれで構わないけど。勝てばあなたの好きなだけ一緒に寝てあげる」
「……いえ。出過ぎた発言でした。強き剣に従います、シェルナ様」
アロンは不満を浮かべながらも片膝を突き、頭を下げた。
エルデラントにおいて、戦士としての決闘ほど重いものはなかった。
強き者に弱き者が従う。
古き時代からの掟は今なおこの世界では強く根付いている。
「移送の途中で逃げだしたなんて言い訳はやめてちょうだい。……捕虜は丁重に、でないとわたしから決闘を命じてあなたを殺す」
「……は」
アルベランの貴族がその名を使った誓約を重んじるように、彼等もまた戦士として決闘の結果と誓約を何より重んじる。
同じ相手には生涯に一度だけ――そして上位者からの決闘を拒むことは出来ない掟。
決闘を持ち出された時点でアロンには従う他なかった。
ヴェーゼの剣姫はこれまで決闘に敗れたことはなく、キルスの先代戦士長は彼女が十三の時に敗れ、名誉を失い自害している。
「以上、明日の夜、以降の動きについて会議を設けるからそのつもりで。行きましょ、レド」
「……ああ」
頭を下げ続けるアロンを見ながら嘆息し、歩き出したシェルナの後を追う。
やめてほしいぜまったく、とベズは言った。
「気持ちは分かるけどよ、戦争の真っ最中に仲間割れしてどうするんだレド」
「本当にね。揉め事はやめてって言ったはずだけど」
「うるせぇな……わかってるよ」
追従するシェルナを見て、苛立たしげにレドは頭を掻いた。
それから嘆息する。
「直情的なところは嫌いじゃないけど、軍人としてはだめだめね。山火事に手水を掛けるくらいの愚かさかしら」
「……見過ごせってのか?」
「そうね。少なくとも今はキルスが必要だし、揉め事をしていい状況じゃない。……今回の戦が失敗すれば、エルデラント統一なんて夢のまた夢。冷静に考えてちょうだい」
シェルナは言い、ベズが頷く。
「シェルナ様の仰るとおりだ。根本から変えなきゃ何も変わらねぇし、ここでしくじれば百年後もエルデラントは今のまま。……シェルナ様の側で支えなきゃならねぇお前がガキのまんまでどうするんだ?」
「ふふ、ベズは結構いいこと言うよね。大好き」
「はっはっは、そりゃありがてぇ」
男らしい壮年の顔に笑みを浮かべつつ、ベズはレドの肩を抱く。
「お前の親父は……ラーディアはお前に何を託したんだ? 落ち着いてよく考えて、自分のやったことを振り返って見ろ。胸を張ってそれをラーディアに言えるのか?」
ラーニの先代戦士長――レドの父ラーディアは五年前、シェルナとレドを逃がすため囮となって死んだ。
エルデラントの未来を、二人に託して。
「……悪い、ベズ」
ベズはそんなラーディアの親友だった。
ラーディアが死んでから、レドをこれまでずっと支えてきた親代わりで兄貴分。
素直に告げると、ベズは笑う。
「謝るだけの冷静さがあるならそれでいいさ。お前のそういう青臭いところは俺も好きだが、その青臭い理想は将来のために取っておきな」
ベズは空を見上げる。
か細い月が空に浮かんでいた。
「……今は不正解でも、その内それが正解に出来るだろうさ。お前にもシェルナ様にも、まだまだ未来があるからな」
「……ベズだってまだ若いだろ。そういうこと言ってると余計に老けるぜ」
「お前……折角格好付けたって言うのに」
「うぉ……!?」
ベズは笑いながらレドの頭を太い腕で締め上げ、拳をこめかみに押し当てる。
シェルナは呆れたように苦笑して、まったく、と肩を落とした。
「まぁ、レドの言うとおりかも。……ベズ、いつ死んでもいいけれどわたしの結婚式まではちゃんと長生きしてちょうだいね。あなたから花を捧げてもらいたいの」
「それは名誉なことですな。是非に」
「ふふ、そのためにはまずキースリトンかしら。……厄介な相手ね」
フェルワース=キースリトンはこちらの侵攻に対し先手を打ち、北部――突出したアーカズ軍に痛打を与えた。
そして彼等の足を止め、シェルナ達中央――ヴェーゼ軍に対し横合いから伏撃。
三軍がそれぞれ不仲で、それほど連携が取れていないことを理解していたのだろう。
先日の内戦まで戦場を長く離れていたはずだが、フェルワース=キースリトンは未だ将としての名を錆び付かせていない。
大胆でありながらどこまでも冷静――油断ならない相手であった。
「鼻っ面に一発当てて、怒り狂って迫れば罠を張り、落ち着きを取れば優位な地形を手にして防戦……段階的後退。まるで風にそよぐ草花の如し、ね」
兵力優位はこちらにあった。
押せばいずれ打ち破れるのは確かだが、無茶をすれば王都攻略を行う兵力は失われるだろう。
南部ガルシャーンを相手にダグレーン=ガーカは大きく軍を後退させた。
こちらも同じく、フェルワース=キースリトンは軍を後退させている。
持久戦略――恐らく、アルベランの東でも軍を後退させているのだろう。
「……王国全土を守りきるのを不可能と見たんでしょうね、北部と中央部のみを残して諦め……とはいえ、アルベランにしてはあまりに弱気かしら」
「実際、この状況を見れば悪くない戦略じゃねぇのか? こっちの三国だっていつまでもお手々を繋いで戦えるかって言えば怪しいもんだ。ガルシャーンとはつい先日までやり合ってたところだぜ?」
レドの言葉に眉根を寄せて、確かに、とシェルナは頷く。
この同盟は長くは続かない。王都までの短期攻略が出来なければ、それで講和――アルベランの領土を切り取り、三国はそれを今回の落としどころとするだろう。
「アルベランも万全ならともかく、内戦を終えて疲弊、首がすげ変わったばかりの状況で三国侵攻。どう考えても勝ち目はないんだ。状況的に守りに入らざるを得ないんだろうよ」
「まぁ、馬鹿レドに指摘されるのは楽しい気分じゃないけど、もっともな意見ね」
「……お前な」
「……北部からのアーナが怖いもの。無茶は厳禁かしら」
中央へと踏み込み過ぎればアルベラン北西部に展開するアーナの軍が間違いなくこちらの側背を狙ってくる。
クレィシャラナとの国交を開いたとの話もあり、そちらにも多少懸念がある。
この後退は恐らく誘いだった。
ほとんどの村から住民を避難させたのも英断だろう。
アロンに限らず、無法者達が不満を溜めている。人道的な理由ではなく、狙いはむしろそちらにあるのだ。
戦が長期となれば、彼らの統制が困難になることは間違いない。
「……クロルス宰相は、アルベランの女王を子供だと侮るべきではないって」
「……?」
「先日会談で目にして、そう思ったそうよ。瞳がアルベランの忌まわしき血筋のそれだとかなんとか……」
シェルナは自身の藍の瞳を指で示した。
紫にも近く見える、深い青色。
「綺麗な紫色をしてるんだって」
「……お前の天眼みたいなもんか?」
「さあ?」
深い青の瞳は天与の才に恵まれる。
エルデラントにはそのような言い伝えがあり、事実シェルナはそのような人間であった。
何をしても飛び抜けて、あっという間に身につける。
無論単なる色味――そうでない者も多くいたし、単なる迷信とも言えるものではあった。
ただ呪術師――司祭達はそうした伝承を今なお信じているらしい。
クロルスも司祭出身、恐らくアルベランに関するそうした伝承があったのだろう。
「目の色なんかで大した違いがあるとは思えないけど……どうあれ随分な風格があったそうよ。早めに始末しておかないと大変だってひたすら騒いでたもの」
「……まぁ、12,3で内戦に勝ったくらいだ。よほどの女王なんだろうが」
アルベランの黒獅子。
ギルダンスタインの名はエルデラントにも知られていた。
あのクリシュタンドが味方にあったとはいえ、それを打ち破って玉座についた女王がお飾りだとは思えない。
「後はその懐刀、噂のアルベリネア様、か」
アルベランの元帥はクリシュタンドの娘、シェルナより年下の少女だという。
そしてそれに次ぐ元帥補佐にエルーガ=ファレンというクリシュタンド指揮下、元軍団長であった老人とアルベリネア――クリシェ=クリシュタンド。
アルベランの人事はよく分からない。
単に周囲を親女王派で固めたのだと噂されていた。
しかし軍を司る元帥に少女というべき年齢の人間を置き、当然反発もあるだろう。
傀儡目的の身内人事にしてもあまりに杜撰で強引――合理的理由が見つからないのだ。
「聖霊と盟約を結び、元帥に次ぐ爵位。わたしは半分信じてるわ」
「……本気で?」
「クロルス宰相の懸念が正しいのならね」
内戦で絶大なる武勲を、そして竜の盟約者。
――アルベランの二人の忌み子。
どれも噂であった。聞けば一笑に付すような。
「でないと、アルベラン女王はただの子供ってことになるもの。クロルス宰相は頭が固くてうるさい人だけれど、人を見る目はちゃんとある。そんなクロルス宰相が危険だと仰るなら、あのよく分からない人事にも理由があると思うの」
絶対じゃないけどね、とシェルナは言った。
「そして理由があるなら、わたしはそこに何かの策があると考える」
「……どんな?」
「少なくともこの状況をひっくり返すような、よ。幸いこっちには来てないみたいだけど」
シェルナは目を細め、真剣に言った。
アルベラン西部には事前に間者を撒いている。
こちらの想定外、大きな動きがあれば伝えるように命じてあった。
キースリトン軍、中央軍、元帥補佐ファレンの軍団。
それ以外の増援があるならば、もう伝わっているだろう。
東に向かったか、あるいは南に。
彼女はどこまでも冷静だった。
慎重過ぎるほど、相手の意図を考える。
「……普通に考えればわたしたちはなんとか突破したい状況よ。ただ、このあからさまな持久戦の構え……最低でも長期戦に持ち込めばなんとかなると考えてるんでしょ」
「何らかの謀略で三国の不和を招き、逆襲を狙う……とかか?」
「それも想定される一つね」
レドは少し考え込み、尋ねた。
「……だからって怯えて諦めるのか?」
「切り取りで満足するか、突破を狙うか。早めに結論を出しておくべきだと思うだけ。……次の攻撃は本気で行く。今出来る最高の布陣で」
シェルナは答え、
「それでキースリトンを討ち取れなければ諦める。相手が何かの策を弄する前に。……戦後を考えればここで止めて、統治を優先するというのも悪くはないしね」
嘆息した。
「理想はもちろん大勝だけれど、あんまり全体の雰囲気が良くない。アロンみたいに馬鹿な連中も怖いし……戦後統治の安定を考えるなら、ムキになってあんまり戦を長引かせるのはデメリットだらけ。司祭達は嫌がるでしょうけれど、それでなんとか納得させようと思う」
シェルナはその目を細めた。
「現状でもこの西部中央はヴェーゼが取れる。最善の結果よりは時間は掛かるかもだけど、最終的な道筋は同じなら悪くはないかもって、ちょっと思ったの。不安要素が思ったよりも大きいような気がしてきたしね」
「……次、か」
「そう。今終わるならヴェーゼの優勢勝ちってところで負けはないし、失敗してもなんとかなるもの」
小さな丘の上――彼女の天幕。
その前に立つと両手を広げて、空を見上げた。
「……早く帰りたいな。育ててるキルメが花咲くところ、また見逃しちゃいそう」
「……そうだな。ま、今年見逃しても来年があるさ」
「最初から諦めないでよ」
拗ねたようにシェルナはレドを睨み、苦笑した。
「……失敗したら切り替える。でもだからってレド、あんまり無理をして死なないでちょうだいね」
「……、ああ」
「それからベズも」
「……忘れられているのかと」
ベズは呆れたように笑い、頬を掻いた。
「忘れてないよ、失礼な。……ともかくもう少し。頑張りましょ?」
シェルナはそれぞれに拳を向ける。
レドとベズは右拳を出し、それに合わせ。
か細い月が空に浮かぶ、そんな夜だった。