鳥籠の女王
――アルベラン王国女王、クレシェンタ=アルベランの朝は早い。
「――タ様、クレシェンタ様……」
「ん……もーちょっと寝ますわ……」
まだ朝焼けが空を染めるころ、優しく揺すられる感触。
ぬくぬくの毛布の中で幸せそうに睫毛を揺らし、そして閉じる。
「はい、お休みなさいませ」
二度寝であった。
『少女の望んだ日常譚』
ズボラ、怠惰――いや違う。
日々過酷な政務と頭脳労働を強いられる幼い体。
肉体は休息を求め、睡眠を求めるのは自然の摂理。
自身の過労を癒やすため彼女の体は本能的に深い眠りを求め――しかしそれはあまりにも深すぎる眠り。
その深い眠りは肉体を活動状態に復帰させることを困難とし、彼女の肉体は『段階的覚醒』という極めて特異な起床前行動を取る必要があるのであった。
「ふぁ……見る度思うけれど、だらしないわね、これ。やめたほうがいいんじゃないの? ほら、クレシェンタ、朝よ」
「うぅ……やぁですわ……」
呆れたようにセレネは幸せそうなクレシェンタの頬をつつき。
つつかれたクレシェンタはいやいやをするように背中を向ける。
「ふふ、いじめてはかわいそうですよ。クレシェンタ様はお疲れなんですから」
「そうですわ、お疲れなのですわ……」
ふにゃふにゃとした声であった。理性などない。
目の前にある枕を掴んで抱き、ベリーはくすくすと笑ってクレシェンタの頭を撫でた。
強ばった顔に再び柔らかいものが戻り、すうすうと寝息を立て始める。
「あなたは甘やかしてばっかりね、もう」
「クリシェ様もクレシェンタ様も頭の使い過ぎなくらいですから、ちょっとだらしないくらいできっと帳尻が合うのですよ」
毛布をクレシェンタの肩に掛け直す。
どうにもクリシェとベリーが二人早起きして朝食の準備をしたり、お茶をしたりというのが不満であったらしい。
わたくしも起こすべきですわ、と言い出したのが最初であったが、今では二度寝をするために一度わざわざベリーに軽く起こさせるというのが日課になっていた。
これをしないときの方がむしろ彼女の寝覚めは良かったが、その分何やら不機嫌。
口には出さないもののどうにも、頭のぼやけた状態で起こされ、ぼんやりとしたままあれこれ世話を焼かれ甘やかされるというのがとてもお気に入りであるらしい。
だらしないと言えばだらしなかったが、理由がなければ素直に甘えられないクレシェンタのわがままと思えば可愛らしくもあった。
「お嬢さまももう少しゆっくりされてもよろしいのですよ。毎日わたしに合わせなくても……」
「わたしは一回起きたら二度寝はしないの。……こういう時間に起きるのは案外すっきりかしら」
ネグリジェ姿でしなやかに体を反らして伸びをして、金の髪をさらさらと揺らす。
言いながらもその目は少し眠たげだった。
まだ日の出。
セレネも普段の起床はもう少し遅いのだが、近頃は同じベッドで寝ているおかげでベリーの起床に合わせて目覚めてしまう。
だからと言ってベリーのようにとはいかず、先ほどもベリーがエプロンドレスに着替えている間、ぼんやりと横になりながら眺めていた。
セレネもクリシェやクレシェンタと同じく、朝はそれほど強くもない。
「慣れたら平気なものかしら?」
「眠気がない、と言えば嘘になりましょうか。そうですね……お嬢さま、魔力を体の隅々に指先まで。肉体拡張です」
「……?」
セレネは言われるがまま、魔力を動かし全身へ――仮想の筋肉を構築する。
全身がほんの少しぴりつくような感覚が走って、そのまま体をゆっくり動かした。
「寝起きは特にそうしておくと頭を使うからか、眠気が少し弱まる気がするのですが……いかがでしょう?」
「そうね……確かにちょっといいかも」
「寝起きの気怠さは肉体のものですから、こうして魔力で体を動かすように癖付けておけば少しは朝も楽に」
「……もー少し早くに教えてくれても良かったんじゃないかしら?」
セレネは両手に腰を当て、ベリーを睨んで嘆息する。
「随分前に自然と覚えたものでしたので……慣れるまではむしろちょっと疲れかねないものですし、それに昔のセレネ様にお教えするのはどうかと少し」
困ったようにベリーは苦笑した。
「クリシェ様やクレシェンタ様は普段からそうしてらっしゃるので、つい忘れていたのも……」
「……クリシェやクレシェンタはともかく、あなたの方がわたしより上手なのはどうしてか理解出来た気がするわ」
セレネは指先まで、魔力の筋肉を形作り、眺めた。
単純な瞬発力では流石にセレネが勝るものの、ベリーのそれはクリシェ達のそれに近く、滑らかで繊細。
例えば利き腕の真逆で文字を綴るように、石を投げるように、魔力による筋肉というものは扱いにくいもので、日常的な生活で使うには難儀なもの。
しかしこういう些細なところで洗練されてきたのだろう。
「あなたが軍人なんか目指してなくてよかったと心底思うわ。今頃劣等感で死にそうになってたかも」
「性格的に駄目ですよ。お嬢さまやご当主様、ねえさまのように気が強くないと。わたしにはそういうものがありませんし」
「あなたに足りないのは自尊心だけよベリー。わたし以上に気の強い頑固者じゃない」
セレネはむに、とベリーの頬を両手で摘まんだ。
「まぁでも、そう言うならそう言うことにしてあげようかしら。ふふ、使用人さん、着替えを取ってくださるかしら?」
「もう……はい」
「いつも通り、ちょっと走って剣を振ってくるわ。朝食は部屋で取れるものでお願い。書き物の残りが少しあるから」
「畏まりました」
棚に用意したズボンとシャツを手に取った。
多少汗を掻いても吸ってくれる練習着――元帥が身につけるには質素に過ぎるものであったが、朝のこの時間、王領である。
見咎めるものなどいない。
「夜は帰ってくるけれど、お昼もちょっと忙しいからあっちで適当に済ませるわ。エルヴェナも借りていくわね」
「はい。……それならお昼用の軽食もバスケットに入れておきましょうか?」
「ヴァーズラー商会との話がお昼にあるから、多分そのまま食事に誘われそうだし……朝食だけでいいわ。あ、でもエルヴェナの分だけ用意しておいてもらえる?」
ネグリジェを脱いで、ズボンとシャツを身につけながらセレネは告げる。
ここのところは朝から晩までセレネの予定は詰まっていた。
妙に明るく見えるのは、不安の裏返し。
予定を詰めているのもわざとだろう。
何かをしていないと不安なのだ。
「わかりました。……では、行ってらっしゃいませ」
「ええ。じゃあまた後で」
その気持ちは良く、ベリーも理解していた。
ベリーは朝食を作り、それからしばらくしたタイミングで目覚めてきたアーネとエルヴェナは合流する。
二人は配膳の準備、食堂を整え、エルヴェナは馬たちの餌やりに。
アーネは朝食の味見をしつつ、汗を掻いて帰ってくるセレネのため手桶に湯を用意。
そうして様々な用意を終えて部屋に戻ってくると、クレシェンタの様子に変化。
扉側に背を向けていたクレシェンタの体は、扉向きに。
枕を抱きながら眠たげに睫毛を揺らし、閉じ――覚醒の二段階目、『まどろみクレシェンタ』である。
唇をむにむにと動かし、やや不機嫌そうに入ってきたベリーを認めると目を閉じ体を反転。
背を向ける。
要注意な状態であった。
これはあくまで『わたくしは疲れて眠たいのですわ』というポーズであり、疲労は完全回復状態。
元気は有り余っていてお腹も空いているが、気怠いので起きるのが億劫という特殊状態なのだった。
これを見て『お疲れでしょうし、ではもう少しお休みを……』などと放置すると、時間経過と共にクレシェンタの不機嫌レベルは上昇。
最終的には『クレシェンタ、一人でおっき』へと移行し、沈静にはクッキー三個を要する激怒――『ぷりぷりクレシェンタ』状態となる。
あくまで起きるのが嫌なのではなく、一人で起きるのが嫌なのだ。
そして起こし方も重要である。
『まどろみクレシェンタ』は前日の政務やスケジュールによって、内部的に取り扱い難度が変化しており、その見極めこそが使用人としての力の見せ所と言えよう。
王国一の使用人、ベリー=アルガンは彼女を刺激しないようゆっくりと間合いを詰め、ベッドへ近づくと乗り上げるようにクレシェンタの髪を撫でた。
魔力の流れ、既に肉体拡張が行われている。彼女は目覚めるつもりであった。
クレシェンタはベリーに大人しく撫でられ――これは難易度『中』以下の反応。
潜伏的に難易度『大』の場合はもちろんあるが、昨日のスケジュールや様子からその可能性は小さいとベリーは見て取る。
「クレシェンタ様、そろそろお食事の時間となりますが」
「……わたくしは疲れてるのですわ」
「それは困りました……実はラクラのパイをオーブンに入れてしまって。お時間をずらすとなると、少し冷めてしまいますね」
「……ラクラのパイ?」
「はい、蜂蜜をたっぷりと掛けて食べる、クレシェンタ様がお好きなラクラのパイでございます」
犬であれば耳がぴんと立ち上がるようなその反応。ベリーは目を細めた。
難易度中以上が想定される場合には彼女の旺盛な食欲に訴えかける。
ぐっすりと眠り、経過した時間は半日近く――クレシェンタの体は強く栄養を欲している。
クリシェのように前朝食を嗜まない分、朝のクレシェンタは食欲が強い。
それを刺激してやればクレシェンタは内から溢れ出る欲求に逆らえなくなるのだ。
「失礼しますね」
「あ……」
その隙を狙い、ベリーはクレシェンタの膝裏と背中に手を潜り込ませ、軽々と持ち上げるとベッドに腰掛け、自らの膝の上に。
枕を抱きつつクレシェンタはベリーを睨んだが、抱かれた状態から逃げ出しはしない。
――無礼な使用人に無理矢理ベッドから引きずり出されたというポーズが必要なのである。
「わたくしは起きるだなんて言ってませんわよ。聞こえませんでしたの? わたくしは疲れているのですわ」
枕を離さず――難易度中であった。
難易度小であれば抱き上げた瞬間に枕を放り出す。
枕を手離すかどうか、が一つのポイントなのである。
「はい。ひとまずお食事だけでもいかがでしょう? 今朝には予定もないようですし、お食事を取られた後またお休みというのは……是非とも、ラクラのパイだけでも熱々の内に召し上がって頂きたいと思うのですが」
クレシェンタは枕を弄び、思案する素振りを見せた。
心の内では既に決まっている。ポーズである。
しばらくして枕をベッドの上に放り投げると、抱かれた状態からベッドに逃げ出そうとした。ポーズである。
それを上から抱きしめることで押さえ、ベリーはその動きを封じる。
「……何をしてますの?」
「いえ、つい体が……申し訳ありません」
「主人の希望に逆らおうだなんて最低の使用人ですわね。わたくしは全然食事の気分じゃないのですわっ」
「まぁ……」
クレシェンタはベリーの腕を掴んでぎゅうぎゅうと抱きつき体を擦りつけながら、しばらく罵倒を繰り返し、しばらくすると満足したのか――
「――はぁ……いくら言ったところで聞く頭がないんですもの。仕方ないですわね。食べてあげますわ。……歩くのも億劫ですけれど」
などと、言外に抱き上げ連れて行くようベリーに命じる。
自分は食い意地が張っている訳ではなく、必死で頼み込まれたから仕方なく食事に起きるのだ。
クレシェンタとはそういう建前を非常に大事にする生き物である。
「ふふ、はい。ではこのまま……失礼しても?」
「これだけ無礼を重ねておいて今更尋ねることなのかしら? そもそもわたくしの玉体に触れるということがどれだけ畏れ多いことか、あなたはもっと理解するべきですわ」
言いながらも抱き上げやすいよう身をよじって微調整。
こうなる頃には眠たげであったクレシェンタの瞳もぱっちりと開き。
文句を垂れつつ頬を緩めた『覚醒クレシェンタ』への移行も完了。
いつも通りの女王陛下の姿を見てベリーは微笑む。
その後食堂ではすぐ隣にベリーを座らせ、ご賞味タイム。
悪くないですわ、まぁまぁですわとベリーに対する最大級の賛辞を吐き出しつつ食事を取った。
そしてセレネとエルヴェナが仕事に出かけた後はベリーの背後をついて回り、屋敷の管理についてあれこれ指導を行い始める。
「ふふん、わたくしが磨いた花瓶の方がずっと綺麗ですわ。あなたが普段どれだけ手抜きをしているか理解したかしら? 数をこなせばよいというものではないのですわ」
「まぁ、本当ですね。とっても綺麗です。出来ればこちらの台もクレシェンタ様のお手本を見せて頂きたいのですが……」
「仕方ないですわね……」
――暇なのではなく、立派な女王としての職務であった。
女王の使用人が無能であっては困る。
自身の側仕えとして外交またその他、公の業務にも連れて回ることになるベリーである。
その無能は自身の格と品位に関わる問題――そしてそんな無能であっても使わざるを得ない自分の状況を思えば、必然その教育指導はクレシェンタの役回りである。
何故ならば一応ベリーはクリシュタンド家筆頭使用人という立場であるからだ。
自分が使用人の長――教育する立場であり、教育される側ではないというこの使用人の驕りを正すのは、大雑把で適当なセレネや、ベリーに騙されている不幸な姉には出来ない役目。
女王陛下直々にその指導を行う他ないのである。
「ふふ、次は洗濯に行こうと思うのですがよろしいでしょうか?」
「……まさか女王に洗濯なんてさせる気ですの?」
「いえ、もちろんそのようなことは。ただ女王陛下に仕事振りを見て頂こうかと……その後は昼食作りの前に休憩をしようかと思うのですが。実は今朝、朝食を作るついでについでにクッキーを焼いておりまして」
「大して働いてもいないのに休憩だなんて。……まぁいいですわ、さっさと終わらせますわよ。わたくしもあなたの相手で疲れましたもの」
クレシェンタは断じて暇な訳ではなかった。
お茶会が終わり『わんわんクレシェンタ』状態が終了すると、次は料理であった。
ピリ辛風味の羊肉スープに鶏の香草焼き、という比較的シンプルなもの。
クレシェンタと料理をする際にはこうした料理が多かった。
クリシェと同じく天才的なクレシェンタ――素材の扱いに対する基本部分を覚えても、基本というのは奥深い。
素材の状態に合わせた応用はやはり経験が必要となってくる。
「ふふ、そうです。鶏肉は皮目がパリパリになるまで弱火でじっくりですね。さて、次はどうするのでしょう?」
「馬鹿にしないで下さいまし、重石をすれば良いのでしょう?」
「はい。流石クレシェンタ様です」
特に単純明快な焼き物ほど経験を要するものはない。
魔水晶による火加減、肉自体の色味の変化、油の音と香り――様々な要素を蓄積された経験から最適な焼き加減を判断しなければならず、素材一つ取っても完全に同一のものなどは存在しない。
状況にあわせた戦力の出し入れこそが戦術の奥義と知将エルーガ=ファレンが語るように、状態にあわせての適切な火力調節こそが料理の奥義であった。
クレシェンタの様子を微笑ましく眺め、スープをゆっくりとかき混ぜ香りを味わう。
嗅覚がしっかりとしたままで良かったとベリーは目を細め、スープの色味を眺め、肉や野菜の様子を確かめる。
手持ち無沙汰になったクレシェンタは無言でベリーを睨み、苦笑しながらスープを小皿に。クレシェンタに手渡した。
毒物でも眺めるように不機嫌そうな顔でクレシェンタはそれを受け取り、口にして。
「……変な味ですわ」
「え……?」
途端に慌てたようにスープを見て、目を泳がせた。
おかしなものを入れただろうか――分量を間違ったか。
入れた調味料へと目を向け、記憶から再現し。
「……というのは嘘」
「はぁ……クレシェンタ様、からかうのはお止めください……びっくりしてしまいました」
「さっきの仕返しですわ」
ほっと胸を撫で下ろしたベリーを見て、クレシェンタは楽しげに微笑を浮かべ。
それからベリーの頬へと手を伸ばし、ふっと真面目な顔になる。
クレシェンタはただ、紫の瞳で眺めた。
「……あなたって怒りませんわよね。どうしてかしら?」
「……?」
「人間は普通、自分が価値を置くものをけなされたりしたら本気で怒るものですの。多分おねえさまやセレネ様が見ていたら、今のなんてすっごく怒ると思いますわ。なのにへらへらして……あなたの中では料理なんて、本当は大事じゃないのかしら?」
観察するように無機質な、冷ややかな輝き。
覗き込むようで、あるいは鏡のようで。
そういう魔性を秘めていた。
ベリーはそれに対して苦笑し、答えた。
「もちろん、怒ることくらいはありますよ。悪意に対して平然といられるような人間でもありませんし……」
「そうかしら? 仮にわたくしがこの鍋をわざとひっくり返しても、あなたはわたくしを怒らない気がしますの」
「そうですね……怒りはしないでしょう。疑問に思うだけで」
考え込むようにしてベリーは微笑む。
「クレシェンタ様はきちんと物事の良し悪しをわかっておられますし、無意味なこともなさりません。何の理由もなくそのようなことをなさる方ではありませんでしょう?」
「わたくしのことを分かった気になっているのが理由かしら?」
「そうですね、ふふ、クレシェンタ様をそういう方だと理解した気になっているから、というのが理由になるでしょうか」
ベリーは目線の高さをクレシェンタに合わせ、額に額を押しつけた。
「クレシェンタ様は、わたしに悪意を持って何かをするような方ではないと信じているのです」
「どうかしら? わたくしからすればあなたはおねえさまにべったりの邪魔者ですわ。おねえさまに気付かれず殺せる機会があるなら殺してしまうかも」
「クレシェンタ様は意地っ張りで負けず嫌いな方ですから、自ら負けを選ぶようなことはしませんよ」
クレシェンタは不満げに眉間に皺を寄せ、ベリーを睨む。
「……わたくし、あなたに負けてる所なんてないですわ」
「ふふ、本心からそう思っていらっしゃるならきっと既に、わたしは死んでいるのではないでしょうか。こうして生きているのがその証拠と思っておりますよ」
「…………」
クレシェンタは答えずくるりと回り、ベリーの体に背中を預ける。
くすくすと笑ってベリーはその体を抱いた。
「あなた、よくわからない人ですわ。ノーラみたいに泣き虫で、かと思えば自信過剰……極端なのかしら」
「そ……それを言われると少し恥ずかしいですね……泣いたことはお忘れください」
「嫌ですわ。それにすぐ話をすり替えるところも良くないですわね」
クレシェンタはベリーの両手を掴んだ。
「変な味、だなんて、くだらない嘘を言われたくらいで動揺してらっしゃる癖に、悔しいとも思いませんの? へらへら笑って誤魔化して」
「え、と……」
「無理をして取り繕って何か意味があるのかしら? そうやって平気な振りで変に隠そうとするから、おねえさまに余計な心配を掛けるのですわ」
クレシェンタは振り返り、再び頬に手を当てると、ベリーの唇を親指で撫でた。
「その上、おねえさまですらちゃんと騙せていない演技でわたくしを騙そうとして、一体何になるのかしら? 使用人如きがわたくしを騙そうだなんて、はっきりと不愉快ですの」
言葉ほどの表情はなく。
ただただ見つめるように、クレシェンタはベリーを見上げた。
ベリーはじっと彼女を見返す。
「あなたが泣こうが喚こうが、所詮あなたはそういう間抜けで程度の低い人間だって知ってますもの。今更わたくしは気になんてしませんの。……別に、楽しい料理、なんて演技をしなくたって構いませんわ」
頬を撫でる手は温かく、唇を押さえるようになぞる指は優しげだった。
「わたくしはおままごとに付き合わされるより、悔しげに歯噛みするあなたを馬鹿にする方がずっと愉快で、そして命じられればわたくしを楽しませる道化になるというのが良い使用人というもの」
紫の瞳は冷ややかで、けれど熱を帯びて見え。
「あなたはそれをもっと理解するべきですわ。……わたくし、くだらない建前は嫌いですの」
この世に二対の瞳はきっと、何よりも美しい宝石だろう。
ベリーは微笑み、その頭を自分の胸に抱き寄せて告げる。
「……クレシェンタ様は時々、女王陛下でございますね」
「時々、じゃなくて、いつも、ですわ」
「ご自身のことを棚の上に乗せて、他人の説教をするようなところは傍若無人、わがままで偉そうなところも合わせてまさに女王陛下というべきお姿です」
「……喧嘩を売ってますの?」
ベリーは首を振って、その頭に頬を押しつけた。
「いいえ。お慕いしておりますよ。……率直に申し上げるなら大好きです」
「……わたくしはあなたのこと、嫌いですわ」
「最近のわたしはクレシェンタ様の嫌いという言葉を、好きと置き換えるようにしてますので、いくらでも仰って頂いて結構ですよ」
「あなた、頭がおかしいですわ」
「はい、おかしいのです」
くすくすと楽しげにベリーは言って、その感触を味わい。
目を閉じる。
「クリシェ様にはお伝えしましたけれど、辛いことは確か。味のしない食事を作ってしまうような夢をよく見ます。一人でお料理を作るのは怖いですし……楽しいかと言われれば今は怖さが勝るかも」
それから、囁くように言った。
「でもやっぱり、それでもお料理は楽しいのです。こうして一緒にお料理して、クレシェンタ様も日に日に成長なさって……次は何をお教えしようと考えて。……意地を張ってるだけではなく、本当にそう思っておりますよ」
もぞもぞと押しつけられた胸から顔を出し、体を少し離し。
クレシェンタはベリーを睨む。
「……本当かしら?」
「はい。女王陛下に嘘を吐くようでは使用人失格です」
「あなたは最初から合格なんてしてないのですけれど。無駄な贅肉を押しつけないでくださいまし」
そしてその乳房を両手で押して体を離し、両手を腰に当てた。
「あなたは一生、使用人としては未熟のろくでなしですわね。道化になって楽しませるどころか、主人を不愉快にさせるばかりですもの」
「申し訳ありません。努力はしているのですが」
苦笑して。
それから銀の髪を思い出して、目を細め。
「それに……今は、我が身のことより、心配なことがありますし」
クリシェは戦場だった。
もうガルシャーンと戦ったのか、それともこれからか。
それすらも分かっておらず、無事かどうかも分からない。
自分の体をベリーは抱いて、
「……セレネ様もあなたも、どうでもいいことばかり心配しますのね」
クレシェンタは不機嫌そうにそれを見た。
「おねえさまはあの不愉快な飛び蜥蜴と無事帰ってきて、反乱もひとまずはなく」
飛び蜥蜴、反乱で指を二本立て。
それから自身を指で示した。
「その上でわたくしは最大限、おねえさまが必要とするものが手に入るよう十分な権力を与えて、自由に動けるよう手を回しましたの。……何を意味するのかおわかりかしら?」
「……クリシェ様は大丈夫、と?」
「ふふ、あなたはやっぱり出来損ないの使用人がお似合いですわね」
馬鹿にするようにクレシェンタは微笑む。
そこにあるのは、傲慢と言えるまでの自負心だけ。
「わたくしとおねえさまがした、約束を覚えていらっしゃるかしら?」
何を言っているのか、と考え、それから思い当たる一つを浮かべて静かに頷く。
クレシェンタは笑みを深め、
「――鳥籠はもう出来上がりましたの」
赤に煌めく金糸が、紫の瞳を狭めるようにゆっくりと動く。
「後はもう、地図に絵の具を塗るようなもの。……おねえさまは戦の勝敗なんて考えてませんし」
心配事はあなたのことくらいですわ、と。
絶対の自信を持って、彼女は告げた。