鈍色の戦場
武器や兵装に関しては完全解除の上、王国への引き渡し。
ガルシャーン所有の馬車や他、軍行動に利用していた資金、資材等に関しても同様、賠償金にはこれを含まない。
また一部を除いた百人隊長、そしてその上位にある階級の人間に関しては後日、王国、共和国間の正式な講和条約締結まで捕虜とし、拘禁。
アルベラン王国の国家主権を脅かし、侵略行為を行ったガルシャーン共和国側に不誠実な対応あれば、これを処刑する権利をアルベラン王国は持つ。
また一般兵士に関しては順次返還を行うが、その完了までは王国が命じる指示に従い、時間の決められた土木作業に従事する。
内容は比較的シンプルで、重要な点に関しては何一つ明言しないものであった。
ただ強制力は非常に強い。
十万近くの兵員から装備と予備を奪われるだけで莫大な金銭喪失となるし、それだけの装備となれば補充も簡単に行える訳でもない。
その上それを率いる指揮官を奪われればガルシャーンにはもはや行動を起こしようもなく、それで十分なのだった。
ガルシャーンの隣接国はアルベランとエルスレン、エルデラントの三国だけではないし、防衛力を回復させるためには速やかな捕虜返還を求める必要がある。
数百人単位の百人隊長をまとめて捕虜とした理由はそこにあった。
兵士は募兵出来ても、下士官の育成は一朝一夕で出来るものではない。
ガルシャーン周囲の隣接国は皆小国であるが、これ幸いとその領土の切り取りを図るだろう。
アルベランはその上で侵略をちらつかせ、ガルシャーンとの戦後交渉で足元を見た条約締結を行える。
とはいえ、これらも温情あるものと言えるだろう。
百人隊長や中隊長以上の人間を適当な理由を付けて大量処刑することもアルベラン王国としては可能であった。
占領下の街で横暴な振る舞いを行った、など理由はなんでも良い。
聖霊協約を守る事は所詮、外交上の大義名分と建前でしかないのだ。
周囲三国に攻められた現状では半ば形骸化したお題目。
適当で一方的な理由でそのように処罰したところで、非難してくるような国が全て攻めてきているのだから今更である。
そうしなかったのはガルシャーンの存続を女王クレシェンタが望んでいたため。
ガルシャーンという国自体を潰すよりも、有利条約によって今後数十年、経済的に豊かなガルシャーンから利益をむしり取る方がずっと良い。
そうしてガルシャーンからじわじわと国力を奪い、属国同様に仕立て上げることがクレシェンタの望みであった。
草原の上には机が一つ。
停戦協定への署名のため用意されたもの。
互いの軍団長、生き残り両手を後ろで縛られた戦獅子長を含む高級士官が証人として立ち会い、中央に座るのはクリシェとオールガン。
その傍らにはダグレーンと、左腕に添え木を巻き付けたザルヴァーグがそれぞれ立っていた。
「書類は以上ですね。これを以てアルベラン王国、ガルシャーン共和国の戦争は終了、略式ながらも講和を前提とした停戦協定の締結となりました。これにより後の講和条約締結会議終了まで両国間における戦闘行為の一切を禁じ、そしてこれを遵守することをクレシェンタ=ファーナ=ヴェラ=アルベラン女王陛下に代わり、クリシェ=アルベリネア=クリシュタンドが名に誓います」
「……ガルシャーン共和国副議長、そして総軍司令官オールガンもまた実り育む雨に誓い、ガルシャーン共和国が代表として同意する」
一通りの武装解除の流れが出来上がったタイミングで、こうして早々に、天幕ではなく戦場の真ん中で停戦協定を行うのは周知が目的であった。
僅か一刻足らずの時間での戦闘終結――兵士達に理解などは及ぶはずもない。
眺めるガルシャーン兵士達にはそれを見て呆然と立ち尽くすもの、膝を突くものの姿が見えた。
「ありがとうございます。えーと……ここに書かれた文言を一句違わず履行され、以降は共に平和回復のため手を取り合ってくださることを心から望むのです」
クリシェはそう微笑み、オールガン麾下の戦獅子長達は何とも言えない様子で少女を見ていた。
オールガン、ザルヴァーグ、キルレア、エルカール。
百に及ぶ大型獣を連れ、獣の女王たるアルカザーリスを連れ、動員した兵士は十万を超えて。
敵は半数以下――決して負けるはずもない戦い。
アルベラン軍の強さを知る一部は苦戦を強いられる可能性も十分視野に入れてはいたが、それでも絶対に負けはしないという自信があった。
しかしこの結果。
獣のほとんどを失い、キルレア、エルカールは戦死。
戦獅子長は十二人中半数が死亡し、転がる死体はそのほとんどがガルシャーンの兵士――対するアルベラン側の軍団長は一人として欠けることはなく全員が生き残っている。
開戦前に用意されていたらしい書類には必要事項が最初から記入されており、捕虜とするなら一軍の指揮官、高級将校として特記されるべきキルレアとエルカールは最初から数に入っていなかった。
殺されるべくして、死ぬべくして死んだのだ。
この一刻足らずの圧勝劇は最初から最後まで、彼女が作り描いたもの。
そこでの生死すら、彼女の選択の結果でしかない。
未だこの結果を受け入れられぬ者達がほとんどで、彼等の中では憎悪や怒りよりも怯えと困惑が先立った。
この一大会戦の結末がその実戦いにすらならないものであったなどと、容易く受け止められるものなどそうはいない。
彼等のみならず、ガーカ麾下の軍団長すらあっけなさ過ぎる勝利に困惑を覚えていた。
太陽は天頂に昇りきらず。
会戦から半日かからず、こうして停戦協定を結んでいるのだ。
動揺を感じさせないのはアルベリネア麾下の軍団長くらいだろう。
彼等だけはこの結果も当然という表情で立っていた。
天剣――クリシェ=クリシュタンドに最初から敗北はなかったと、そう示すように。
「善処せざるを得ませんな。アルベリネア、あなたの勝ちだ」
「はい。クリシェもオールガン副議長の英断は考慮に値するものであると女王陛下にお伝えしましょう。おかげで双方、被害は最小限に収まる結果となりました」
「……ありがたく」
オールガンは立ち上がり、座ったクリシェへ深く頭を下げた。
その頭にはこれから起きるであろうことが既に想像出来ている。
講和はガルシャーンが保有する軍事力に対する条件を必ず組み込むだろう。
アルベランへ今後ガルシャーンが保護を求めざるを得ないように。
ガルシャーン周辺国に対してはガルシャーンを攻めさせ、その上で調停役として顔を出し、平和維持を建前にした領土の切り取りを行う。
比較的甘い処罰は全て、その後のための布石であった。
ガルシャーンは最短でも向こう十数年を、アルベランの属国同様の扱いを受けることになる。
内戦から間もないこの時期にこれだけの軍事力を手にしたアルベランが、その十数年でどれだけ肥え太り、どれほどの発展を見せるかは想像に容易い。
女王クレシェンタとその懐刀アルベリネアが表舞台に立って、僅か一年足らず。
その僅かな時間でアルベランにはこれだけの変化が起きていた。
エルスレンとエルデラントが痛打を与えぬ限りは、もはやアルベランは止まるまい。
かつて大陸を席巻した全盛期すらを超えたところで不思議はなかった。
「この勝ちは大きい。……もはやこの戦が終われば、あなたと女王陛下を止めるものなどはいないでしょうな」
「んー……そうだといいのですが。周辺国全てがアルベランには勝てないと思ってくれれば世界は平和、何よりですね」
クリシェは微笑み、立ち上がる。
オールガンの胸ほどの、小柄な体だった。
「そうすればクリシェもこんな所に来なくて済みますし、お屋敷でお料理の毎日なのです。オールガン副議長も戦争をするなら他の国にしてくださいね」
陽光に煌めく銀の髪。
妖精の如き美貌に浮かべた笑みは、どこまでも美しく。
「次来たらクリシェ、その首を刎ねますから」
宝石のような紫の瞳だけが無機質だった。
「くく、留意しましょう。……しかし、こうなるとますます惜しい」
「……?」
「是非とも我が妻に迎えたかったところだが」
「まだ仰ってるんですか、もう。クリシェが勝ったので無効ですよ」
唇を尖らせて、両手を腰に。
オールガンは笑い、ダグレーンが呆れたように睨む。
「諦めの悪い男だ。鼻血の痕を残した間抜けのセリフではないな」
「お前に言われたくはないなガーカ。俺はアルベリネアに負けたのであって、お前に負けた訳ではない」
「ふん、これこそ負け犬の遠吠えというものだな。――傾注ッ!!」
咄嗟にクリシェは耳を押さえ、
「此度の戦、ここにアルベラン王国、ガルシャーン共和国の停戦と相成った! 未だ受け入れられぬ者もこれ以降は指示に従い、まずは自分の命あったことを喜ぶがいい!」
ダグレーンはシャーン語で空へと吠える。
「反抗なくば刃も向けず、大人しく虜囚の身となるならば食事に酒を、今宵はわしが振る舞おう! 戦が終われば殺し合う必要もなし、同じ人としてお前達を扱うことをダグレーン=ナクル=ドーガリネア=ガーカの名に誓約する!!」
力強く雄々しき声は空に響き渡り、
「命を喜べ、死者を惜しめ! お前達は今この時、軍務と戦場から解放され、人へと戻ることを許されたのだ!!」
ミルヒレアの戦いはこうして幕を下ろした。
夜空に弓張り月が上がっていた。
盛大な篝火に、星々の輝きの薄れる夜。
並ぶはアルベリネア軍の天幕と、騒ぎ立てる宴の声。
その端でクリシェが話しているのはヴィンスリールであった。
「出発は明日でも構いませんよ? グリフィンは速いですし」
「……いえ。念には念を入れておきたい。情報封鎖となれば早めに向こうに到着して休息を取った方が良いでしょう」
南西の街にはエルデラント王国の密偵が潜むことが予想された。
南部での戦況推移を知るために、だ。
アルベリネア軍も後の処理はガーカと後方の二万に任せ、明日にはここを出発するが、最大限この状況を活かし戦略的奇襲の条件を整えるにはそうした間者を丁寧に処理しておくことが重要となる。
グリフィンの速度を持ってすれば密偵を先回りすることも十分可能で、そして空から監視出来る彼等から逃れられるような密偵などはそういない。
エルデラント王国はアルベラン王国西――フェルワース=キースリトンとの戦いに集中している最中、アルベリネア軍の奇襲を側背面から喰らうことになる。
「それに今日の戦、疲れを感じるほどの戦いをした訳でもありませんから。彼等のように勝利を騒ぐ気にはなれません」
ヴィンスリールは盛り上がる宴を遠目にクリシェに告げる。
クリシェは困ったようにそちらを見て、そうですか、と息をついた。
「ダグリス、それでいいですか?」
「ええ、私はそれで構いませんが……ヴィンスリール殿と同じく、ここに来てから特に何かをやっていた訳でもなし。暇を持て余していたところです」
ロランドの元密偵――起伏のない顔をした男、ダグリスは少し老いた顔に笑みを浮かべ、冗談めいた仕草で両手を開いた。
密偵の始末自体は簡単でも、密偵は密偵。
その動きを読むには熟練の密偵の目があった方が良い。
彼と彼の連れて来た数名がヴィンスリール達に同行し、共に監視に当たる。
「聞き出した情報によっては追加で報酬を。戦争が終わってからですけれど」
「ええ。こいつらもやる気が出るでしょう。知る限りの腕利きを連れて来ました」
クリシェは男達を冷ややかな目で眺めた。
今回の戦を全員が目にしている。クリシェの幼い姿を侮るものなどいなかった。
「まぁ、悪くはなさそうですね。これまでもあなたはちゃんと働いてくれてたみたいですし、クリシェも期待しておきます」
「ありがたい話です。我々は準備に」
「はい」
ダグリス達は先にグリフィン達の所へ歩いて行き、ヴィンスリールは他の戦士達にも先に行くよう告げる。
クリシェが首を傾げると、ヴィンスリールはただ、真っ直ぐにクリシェへと目を向けた。
「どうしましたか?」
「……いえ。少し話をしたいと思い」
言って、視線を戦場に掘られた穴へ。
戦死者の大部分が既にその中へと放り込まれていた。
「これが戦争かと驚くところがありました」
「ヴィンスリールは初めてでしたしね。どうでしたか?」
「……楽しいものではありませんね」
正直に答え、クリシェは頷く。
「クリシェも好きじゃないです」
象の肉をたらふく喰らい、実に満足そうな翠虎――ぐるるんに手招きをする。
そして寄ってきた彼女の上に跳び乗ると、ぺちぺちとその背中を叩いて座らせる。
「あれだけ鮮やかな勝利を手にしながら?」
「効率化はつまらなくないこともないですが、最初からやらないで済むならずっとその方がいいです。でも、そう言ったって攻めてくる人達はいて、なら、攻めてこられないようクリシェが強いって知らしめた方が良いでしょう?」
クリシェはそのまま身を預けるように上体を倒し、翠虎の上へ。
その温もりを味わうように銀糸のような睫毛が揺れ、その瞳が細められる。
「誰もクリシェに勝てないって理解すれば、アルベランに勝てないって理解すれば、そうすれば平和です。だからやるなら一方的に、完膚なきまで。その後の百万人が攻めてこないよう、十万人を血祭りに」
紫の瞳には月の輝きが反射して、ぼんやりと輝いた。
「……今回はオールガン副議長と最初に約束していたのでこれで終わりでしたが、本当は虱潰しにするつもりだったのです。そうすれば後の手間もないですし、ガルシャーンもクリシェが怖いって理解して……良かったか悪かったかはよくわかりませんね」
人の心を惑わすような月明かり。
その瞳を通して見れば、一層どこかが狂って見えた。
美しい容姿がそう見せるのか、その子供のような姿がそう見せるのか。
使用人に甘える少女の姿を思い出して、ヴィンスリールは目を閉じる。
「……あなたの戦場に、きっと我々の祖先が遠く昔に命を賭けた輝きなどはないのでしょう」
一方的に、効率よく。
彼女の作り上げる戦場に、英雄などは必要ない。
あの爆撃の生んだ結果を見て、ヴィンスリールは理解していた。
必要なかったから使われなかっただけで、予備はまだあり――あの状況。
言葉通り、彼女がその気なら十万からなる敵軍を半日掛けず虱潰しにできたのだろう。
戦いではなく、あれは殺戮や虐殺と言うべきもので、彼女は高々三十騎のグリフィンを容易く殺戮兵器へと変えて見せた。
冷酷で、残酷に。
彼等が鍛え上げた武を発揮させることもなく、ただ上空を飛んだだけで三千人近くの兵士達を殺傷したのだ。
そしてこの先も、彼女と言う異端が戦場に持ち込む兵器は、戦いというものを変えるだろう。
彼女は人の姿をした竜。
目にすれば誰もがひれ伏すしかなく、仰ぎ見る他なく。
彼女はただ叡智によって、竜にすら並び立つ存在であった。
「戦士として、どうするべきかと考えました。……ただ、どうしたところで無意味なもの」
「……?」
あれほどの武を示した彼女が、果たして戦場でどのような戦いを見せるのか。
ヴィンスリール達の期待や想像を、彼女は遠く超えている。
恐れすら抱くほどに容易く。
「それがどのような過程を辿ったとしても、そこに輝きはなくとも……少なくとも、戦いというものは元来そのようなものであることに違いはない。どうであれ……あなたが望む平和のため、我々は最善を尽くしましょう」
「よくわかりませんけれど……えへへ、そう言ってもらえると嬉しいです」
少女のように、人の姿をした竜は笑う。
「平和になったらクレィシャラナと交流を深めていきたいってクレシェンタも言ってましたし、早く仲良しになれるといいですね」
「ええ、それは心から。……では、クリシェ様」
「はい。気を付けてくださいね。リラが心配してましたから」
微笑む彼女に頭を下げて、ヴィンスリールは踵を返した。
戦場に輝きを求めることが、正しきことか、間違いか。
彼女を見ていると、信じていた何かがあやふやになるような、そんな得体の知れない感情が湧いて。
ただ彼は、空に浮かんだ月を見上げた。