砕かれた巨人
※一尺=約30cm ジャレィア=ガシェアは八尺、約2.4m。翠虎の体高も同じ。
一日二十四刻(昼十二夜十二で曖昧) 一刻=約一時間 半刻=約三十分 小半刻=約十五分。
――状況と、そして相手が悪かった。
数十年に渡り戦場で活躍し、戦獅子長の首を一つ、軍団長の首も二つという大手柄を挙げている。
ガル=ビルケースは並の武人では相手にならぬ猛者であり、そしてだからこそ貴族出身者でありながら花形、地竜騎兵隊の長を任された。
王家の没落、平民の台頭。
ガルシャーンにおけるかつての支配階級――貴族の地位にあった者が泥水を啜り頭を踏みつけられるようになっても、彼は貴族中の貴族と呼ばれ、兵達からの尊敬を集めた。
人格と実力、そして名声――全てを兼ね備えたガル=ビルケースは希有な武人であったと言えるだろう。
彼は戦象が瞬く間に失われたのを目にし、その瞬間には全力での突撃を配下に命じていた。
馬には劣るとは言え、地竜は素早い。
そしてその外皮は強固であり、真正面から貫かれでもしない限りは敵の黒塗り鎧――魔槍の狩人の攻撃を防げると確信したためだ。
あくまで地竜は巨大な蜥蜴。
象と比べればその大きさ――前面や側面の投影面積は小さく、これに対し正確に槍を放てるだけの技量を持つものはそう多くない。
信じがたいことではあるが、恐らく全員が魔力保有者。
だが、その技量の高さに目を見張るような兵士は一部のみ――あとは通常の投槍兵よりも威力と射程に勝るというくらいで、少なくともこの三十騎の地竜騎兵を圧倒する力はないと見て取った。
彼我の戦力把握――前線指揮官として何より重視されるべき能力を彼は持ち合わせており、そして決断力、思考速度共に優秀。
このままでは前衛の士気崩壊は免れないことに気付き、そしてそれを防ぐには誰かが戦果を挙げる必要があると考え、彼は即座に行動を開始したのだ。
ただ一方的に押し負けたのではなく、一部ではやはりこちらが勝っているのだと――後ろに続く兵士達をそう勇気づけるために。
少しでも手こずれば後続が続かず、自らが率いる地竜騎兵は孤立し、犬死にするだろう。
それを理解してなお、彼は突撃を選択した。
彼は勇敢なる地竜騎兵の指揮官であり、そしてその役割に劣らぬ戦士である。
彼が選んだ決断は全て間違いではなかった。
これ以上ない最上の選択であり、この状況が十あれば九つを成功させて見せただろう。
だからこそ、それは悲劇であった。
――ただ状況と、相手が悪かったのだ。
「あれが敵軍団長だ!! 押し潰せッ!!」
敵の喊声に負けぬ声を張り上げ、ガル=ビルケースは長年共に戦ってきた戦友達に命令を下す。
この状況――先頭を猛進しながら恐れがないのは、勇気ある部下達が背後に続いていることを知っていたから。
そして彼等に恐れがないのは、尊敬すべき勇敢なる指揮官が先頭を走るから。
この劣勢にありながら、彼等の士気は極まっている。
そしてそんな彼等の眼前に現われるのは体格優れた軍団長。
銀虎のバイザーを降ろし、その隙間から映るのは鋭い眼光。
身につけるフルプレートは薄鉄板などではなく、一目に分かる重厚さ。
走る足が下生えを踏み抜き、一歩ごとに大地へ深い爪痕を刻み込む。
眼前――先頭を走る敵軍団長の勇猛さ。
一目見てその実力の高さを感じ取りながらも、これを討ち取らねば犬死にの道しかないと知り。
敵前列からの投槍を無視し、地竜騎兵は猛進する。
「っ!?」
間合いまではあと僅か――そのタイミングで大きく踏み込んだ敵軍団長は横へ跳ぶ。
跳んだ先は転がる戦象の頭であった。
そしてその強固な頭蓋を足場に、次の跳躍はもはや投石機から放たれる巨石が如く。
鋼の鉄塊はこちらの目測を超えて眼前に飛来。
――全身を捻ると、空間すらを押し潰すような一閃を放った。
響く風切り音は、槍と思えぬ轟音を奏で。
人の胴より太い地竜の首をいとも容易くへし折った。
ガルは目を疑い、地竜から飛び退く。
並の人間の十倍はあろうかという地竜の体すらが、完全に大地から浮き上がっている。
槍ではなく、鉄棍。
八尺三寸、総身は鋼――太い柄の先端には、分厚い小剣のような切っ先。
常軌を逸した獲物を易々と振り抜きながら、その重心に僅かな狂いも見せず。
眼前にあるのはコルキス=アーグランド。
アルベリネアの配下にあって、不動の一位を手にする紛う事なき怪物であった。
一瞬でも反応が遅れていれば、槍は地竜のみならずガルの胴をもへし折っていただろう。
――だが、それで終わり。
「……っ?」
横合いから現われた黒き影は、宙を浮いたガルの体から正確にその首を跳ね飛ばした。
「ビルケース隊長ッ!?」
端正な顔立ちを狂気に歪め、黒きたてがみ、兜の下から覗くは愉悦。
かつてただその才覚によって、神聖帝国将軍の地位まで駆け上がった男であった。
アレハは慣性に逆らうように背面へ跳ぶと、全身をしならせ、
「――!?」
若き副官の首を貫き、すぐさま上官の後を追わせてやる。
そして動きを止めた先頭に後続の地竜は足を奪われ――
「っ、放て!!」
――黒塗り鎧の指揮官、ダグラの号令と共に飛来するのは象を射殺す魔槍の嵐。
蜥蜴と人の悲鳴が場に満ちる。
ガル=ビルケースの選択に間違いはなかった。
ただ不運は、十の内の一つがここにあったこと。
彼の眼前にあったものはアルベリネアが双剣であり、王国最上位の戦士であった。
「アーグランド軍団長、お許しを。……あなたの獲物を奪った」
「ははは、中々言うじゃないか! 謝るくらいならばもう少し、嘘であっても言葉通りの顔を見せてはどうだ、アレハ?」
愉しげに頬を吊り上げるアレハを見て、コルキスは笑う。
手を出さずともコルキスが次の一手で仕留められていたことは理解していただろう。
その上でアレハは踏み込み、そして彼の方が一瞬早かった。
コルキスも彼に卑怯などと言うつもりはなく、獲物の横取りを憤る気すらも湧かない。
勝ちは勝ち、負けは負け。
この熱狂――歴史に残るだろう全軍突撃を前には些事であった。
『蜥蜴の隊長』の首に槍を突き立て、振るい、敵戦列へとコルキスは投げ込む。
彼等にとって、それはその程度の獲物。
次なる殺戮と勝負のための撒き餌にしかならないもの。
投げ込んだ首――敵の悲鳴にバイザーを上げ、コルキスはただ笑う。
初見となる獣の相手はいかにコルキスの軍団とはいえ被害が生じる。
故に少数精鋭であった。
黒旗特務が象を殺し、その後アレハは速やかにコルキスと合流。
残る獣を戦列の衝突前に狩り取り、敵前衛の士気を完全にくじく。
戦列を相手にであれば苦しくもあるが、獣だけであればその数は知れている。
黒旗特務を与えられたコルキスやアレハに取って、難しくない仕事であった。
「獣はこれで粗方片付いた。将軍首は俺がもらうぞアレハ」
「私の方が先に辿り着いてしまった場合が問題ですね。どうお詫びするかを今から考えなければ」
「抜かせ。くく、まぁその前に……クリシェ様の作った玩具の試運転と行こう」
そして獣を先に始末する理由は、単に敵の士気をくじく事だけが目的ではない。
怯えた敵戦列に正対しながらコルキスは槍を突き上げ、その先端でくるくると円を描く。
応じるように一拍置いて、独特なリズムのラッパの音が響き渡り、前進していた戦列にいくつかの隙間が生じる。
全力で敵戦列に突っ込んだ右翼とは違い、この中央は突撃の途中で速度を緩めていた。
その理由は、戦列によるぶつかり合いに先んじて、放つべき尖兵があったためだ。
「……記念すべき、ジャレィア=ガシェアの初陣だ」
八尺の体躯――兵士の中にあって、その巨体は大きく目立った。
金属音を響かせ、生じた隙間から踊り出るのは十二体の黒い影。
魔力保有者であっても身につけることは難しいだろう、重厚そのものな鎧に全身を覆われ、その両手は腕ではなく、巨大な刃であった。
肘から先に付いた刀身は――いや、それは刃と言うよりは鈍器に近いものだろう。
切れ味など無視した、分厚く頑丈な鋼は鈍色。
湾曲しているが、切り裂くと言うよりは人体を押し潰す凶器であった。
頭部には巨大な瞳を模したバイザーが下ろされ、その瞳孔部分の鉄格子からは、薄ら寒い青き光が煌々と漏れ出していた。
始まりはアルカザーリスを一里から射殺すアルベリネア。
そして黒塗りの兵士を前に呆気なく獣を失い。
左翼は既に大きく押し込まれ、そして眼前にあるのは地竜を真っ向から薙ぎ倒す化け物のような戦士達。
始まって間もない今日一日で、どれほどの異常を目にしてきたことか。
――しかしガルシャーンの兵士の目には、その上で現われた黒き巨人の姿がそれらを超えた異常に映った。
あのような巨躯の人間がいるものか。
七尺の体躯――巨人と渾名される彼等の将軍よりも頭一つ高い。
あの青ざめた輝きは一体何か。
頭部らしき場所から覗く輝きは、どこまでも無機質に――そして両手の肘から伸びた巨大な刀身は明確に、あれが人外の怪物であると教えていた。
奇妙なほど姿勢正しく駆けてくる、その挙動の不気味さ。
人を超えた獣に慣れた彼等でさえ、知らない何か。
ある者は伝承の一つ目巨人を思い出し、ある者はもはや理解を拒み、ただ逃れ得ぬであろう自らの死に尿を漏らす。
極度の恐怖と混乱――臨界などとうの昔に超えている。
青き瞳は全てが同時に明滅し。
全てが同時に姿勢を低く。
彼我の間合いを同時に詰めた。
――その速度たるや獣が如く。
響くは十二の轟音であり、振るわれるのは十二の刃。
一斉に振るわれた巨人の剛剣は、ただ速度と威力によって強引に肉を引きちぎり、不幸な兵士の破片を撒き散らす。
弾けた人体――血と肉の雨が硬直していた兵士達に降り注ぎ、
「ひ――!?」
――そしてその場にあった、全ての理性が決壊した。
エルカールは当初、アルカザーリスのあったこちらの左翼、その突破こそが敵の本命と考えた。
最初にぶつかり、押し込んだのは敵の右翼であったためだ。
この状況ならば、相手は間違いなく抜いてくる。
事実その想定の通り、左翼の指揮官――戦獅子長ラクールを敵は易々と討ち取った。
だが違う。敵の本命はむしろ、この中央。
象の上から見下ろせばその巨体はよく見えた。
兵士達を悠々と薙ぎ倒す黒い巨兵。
両肘の先――僅かに弧を描く大曲刀を無造作に左右へと振り回し、肉片を撒き散らかす何か。
左翼、戦獅子長ラクールよりも先に地竜騎兵の長ガル=ビルケースは討ち取られ、そして間髪入れず中央の戦獅子長ダールトンも討ち取られていた。
無理もない。完全に中央の士気は崩壊している。
後列ですら崩れ、背を向けてどこかへ逃げ出し始めている状況なのだから。
戦象と獣にて数多の敵軍を蹂躙してきたエルカールですら見たことはない。
突撃から僅か小半刻に満たない時間で、三万からなる軍勢をこれだけ容易に蹂躙する様は。
特に敵中央の突撃――突破の速度はもはや、戦いではない。
堂々たる敵中行進であった。
敵の目的は一点突破ではなく、中央と左翼による二点突破――いや、そうではない。
敵が温存していた一個軍団は敵中央後方から動き、こちらの右翼5000の前に戦列を組み始めていた。
エルカールの3万に対し、敵が考えているのは1万5000の寡兵を用いた全面突破。
――真正面からの完全勝利であった。
兵法の常理から逸している。狂気の沙汰であった。
しかし敵は兵力劣勢の状況から、それをもはや半ばまで成功させている。
『――決して甘く見るべき相手ではない。政治の都合で出張ったお飾りなどではなく、こちらに勝つため送り込まれた、飛び抜けた天才の類だ。見た目に惑わされるな』
アルカザーリスを一里の先から討ち取る異常者。
アルベリネア――その麾下の軍もまた精鋭なのだろうと予想はしていた。
場合によれば突破されることも十分にあり得ると。
だがこの状況は想像を絶するもの。
優位でも膠着でも劣勢でもなく。
自分は今、必勝のはずの初動を完膚なきまでにへし折られ、寡兵を相手に真正面から圧倒されているのだ。
――この光景が、本当に現実のものであるのか。
戦場での長い経験があればこそ、エルカールには受け入れがたい。
兵士単体として見れば、装備、練度で確かにアルベランはガルシャーンよりも優れている。
アルカザーリスと獣を失ったこと、左翼でのラクール戦死はまだ受け入れられた。
だが、開始から小半刻で、自分が既に本陣へと迫られるなど――
「――ル様! エルカール様! 本陣より即時後退と合流を示す旗が!!」
副官ネイクルが叫ぶように呼びかけていた。
エルカールは遅れてそれに気付き、オールガンの本陣へと目を向ける。
既にオールガンは本陣をこちらの突破を前提に組み替え始めていた。
いや、突破ではない。
エルカールの指揮する右翼の消滅を想定して、であった。
オールガンが組もうとしているのは真正面からの戦いに備えた、2万の軍による完全な戦列。
こちらの増援ではない。
エルカールの左翼が押し込まれた際その素振りを見せたが、オールガンは即座にそれを取りやめていた。
恐らく敵がエルカールを圧倒し、全軍突破を図ることに気付いたためだ。
少数の増援など犬死にするだけと考え、オールガン本陣に迫るであろうアルベリネア全軍に対し、完全編成の戦列を組もうとしていた。
オールガンが旗でエルカールに命じるのは即時撤退。
エルカールが直接指揮する3000のみを率い、合流せよと言っているのだ。
――残る全軍を切り捨てて。
冷徹であった。
士気崩壊を起こし、あっという間に指揮官二人を失っている。
唯一接敵していない右翼はまだ統制を保ててはいるが、この状況ではギリギリ持ちこたえられているだけだろう。
もはやそれらを戦力として扱うべきではないとオールガンは考え、完全に一度切り捨て、仕切り直し――オールガン本軍とアルベリネア軍の戦いに切り替えようとしている。
意図は分かっていた。
理解も出来る。
エルカールがオールガンの立場であれば、同じ行動を取り、同じことを命じたであろう。
全力の初動を呆気なく打ち破られ、士気崩壊を起こした万の兵士。
指揮統制を失うということの重大さは理解している。
もはやそれは軍ではなく、そこにいるのも軍人ではない。
ただ怯え逃げ惑う、万を超えた群衆であった。
そして一度臨界を越えれば、それを食い止めようとする人間の言葉になど耳を貸すことはない。
嵐に堤が決壊すれば、それが過ぎ去るを待つしかないように。
冷静に考えれば、自身がどうするべきかは分かっていた。
だが半数の敵に真正面からの全面突破を許し――そんな自身の無能を耐えられるかと言えば否であった。
敵の策に嵌められ、失敗した経験がないわけではない。
獣と変わらぬ脳しか持たぬと罵られたこともあった。
軍人になる前からそう――自分が特段、頭脳に優れると思ってはいない。
自身が多くの欠点を持つ人間であることをエルカールは長年の経験で学び、そしてだからこそ経験によって知恵を補い、将軍にまで昇り詰めたのだ。
それでも愚かな獣と呼ばれるならば、甘んじて受け止める。
エルカールは己を知っている。その言葉を受け入れよう。
――だがこれまでの生涯、一度たりとも自身を臆病者と呼ばせたことはなかった。
足りぬ頭脳を勇気と武で補い――兵を鼓舞し、どんな状況下でも戦い抜いた。
血濡れの巨人は恐れを知らぬと称されることこそが、エルカールの存在証明。
それを捨てた自分のどこに、一体何の価値があるというのか。
「――兵士は助けを求めている。これを見捨てて、俺は二度と戦場に立てん」
「エルカール様……」
「……俺は何だ? ネイクル」
小柄なネイクルは、象の上に立ち上がった巨人を見上げ、一瞬目を閉じた。
そして自信を持って告げる。
「……血濡れの巨人、エルカール。兵士達の……そして私の憧れる勇猛なる戦士であります」
エルカールは巌のような顔に笑みを浮かべ、頷く。
「伝令、閣下に命令違反を謝罪すると伝えよ。エルカールは逃げず、ここからの立て直しを図って見せると!」
「っ……、は!」
敬意に満ちた声で伝令は応じ、それを見てエルカールは眼下の兵を見下ろした。
「この右翼本陣は突破する敵中央の殲滅を行う! あちらもまた捨て身――こちらを圧倒するとはいえ疲弊もしているだろう! 我が精鋭、お前達ならば十分に渡り合える!! 相手の動きをここで潰し、そして兵を鼓舞するために戦い抜け!!」
全くの無謀ではない。
相手は士気効果によって兵力をひっくり返した。
しかしその士気差さえ再び埋めることが出来れば、状況は劣勢ながらも僅かな膠着を築ける。
――オールガンが戦列を整え、こちらに兵力を向けるだけの時間を作れる。
これだけの士気差があれど、しかし戦列の突破には疲労が生じるもの。
仮に間に合わず、最悪ここで自分が殺されたとしても、突破した敵兵力が体勢を立て直す前にオールガンは攻撃を開始出来るだろう。
「僅かでも時間を稼げば閣下がこちらに軍を向ける! そうなれば窮地はあちら――時間を稼ぐことをただ優先せよ!! まずは目障りなあの紛い物の巨人をやる。腕に自信のあるもの以外は手を出すな!!」
中央最後列を最初に突破したのは、黒塗りの巨人達であった。
両腕を振り回し、兵士達の肉を飛び散らせ――蹂躙せし異形には欠片の疲労すら感じられない。
「尋常ならざる敵だ、普段以上に連携を意識せよ! 無数の槍を突き立てれば動きは止まる、投槍兵を前に出せ!! 数を減らすことを重視、いくらか残っても構わん! 集中して狙え!!」
前に預けていた弓兵はろくに矢を放つことなく、戦列の崩壊に巻き込まれ散り散りに逃げだしている。
まともにぶつかるのは避けたいが、遠隔攻撃手段は投槍兵のみ、数もそれほど多くはない。
とはいえあの十二体――その半数を潰せるだろう。
エルカールがそうして投槍兵を前に出せば、敵の巨人、その背後から飛び出たのは黒塗り鎧の兵士――アルベリネアの狩人達。
三日月髑髏の黒旗を棚引かせ、エルカールは眉を顰めた。
敵の巨人を打ち破り、あの黒塗りを受け止める余裕はない。
自分が前に出るべき――しかし、アルベリネアの居場所は未だ見当が付かなかった。
遠く、敵後方には翠虎が本陣で欠伸をしている。
そこに彼女の姿は無い。
恐らくはどこかに紛れていると見て良いだろう。
小柄な体、髪を隠されればここから見つけることは困難であり、そんな状況で将たるエルカールが前に出るのは危険であった。
アルカザーリスを一里からの一投で仕留める異常者。
その剣腕もまた、恐らくはそれに等しく。
だが、こうして象の上で戦況を見守る余裕も存在しない。
疲労もなくこちらへ突進する十二の巨人は後続、黒旗の兵士すらを置き去り猛進した。
当然こちらはそこに向けて一斉投槍を放つが、
「っ……!?」
――そのことごとくが巨人の鎧に容易く弾かれ、転がっていく。
いや、鎧の隙間に突き立つものは確かにあった。
しかし、巨人は一切を無視するように、槍の突き刺さったままその速度すらを緩めず、痛みを感じている風もなく。
そこに来て、疑念は強まった。
あれは人でなければ、生物ですらないのではないか、と。
強力な魔力保有者であっても致命傷になり得る一斉の投槍――それすらをものともしない化け物に投槍兵は奮い立たせた勇気を失い、逃げるように後方へ。
黒の巨人は姿勢正しい奇妙な走行から、姿勢を低く、大きく踏み込む。
振るった刃は先ほどと同じく、本陣前列――兵士の血肉を弾けさせた。
黒塗り鎧の兵士達から放たれた槍もある。
ぶつかれば押されることは予想していたが、しかしそこからは予想に反した。
本陣の兵士はエルカールの下、士気を保っている。
この3000はエルカールの精鋭であった。
通常の兵士と比べその能力は格段に高い。
だがその精鋭を持ってしても、あの黒の巨人を一体とて倒すことが出来ていなかった。
エルカールが顔も知る、優秀な戦士が鎧の隙間から刃を突き立てるのが見える。
仕留めたはず――しかし黒の巨人はものともしない。
何事もなかったようにその男の体を弾き飛ばし、その転がった体に刃を叩きつけ、胴を真っ二つに両断する。
もはやそこまで来れば確信であった。
――あれは間違いなく、人ではない。
何度刃で貫かれても、死することなく。
アルベリネアが戦場に持ち出したのは、不死の怪物であった。
本陣の兵士――そこから飛び出した勇者が肉塊に変わるのを見て、場に漂うのは恐怖に満ちた温い風。
「――俺が出る! どけッ!!」
前に出ることに危険はあった。恐らくこれが誘いであると分かっている。
しかし鋼の戦槌を手に走り出したのは、もはや選択がそこにしかなかったためだ。
黒の巨人の後続――黒塗り鎧の兵士も含め、相手は悠々と突撃陣形を組んでいた。
この巨人で存分に蹂躙した後、致命の一撃を叩き込む気なのだ。
どうにかしてこの巨人を打ち倒さねば、どちらにせよ圧倒される未来しかない。
眼前の怯えた兵士を弾き飛ばすように、巨人エルカールは疾走する。
身につける鎧には象が描かれ、そしてその姿も戦象のそれ。
――戦列を真正面から突破する、勇ましい獣そのものであった。
血煙、肉片――殺戮のため両腕の巨剣を振り回す黒の巨人。
その前に踊り出ると、全身を捻り、持てる限り、最大の一撃を叩き込む。
「ッ――!?」
しかし、巨大な戦槌に伝わるその感触の重たさは一体何か。
分厚い鎧の胴を歪ませ、しかし感じた重量は人を遥かに超える。
まるで象の足にでも叩きつけたかのような重みであった。
そして同時に鎧の内側――その柔軟性をも感じ取る。
肉ではない。もっと柔らかな何かであった。
――まるで布を幾重にも重ねたような。
それでも黒の巨人はその一撃に弾き飛ばされ、転倒し。
それを見た兵士達の目に光が再び宿り、吠えるような歓声を上げる。
得体の知れない黒き巨人。
しかし、それすらを自分達の将軍は打ち倒してみせる。
それほど心強いことはない。
――だが、エルカールには納得がいかず、その顔には笑みもなく。
その目が捉えるのは倒れた巨人――その後頭部であった。
前と同じく後ろにも、瞳を象るようなバイザー。
その瞳孔部分の格子から青き光が漏れ出し、今もなお明滅していた。
恨みを晴らすように、兵士の一人がその巨体を踏みつけ――そしてその次の瞬間に、その兵士の首があらぬ方向へ曲がっていた。
巨体にもかかわらず鮮やかに反転、身を起こし――同時、黒塗り兵士の投槍が再度飛来する。
そして起き上がった黒の巨人は、背後から来る投槍にも構わず踏み込み、その右の刃をエルカールに振り下ろす。
「ぐ……っ!?」
エルカールはそれでも将軍、兵士達の最上位に位置する戦士であった。
それを躱し、槍のほとんどを打ち払う。
左腕を一本の槍が裂いたが、しかし致命傷ではない。
続く巨人の攻撃――左の刃に対しては真っ向から戦槌を叩きつけて、その巨剣をへし折り距離を取った。
巨人は体勢を崩しながらも、再び振り下ろすは右の剣。
轟音を奏でる刃に背筋を凍らせながらもそれをも躱し。
だが、それに続いた攻撃は奇妙であった。
――巨人が再び振るったのは折れた左の巨剣。
避けるまでもなく、折れた剣では間合いの外。
何故そんな行動を――いや、恐らくこの巨人は、自慢の巨剣が折られたことにも気付いていないのだ。
直感的に理解し、エルカールは右の剣を誘う。
轟音を響かせ迫る刃を躱し、次の一刀を避けることもせず体を捻り、力を溜めた。
再び振るわれるのは折れた左剣、避けずとも当たりはしない。
それが振るわれることを見て取り、踏み込み――エルカールはその力を解放する。
狙うは瞳のようなその頭部。
叩きつけた戦槌は、その兜を容易くひしゃげさせた。
ガラスの割れるような音が響き、青い欠片と粉末が兜の隙間から飛び出る。
そして、その巨体は崩れ落ち。
――魔水晶?
エルカールは飛び散ったそれに一瞬目を向け、そしてそれが意味するところを理解した。
魔水晶を用いて作り上げた魔導兵器――アルベリネアが作りだしたのは恐らく、そういうものなのだろう。
魔水晶に詳しくはなかったが、魔水晶の兵器転用に関する研究が過去盛んに行われていたことは軍人にとって有名な話であった。
「将軍、お逃げを!!」
だが、それを打ち倒した喜びに浸る間もなければ、どうやってこのようなものを作り上げたかと思案する余裕もない。
既に、敵はすぐ目前に迫っていた。
「――敵の巨人は頭部が弱点、頭部のみを狙え!! 閣下にもそうお伝えしろ!!」
声を張り上げる。
兵士達に、オールガンやザルヴァーグに伝えるにはそれで十分であった。
――仮に、ここで自分が死ぬにしろ。
「はっはっは、将軍首はどうにも私のものらしい。命をもらうぞエルカール将軍」
「っ……」
巨人に乱された戦列。
そしてエルカールは前に出すぎていた。
黒塗りの兵士達――魔力保有者のみで構成されたというアルベリネアの狩人は、乱れた戦列を一息で抜き。
そしてその指揮官らしき男がエルカールの前に立っていた。
鎧を黒塗りにする他は、単なる一般兵と変わらぬ姿。
頬当てのついた兜の黒いたてがみ――階級は百人隊長かその辺りだろう。
少なくとも軍団長や将官ではない。
だがその立ち姿から香る武の匂い。
美麗な顔の青年は、一目にそれと分かる戦士であった。
「将軍をお守りしろ、ぁ!?」
前に出ようとした兵士――その体を槍が貫く。
右手から現われたのはエルカールには劣るものの、大柄な体躯、虎を模した鎧の男。
「敵将の首は俺のものだぞアレハ。年長に譲るべきだ」
「まさかアーグランド軍団長、老いを理由に手柄の横取りをなさろうと?」
「抜かせ。……こういうものは早い者勝ちだ」
相手が一人であればあるいは、善戦となり得ただろう。
エルカールは他国にまで名を轟かせる武人の一人。
両名どちらを相手にも不足はなく――だが、彼を取り巻く状況はそれを許さなかった。
「本来であれば一騎打ちで送ってやりたいところだが、あいにくこちらも忙しい。遊んでいる暇もなくてな……クリシェ様を敵に回したことを悔やむといい」
告げると虎面のバイザーを引き下げて。
二人が話しているのは王国や神聖帝国で使われる西部共通語――シャーン語しか知らないエルカールには、何を言っているかは理解出来なかった。
しかし男が笑っていることだけは、エルカールにも理解出来る。
「っ……、ただでは死なんぞ! お前達のどちらかを道連れに――ッ!?」
言葉の途中で、無数の投槍。
咄嗟に躱し、それをはじき返しながら。
――エルカールが最期に見たのは、自身に笑って迫る二人の獣であった。