ベーギル=サンディカ、あるいは神聖の監視者
※ 一間=約1.8m 一里=約400mほど。半里は200m
――第三軍団長ベーギルが思い出すのは開戦前夜、アルベラン軍の大天幕でのこと。
『――まずはそんな感じで敵の戦象や獣を始末するのがクリシェ軍の動きですね。相手は大兵力の上、象を前面です。どう考えても押し負けることはなく、最低でも膠着を作れると向こうは思い込んでいるでしょうから、その考えを根底からひっくり返します』
魔力保有者によって作られた、特殊投槍部隊。
くろふよ隊のびゅんびゅん兵改め、黒旗特務中隊の魔槍兵を用い、その投槍によって敵軍前衛となる象の全てを接敵前に始末する。
訓練された魔力保有者による一斉投槍――軍に対してもそれなりの威力を有するが、所詮は槍である以上、一度に投げられる数は限られ与える損害も限定的。
その目的はやはり一般的な投槍と変わらず敵の足並みを乱すこととなるが、一般的な投槍との違いは何よりもその威力。
相手が重装甲の歩兵であっても、分厚い外皮を持つ象であっても、彼等の槍はそれを容易に貫く。
一頭に対し五人の一投げでおつりが返って来るだろう。
アルベリネア軍前衛――コルキスとベーギルの軍の先頭付近に班ごとに紛れ込ませ、合図と共に投槍を開始。
相手の想像を真っ向から裏切る結果を生じさせる。
これにはほとんどが新兵となる彼等の慣らしという意味合いも大きい。
魔力を扱う彼等は能力に優れるとは言え、いきなり敵陣に斬り込めと言われれば流石に躊躇があるだろう。
実際、竜の顎における黒の百人隊も、クリシェに先導され動き出すまで大半が怯えていた。
しかし訓練を重ねた槍による遠隔投擲ならば、危険なく彼等に自分達の得た力を実感する機会を与えることが出来るし、刃を握って突き立てるよりは、それを投げつける方が心理的負担も少ない。
大幅な人員増加を行った彼等を真っ当な戦力として扱うには、そうして段階を踏んで経験を積ませることも重要であった。
クリシェは立ち上がると、背後にある鉄板へ。
両軍の陣形が磁石の駒によって描かれていた。
置かれた台の上に乗ると手を伸ばしてその駒を、両軍が噛み合うまで動かし始め――ガーレンが横からそれを手伝う。
『敵軍士気への打撃は大きいでしょう。全力突撃というのは押し勝てるという確信を持っているからこそ選ぶ動き。これが完全に失敗するなんて敵が想定しているはずもないですし、この時点で間違いなく敵は受け身になります。主導権はこっち。以降これを手放さないようこちらは動きを重ねます』
クリシェは台の上でスカートを翻しながらくるりと回り、両手を腰に当てると慎ましい胸を張る。
そして将軍や軍団長を見下ろし、ベーギルの視線を見て首を傾げた。
それからその視線の先――自分のスカートを見る。
『ベーギル、どうしました?』
『いえっ、スカートの下が見えはしないかと冷や冷やしまして』
『……むぅ、心配しなくても気を付けてます』
唇を尖らせながら、ベーギルの言葉を何やら気にしたようにクリシェはスカートをつまみ、椅子に座る将軍や軍団長達を見つめる。
クリシェが台の上に立てば角度的に見えやすくはあるだろうが、膝下のスカートである。
まさか下着が見えることはあるまいと頷き、再びベーギルに目を向けた。
『心配してくれるのは嬉しいですが、大丈夫ですよ。クリシェはちゃんと淑女ですから、男の人にはしたない姿は見せないのです』
『は!』
立ち上がると威勢の良い返事を返し、堂々と敬礼するベーギルを見て、ガーレンやミア達は呆れたように、ダグラは疲れたように目頭を揉んだ。
極めて優秀な武人であり指揮官であるが、彼は性格に難があった。
このような地位になければ年中酒場に入り浸り、給仕にでもちょっかいを掛けていそうな男である。
『クリシェの動きは当然ながら、これで乱れた敵軍の突破。最初に動くのはクリシェの右翼、第三軍団長であるこのベーギルです。象を失い士気を大きく崩された敵が相手、難しくはないでしょう?』
『もちろん、それに手こずるような指揮官はここにはおりますまい』
クリシェはその言葉に微笑んだ。
『まずはそこからの一点突破。相手にそう思わせるところが始まりです――』
アルベリネア軍右翼――第三軍団。
全軍突撃の指示を出しながら、ベーギルの脳裏にはひらりと揺れるクリシェのスカートが浮かんでいた。
あれはいつものブーツソックスではない。
膝下の丈ではなく、膝上。
全体として細身ながらも、唯一肉付きの良いクリシェの白い太もも――そこを締め付ける靴下の黒いレースラインは美しかったが、しかし。
「……あれは、一体」
ベーギルの鋭い目は見逃さなかった。
その靴下の上端にあるレースが、その上から垂れ下がる謎のバンドと繋げられているのだ。
クリシェがあの台の上でスカートを翻した時に見たものは、やはり見間違いではない。
先ほど、投槍の際にクリシェが行った前転――その瞬間にははっきりと、太ももの上から伸びる謎のバンドを彼は目にした。
あれが果たして何なのか。
女性の下着事情に広く通じる、ベーギルの知らない何かであった。
――いや違う。やはり、あれが。
ベーギルは妻から聞いた噂話を思い出した。
どうにも最近の貴婦人の間ではガーターベルトなるものが流行りはじめているらしい、と。
貴族女性の中でも有名な仕立て屋、アリカ=サーズベルンの新作。
それはこれまでの靴下留めの常識をひっくり返す代物であり、ここだけの話、さる高貴な方々も身につけていらっしゃるらしい、などと妻も友人からの又聞き。あやふやな情報である。
その時には大して意識をしていなかった。
そういう下着が出来たのか、と感心した程度。
だが改めて考えれば見えてくるものがある。
さる高貴な方々と言えば漠然とした言い方ではあるが、王家に連なる者――要するに女王陛下やクリシェである。
そしてそのクリシェが身につける、謎のバンド。
考えてみれば確かに、あれは靴下留めを目的としたものと言えるのではあるまいか。
ベーギルにあるのはもはや確信であった。
彼の脳裏で無邪気なクリシェの姿が浮かび、そしてガーターベルトという名称からその構造を想像、そのスカートの内側に透かして組み合わせる。
恐らく、コルセットか何かのように、腰に巻き付けた形状なのだろう。
シンプルに、ベルトにガーター、靴下留めが付いた代物と考えれば良い。
腰からバンドにより、靴下を引き上げ固定するのだ。
ベーギルの優れた頭脳は、僅かな情報から最適解を導き出し――その構造の全てをイメージによって作り上げていた。
狂気の執念――いや、単なるスケベ心であった。
「……どうされました? ベーギル様」
元クリシュタンド軍第二大隊長――そして現在はベーギル指揮下、その副官相当の大隊長となったファグランは、上官が真剣な顔で眉間に皺を寄せる姿を見て尋ねる。
まさか自身の上官がこの突撃を目前に、クリシェの下着についてを真剣に考え込んでいるとは思わない。
かつて共にグランメルドの指揮下にあった身。
長い付き合いであればこそベーギルという男がどういう人物かを知ってはいたが、そこまでの変態であるとは彼も思っていなかった。
敵陣をどう攻め、崩すか。
それについてを深く考え込んでいるのだと思っていたのだ。
「この状況です。何も考えることはありません。真正面から臆病者を血祭りに上げれば終わりでしょう」
高度な戦術などは必要ない。
士気のまま押し潰せばいい。
短絡的であったが、この状況では何よりそれが最高の結果を生む。
ファグランは経験から当然のように語り、ベーギルは頷く。
「分かっている。……クリシェ様には良いものを見せてもらった。今日の私に敵などいない」
ベーギルは頭の中でちらりと覗いたクリシェの太ももを再生させ。
ファグランはそんな上官の心中を知らぬまま、クリシェとその配下――黒旗特務の投槍を思い浮かべ、力強い笑みを見せた。
彼はベーギルもきっと、自分と同じ光景を思い浮かべているのだと思っていた。
「ははは、あんなものを見せられて昂ぶらない男などもはや男ではないでしょう。……兵士達の士気も最高潮です。号令を」
「ああ、確かに。男ではない。……行くとしよう。これからの楽しみも増えたところだ。――レックス、私に槍をよこせ!!」
ベーギルは吠えるように護衛が持っていた白兵槍を掴み、戦列から踊り出る。
そして戦象と一角獣を片付け速度を緩めていた黒旗特務の一班――百人隊長タゲルの眼前に。
「タゲル百人隊長、以降は我が軍団で引き受ける! 貴様らは一度呼吸を整えよ!!」
「は――!?」
タゲルは突如後方から現われたベーギルの様子に面食らいながらも答えた。
しかし、その返事が彼に聞こえたかどうかは定かではない。
一息で加速したベーギルは遥か前方、既に敵前衛の前にあり。
――そして轟音奏でる一槍にて、正面にある敵を粉砕していた。
「聞けぃ、ガルシャーンの雑兵共! そして後ろで臆する腰抜けの指揮官よ! 対面にアルベリネアが玉体を仰ぎ見たこと、このベーギル=サンディカが後悔させてやる!!」
波が岩を避けるが如く。
僅か三間先にある敵軍団長を目にしながら、真正面にあるガルシャーン軍兵士は恐怖に足をもつれさせ、あるいは彼を避けるように横へと逃げた。
「――第三軍団、私に続けッ!!」
黒の百人隊との関わり深い、元第一大隊長。
普段は親しみやすく、飄々とした男であったが――今この場にてその体から生じる気迫はまさに戦場無双の武人であった。
元より彼が並の武人であるとは思っていなかったが、本気を見せたベーギルの姿は全くの別人。
一兵卒から成り上がり、かつては大狼――グランメルド=ヴァーカスの片腕として王国最強の大隊、狼群の副官を長年務めた戦士なのだ。
これがベーギル=サンディカという男かとタゲルは尊敬を露わに彼を見つめ、声を張り上げた。
周囲にある黒き兵士を集結させ、いかなる状況であろうと再び動き出せるよう兵達を掌握する。
獣狩りを終えた今、彼等の指揮権は勇猛なるベーギルに委ねられていた。
鼓膜が破れんばかりの喊声――そして、敵戦列の破砕音と悲鳴。
この突撃がどれほどのものになるかを想像し、タゲルもまた頬を吊り上げ、やや遅れたファグランの側へ。
「くく、珍しくベーギル様が滾っておられる。いつでも動けるようにしておけ若造、ああなればどれほどの無茶をさせられるか分からんぞ?」
「了解しました!」
「――ファグラン、前によこせ! 後ろの指揮はお前だ!!」
「は! 旗を振れ、ラッパを鳴らせ! 中央第一大隊は直進! 第二大隊は左、第三第四大隊は右に敵を崩させろ!! 道をこじ開けるぞ!!」
一個大隊1000人であれば縦に20、横に50の配置を基本とする。
五個の大隊を指揮する一個軍団であれば基本的に大隊一つを手元に残すため、戦闘正面幅は約半里となる。
縦に20と厚みを持たせるのは魔力保有者という存在のためであった。
それそのものが脅威的な存在であるが、中でも他を圧倒するほどの実力を持った魔力保有者となれば単独で10人の厚みなど容易く突破する。
前衛に5人、後衛に5人と百人隊長を分けるのも、後ろに予備として大隊一つという大きな兵力を残すのも、そうした魔力保有者による突破を前提とするためだ。
横に広げ延翼――例えば縦に10、横に100という配置を取り、相手よりも広く戦列を取り翼側から迂回を図るにしろ、根本的な問題として移動距離の長さという不利がある。
彼等が敵後方に到達する前に真正面から壁を抜かれれば元も子もない。
これはアルベランのみならず、この世界の戦場における一つの結論、解答であり、ガルシャーン軍も同様であった。
1000の人間があれば20という厚みのある縦列。
ただ、彼等は約500からなる中隊を基本に軍を構成する。
そしてその中隊長達を指揮するのは将軍直下、戦獅子長と呼ばれるアルベランにおける大隊長、そして軍団長の権限を併せ持つ存在であった。
預けられているのが5000の軍であれば、精々10個の中隊を指揮する程度。
500の中隊という小回りの利く兵力を自在に運用出来る点で戦術的行動は自由度が高まり、優秀な戦獅子長であれば場合により、王国の軍団5000に対し優位を取ることもあるだろう。
だが戦術的自由度が高まれば高まるほどに必然、指揮官には膨大な情報処理能力を求められ、無数の選択肢から最適解を導き出す能力が求められる。
そして預けられる兵力がそれを超えれば超えるほど、加速度的に彼等の負担は増大する。
これは戦獅子長の優秀さに全てが委ねられる軍構造と言えた。
安定感という点では大きくアルベラン軍に欠け、その命令系統は優秀な戦獅子長の細部に渡る戦術運用を可能にするが、その代償に戦獅子長は無数の情報、思考に翻弄されることとなる。
彼等の指示が遅れれば、少しでも思考を止めれば、処理すべき問題が津波の如く押し寄せその限界を超えていく。
この軍構造はガルシャーンの歴史に深く根付いた問題であった。
かつて戦獅子長はガルシャーン王国貴族のみが許される特権階級。その下にある中隊長との間には絶対的な壁があり、平民出身者はどのような戦果を挙げても中隊長を限界とする。
平民に大きすぎる権限を与えればそれは必ず反乱の種となると考えたガルシャーン王家が、王族を頂点に貴族、平民という権力構造を固めるため長年築きあげてきたシステムであった。
その上で貴族を厚遇し、味方に付けることで彼等の反乱を防ぎ――王族に生まれたオールガンの反乱によってその権力構造は破綻したものの、共和国となった今でもその軍構造は維持されている。
オールガン自身は内戦での経験から、問題が多い指揮系統であると改革の必要性を感じてはいたが、しかし彼は独断で何かを決定する権限を自ら手放し、副議長の座についていた。
ガルシャーン軍総司令の立場にあるが、これも議会に預けられただけの権力。
軍構造の改革には議会の承認を得なければならないなど多くの難題があり、その上、平民出身の軍人にとって戦獅子長は何より憧れの階級であった。
その権限を少なからず奪われることには多くの反発もあり、そして兵も平民出身の戦獅子長に率いられることを望んでいる。
多少の問題はあれど利点もあり、問題は致命的な欠陥でもない。
平民出身の戦獅子長が王家を打ち破り、反乱軍を勝利に導いたのもまた事実――現状でも他国と十分に渡り合えている。
ならばこのままで良いのではないかと告げる彼等を真っ向から否定する材料をオールガンも持ち合わせていなかった。
軍の改革にはいつの時代も、多くの労力を必要とする。
現状が仮に70点であったとしても、改革後が80点になるか、60点になるかは蓋を開けてみなければ分からない。
当然、多くの軍人は先が不透明な改革よりも現状維持を望むもの。
今までも十分にやれていた、という考えを払拭することは困難で、そして現状は70点という認識自体、オールガンと一部の人間にしか見えていない。
改革には時間を掛けるしかなく、そして今日この日も、その旧来の形と変わらぬままアルベランとの決戦に臨んでいた。
「戦獅子長! 中央第七中隊長が救援を――」
「分かっておる!」
アルベリネアに対するエルカール軍左翼、戦獅子長ラクールは馬上でその頭脳を目まぐるしく回転させ、この状況をどう乗り切るかに集中させていた。
左翼の後方ではなく左翼中央に身を置いているのは、初動が一斉突撃であったため。
相手がどのような動きをしてきてもいち早く感じ取り、対処出来るように――そう考え、ラクールは自分の立ち位置を比較的前面に置いた。
だが状況は根底から覆されている。
攻めるのはこちらであるという大前提は獣と共に消失し、完全に浮き足だった状況で相手の突撃を食らうという最悪の状況。
間違いなく前衛は突破されるだろう。
この前寄りの位置はどう考えても危うかった。
状況的に戦列の厚みによって敵の攻勢を受け止めざるを得ない。
正面の相手はこちらの半数以下、精々5000。
だがラクールの前にある前衛も5000でしかないのだ。
残りの兵力は自分の後ろにある。
この状況であれば後ろにある彼等を前に出し、ラクールが後方へ逃れ、戦列の厚みで敵の攻勢を受け止めるという選択が望ましい。
被害こそ大きいが、現状では選択として最上だろう。
この左翼における戦獅子長の責任と価値を知るが故、決して自分が指揮統制の出来ぬ状況――敵と直接刃を交えるような状況には持ち込むべきではないと考えるのは妥当であった。
しかしアルカザーリスを失い、戦象、一角獣を一瞬で失ったのだ。
兵士達の士気は崩壊寸前。
ここで彼等の指揮官たる戦獅子長が後方へ逃れれば、前衛はラクールに見捨てられたと感じるだろう。
そうなればもはや烏合の衆。
蹂躙されているこちらの現状が、虐殺される、へと変わるのは明らかであった。
左翼全てが士気崩壊の瀬戸際にある。
それが最上の選択とは言え、逃げの選択――仕切り直しという選択を取ることは出来ない。
戦獅子長としての自分の役割は兵達をここで鼓舞することであった。
「中央の突破は免れん! ここの兵力を左右に展開、突破してきた敵を殲滅する!」
「っ、は!」
ここまでの突破はもはや防ぐことは出来ない。
ならば自分を餌に敵を引き寄せ、左右から挟撃――機動防御で誘い込んで殺す。
敵の軍団長は恐らく先頭にある。
それを仕留めさえすればこの状況からでも持ち直せる。
そうでなくとも、自身の後ろにある兵力が前衛の補強に回るだけの時間が生まれれば、一時的な膠着を手に出来る。
この兵力差、ここから逃げる以外にも選択肢は無数にあった。
だが、そのためには僅かな時間――前衛を立て直すための時間が必要なのだった。
故にラクールは曲刀を引き抜き、囮に敵を討つ勇敢な選択を取り。
「弓兵に射撃準備を――、っ!?」
――だが、あまりにもその決断を下すのが遅かったと言えるだろう。
戦象を瞬く間に失った衝撃。
ラクールにもまた一瞬の硬直があったのだ。
そしてその遅れがこの場に響いたと言え、
「腰抜けの指揮官が見えたぞ! 美味しい獲物を殺すのは誰だ!?」
瞳を血走らせ、狂気に満ちた笑み。
前衛を切り裂き現われたのは、一人の男。
女神を象るハーフプレートは血に塗れ――王国中央軍アルベリネア直轄、第三軍団長ベーギル=サンディカであった。
吠えるようなその声に、群れをなす狼の如き喊声が重なる。
軍団長を先頭に、極限まで昂ぶった士気絶頂。
もはや立ち向かえるものなどない。
怯えきった前衛――その後列には剣を捨て逃げ出す姿すらあった。
その背中から槍と刃で串刺しに、彼等の喊声はもはや際限なく。
「ッ――先の命令を撤回する! 食い止めろ!!」
ラクールは咄嗟に叫び、二つに分けた兵力を呼び戻そうとする。
しかし機動防御の態勢を取るべく動き出していた彼等は混乱し――その一瞬で動けたのは僅かであった。
命令を出してすぐ。
自身を護衛していた兵はまだすぐ側にある。
そして敵との間にはいくらかの距離があった。
突撃はなんとか受け止められるとラクールは考え。
「――タゲル百人隊長、私と斬り込め!」
「は! 聞いたか、狙うは指揮官の首だ!!」
――しかし敵は、想像を絶する速度で間合いを詰めた。
せめて今の一瞬で逃げていたならば、まだ命は保てたかも知れない。
だが誤断とは言えぬものだろう。
彼が相手を見誤ったのは事実であったが――しかし、その全てが魔力保有者で構成された百人隊の突撃を受けるなど想像出来る者など誰もいない。
血濡れの女神を胸に抱く軍団長を先頭に、続く兵士の疾走もまた馬よりも速く。
ラクールの周囲にあるのは僅かな護衛と、旗持ち、ラッパ手。
そしてその一瞬で戻ってくることが出来た、機転の利く兵達のみであった。
そしてアルベリネアの狩人を前に、同数以下の相手などは障害にすらなり得ない。
至近に迫られ、一斉に放たれるのは轟音奏でる槍であった。
そして彼等の槍は戦象をも仕留め、鎧すらを貫く魔槍。
ラクールの壁となった男達――もはやそこから生き残りを見いだす方が難しい。
「っ――!?」
「避けるか、中々やる」
辛うじて馬を犠牲に投槍を躱したラクールは、続くベーギルの一刀をも躱す。
戦獅子長という地位にある彼は、相応の武人であった。
後ろに跳躍することで距離を開こうとし、
「ぇ、が……ッ」
「――だが、私の相手ではないな」
だが狂気の笑みを浮かべた男――ベーギルは容易にその跳躍へと追いすがると、その喉を長剣の切っ先で貫いた
剣を前にした半身、ロールカ式剣術とは対極――彼の修めるザイン式はどこまでも攻撃に特化した剣術。
卓越した踏み込みによって常に相手を間合いに収め、先手を取り。
一瞬の隙が生じれば、そこから放たれるのは板金鎧すらを貫く必殺の突き。
数多の戦場、その最前線で磨き上げられたベーギル=サンディカの剣技と踏み込みを前に、身を引くことは死を意味した。
喉から剣を引き抜けば、ラクールの体は糸の切れた人形のように両膝を突いた。
ベーギルはその首を容赦なく跳ね飛ばす。
宙を舞ったそれを落下もさせず、その剣技を見せつけるように串刺しにする。
「はっはっは、どうしたガルシャーンの雑兵共? 貴様らを指揮する腰抜けの首はここにあるぞ! くく、王国の言葉など通じんか」
そして笑いながらその首を頭上に大きく掲げて見せた。
「まぁいい、今から身をもって教えてやる。お前達全員を同じ目に遭わせてやろう。恨むならばアルベリネアに挑んだ貴様らの無知を恨むがいい!」
ベーギルの後続は突破口を拡大しながら、自らの軍団長が手柄首を挙げたことに歓喜の声を発する。
少なくとも戦場という狂った世界では、卓越した人殺しほど尊ばれる者はいなかった。
普段の日常において大切に扱われるべきものを、奪い、砕き、踏みにじる者こそが勝利と栄誉をもたらすと、この場の誰もが知っていた。
異常者こそが輝く世界――そしてベーギルは、そんな戦場を何より好むけだものであった。
尊敬すべき戦獅子長の首を晒し者にされ、しかしその仇を討とうという異常者は、少なくともその場のガルシャーン兵にはいない。
敵の軍団長が放つ獣性と、彼の側にある黒き旗に目を奪われ、誰もが恐怖に怯え戦意を消失させていた。
追いついたファグランは愉しげに上官を見つめ、尋ねる。
「ベーギル様、このまま突破を?」
グランメルドと比べれば威圧感もなく、普段はどこか優しげにすら見えるベーギル。
だからこそなのだろう。
その身に宿る狂気を露わにすれば、彼はどこまでも恐ろしい存在のように見えた。
クリシェに第四軍団長になるよう求められ、自分がそれを断ったのはきっと、これを見たかったからなのだろう。
元狼群副官――ベーギル=サンディカという異常者の下で、この背筋のざわつくような感情を味わいたかったのだ。
恐れと尊敬の混ざり合う、そんな感情を。
「いや、突破はしない。予定通り、アーグランド軍団長の動きを待つとしよう」
左――中央の方向へ目を向け、響く喊声と悲鳴に頬を吊り上げる。
「……急かずとも良い。しばらくは休憩――次に備え、ここの怖じけた敵兵を殺せるだけ殺しておく」
「は、了解しました。蹂躙、ですね?」
「そうだ。……どうだファグラン、君には愉しかろう?」
「くく、愉しいですな」
「私としてはついでのような仕事だが……」
黒旗特務、百人隊長タゲルはそんな二人の異常な会話を困惑したように見つめる。
軍団長となる人間はこのようなものかと彼は驚きながらも、散った兵を掌握し、それぞれに一時休息を命じた。
「……タゲル百人隊長、私の活躍を君からもクリシェ様に伝えておいてくれたまえ」
「は!」
「褒美には是非、私の兵へ直々の訓練を賜りたいところだ」
はっはっは、と楽しげに笑うベーギル。
褒美に訓練を賜りたいとするその向上心に、タゲルは再び尊敬を露わにする。
――彼の心中でスカートが踊っていることを知らぬまま。
タゲルは彼に心からの敬礼を捧げて見せた。