必勝法
日課となっている塔の上での日光浴。
日暮れも近づいて現われたのは一人の男――工作班長改め、じゃらがしゃ班長ネイガルであった。
「クリシェ様、ジャレィア=ガシェアの準備は整いました」
言って、ネイガルは塔の西側に目を向ける。
アルベリネア軍、並びにガーカ軍は既に、この城郭都市ナクリアのすぐ西側で形ばかりの布陣を行っている。
ガルシャーンは今日の内にここへ到着するためであった。
今日開戦、ということにはなるまいが、いつでも戦闘が行えるよう多少の準備はしておく必要があり、アルベラン軍はそのような形を取っている。
しかしこのアルベリネアはその辺りの準備を各軍団長に丸投げすると、夜にある会議などに備え塔の上で熟睡。
この決戦を前に、その図太さはどう表現すべきか――ネイガルは手袋に包まれた左の義手で頭を掻いた。
クリシェは既に起きていたが、まだ眠たげ。
唇をむにむにと、欠伸を噛み殺しながら、座ったまま不機嫌そうにネイガルを見上げた。
「……じゃらがしゃ」
「は、はい……申し訳ありません。努力はしているのですが、舌が回らず……」
「じゃらがしゃの班長がそんなじゃ駄目ですよ、もう」
ぷりぷりと頬を膨らませるクリシェにネイガルは踵を揃えて敬礼する。
じゃらがしゃの発音が田舎出身で訛りの強い我々には難しく、ついジャレィア=ガシェアと言ってしまう――ネイガル達じゃらがしゃ班が必死で作り上げたクリシェへの言い訳はそのようなものであった。
開戦間近にして黒旗特務の古参兵にも情報が解禁され、この言い訳は必然的に黒旗特務でも用いられるようになっており、『街で生まれたが両親が田舎者』、『三代続く王都の商人の家に生まれたが母親が田舎者』、などという、何やら似たような生い立ちの人間が黒旗特務に集まることとなった。
平然とじゃらがしゃ呼びしているのはカルアと数名程度である。
正式名称はセレネの手によってジャレィア=ガシェアとされているため、クリシェもこれに関してはあまり強く言えないことが救いであったが、やはり非常に不満であるらしい。
ジャレィア=ガシェアと連呼されると目に見えて不機嫌になり、このようにしてぷりぷりと怒り出すのが常。
よほど自分の名付けにこだわりがあるらしく、黒旗特務の隊員達も必要な場合を除き、ジャレィア=ガシェアという呼称は封印し『あれ』や『これ』などと呼んでいた。
「く、組み立ては済み、外装も装着済み。動作確認も正常です。後でご確認頂きたく……」
「わかりました。確認します。それが終わったら運搬準備を。予定通り夜の内に運びます」
「は」
運搬時にはその重量や秘匿の問題からばらばらにパーツが分解されているため、組み立てや動作確認の手間がある。
途中から効率化と人員増加もあり、出来上がったジャレィア=ガシェアは十二体。
だがその分手間も掛かり、今回は組み立てと動作確認に一日半。
必然的に密閉された狭い空間での作業となるため、手間を喰い――この辺りに関しては今後改善の余地があるとクリシェは考える。
「ヴィンスリール達も夜の内に中へ。街があるのに森で待機なんて悪いことをさせちゃいましたね」
「まぁ、仕方のないことでしょう。それにヴィンスリール殿達は近頃贅沢をし過ぎたと言っておられましたから」
「んー……美味しいものは美味しい、気持ちよいベッドは気持ちよいベッドで良いと思うのですが。クレィシャラナの考え方は難しいです」
クリシェは首を傾け腕を組み。
「……?」
「……騒がしいですね」
――衛兵達が騒ぎ出す声。
来たみたいです、とクリシェは言い、立ち上がる。
二人は兵士達の声に誘われるようにして胸壁に手を突き、南へと目を向けた。
切れ切れになった影の濃い雲、赤焼けはじめた空――見渡す限りの地平線。
耳を澄ませば、感覚に意識を集中すれば静かに振動が響く。
そして笛と太鼓の音――向こうから現われるのは無数の影であった。
一つ、二つ、十、二十。
最初に見えたそれが人であるとは誰も思うまい。
ここからは十数里の彼方。
映る影は明らかに大きく、遠目にも威圧感があった。
「ネイガル、なんだか大きいのがいますよ」
「……あれは」
そして現われるのは、その影よりも遥かに巨大な一つ。
「……あ、象の魔獣がいると言ってましたし、あれがそうなのかもですね」
地平線の上に立ち、それでもはっきりと分かる巨獣。
あれが象達なのだということは理解出来ていたが、しかしその一頭だけはそもそもの規格が違う。
他の象に比べれば、その大きさは優に倍以上はあるだろう。
その影を見た衛兵達の怯える声が強まった。
象の体躯は肩高二十尺――そもそもがこの城壁のそれに等しいとされている。
それを遥かに上回る巨体。
その大きさはまさに城壁すらを跨いで通るに不足なく、あのような化け物がこの世にあるのか――そんな衛兵達の怯えは無理もなかった。
その化け物に続くは、地平線を埋め尽くさんばかりの影。
――総数十万を超える、ガルシャーンの大軍勢。
近づくほどに地響きが強まり、引き連れた楽団の奏でる笛のリズムが空に満ちる。
わざわざ夕暮れに地平線を越えてきたのは示威目的だろう。
見える象を数えながら、クリシェは目を細める。
「ネイガル、怖いですか?」
「はは、戦を前に怯えぬものはよほどの勇者かクリシェ様くらいでしょう。こうしてあの大軍を目にすれば、恐ろしいことこの上ないですね」
素直にネイガルは答え。
「……倍の兵力。そしてまだ見ぬ巨獣。とはいえ少なくとも、黒旗特務で共に戦った人間からすればクリシェ様を敵に回すほどの怖さはありません」
しかし言葉とは裏腹に、浮かべる笑み。
「知らぬ者にはこちらが愚かに見えるのでしょうが、私からすれば愚かなのはガルシャーン。戦が始まればあちらも、そしてこちらの怯える兵士もそれを理解するでしょう。今覚える感情は、すぐに逆転する」
青年と言うべき彼の目に宿るは、半ば崇拝めいた狂信であった。
あるいはその目は、神を隣に仰ぐようで。
ただ一人の主君と仰ぐ彼女を見る目は狂気に浸り、死すらを恐れぬ崇敬の念がそこにある。
「是非ともそれを知らしめてやってください。……カルアの提案は悪くありません、やるかどうかで士気も大きく異なるでしょう」
「んー、そういうものですか。……まぁ、手本を見せるというのは悪くないですね。丁度兵士達から見やすい大きい的もありますし」
ガルシャーン軍の足はそこで止まる。
今日はそこで野営にするのだろう。
クリシェは巨大な一頭から視線を切ると、翠虎の上に腰掛けた。
「行きましょうかネイガル。会議もありますし、最終確認は早めに終わらせておきましょう」
「は。ジャレィア――」
「……じゃらがしゃ」
「じゃ、じゃらがしゃのお披露目です。私も明日が楽しみで仕方ありませんな」
クリシェは唇を尖らせ、もう、とネイガルを睨んだ。
ガルシャーンにおける二十年前の内戦。
オールガン率いる反乱軍を何より脅かしたのは、ガルシャーン王国軍ではなく身内の裏切りであった。
共に腐敗した王家を討つべしと立ち上がった仲間が、裏で王家に懐柔され牙を剥き――結果として反乱軍は当初、多くの民衆を従え兵力で勝りながらもガルシャーン王国軍相手に劣勢を強いられた。
その経験から現在は軍事機密に関しては極めて厳しい取り決めが作られており、会議に参加を許されるのは極めて少数。
特に上位者会議と呼ばれる話し合いには従兵の一人すらを中にいれることはなく、王国のそれと比べ、極端なまでに閉鎖的な環境が作られる。
上位者が全てを考え、下位の人間は意図を問わず、ただ命令を実行すればよい。
無数の頭脳から生じる多くの意見。そこから最良を導くような柔軟な発想が生まれることはないが、長たる将が優秀であれば大きな問題は生じない。
下の者はただ将軍を信じ、身命を賭して行動することをよしとし――政治的には話し合いと意見の交換を重んじる共和制に移行しながらも、軍には未だ、盲目的なまでに厳格な階層構造が維持されていた。
城郭都市ナクリアから僅か南。
ガルシャーンの大天幕で行われる上位者会議には、四人の人間だけがある。
二十年前におけるガルシャーン内戦。
王家に生まれながら反乱軍の御旗として、腐敗した王家を打ち破り共和制を打ち立てた英雄オールガン。
そして彼の片腕として、若くして無数の首級を挙げた天才、双剣のザルヴァーグ。
オールガンの右手には、巌のような顔をした禿頭の男。
七尺の超人的な体格を有する猛者――ガルシャーン東の将軍、巨人エルカール。
そしてその対面、左手には学者のような痩せ身の男。
白髪交じりの長い髪を後ろで束ね、彫り深い顔には鋭い眼光――ガルシャーン西の将軍、剣豪キルレア。
二人の顔を満足そうに眺めると、オールガンは髭を弄びながら口を開いた。
「長旅ご苦労。報告は?」
「東部軍には損耗なし。小競り合いだけです、閣下」
「西部軍も同じく、各都市も驚くほどに無抵抗ですな」
エルカールとキルレアは面白くなさそうに答えた。
あまりに拍子抜けと言っていい。
このミルヒレア平原への到着までは当初、一ヶ月と予想していた。
敵将ダグレーン=ガーカの動きが必ずあると考えていたからだ。
ガルシャーンの中央と東西、三つの軍に別れての侵攻である。
敵将ガーカが合流前に各個撃破を目指し動くと考えるのは当然のことだろう。
王国は恐らく中央からの増援を展開し盾として用い、その上で東西どちらかの軍の打破を目指す――常識的に王国の立場に立って戦略を考えれば、その辺りに落ち着く。
今回の侵攻、ガルシャーンの戦略方針はそうした彼等の動きを前提に組まれていた。
しかし蓋を開けてみれば、敵将ガーカはこちらの侵攻準備を感じた段階で村落からの避難を進め、このナクリアに引きこもった。
相手は幾度もガルシャーンに痛打を与えてきたガーカである。
場合によれば先制――逆侵攻によって東西どちらかの軍に打撃を加える可能性もあると警戒していたこちらからすれば拍子抜けであった。
本当にあのダグレーン=ガーカなのかと疑うほどに、彼の動きは弱気に映る。
「向こうは何を考えているのでしょう、副議長。あのガーカの動きとは思えませんな。間の抜けた中央の指示に尻尾でも振ったのか……お会いになったと聞きましたが?」
キルレアは顔を険しくオールガンに尋ねた。
「俺も聞きたい所です、閣下。無謀に散るのが目的と?」
エルカールも同じく。
オールガンを含め、三将共ダグレーン=ガーカとは槍を交えている。
知った相手――それだけに今回の動きは理解不能であった。
オールガンとダグレーンの因縁は彼らもよく知っている。
最終的には向こうも堂々たる正面対決を望むだろうと思ってはいたが、しかしそれはあちらが足掻けるだけ足掻いた後の話。
足掻きもせずこのミルヒレア平原に10万を無傷で誘うというのは兵法の理からは反していた。
仮に望んでのことであったとしても、それならば相応の軍勢を用意すべきで、しかしあちらはどう多く見積もっても精々5万というところだろう。
「それがそのどちらでもないようだ。ガーカは正気、俺を五万足らずで討つ気らしい」
「……馬鹿な」
二人は真意を探るようにオールガンを見る。
しかしオールガンが嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
「中央から来た姫君――アルベリネアを随分と気に入っているようだ。二人力を合わせればこちらと対等などと豪語しよった」
楽しげに告げるオールガンの言葉を聞き、キルレアは腕を組んで考え込む。
「罠ではない、と?」
「少なくとも戦略的なものであればそうだ。ガーカにその気はない。正直もう一人に関しては不安要素もあるが……しかしあの姫君がガーカを騙しているようには見えぬ。とはいえキルレア、樹海には念のため、戦闘が始まれば見張りをばらまけ」
「……それは構いませんが」
中央からの戦略的迂回があるとするならば、必ず西の樹海を通る。
日数的な問題であった。
そこを通らなければこの戦いには間に合わない。
初めからこの状況を想定し、更に西の山へと兵力を隠していた場合もあるが、その場合には占領都市に駐屯させた1万がこれに対処し、その動きを阻害する。
この状況からアルベランが軍を動かし、この戦場に参加させるには必然的に樹海を通らねばならず――とはいえ仮にあちらがそれを行ったとしても、事前に察知さえ出来れば容易に対処は出来る。
こちらと向こうではそもそもの兵力が違うのだ。
「ナクリアの民衆を武装させるという可能性は?」
エルカールは尋ねた。
城郭都市――全周を壁に囲まれながら、ナクリアは人口十万規模の大都市である。
万の人間が兵士となり得る土壌は十分にあった。
「全くあり得ないとは言わんが……少なくとも忍び込ませた密偵から伝わる情報では、その様子も見られんな。上手く揃えても数合わせ――無駄に死人を増やすだけだ」
オールガンはあっさりと否定した。
ナクリアで訓練が行われている様子はない。
訓練こそが臆病な人間を軍人へと変えるのだ。
付け焼き刃の訓練を行い、民兵として戦わせたところですぐに崩壊し、他の隊の士気を下げるのがオチだった。
民兵は精々使えて籠城戦。
野戦でも小競り合いならばともかく、大規模野戦で民兵などは使い物にならない。
「ナクリアの防御に民兵を扱う程度のことは十分にあり得るだろう。しかしあちらがそれを野戦戦力として運用する可能性は極めて低い――いや、あり得ぬと言って良いな」
オールガンはそこまで言うと、頬を吊り上げた。
「これは明らかな誘いだ。向こうにはこの兵力差を埋め、真正面からこちらを打ち破れると信じる、よほどの秘策があると俺は考えた。断じてそのような小細工ではあるまい」
「……秘策」
「それを期待していると言っても良いが……」
オールガンは髭を撫で、目を細める。
「面白い話を聞いた。内戦時、クリシェ=クリシュタンドは単なる平民から魔力保有者を見いだし、それのみで構成された百人隊を作り上げたのだとか」
「……まことですか?」
「嘘を言ってどうする?」
オールガンは笑い、キルレア達は眉間に皺を寄せる。
魔力保有者の判別は非常に難しい。
よほど目が良い熟練の魔力保有者でも、念入りに観察しなければその素養のある人間を見抜くことは不可能だろう。
大抵はその身体能力から当たりを付けるし、幼い頃から訓練を受けた魔力保有者とそうでないものを見分けるというのであればともかく、魔力を扱う術も知らない潜在的魔力保有者を選別するというのはそもそもの難易度が違う。
「募兵の際に一目でそれと分かる魔力保有者などそうはおらん。万を見て、運が良ければ数人程度――しかしあの突発的な内戦で百人隊を作り上げたとなると、当然潜在的な魔力保有者をそこから拾い上げたと見るべきだろう。いかなる手段を用いたかは知らんが、脅威に感じ、考慮すべき情報だ」
「何らかの選別法、速成技術が確立されていると見た方が良い、と?」
キルレアの言葉にオールガンは頷き、
「恐らくは。俺には気の遠くなる地道な作業以外には想像が出来ん。やろうと思えばよほどのコストと時間がいる。いずれ探らねばなるまいが……だがまぁ、重要な点はそこじゃない」
そして自らの頭を指で叩いて見せた。
「これが示す要点は、敵の姫君――クリシェ=クリシュタンドにこれまでの常識というものをひっくり返すだけの発想と頭脳があるということだ。俺はこれを甘く見るべきではないと考える」
笑みを浮かべながらも、真剣な目。
キルレアもエルカールも、その目に一層顔つきを厳しいものにした。
「どうだ? アルベランの内戦、王女が勝つと予想していた者はいるか? 少なくとも俺はギルダンスタインに賭けた。事実、序盤はギルダンスタイン優勢――しかし当時、高々5000を率いる一軍団長があのヒルキントスを破り、ギルダンスタインを討ったのだ」
王都でクリシェを目にして、その戦歴については多少調べた。
突如現われた、と言っていい存在だろう。
二十にもならぬ少女――当然だ。
「内戦の後半、僅かひと月程度の間にクリシェ=クリシュタンドが挙げたとされる手柄は常軌を逸している。神聖帝国との戦でも十四の若さで特務攻撃隊として参加、帝国の副将を討ち取り、将軍補佐を捕虜としていたそうだ」
「……虚飾があるのでは?」
「いや。キルレア、お前も恐らく一目見ればわかるだろう。少なくとも俺はその信じがたい戦歴に嘘はないと感じている。なるほどこれがアルベリネアか、とな」
二人は疑念を浮かべ、オールガンは笑い果実酒に口付けた。
「まぁ、無理に全てを信じろとは言わんが……しかしだ、決して甘く見るべき相手ではない。政治の都合で出張ったお飾りなどではなく、こちらに勝つため送り込まれた、飛び抜けた天才の類だ。見た目に惑わされるな」
「……ふむ、ザルヴァーグ殿のように?」
「それ以上だな。異論はあるかザルヴァーグ?」
「ありませんね。少なくとも、この状況でも油断すれば危ういと感じていますよ」
黙って話を聞いていたザルヴァーグは、呆れたように両手を広げた。
適当に切られた黒髪。美男子でもなく、不細工でもなく。
その特徴はと言えば長身なことくらいだろう。
靴屋の倅に生まれ、平凡な人生を送るはずであった彼の才覚は戦場で花開き、オールガンの片腕にまで昇り詰めた。
まさに天才と言うべき青年はしかし決して驕ることなく、冷静さを目に浮かべる。
「何よりも優先して始末しておくべき相手でしょう。将としてどれほどのものかは未知数ではありますが、武人としては正直、私も勝てるとは思えません」
「……ほう」
キルレアとエルカールは驚いたようにザルヴァーグを見る。
ザルヴァーグは剣技においてはガルシャーン一であろう武人であった。
「腕比べではなく、精鋭による数での圧殺が好ましい。そういうことで副議長、随分と気に入られたようですが嫁に迎えるのは諦めてください」
「酷い奴だなお前は。努力をする気もないのか」
「ご自分を鏡で見てください。どちらにせよ釣り合いませんよ」
オールガンは楽しげに笑い、二人に目をやる。
「とまぁ、ザルヴァーグもこのような具合だ。……俺はこういう相手にだらだらと時間を掛けるのは得策ではないと考える。数の利を活かしての持久戦などを行えば相手に考え、動く隙を与えるだけだろう」
数の利があれど単なる平押しは悪手であるように思えた。
無難に戦い無難に勝つ――この圧倒的兵力差では十分に選択の余地ある動きであったが、あれだけの自信。必ず何かがある。
「相手が今日と同じく、右翼にガーカ、左翼にナクリアを置くような布陣を取るなら、中央にアルカザーリスを置く。出し惜しみはなし、最初から象や獣兵も前面に配置、敵中央の戦列を一手で崩壊させる」
しかしあらゆる策や戦術は、基本となる戦列同士のぶつかり合いがあって成り立つもの。
ある程度の膠着が両者の間に生まれなければ意味をなさないものだ。
「ガーカの軍とは違って相手は中央から来ている。獣には慣れていないだろう。エルカール、お前の仕事は単純明快――」
「――真正面突破。腕が鳴りますな」
巌のような顔を歪ませエルカールは笑う。
「キルレア、俺の軍から更に二万を預ける。象や獣兵は多くをやれんが、数で強引に回り込ませてガーカに予備を使わせろ。中央に増援を向けられんようにな。もちろん、そのままガーカを討ち取ってもらっても構わんが」
「……まさに小僧の仕事ですな。しかと」
キルレアも日焼けした彫り深い顔に、深く笑みを刻み頷く。
「初動で全てを決するつもりで行け。相手に行動を許さず、数で優位を存分に使って圧倒する。俺の美学には反するが、それがこの状況、向こうの望んだ戦だ」
オールガンは腕を組み、続けた。
「それと一つだけ、違和感を覚えたならすぐに報告しろ。この状況、どう考えても敵がこちらに勝つには死に物狂いで戦列を突破する以外に手段はないように見えるが……あの自信だ。こちらがどれだけ身構え優位を取っても、必ずどこかで突破を成功させる手段を相手は持っていると考えておけ」
思い浮かべるのは少女の瞳。
その宝石のような紫色。
アルカザーリスと60の象――そして後ろに続く大兵力による一斉突撃。
敵将が十いれば十、仮に相手がガーカであっても打ち破れる。最低でも相手を劣位に押し込める。
しかしそんな状況に追い込んですら、必ずあの少女は突破してみせるという予感があった。
警戒をしすぎているのではないかと考える理性を、本能で遮る。
場合によれば、突破のみならずエルカールすらを討ち取ってみせるのではないかと――少女の姿がオールガンにそう思わせるのだ。
「警戒のしすぎかも知れんが、それだけの相手だと俺は感じる。エルカール、気を付けよ」
「は。閣下がそう仰るのであれば信じましょう。……ですが拍子抜けとなれば分かっておられますな?」
「その時は俺の蔵の酒を好きなだけくれてやる。好きにしろ」
「ならば言うことはありませんな」
エルカールは笑い、しかし真剣なものを目には残していた。
オールガンは満足げに頷いた。
「……兵力の圧倒、勝ち戦であるというこちらの油断こそが敵のつけいる隙だ。まずは油断を頭から完全に切り捨てろ」
そして、言葉通りの表情で続ける。
「僅かな動きも見逃さず、相手の狙いを早期に読み取り――それを全力で叩き潰せばこちらの勝利は確たるもの。どれだけ優位であっても、手を緩めずに行け。……その警戒こそが、我らの勝利を確たるものとするのだ」
「――とまぁ、普通に考えると向こうは初動でこちらを壊乱させるつもりで動くでしょう」
ガルシャーン軍がそうして会議を行っている頃、同じくアルベラン軍でも明日の戦いに向け、軍の後方に作られた大天幕で会議が行われていた。
「兵力十万対四万六千。側面迂回は不可能で、こちらには敵戦列を突破することでしか相手に致命傷を与える手段はなく、当然あちらもそう考えます」
上座に座り、緊張感のない声で語るは銀髪の少女。
「クリシェ、そのつもりはなかったのですが、なんだか挑発してしまったみたいな感じになってしまってますから……あちらはその上で、こちらが厚みのある戦列を突破するための手段を持っていると確信しているでしょうね」
挑発してしまったみたい、ではなく、クリシェのオールガンへの発言は事実挑発であった。
それがどれだけの大事かを理解していないらしいクリシェの様子に、ガーカ麾下の軍団長達はぴくぴくとこめかみに青筋を浮かべていた。
不必要に相手を警戒させること――その意味の重さは誰もが知っている。
大軍を相手にする場合、相手の油断こそが唯一のつけいる隙。
それをクリシェは失わせてしまったのだ。
しかしそうであるにも関わらず、彼女は自分の行ったことへの責任すら感じている様子もなかった。
彼等が怒りを堪えている理由は、そのあまりの態度から彼女が何かしらの秘策を持ち合わせているのではないかとも考えてもいたためだ。
「ですからこちらに隙を与えず、初動で一気に潰しに来ることは間違いありません。しかし、クリシェにはそんなガルシャーンの裏を掻く秘策があるのです――」
美麗な顔にはいかにも真剣な表情を浮かべ。
その様子に、先ほどまでの態度はやはり前振りであったのかと半ば彼等も安堵を浮かべ。
「――ということもなく、やっぱりやることは真正面突破。各軍団長はまず大前提として、それがアルベラン軍全体の方針であると考えていてください」
だが、彼女は大してやる気もなさそうにそう言い放った。
そんな彼女の様子に怒りを堪えかねたのはガーカ軍の軍団長達であったが、ダグレーンはそれを視線で諌めた。
クリシェはそんな様子を気にした風もなく、微笑み続ける。
「十万に対して五万で、難しく思うかも知れませんが結局戦は流れ。初動をどちらが制して押し押されるか――平押し包囲一点突破、戦列同士のぶつかり合いというものは石拳のようなものでしょうか」
ぐーちょきぱーと手を動かし、握った右拳を見せびらかす。
「相手はこちらを粉砕しようとぐーで来ます。普通はここでぱー、機動防御なり、受け止めて包囲を形成するなりするのですが、残念なことにあちらの先頭は大きな獣が沢山で、ぐーでもぱーに無理矢理勝ってしまうでしょう」
そしてその右拳を左の掌に叩きつけた。
殴り倒されるぱーを演出し、クリシェはひらひらと左手を机の下に。
子供にでも教えるように、彼女の身振り手振りは実に幼稚であった。
彼女をよく知る彼女の配下――元クリシュタンド軍の人間も半ば呆れつつ彼女を見ている。
「困ったことです。このままでは勝てません。……でも解決法は簡単」
しかしふと、クリシェは机の上に右拳を置いてみせ。
「あちらには絶対勝てる自慢のぐー。そんなのを相手に真っ向から石拳で挑むのはお馬鹿のすること。だから石拳で勝負をする前に……」
誰もが次の一瞬に目を奪われ、息を飲む。
「……二度と石拳が出来ないよう、先に手首を斬り落としてしまえばいいんです」
いつの間にか引き抜かれ、振り下ろされたのは曲剣だった。
「相手の目的はこちらに策を用いる隙を与えぬ事。だからこそ本気でこちらを潰しに掛かる。全力のぐーなら最低でも押し負けはしないと彼等は思い込んでいますから、まずは大前提をひっくり返す。一切の油断をしていないという認識そのものが、相手の油断となるのです」
拳の僅か上――寸前で止められた刃に刻印されしはアルベリネア。
「――自信の根拠を喪失させ、後手を踏ませて奪い取るは主導権。……戦いは石拳が強い方が勝つのでも、体の大きい者が勝つのでもなく、いつだって単純明快」
当然のように少女は続けて、鋭利な刃を自身の首へと押しつけ。
微笑む少女の紫は、狂ったように輝きを放つ。
そこには一切の恐怖もなく、不安や迷いすらもなく。
そこにあるのはただ一つ、
「こうやって、首を差し出させた方の勝ちなんですから」
――狂気と呼ぶべき、絶対的な自負心であった。