理に牙剥くもの
見渡す限りの晴天に、春を感じる暖かな風。
王国の南――ミルヒレア平原。
ガルシャーン共和国にて編成されたアルベランへの侵攻軍は総勢12万を超す。
そしてこの大侵攻、全ての趨勢を握るこの決戦には10万に及ぶ兵士達が集められていた。
ガルシャーンが王国であった頃からその歴史を眺めても、一度の会戦に対する参加人数としては最大のものであろう。
対する敵陣、一里向こうに布陣するアルベラン軍はどう見ても五万を超えることはあるまい。
無論大軍ではあるが、その差は歴然であった。
後背ではなく、左翼を城郭都市ナクリアに任せるように戦列を敷くことで、圧倒的に数で勝るこちらの右翼からの延翼を防いではいる。
だがこちらの最左翼には二万の兵が真正面に敵なく、自由を手にしている状態。
迂回に側面攻撃、アルベラン右翼はひとたび戦いが始まれば真正面のみならず、側背からも脅かされることとなる。
やはりそれは小細工に過ぎないもの。
こちらの迂回を片翼に絞ったところで、兵力に劣るアルベラン――長くは持つまい。
その上ナクリアには恐らく、防衛のために最低限の兵力しか残されてはいない。
完全にこの配置は守りのためのもの――動かぬ都市が反撃を行えるわけもなく、敵は優勢なるこちらを相手に片翼を完全に切り捨てたに等しい。
押される右翼と、動けぬ左翼。
アルベランは必然真正面突破を図るしかなく、そしてそれは不可能であった。
「王国は中々の覚悟のようですね、ビルケース隊長」
若き副官に声を掛けられ、ガルシャーンの精鋭たる地竜騎兵隊隊長、ガル=ビルケースは頷いた。
口を開いた竜を模す兜――その上下に並ぶ牙の内側から、鋭い視線を真正面にいるアルベランの兵士達へと向けた。
「ああ、ここに来て逃げることなく――王国軍人は見上げた武人ばかりだよ、エルケ」
彼が鞍を置き跨がるは巨大な蜥蜴と言うべき生き物。
砂蜥蜴――地竜とも称される獣は茶褐色の天然の鎧というべき硬質な外皮に包まれ、巨大な尾と鋭い牙、爪を持つ猛獣であった。
足こそ馬やラクダには敵わないが、それを補ってあまりある戦闘力を有しており、少なくとも真正面からの戦いでこの騎兵隊が敗れたことは一度もない。
いや、ガルシャーンの軍とはそもそもがそのようなものであった。
人を超えた獣を飼い慣らし、使役することで、真正面から敵を打ち破る正攻法こそを何よりも至上とする。
騎兵を相手には、馬が恐れるラクダをぶつけ。
散兵には素早き猛犬をけしかけ、重装歩兵には巌のような一角獣を。
無数の獣、その力を十全に活かして相手の軍を圧倒する。
「今回使う獣の数を考えれば……そうだな。兵数が逆であったならば、いつも通りの良い勝負となり得たのかも知れぬが」
ガルシャーンが獣を扱うようになってからは、同数以下の相手に対し平野で後れを取ったことはない。
ダグレーン=ナクル=ドーガリネア=ガーカ。
幾度となくガルシャーンの矛を受け止めてきたアルベランの猛将もそれを理解し、ガルシャーンとの戦いを前には常にこちら以上の戦力を揃えてきていた。
だからこそガルシャーンの侵攻を退け続け――しかし今回はそうではない。
「亡国の運命と言うべきか。どれだけ優れた将軍であっても、外交上の敗北を巻き返すことなど出来はしない」
エルスレン、エルデラント。
今回は国境を接する二大国とガルシャーンの間には一時的な同盟が組まれていた。
侵攻において何より難しいのは敵の撃滅ではなく、国防にある。
戦いに勝つだけならば、相手の守りを突破するだけの兵力を送り込めば済む話。
重要なのはその矛を繰り出す体を狙われぬよう、他国からの侵攻にどう備えるか――そして同盟は本来そうして国土全体に割かれる戦力を気兼ねなく、こうして戦場に投入することを可能にする。
防衛戦力をそのまま侵攻兵力として運用できるという強みは、兵法を学ばぬ子供であっても理解が出来るだろう。
一人に対し、二人で殴りかかればどちらが勝つか。
そんなものは兵法というより自然の摂理で、戦場における単純明快な一つの真理。
無論戦は単純なものではない。
一人の天才が優勢なる無能を打ち負かすこともないではないが、ガルシャーン軍を率いるのは王家に生まれながら民衆の側に立ち、これを打ち破った戦神オールガン。
敗北など起こりようがなく、これから始まるのは予定調和の結末であった。
そしてガルは左を見上げる。
ガルのいるガルシャーン右翼の戦列、その先頭には肩高二十尺。
長い鼻と牙を持つ巨大な獣――六十の勇ましい戦象が並んでいたがしかし、中でも左翼寄りにある一頭だけが異彩を放っていた。
本来灰色の肌は青く染まり、身の丈は並の象からすれば倍もあるだろうか。
もはやそれは動く砦というべきで、その巨大な足は馬を蹴り飛ばすのではなく踏みつぶすだろう。
長い鼻を左右に振るだけで鎧を着込んだ戦士を薙ぎ払い――これを前には戦列など無意味であった。
繁殖の過程で、偶然ガルシャーンに生まれた魔獣、アルカザーリス。
『全てを蹂躙するもの』と名付けられた化け物は背中に巨大な櫓と兵士を乗せ、その瞳は小石でも見るかのように、眼前の全てを睥睨する。
「……どうあれ、アルベランとの戦いはこれが最後であろう」
「ええ。……この一戦にあなたの側で参加できたこと、何よりの栄誉に思います」
「くく、死にに行くもののような言葉だな」
ガルがそう苦笑したときのこと。
兵士達からざわめきが起き、ガルはその視線の先へと目を向ける。
象の上に座り、こちらから中央へ向かうのはオールガンとその片腕、双剣のザルヴァーグ。
そして向こうからは象から見れば子犬のような馬に跨がり、ダグレーン=ガーカ。
それから――
「……あれは、翠虎か?」
「私には、そのように見えますが……」
翠の体毛――虎にしても巨大な体躯。
長い尾を左右に揺らして悠々と歩いてくるのは翠虎であり、そしてその上に横乗りになるのは少女であった。
銀の髪、黒い外套。
遠目にも少女とわかる何者かは、決して人には慣れぬとされる魔獣の上に座っていた。
「……王国のアルベリネア。クリシェ=クリシュタンドが乗騎は翠虎だと聞いてはいたが、冗談などではなかったようだな」
ガルは唸るように言って、目を細めた。
ダグレーン=ガーカと共にアルベラン軍の指揮を執る、中央からの増援。
数多くの噂をその身に纏わり付かせた、王家の忌み子。
常軌を逸した天才であり異常者であると、彼女のことは遠くガルシャーンにも伝わっている。
あの無敗の将軍アウルゴルン=ヒルキントスを容易く破り、黒獅子ギルダンスタインすらを手ずから討ち取り内戦を終結させ――美しき少女でありながら剣腕に優れ、討ち取った首級は数知れず。
アルベランへの侵攻が早まった原因もまた、古竜ヤゲルナウスと盟約を結び、王都へ招いたという彼女にあるとされていた。
どれも眉唾物の話であったが、このように堂々とした姿を見せられれば、それらの噂を全くの嘘と断じることも出来なかった。
見た目で他人を侮るほどガルも若くはない。
鍛え上げたその肉体と技には自負もある――だが同時に、若くして己を上回る才覚者などいくらでもいることを知っている。
それは直感的なもの。
遠目に映った少女の姿に覚えたのは、得体の知れないものに対する恐怖心であった。
少なくとも並の相手などではないと、本能が訴えている。
アルベラン軍は幾度となくガルシャーンの侵攻を跳ね返してきた名将ダグレーンを差し置いて、中央に彼女を据えた。
政治的な都合か、あるいはそこに何か戦術的な意味合いがあるのか。
どうあれダグレーンほどの脅威にはなるまいという見方がガルシャーン軍には強くあった。
それ故クリシェ=クリシュタンドに対する中央は圧力を掛けるに留め、圧倒的優位となる左翼にてアルベラン右翼を打破、ダグレーンを早期に討ち取るべきであると誰もが声高に叫んだ。
ダグレーン=ガーカはガルシャーンに取って、そしてその総大将オールガン因縁の相手である。
仮にそれが戦術的な悪手であっても、武人にはそれ以上に重視すべきものがあるものだ。
この戦はアルベランとの長き争い、その幕引きを兼ねるとオールガンは兵士達にも説いている。
戦術的な都合がそこに加わるならばこれを選ばない手などはなく――しかしガルシャーン軍の総大将オールガンは幾度となく刃を交えたダグレーンではなく、むしろアルベリネアにこそ重点を置いた。
その異質さが醸し出す空気、不可解な主の行動――それらを含めた全てが、ガルにクリシェ=クリシュタンドを侮るべきではないと告げていた。
「……エルケ、予定変更だ。敵の突破を最優先とする」
「突破、ですか?」
「突破だ。単なる勘というべきものだが、どうにもあのような手合いと噛み合うことは得策ではないように思える。旗手に伝えろ」
「は」
象と共に最先頭を走ることになる地竜騎兵にはある種の自由裁量が与えられており、役割は基本的に象兵の補佐であり代替であった。
敵中を突き進む象兵が乱した敵戦列にその身を滑り込ませ、撹乱、あるいは突破口の拡大を目的とし、彼らは行動する。
今回は無理をせずとも兵力で圧倒している。
敵戦列を乱せばそれだけで良いと考えていたが、それではこの相手に対しあまりに消極的に過ぎるように思えた。
長年戦場に身を置いたものにのみ宿る何かが、ガルに降りて指示を飛ばす。
倍の戦力差を相手に、籠城ではなく平野での決戦を挑んだ理由は何か。
何かしらの奇策はあるのだろうと踏んではいたが、死に際の悪あがきに過ぎぬものであると考え――しかし、本当にそう断じて良いものか。
下手を打てば予想だにしない大きな痛手を被るのではないかと、ガルの心中で警鐘が鳴っていた。
中央では両将の話が終わり、各々の陣へと戻ったところ。
最前列にて叱咤している敵将ダグレーンではなく、ガルは少女を注視する。
何か指示を飛ばす様子もなく、翠虎の上に座ったまま兵士達の前を通り――そして戦列から三日月と髑髏が描かれた旗が突如翻る。
黒塗りの鎧を着込んだ兵士が数名現れ、彼女の側に寄ると一本の槍を手渡した。
彼女はそれを受け取ると、彼らを率いるようにしながら中央――アルカザーリスの真正面で翠虎から降り立ち、くるくると槍を振り回す。
「……勇ましい。将自らアルカザーリスを討ち取る気か」
「私には蛮勇に思えますが」
アルカザーリスの巨体を見て、恐れぬものなどいない。
強靱な外皮は矢のみならず、投槍ですら傷を付けること至難。
歩くだけで地響きを起こし、走れば馬の足を優に超え。
人の如きはアルカザーリスの巨体を前には虫けらであった。
彼女はそれでも怯える背後の兵士を勇気づけるため――そのために先陣を切るつもりなのだろう。
「蛮勇であろうと、称賛されるべき勇ましさだろうよ。随分な若さと聞くが、戦というものをよくわかっている」
戦とは士気。
戦う意志こそが男達を臆病な個人から、軍人という組織部品へ変化させる。
あらゆる戦術や技巧はその上にこそ成り立つものであり、士気とは戦において全ての土台であった。
倍以上の敵に、巨大な獣――それを前にした彼らに対し、どのような言葉を掛けたところで焼け石に水を掛けるようなもの。
望まぬ死を『覚悟せざるを得なくなった兵士』というものは、どこまでも脆弱なものだ。
ひとたび劣勢に陥れば容易く崩壊するだろう。
そういう状況において指揮者に求められるものは、深い知性や戦術眼ではない。
この指揮官のためならばと、そう兵士達に思い込ませるだけの勇敢さであった。
その試みが上手く行くかはともかく、やはり彼女の取った行動は何より将軍として称賛されるべきものであることに間違いはない。
そしてその見かけも良かった。
兜も着けず長い銀の髪を揺らし――少女としての容姿を存分に見せつけるのは、兵士達全てに彼女が守るべき存在であるのだという認識を植え付けるためであろう。
戦場にありながら外套姿とはどのような了見かと思っていたが、なるほど、鼓舞のためならば悪くはない。
自らを象徴として、そのように軍を掌握する人物なのだろう。
「それなりに剣と槍には自負があるのだろう。試み自体は悪くないものだ。……もっとも、最先頭での戦いを無事切り抜け、後方へと逃げ延びられるのならばの話だが」
「見逃す手などありませんな、ビルケース隊長」
「ああ。本気でアルカザーリスに向かうつもりならば、横合いから――」
少女が動いたのはガルがそう告げようとした瞬間だった。
両軍隔てるは一里の距離――そこから少女は踏み込み、加速する。
槍を担ぐように構えていた。
何をするのかは理解が出来、しかしその意図は読めない。
あの距離からの投槍に何の意味があるのか、ガルのみならず、見ていた者全ては眉間に皺を寄せ、
「っ!?」
一拍の後、戦場に響き渡るは破砕音であった。
果たしてそれを、いかなる音と例えれば良いか。
投石機が城壁を粉砕させるような、あるいは張り詰めた果実の弾けるような。
少しして、周囲に鈍い雨音が響いた。
赤い雨に固形物が入り混じり、大地を斑に汚していく。
一瞬ガルの目に見えたのは一里先、少女の手から放たれた何か。
半ば理解しながらも、受け入れられず。
恐る恐ると見上げるように左手、アルカザーリスに目を向ける。
――その頭部があるべき場所には、淫らな花が咲いていた。
なまめかしく、艶やかで、鮮血に染まる肉の花。
白く映るは頭蓋だろう。その内側から血と肉がこぼれ落ちていた。
中央からはめしべの如く、太い槍の柄が突き立っている。
長く巨大な鼻と牙、そしてその巨体が辛うじてかつての名残を感じさせたが――もはやそれが動くことはないのだということは誰の目にも明らかであった。
全てを蹂躙する異形は戦うこともなく、糸の切れた人形のように傾き、崩れ落ちる。
大地が揺れ、地鳴りと共に巻き込まれて死んだ兵士達のものだろう。
数多の悲鳴が響き渡った。
ガルは古びた絡繰りのようにゆっくりと、視線の先を少女へ。
再び翠虎に跳び乗った少女は、喜ぶでもなく誇るでもなく。
まるで簡単な仕事を終えたと言わんばかりにあっさりと、こちらに対して背中を向けた。
随伴する旗手が更に大きく旗を振り回し、側の兵士が声を張り上げる。
一瞬の静寂の後――敵陣から巻き起こるのは天を裂くような歓声であった。
言葉を失うガルシャーンの兵士達とは対照的に、アルベランの兵士達は獣ですら怯えるほどに吠え重ね、手に持つ槍を掲げては捧げるように少女へ向けた。
そしてその兵達によって作られた道を、何事もなかったかのように少女は進み、消えていく。
彼女を知らぬガルシャーンの誰もが、その瞬間に理解した。
天上天下にただ一人、道理をねじ曲げ踏みにじり、そしてそれを許される者。
「……あれが、クリシェ、クリシュタンド」
――彼女こそは王国が誇りしアルベリネア。
人の身でありながら、理に牙剥く怪物であった。