ギーテルンス父娘
――これほど元気な赤子も珍しい。
生まれてくると見ていたものは口々に、そんな言葉を繰り返したらしい。
おぎゃあ、おぎゃあと部屋を満たすは盛大な泣き声。当然記憶などは無い。赤子である。
名付けは兄二人と比べ、すぐに決まったそうだ。
アーネの名は春を司る女神、アーネリュースから。
神々の中では一際華やか、元気で明るい女神であって、雪解けの時期に生まれてきた元気なアーネにはぴったりであったのだという。
ハイハイを覚えてからは一人で屋敷中を這いずり回り、立てるようになってからは屋敷を飛び出し近所の人に連れ帰られ。
アーネはすこぶる元気、実に好奇心旺盛な子供であったという。
行動力有り余り、お転婆娘なアーネには早めに何かをさせた方が良い。
両親はそのようなことを考えたらしく、礼儀作法やヴァイオリン、学問等々色々な家庭教師を付けたものの、窮屈な生活である。
遊び回りたいアーネとしては不満しかなく、学習意欲も高まるはずもない。
今となっては両親の理屈もわかるが、子供は子供としてもう少し伸び伸びとさせてみるべきであったのだとアーネは思う。
二人の兄は確かに優秀であった。
それと比べるのは仕方ないにしろ、それでも人並み程度のことは出来ていたのだ。
やはりもう少し長い目で見るべきであっただろう。
そうした実に厳しい生活の最中、ある日屋敷に訪れたのは一人の吟遊詩人であった。
退屈で窮屈な日常に舞い降りた娯楽。
数日滞在する間、アーネは彼から何度も繰り返し物語をねだった記憶がある。
中でも特に好きだったのは、姫と使用人の物語であった。
心から愛する使用人を、邪悪な母の手によって奪われ、復讐する――物語の筋書きはそのようなもので、恐らく吟遊詩人の語りも良かったのだろう。
邪悪な教育を施そうとした母の手から、その使用人は姫を守ろうとするものの力及ばず殺されてしまい。
それを知った姫は激怒し、ただその使用人への愛ゆえに剣を取り。
悲恋ものというべき内容で、終わりも悲しく、わんわんと泣いた。
今でもその物語を考えると涙が滲んでしまうほどに記憶に残る話である。
アーネが使用人というものに憧れのようなものを抱いたのはそれからのこと。
礼儀作法の勉強には力を入れ、暇があっては屋敷にいた使用人の手伝い、多くを学ぶ。
『アーネ、その、なんだ……お前がやる気を出してくれるのは嬉しいが、その……やはり自分の屋敷で使用人の真似事というのは……』
『いえ、お父様。やはりわたしもまだまだ未熟。外に出てから迷惑を掛けるよりも、こうして親元で甘えさせてもらえる内に多くの失敗を学んでおいた方が良いと考えたのです。最近は失敗も減り、ちゃんと進歩が!』
『ま、まぁまぁアルゴーシュ。よくわからないけれど、折角アーネが将来の勉強にとやる気を出してくれてるんだもの。水を差しちゃ……た、確かに最近はそんなに失敗もないし、頑張ってるわ』
『う、うーむ……』
雑草と間違え父の菜園からハーブを引き抜き、絵画を乾拭く。
壺の模様を汚れと勘違いしてつるつるになるまで磨きあげ――最初こそは多くの失敗を重ねたが、その失敗を糧にしながら数年を掛けて多くを学び、些細な欠点こそあれど一通りの事がこなせるようになるまで成長した。
『先方には面倒を見てくれるよう頼んであるが、王領は陛下のお膝元だ。くれぐれも浮かれて滅多なことをしないように。王領の屋敷は多くの方がいらっしゃる。もしかするとお前を気に入ってくださる方も――』
『はいっ、立派な使用人を目指します、お父様!』
『いや、使用人は目指すべきものではなくてだな……』
『お任せください! きっとお父様のご期待に応えます!』
『ま……まぁまぁアルゴーシュ、こういうのは自然に……わたしとあなたもそうだったじゃない。アーネはこれでいいのよ』
『う、うーむ……』
そしてその努力を認められ、両親に背中を押されるように王領へ。
それまでの努力もあってか、そこでの生活にはそれほど不便はなく。
ちょっとした退屈さすらを覚えてしまったのはきっと事前に多くを学びすぎたが故だろう。
客人を迎え入れては世話をして、華やかさこそあれど代わり映えのしない生活。
王領でのルールを覚え、生活に馴染み――その生活は悪いものでは無かったものの、ぬるま湯に浸かるような感覚があった。
流石に王領。
皆立派な使用人ではあったがしかし、これは、と思える方とは出会えなかったのだ。
アーネが考えていたような理想の使用人としての生活とも違う。
やはり憧れは憧れ、物語は物語。
そんな風に諦めを抱いて生活していたある日のこと――
『クリシュタンド辺境伯をここでお迎えするそうよ、アーネ。王都にいる間はこのお屋敷に、ですって』
『……それは珍しいですね。クリシュタンド辺境伯……』
『知らないなんて言うんじゃないわよね?』
『もちろん知ってますっ、ギーテルンスは同じ北部なんですから』
数々の武功を挙げた王国の英雄、ボーガン=クリシュタンドを知らないものなど北部にはいない。
元は男爵であったか城伯であったか、下級貴族から一代で武官の頂点とも言える辺境伯の爵位を得るに至った生粋の武人。
今は王国北部の将軍として軍を指揮し、先日の戦では神聖帝国の大侵攻を防ぎ更なる手柄を挙げたのだという。
平民や若手の貴族に人気が高い方ではあった。
しかしこうして王領の屋敷に宿をと割り当てられることは珍しい。
王領は文字通り王の庭。
一時的な着替え場所程度に屋敷が用いられることはあっても、寝起きを許されるのは他国の賓客か王族に名を連ねるものくらいで、辺境伯とはいえ単なる一貴族が宿泊を許されるというのは滅多にないこと。
それだけの武功であったのかと考え込んでいると、
『……どうにもあちらの方から直接、そのように計らうよう命じられたみたい』
『なるほど……』
耳を寄せた同僚は王城を指し示し、小声で告げた。
つまるところ王家の人間の命ということだ。
『いつも以上に粗相のないようになさい。特に使用人のアルガン様は辺境伯夫人のようにもてなすようにとオーザル様から言われているわ』
『使用人を奥さまとして?』
『そう。有名な話だけれど知らないの?』
『えと……全く』
『あのね……』
クリシュタンド辺境伯は数年前、奥方を亡くされていた。
名声止まぬ大貴族である。
そうなれば当然あちこちから新たな妻にと縁談話を持ちかけられ――しかしクリシュタンド辺境伯はそういった話を全て断り続けているらしい。
妾がいるわけでもなく、子が娘と養女がいるのみであることを考えると不思議な話であった。
別段女が当主となることも珍しい話ではなかったが、とはいえそういうものは兄弟が死んだなどというような、やむにやまれぬ事情があってのもの。
出産で死ぬ恐れのある女が家を継ぐことはあまり好ましくはないし、直系の男児を残すため新たな配偶者を望むというのは普通のことである。
こういう場合は縁談か、あるいは使用人から新たな相手を選ぶというのが一般的であったが、こうなると的も絞られる。
クリシュタンド家はどういう事情か、その大きさにも関わらず使用人はただ一人――その亡くなられた辺境伯夫人の妹のみ。
二十半ばであるが、しかしどこかに嫁いだ出戻りというわけでもなく、先の辺境伯夫人に似てお美しい方であるという話である。
それらの事情を考えると恐らくはその妹が姉に代わり、折を見て辺境伯夫人となるのではないか――そのように貴族達の間では噂されているらしかった。
『……そういうことには本当、随分詳しいですね』
『あのね、こういう情報を知っておくことも仕事の内よアーネ。噂話に興じるというのは別に単なるおさぼりってわけじゃないの』
ゴシップを楽しむ普段の同僚の姿はどう見てもサボっている以外に表現出来ないものであったが、それはともかく。
気を付けなきゃだめよ、と彼女は続ける。
『クリシュタンドみたいな大貴族の家に唯一の使用人だなんて、多分きっと、すごく気難しい方よ。びっくりするくらい嫉妬深い方かも』
『……なるほど、確かに』
真っ当な考えならば、屋敷に使用人一人などおかしなことだ。
膨大な屋敷の仕事。
その維持管理を一人でなどそうそうできるはずもないし、普通は他の使用人を入れるもの。
クリシュタンド辺境伯が極度の吝嗇家というわけでなければ、それでもあえて使用人を入れない理由は恐らく、その方に理由があるのだろう。
人嫌いな方、ということも十分にあり得るし、主人に色目を使われるのを強く嫌う方という事もあり得る。
――果たしてどのような方がいらっしゃるのか。
アーネは緊張しながらその日を待ち。
『そう緊張なさらないでください。クリシェ様はお作法をあまり気にされない方ですし、わたしもそうです。いつも通りで良いのですよ』
ある種、それは一目惚れと言えるものであっただろう。
銀の髪の美しい、幻想的なご令嬢と――赤毛の艶やかな、どこまでも優しげな使用人。
立ち居振る舞い優美で可憐。
包み込まれるような雰囲気と、どこか儚げな美しさを併せ持ち。
その日出会った使用人、ベリー=アルガンはまさに、アーネ=ギーテルンスが思い描いた理想の使用人、そのままの姿であった。
「――その日からわたしは、アルガン様のような素晴らしい淑女、使用人を目指しているのです、お父様」
「そ、そうか……」
様々な混乱も少し落ち着いたところで、クリシュタンドの厚意もあり、屋敷の一室でアーネと対面していたアルゴーシュ=ギーテルンス。
愛娘から『アーネ=ギーテルンスのこれまでと、これから』なる話を延々と聞かされ、目頭を押さえていた。
無論感動ではなく疲労からである。
何をどこでどう間違ってしまったのか。
娘は何やらよく分からない方向へ向かってしまっており、どうしたものかと頭が痛かった。
アルゴーシュは何も、娘を理想の使用人へと成長させるためアーネを王領へ送り込んだわけではない。
息子は二人とも無事結婚し、孫も生まれて順風満帆。
後の気がかりはアーネだけ。
個人的には王領で良い相手と巡り会い、どこかの家に嫁いでくれるだけで安心出来たのだが、しかしその様子すら欠片もなかった。
相手が仮に貴族でなくとも、商人庭師の類でも構わない。
娘を幸せにしてくれるのならばそれで良いと思っていたのだが――アーネの口から色気のある話は全く出てこず。
はぁ、と深くため息をついた。
ベリー=アルガンという使用人が確かに、女性として尊敬出来る素晴らしい使用人であるという彼女の言葉は理解できなくもないが、とはいえ、それとこれとは話が別。
貴族としてではなく一人の親として、娘の将来を危ぶむところがあった。
「こうして今は、アルガン様も女王陛下から厚い信頼を抱かれる王国一の使用人……そして今はわたしも普段は女王陛下のお側付きとして働き、やはり、わたしの直感は間違っていませんでした」
「……お前の言い分はよくわかった。そこまででいい」
娘の淹れた紅茶を飲みつつ、アルゴーシュは手を振った。
蜂蜜が小さじ一杯も入っていない、ほとんどそのままの紅茶。
恐らく甘いものが好きではないというアルゴーシュに気を使ってのものだろう。
流石に紅茶には多少の甘みが欲しいものだが、そんな行き過ぎた気遣いに、昔と変わらない娘の姿を感じながらアルゴーシュは告げる。
「しかし、アーネ。本当にそれでいいのか?」
「……?」
「そうだな……そろそろお前も、結婚などを考えてはどうかと私は思うのだ。良い相手などはいないのか?」
「良い相手……」
アーネはきょとんと首を傾げ、黒髪を揺らした。
「私はお前を幸せにしてくれるならどんな相手でも構わないと思っている。貴族でなくても歓迎しよう。どうだ? 気軽に言ってみるといい」
「……うーむ、今のところはそのような方も」
まさかそのようなことを聞かれるとは思っても見なかった。
アーネの顔に浮かんでいるのはそんな表情である。アルゴーシュもよく知っていた。
華ある美人と言えないまでも、母に似て可愛らしい顔立ちをしているものだが、浮いた話の一つも無いのはどうした訳か。
アルゴーシュには甚だ疑問であった。
「王領ではそもそも忙しい日々を送っておりましたし、今はより……やはり使用人として働く以上そのような不純な動機を抱いていては――」
「そうか。……私が悪かった」
そもそも娘を使用人にするのは、縁を繋いで嫁ぐことを目的としたものであるが、アーネのいう建前としての使用人の在り方は決して間違いでも無い。
彼女の妙に真面目なところはアルゴーシュも知っている。
それが悪い方向に出てしまったのだろう。
彼女の母も似たところがあったと思い出し、嘆息する。
使用人として自分を磨く。それ自体は悪いことではない。
彼女の母も昔はギーテルンスの使用人。
どこか抜けているものの、その真面目さや、穏やかで優しい人柄に惚れ込みアルゴーシュが求婚し、夫婦となり――そんな結果を思うのならばやはり悪くはない。
だが彼女がいるのはクリシュタンドである。
当主セレネ、女。
妹クリシェ、女。
使用人、女二人。執事無し。
女所帯で男の匂いがしないクリシュタンドで相手を見つけるのは不可能であるし、あるとするならばその客人からとなるだろう。
しかしここに至って問題は、アーネが普段畏れ多くも女王陛下の側で仕事を行なっているというところ。
それ自体は栄誉あることだが、女王のお側付き――に見えるアーネに声を掛けようなどという、勇気ある貴族は常識的に見ていないだろう。
クリシュタンド自体、あまりに格が高くなりすぎて、外部の者がその使用人に声を掛けるということ自体なかなか難しい。
娘の将来的な結婚は危ういところにあるように思えた。
ただでさえ、王族の側付きというのは結婚することが難しいもの。
そのような役目にある女性が生涯独り身で過ごすことも稀なことではなかったし、この先アーネもそうなる可能性が十分にある。
「そういうことならばアーネ、許しを得て一度、家に戻ってきてはどうだ?」
「ピールスにですか?」
「ああ。女性として見習うべき相手を見つけ、自分を磨きたいという言い分はわからんでもないが……このままでは出会いもなかろう。将来的に、結婚することについてはどう考える?」
「……結婚」
アルゴーシュは頷き、彼女の目を見て告げる。
「そう、例えば母のようになりたいとは思わないか? お前も子供は好きだろう、自分の息子や娘を見てみたくは?」
「お母様は尊敬していますし、確かに子供も好きです。……一切そういう気持ちがないと言えば嘘にはなるかもしれませんけれど……」
「縁談ならばいくらでもあるし、私も良い青年を何人も知っている。一度彼等と顔を合わせてみるのはどうだ?」
うーん、と困ったようにアーネは首を傾けた。
「わたしはアルガン様に比べればまだまだです。いずれ追いつける日が来るかも怪しく……けれどそんなわたしでも今は、ここでありがたくも必要とされていると思えるのです。使用人は僅か三人、いかに素晴らしい使用人であるアルガン様とは言え、体はお一つ。女王陛下のお側に付きながら、セレネ様、クリシェ様のお世話はできません」
クレシェンタの側には必ず、使用人が一人はついていなくてはならない。
それで手を奪われる上、屋敷のことやちょっとした雑務――本来十数人でこなすべき仕事を三人、というよりほとんどベリー一人でこなしている状況。
これ以上ベリーに負担を掛けるわけにもいかない。
「お父様のお気遣いは嬉しいのですが、そういうところはひとまず置いておいて……」
「そうは言うが、このままだとそう言っている内に行き遅れることになりかねんぞ。お前が王領に行ってからもう何年になる?」
「……五年くらいでしょうか」
「そう、月日などあっという間のものだ。お前も二十過ぎ……そろそろそういったことも考える年頃だろう。頑固なお前のことだ、また前のように喧嘩をしたくもない。無理強いはせんが……しかしこの辺りで一度、改めて考えてみなさい」
そんなアーネにアルゴーシュは言い、部屋を見渡す。
大貴族の――また、女王陛下の過ごすにも関わらず、調度品は最小限。
華美ではなく、立場を考えれば質素にも見える部屋だった。
「女王陛下もクリシュタンドの方々も、お優しい、貴族としても素晴らしい方々だというのは私も理解しているし、お前がこうして気に入られていることも嬉しく思う。ギーテルンス家の当主としては、どうあれお前がこうして働いていることを誉れ高い」
「っ、……お父様」
「だが父として、できる限りの幸せが娘にも訪れて欲しいとも思うのだ。このまま行けば、王国の使用人として生を終えることもあり得るだろう。……もちろん、今は王国の情勢から見ても慌ただしい時期、すぐにとは言わんが……わかってくれるな?」
こくりと頷き、アーネは途端に目を潤ませて袖を拭う。
「……何を泣いているのだ、馬鹿者」
「お、お父様がわたしにそんなことを仰ってくれるだなんて……」
「何を言うか。小言も当然言うが……お前のことを放っておけないのは、何より可愛い私の娘だからだ」
アルゴーシュは立ち上がると苦笑し、震えるその頭を優しく撫でた。
「お前が王領を辞めたときに怒ったのも、お前が心配だからこそ。何より、今こうして元気にやっていることは嬉しいと思っているよ。しかし人間欲が出るもの、元気な姿を見ればその次をと求めてしまう。……これから先、どのように生きるか。もう一度よく考えてみなさい」
「……はい、お父様」
アーネは大好きです、などと言ってアルゴーシュの胸に顔を押しつけ、服を濡らし。
喧嘩別れをした娘との和解に、アルゴーシュの眼にも込み上げるものがあった。
必死でそれを堪え、目頭を押さえる。
妙に感動しやすく涙もろいところは、アルゴーシュも自覚する無数の欠点の一つであった。