もてなし
食事会に使われることになったのは食堂ではなく応接間であった。
中にあったソファなどを一旦別の部屋へと移し、冷たい床板に隙間なく絨毯を。
今日はクレィシャラナに合わせ、直に床へ座っての食事をすることになっていた。
歓迎を示すならばやはり、まずは向こうの文化に合わせてみるべきではないか、というのはベリーの言葉。
クレシェンタは何でも良いとのことで、その提案が全面的に採用され、料理もどちらかと言えば繊細なものというよりは田舎料理のようなものが多い。
これは外せないとカボチャのスープは当然。トロトロになるまで牛肉を煮込んだシチューに、アーナから取り寄せた魚や貝などを使った塩ベースのあっさり海鮮スープ。
鶏の丸焼きは丸三羽である。
昨晩から香草や塩で漬け込み、焼く際には丁寧にバターを表面に。
飴色の光沢を放つ鶏は宝石のようで、それはもはや琥珀が如く。
その腹は鮮やか、色とりどりの具材が孕まされ、華やかな香りが内側からも漂った。
油の乗った骨付きのもも肉がその飾り付けのように円を描いては皿に並ぶ。
パンに挟んで食べるように、チーズやベーコンと言った具材も平皿に山盛りにされ、鶏に豚、羊に牛と様々な串焼きも針山のように並べられ。
――まさにこれは戦士の宴。
いっそ原始的に見えるほどに肉尽くし。
野菜はスープで取れと言わんばかりで、サラダが申し訳程度に花を添えるが、やはりこれらの主役は肉であった。
「わぁ……すごい……」
エルヴェナに案内されたリラは思わずといった調子で声を上げ、恥ずかしそうに口を覆う。
それに続いたヴィンスリール、戦士達もまた、驚きを目に浮かべた。
女王に招かれての食事会。それも女王自ら包丁を握るのだという。
果たしてどれほどお上品な品々が出てくるものか――そんな不安は一瞬で吹き飛び、部屋に充満する肉の熱気に唾液が滲んで腹が鳴る。
凄まじいまでの調理技術の差がそこにはあったが、それらはクレィシャラナの宴で食べられるものと近しいもの。
一面に絨毯が敷かれ、置かれているのは背の低いテーブル――それも椅子を使わず直に座って食事をする自分たちへの配慮だろう。
既に女王すらが床に腰を下ろしていた。
王国の人間が椅子を使う文化であることくらいは重々承知しているし、床へそのまま腰を下ろすということが彼らの中で『品のよろしくない』ことであるというのは理解している。
それを大国の長が自分たちに合わせて行うのだ。
歓迎という意味ではこれまで立ち寄ったあらゆる貴族のそれとは違い、それはまさに心よりの歓待と言えるものであった。
ここまでの旅は案内人の努力のおかげで悪くないものではあったが、不愉快がなかった訳でもない。
格好の問題もあるだろう。
毛皮を着込んで歩き回るクレィシャラナの人間に対し、好意的な視線を向けるものは少なかったし、口では歓迎すると言いながら不潔なものを相手にするように侮蔑を向ける貴族もいた。
王国に取ってみれば、クレィシャラナは単なる蛮族。
山で暮らす田舎者の野蛮人でしかない。
もちろん、自分たちが彼らに心から歓迎されるなどと最初から思ってはいなかったし、いっそそれでも構わないと思ってもいた。
クレィシャラナが忠誠を向けるは竜の盟約者――クリシェであって王国ではなく。
彼女が暮らす国であるから断交状態は解消すべきというだけで、王国自体と友誼を結ぶかどうかなどは必要不可欠なことではない。
クリシェ一代限りの付き合いとなっても構うことはない。
そう思うものも多くいたし、この中にも当然、そうした者がいる。
とはいえ謁見の間でのことや、この歓待を見れば彼らの印象もまた少し異なったものになってきていた。
少なくとも謁見の間で告げた女王の言葉には嘘はないと、それを証明するような配慮と気配り。
この国の女王は彼らのようなものとは違うのだろう。
左隣のクリシェに肩を寄せ仲睦まじく座る様子も、謁見の間で見た姿ともまた違い、どこまでも純真可憐な少女に見えた。
その雰囲気の柔らかさは意図的なものに違いない。
この場は堅苦しいところのない単なる食事会であると、そう暗に伝えているのだ。
彼女の右隣に座るのもまた少女と言うべき見かけで、輝く金の髪とはっきりとした美貌。
彼女は邪貌の老人ともう一人、長髪の老人二人と会話をしながら、こちらを認めて軽く会釈をした。
クリシェの更に左には大柄な体躯の男――見るからに手練れの武人であろう。
巌のような顔、軍服は張り詰め、ただ座っているだけで威圧感がある。
並の戦士ではあるまい。
男は観察するように、睨むようにこちらに目をやり、
「にゃんにゃん、目つきが悪いですよ。なんでお客さんを睨んでるんですか」
「い、いやですね……戦士の本能と言いますか」
などとクリシェに小言を言われていた。
戦士たちはリラとヴィンスリールを先頭に一人一人奥から詰めるように席へと案内され、座り。
そうして全員が着席したところでクレシェンタが両手を打ち鳴らした。
立ち上がるとまずは宴の挨拶。
一人一人に酒が注がれたのを確認すると儀礼的なものは簡単に終わらせ、酒杯を持って掲げてみせる。
乾杯には細かい違いがあるものの、基本的なところは同じであった。
杯を交わす仕草を行い、果実の絞り汁がたっぷりと入った酒とも言えぬそれを飲み干し、そして女王――宴の主催者がそうすれば、他の者が続かぬ道理はない。
戦士達も勢いよく酒をあおり、クリシェだけがちびちびと舐めるように酒を飲みながら、その様子を眺めた。
流石に宴の始まりは様子見と言った様子。
料理の感想などを述べながら、王都までの旅話。
戦士達に囲まれつつ、末席でなんとも居心地悪そうにしていた案内人アルゴーシュ=ギーテルンスはその話に内心びくびくとしながら、味のしない酒を飲んでいた。
彼らの案内人であるし、アーネの父親。
ついでに誘ったらどうだろうかとクリシェが提案したおかげで、彼も女王主催の宴に参加を求められ、表面上は貴族らしい堂々たる笑顔を浮かべつつも背中で冷や汗を掻いていた。
侯爵ではある。
彼の貴族としての地位は決して低いものではないが、実際的には田舎の一地方を管理運営する貴族――要するに地方役人の長に過ぎない。
国と政治を動かす王都の貴族とは根本的に異なるものであるし、可能であるならば自分の任せられた領地でひっそりと暮らしていきたいというのが心情。
ギーテルンスが長く平和に血脈を受け継いで来られたのは、王宮に関わらず、政治と無縁であり続けたからだ。
そんなアルゴーシュにとって、女王の宴に招かれるということ自体、胃が痛い。
「気候も生活も違い、確かに不便はなかったと言えば嘘になりますが……しかし、ギーテルンス殿のおかげで不足なく。寒さを甘く見ていた我々のために毛布を手配し、分厚い天幕を用意し……食事や身の回りのこと、何から何まで世話になりました。彼がいなければこうも楽しい旅にはなっていなかったでしょう」
リラやヴィンスリールはアルゴーシュをひたすらに持ち上げた。
感謝してくれているというのは事実なのだろう。
アルゴーシュの主君たる女王クレシェンタに彼の功績を重ねて伝え、是非に労ってくれと言わんばかりである。
クレシェンタは赤に煌めく金の髪を揺らしつつ、紫の瞳をアルゴーシュへと向ける。
「そうですの。正式な案内人でないにも関わらず良くやってくれたみたいで何よりですわ、ギーテルンス侯爵。後で褒美を与えなければいけませんわね」
「っ、は! 女王陛下の臣として、当然のことをしたまでであります、女王陛下。自らの役目を果たしたまでのこと、特別のご配慮などは過分にございます」
「クレィシャラナはアーナと並び、王国の友となる方々。そんな方達にこうまで称賛されて、わたくしが何も与えないというのは品性を疑われますわ。遠慮せず素直に受け取ってくださいまし」
なんとも美しい微笑であった。
有無を言わさぬ覇気と言うべき何かがその小さな体からは発せられている。
あるいは、それが王者の風格と言うべきものなのか。
生まれながらに人の上に君臨する、そうした人間のみが持つ形のない何か。
容姿は美しいものの、子供と言うべきで――しかし少なくとも、彼女が王国を統べる女王であると聞いて疑うものはいないだろう。
彼女はそういう不思議な雰囲気を纏っていた。
「王国北西部に華やかさはないですけれど、あなたがしっかりと領地を見守っている事は知っていますわ。税収もあなたの代になってからは年々微増――街道整備を行ってから随分と調子がよろしいようですわね。……今は畜産に力を入れようとなさっているようですけれど、進捗はどうなのかしら?」
アルゴーシュは硬直する。
女王はまるで資料を見ながら話すようであった。
北西部は王国でも田舎と言え、目立った特産品などもない。
確かに新たな産業として畜産に目を向けていたが、未だ専門家を呼び適当な土地を調べ終えた段階――実際的には何も始まっていない状況であった。
国には季節ごとに報告書を送っているが、ほとんどが数字の羅列。
少なくともそれは女王がじっくりと目を通すようなものではないし、数字をそういう目的で精査でもしなければ、アルゴーシュが何をやろうとしているのかなど見当を付けられるはずもない。
アルゴーシュが宴に来ると知って、わざわざ調べたとも考えにくい。
彼の参加はついさっき決まったようなものであった。
ふとアルゴーシュは女王の隣――骨付きのもも肉を齧りつつ、こちらを見る銀髪の少女を見た。
竜の盟約者、内戦の英雄。
共通点は、年齢にそぐわぬ能力と、宝石のような紫色の瞳。
――この女王は王国全土の財政状況やその細かな動き、それら全てを把握しているのではないか。
疑念はもはや確信に近かった。
「い、今のところは順調に……適した候補地いくつかが見つかり、畜産家を誘致しているところです。まずはそこを起点に、ゆっくりと広げていこうかと」
答えつつ、王国へ送られている資料にまずいところはないかと必死で探る。
ないはずだとは思いながら、どうにもこの相手には胃が痛い。
「そうですの。上手く行くことを願ってますわ」
彼女は王国女王クレシェンタ――雲の上の存在なのである。
気まぐれ一つで自分の首が飛ぶ相手であることを思えば、やはりそこには緊張しかなかった。
「今後北西部はクレィシャラナとの窓口ともなりますし、あなたの下に何人か貴族を行かせましょうか。やろうとしていることに対して、人員も少ないように感じますし……あまり無理をなさらぬよう」
「っ、は。そのご配慮、心より感謝いたします女王陛下……」
「あなたみたいに優秀な方が過労で倒れてしまっては困りますもの。王国の損失ですわ」
アルゴーシュは座ったまま深く頭を下げて礼を言い、クレシェンタの後ろにいたアーネは彼女に許可をねだると、激賞される父の姿に感動したように小走りに。
父の側に行ってワインピッチャーを構えた。
「ささ、どうぞギーテルンス侯爵」
「……お前は、全く」
嬉しそうに満面の笑みを浮かべた娘の姿に嘆息しつつ、酒を注がれ。
彼女に言いたいことは山ほどにあったが、ここで上手くやれているというのは事実であるらしい。
元気そうな姿にひとまず安堵し、アルゴーシュは微笑む。
外交的な意図を多分に含めた食事会ではあったが、開始してしばらくはどちらも本題を避けていた。
食事が非常に美味であったことも理由だろう。
そうしてほんの少し酒も入り、皆の舌が軽やかになった頃――ガーレンとエルーガの視線を受け、切り出したのはヴィンスリールと話していたコルキスであった。
「しかし、いかに戦士の国とは言え随分な手練れの数。クレィシャラナでも選び抜かれた精鋭と見えますが……ヴィンスリール殿、これはどういう?」
単なる使者にしてはあまりに数が多い。
まさか空を飛べるグリフィンに跨がりながら、賊に襲われるなどと警戒したわけではあるまい。
コルキスの言葉に空気が変わる。
戦士達は声をひそめ、ヴィンスリールは微笑を浮かべた。
「どうにもやはり、アーグランド殿のような一目でそうとわかる武人にそのような言葉を使われるのはどうにもむず痒いものがありますね。普段通りのもので構いませんよ」
コルキスはクレシェンタに目を向ける。
「今日は単なる食事会ですもの。ヴィンスリール様がそう仰るなら、わたくしも気にしません。武人のことは武人同士、あなたに任せますわ」
「は。ありがたく」
座ったまま深く頭を下げ、コルキスはヴィンスリールに再び視線を向ける。
「実を言うと、こういう畏まった口調はどうにも苦手なのだ。礼を言う。しかしそういうことならば、お互いに。客人に対し俺だけが砕けた口調というのも妙な話だろう、ヴィンスリール殿」
「礼を言うのはこちらの方だ。……リラと違って平地の言葉にはそれほど自信がなくてな。どうにもこういう真面目な話となれば、言葉の意味合いを間違えてしまうのが怖い。そう言ってもらえて助かるよ」
「それは良かったが……いやしかし、感心するほど流暢なものだと思うが。俺は他国の言葉など挨拶程度でも喋ることはできんからな、素直に尊敬する」
コルキスは嘆息するように言ってヴィンスリールの酒杯に酒を注ぎ、自分の酒杯にも同じく。
互いに酒杯を手に取り打ち鳴らし、コルキスは視線で促した。
「クリシェ様より、王国は他国の侵略を受けること免れない状況にあると聞いたが……実際の所は?」
「聞いたとおりで間違いない。東西南、それぞれ国力のそう変わらぬ三つの大国から狙われている状況だ」
コルキスは言って、酒で舌を湿らせる。
「恐らく三国が示し合わせたように向かってくるだろう。控え目にいっても危うい状況には変わるまい。俺は勝利を疑ってはおらんが……」
言いながら視線をクリシェに。
クリシェは酒で頬を赤らめ、そんな話には無関心。
ベリーを自分とクレシェンタの間に座らせようとその手を引っ張っていた。
赤毛の美しい使用人は場の空気を見て困り顔を浮かべつつ、彼女の耳元でだめですよ、もう、などと囁くようにたしなめつつも、最終的には愛する主人に従うように座り込む。
その腕に甘えたように腕を絡ませ、ご機嫌のアルベリネア。
彼女がいれば不安もない、などと語るには説得力に欠ける姿である。
コルキスは目頭を揉み込んだ。
「くく、気になさるな。クリシェ様の実力は理解している」
「はぁ……ありがたいことだ。とはいえまぁ……軍人の中には引け腰の連中もいることは確か。普通であれば勝ち目など無いと思えるほど、状況は劣悪なものに違いない」
酒を煽ると息をつき、それを見たヴィンスリールは彼の酒杯に酒をそそぐ。
コルキスは礼を言いつつ続けた。
「外交の慣習的には恐らく、開戦は半年後と考えてはいるが、早まる恐れはある。雪解けの春頃からは常に相手が動くことも十分にあり得るとして軍備を整えている最中だ」
むしろ高い可能性でそうなる恐れがあったが、理由はこの場で明言はしなかった。
竜が王都に訪れた――その噂は広がり、既に三国にも伝わっているだろう。
開戦の口火を切るための口実としてはどのようにでも扱える。
「なるほど、やはり早めに来ておいて正解……」
ヴィンスリールは顎に手を当て、怜悧な瞳を細めた。
「王国の事情は大体理解している。しかしこれに対し、我々もいきなり全面的な協力を、とは行かない。王国とクレィシャラナの溝は深いもの――こちらには王国との友好を望まぬものも多い」
酒杯をあおり、空になった器を眺めた。
コルキスに語るようにしながらも、言葉はむしろクレシェンタ達に聞かせるものであった。
コルキスは単に切っ掛け作りの役である。
両者がそれを承知していた。
「少なくともこちらでは、クレィシャラナそのものが敵意に晒されるような状況は避けるべきという意見が多数派を占めている。我らが矢面に立つべきではない、と」
「当然ですわね。クレィシャラナに益はないですもの」
クレシェンタはベリーに果実の絞り汁を注がせながら告げる。
既にその言葉で、大体のところはクレシェンタも理解していた。
「けれど窮地にあるおねえさまに対し何もしないというわけにはいかない。……名目は軍事交流や視察とでも?」
ヴィンスリールは目を見開き、それから苦笑した。
クリシェは首を傾げて妹とヴィンスリールを眺め、クレシェンタは微笑む。
「求めるものは参戦への大義名分。あなたたちが相手にするのは王国との交流の最中、クレィシャラナに気も払わず王国へと攻め入ってきた無礼者――そういうことにしたいということかしら?」
「まさに。必要なものはこちらが納得せざるを得ない状況です、女王陛下」
アルベランのため、クレィシャラナの戦士達に血を流させる。
そのことに対しては当然、難色を示す者が多い。
普通の考えであれば静観が妥当――クリシェのためとしても、クレィシャラナそのものの存亡を賭けてまで、この戦争に首を突っ込むなど馬鹿げた行いであった。
しかし物事は損得だけで考えるべきことではない。
「王国へ手を貸すことに対し不服な者はあれど、クレィシャラナそのものが侮られるのであれば話は別。我々がここに訪れたのはその理由作りと言えましょう」
「ありがたいこと……けれど、よろしいのかしら? 折角平和に暮らしてきたクレィシャラナを巻き込むというのはわたくしも本意ではありませんわ」
クレィシャラナの人口は街程度であると聞く。
猫の手も借りたい状況であることは確かであるが、万が一クレィシャラナが滅ぼされてしまうと多少困るところもあった。
魔水晶の採掘もそうだが、将来的には彼らのグリフィン――その繁殖を大々的に王国で行いたいのだ。
そのノウハウが失われてしまうかもしれないというのは大きな痛手である。
彼らの多くが戦渦に巻き込まれて死んでくれれば、クレィシャラナも王国を頼るほかなくなり、その後の採掘という面に関しては多くの摩擦問題が取り払われることになるが、そちらは別に急務というわけではない。
参戦してくれる気でいるというのはこの状況、悪くはない。
だが、いっそ静観してくれていてもいいというのも本心ではあった。
「平和と安寧は尊ぶべきものではありますが、しかしその前に我らは戦士です。武を信仰し、生涯をただその身の研鑽に捧げるもの。……そして聖霊が御前で単身、その武威を見せつけたクリシェ様の勇姿は今もこの目に焼き付いております」
ヴィンスリールは言って、クリシェに目をやる。
「我らの妨害を受けながらその上で聖霊と互角に渡り合い、その盟約者となられた。まさに尊敬に値する、目指すべき武人の姿――そんな姿を見ておきながら、平和と安寧を失うことをただ恐れ、静観するのは我らの在りように反すること。これを見過ごせば我らは戦士としての矜持を失うことになるでしょう」
クリシェは困ったようにヴィンスリールを見て、セレネの方に目をやる。
セレネは呆れたように、諦めなさいと言わんばかりの視線を返した。
「微力ながらこの誇りに賭けて。数こそ僅かなもの、一騎当千とも言いませんが、一人一人が十人の働き、あるいは百人の働きをして見せましょう。ご迷惑でなければどうか、王国と轡を並べ戦うことをお許しいただきたい。そしてこれを今後に続く友誼の証として――クレィシャラナ族長アルキーレンスもまた、それを望んでおります」
ヴィンスリールはその場で頭を下げ、戦士達はそれを見守り。
クレシェンタは内心呆れて彼を見る。
政治的な駆け引きも何もない。
単純明快――頭の中まで筋肉で出来たような武人が舵を任されれば、国はきっとこんなものなのだろう。
「頭を上げてくださいまし、ヴィンスリール様。むしろお願いするのはこちらのほうですわ。控えめに言っても亡国の危機――そんなアルベランに力を貸していただけるというのに、断る言葉なんてありません。……この恩はわたくしの名に誓って忘れませんわ」
とはいえ、自分にとってのみ御しやすい相手であるならば喜ばしいことではあるだろうか。
少なくとも西――エルデラントへの牽制程度にはなるし、クレィシャラナの国力が街一つ程度であることを知らない無知な民衆はその支援を大いに喜ぶに違いない。
腐っても国が一つ、力を貸してくれるという名目は実際以上の効果を生むもの。
兵力としてさしたる期待が出来るわけではないが、気を削ぐだけでも十分に意味があるし、民衆全体の不安を和らげるという点では価値もある。
クレシェンタは姉の勝利を疑っていないが、少しでも姉が楽を出来、戦後の負担が減るならば、リスクも鑑み悪くはないとも考えた。
「ありがとうございます。……とはいえやはり、クレィシャラナは今や小国とも言えぬもの。大きくは動けず、基本的に協力できるのは王国の西――エルデラントを相手にのみ、という形になるでしょう」
「十分ですわ。エルデラントの意識を削ぐだけでも大きな力となりますもの」
アルビャーゲル山から連なる山脈は遙か西まで――エルデラントの北部と接する形となる。
クレィシャラナが参戦するのであれば、エルデラントも後方を脅かされる可能性を考えるだろう。その状況で主攻のみに集中するというのは難しい。
僅かながらの助力、彼らの国力からすればそれで十分に過ぎた。
ヴィンスリールは頷き、
「我々の目的は先ほど言った通り、口実作り」
再びコルキスに目をやる。
「――だが、アーグランド殿の察したとおりだ。ここにあるのはクレィシャラナでも選りすぐりの精鋭。戦の終わりまでをクリシェ様の護衛としてその身に付き従い、その刃として戦うことを目的としている」
ここにあるクレィシャラナの戦士達は皆が志願であった。
クリシェという聖霊にさえ互する武人に対し尊崇の念を向ける者、平地での戦に興味を見せた者、理由は様々であるがしかし、当然ながら皆がクレィシャラナでも最精鋭というべき戦士ばかり。
数こそ少ないが、それだけにヴィンスリールにも自信があった。
「万の兵からなる戦場に対し高々三十騎とはいえ、ここにある皆が熟練のグリフィン騎手。千の兵にも後れを取るつもりはない。……必ずやその役に立てると自負している」
ヴィンスリールは断言し、コルキスは愉しげに笑う。
「あまりに勇ましい言葉だ。しかし妄言には聞こえないというのが何より心強い」
「あなたのような武人にそう評されるのは誉れだ。よければ交流も兼ね、後日手合わせでも願いたいところだが」
「是非もない。むしろこちらから頼もうかと思っていたところだ」
コルキスは言いながら空になっていた彼の酒杯に酒を注いだ。
そして酒杯を合わせ――それを見ていたクリシェが、ベリーの腕に抱きつきながらも口を開く。
「んー……本当にいいのでしょうか? クリシェはやっぱり平和なのが一番だと思いますし、無理をして協力してくれなくても……クリシェも巻き込むのはちょっと悪い気がしますし」
「今となってはクリシェ様のみのため、という訳でもありません。多少の荒療治と言えますが、共に戦うというのは王国との溝を埋めるためにも悪くはない。……今日までの旅を経て、少なくとも私はそう考えました。他の者も同様でしょう」
ヴィンスリールは緊張した様子のアルゴーシュに目をやり、微笑む。
国と国の関係は良いものと言えない。
しかし人間一人一人を見るならばそうではなかった。
些細な心配り、こうした歓待の一つから伝わるもの――それら一つ一つを見ていけば、そうした悪感情もいずれは解消されるだろう。
「身の美しさは聖霊にさえ伝わらん。……国という衣を抜きに、先入観に囚われずに眺めて見れば、こうして酒を交わして笑い合える同じ人間同士。女王陛下の仰ったとおり、クリシェ様は切っ掛けです。……今後の王国とクレィシャラナのため、我々は槍を取ることを決めただけ。クリシェ様が気に病むことはありません」
クリシェはリラに目を向ける。
リラは微笑み頷いて、ヴィンスリールの言葉に追従する。
「兄さんの言葉通りです。……こうしたもてなし一つに心は宿るもの――わたし達はそれを心から嬉しく思いました」
並べられた料理はどれも、ナイフとフォークには慣れないクレィシャラナの者には食べやすいもので、わざわざ椅子をどけては直に座れるよう絨毯を敷き詰め。
当然のようになされた配慮にこそ真実が宿り、大きな価値があった。
「これは巻き込まれたのではなく、王国と共にある未来を望んでのことです。元よりわたし達はそれを決める裁量を与えられてこの場に。……結果としてこのような形となったというだけで、やはりその結果がどうであれ、クリシェ様がそうしてお悩みになることはありません」
「……そういうものなんですか?」
「はい、そういうものです」
納得したような、してないような顔で曖昧にクリシェは頷き、隣のベリーを見つめる。
ベリーもまた、何も言わず静かに頷き、彼女に向かって嬉しそうに微笑んだ。