鑑賞会
人の身丈を遥かに超える体躯の巨獣。
翠の体毛に黒のライン。
おなごの腰ほどもあるその手足は容易に木々を薙ぎ倒した。
跳躍すれば木々の高さを超え、一足で十間を容易に詰める。
足場に使った巨木をへし折り動き回る巨獣の速度――それはもはや常人が反応できるものではない。
薄く積もった雪を撒き散らし、体に当たる枝葉の如きはその体にはなんの障害にもなりはせず。
目を合わせた瞬間に全てが終わる。
一度吠えれば、その声は空にまで響き渡り、聞く者の背筋を凍らせる。
そんな魔獣――翠虎が狙うは、棒を担ぎ、銀の髪を揺らした少女であった。
彼女は身を捻っては木々の細枝を足場にして、襲い掛かる猛獣の突進にさえ怯まない。
劣悪な地形の全てを彼女は使い縦横無尽に跳び回る。
極限まで効率化されたその仮想の筋肉を用いても、翠虎の速度はさらにその上。
しかし彼女は危うげなく、その爪に黒い外套すらを擦らせはしない。
跳び乗った木が根元からへし折られても体勢を崩すことなどあり得なかった。
続く突進を背面跳びによって寸前で躱し、その上でその巨体の上に跳び乗り――
「おしまいです」
――その頭をぽんぽんと手で叩く。
幹と枝がへし折れる轟音がこの場に響き始めて、小半刻ほど過ぎた後のことであった。
翠虎は途端に大人しく身を伏せ、クリシェは肩から棒を降ろした。
「えへへ、久しぶりに走り回れてご機嫌ですね、ぐるるん」
手に持った棒の先、そこに括り付けられた人の頭ほどの肉塊。
紐を曲剣で切り取ると翠虎――ぐるるんの前に落とす。
彼の巨大な顎は丸呑みするように一口でそれを平らげ、満足そうに転がると仔猫のように腹を見せた。
飛び降りたクリシェはその腹の上に腰掛ける。
その顎の裏を手甲で撫で、可愛らし――くはとても見えない魔獣は、にゃあではなく、ぐるる、と、恐ろしげな声をあげながら背中を雪に擦りつける。
「最近は食べては寝てばかりですからね。たまには運動しないと」
ぐるるぅ、と何やら嬉しそうに身をよじる翠虎と、楽しげなクリシェ。
それをやや遠目から眺めていた男達は、半ば怯えたように一人と一匹を見ていた。
ごろごろと寝てばかりであるぐるるんの運動不足解消、というのも一つの目的ではあったが、本来の目的とは別。
魔獣についての説明会であった。
この黒旗特務の訓練場――その茂みの一角に面した場所に集められているのは、セレネの他、アルベリネア直轄の軍団長や大隊長、そして百人隊長達であった。
兵長以下は希望者のみとしていたが随分な人数が集まっており、大きな輪を作るようにして彼等の更に外からその様子を眺めていた。
「さて、ぐるるん……えーと、翠虎という魔獣の能力は大体今見てもらった通りです。この大きさで大量の魔力を使うので跳躍力や運動能力はクリシェよりすごいですし、記録では毎回、翠虎が出る度結構な被害を出しているのだとか。頑張って一人で倒せそうなのはここだとにゃんにゃんと……ベーギルくらいでしょうか?」
これだけ集まっている中でのにゃんにゃん呼び。
もはや諦めたコルキスは嘆息し、周囲を睨み付けるように黙らせながら、口を開いた。
「確かにまぁ、やれないこともないでしょうが……」
コルキスは筋肉で張り裂けんばかりの軍服姿。
クリシェに目をやると呆れたように頭を掻く。
「正直、あまりやる気にはなれませんな。それなりにリスクが高い」
「……アーグランド軍団長のお言葉通り。その上、私程度では運が悪ければ食い殺されるでしょう」
元第一軍団第一大隊長にして現第三軍団長。
ベーギルはコルキスの言葉に追随するように言って、呆れたように両手を広げた。
カルアがその言葉に顔を歪め、唇を尖らせる。
かつてはグランメルドの副官であり、軽装歩兵隊長として長年鍛え上げられてきたベーギルはカルアにとって未だ格上の相手。
自分なら果たしてあれに勝てるかどうかと考えていたカルアは、ベーギルの言葉を聞いて、まだ自分では難しいのだろうと理解した。
色々な事情もあって名前を呼ばれていないアレハも、二人と同様険しい顔をして翠虎を眺めている。
「私も昔一匹討ち取ったことはありますが、当時率いていた百人隊が半壊です。真正面からの戦いではなく、大抵が奇襲であることを考えればやはり、対処は難しいでしょう」
カルアは不満そうであったが、しかしこの場において彼女のように翠虎をどう倒すかなどと考えている人間は少数だろう。
小半刻の戦いでへし折られた無数の木々。
ミアなどは青い顔で翠虎を見ていたし、そして多くはそれに近い反応を見せていた。
魔獣を見たこともなかった大半の者が翠虎と、それを容易くいなしたクリシェに怯え、彼等の思考はその先には進んでいない。
魔獣という尋常ならぬ化け物と、それと戯れる少女。
彼等の思考を止めてしまう程度には、その衝撃はあまりに強い。
「聞いての通り。この軍ではそこそこ強い方のにゃんにゃんとベーギルでもこんな感じです。この中に自信がある、という人がいたとしても、二人と同じような意見になるのではないでしょうか」
クリシェはとりあえず視線が集まっていることに満足しながら指を立て、続ける。
大半の者が衝撃から立ち直れてはいなかったが、クリシェはそうした感情の機微には疎い。
呆然と自分と翠虎に向けられる視線――話をきちんと聞いてくれているのだろうと彼女は一人、何やら嬉しそうであった。
「魔獣には出会わないことがお互いにとって一番なのですが、けれど今後エルデラントとの戦があった場合、ぐるるんみたいな子と遭遇する可能性は結構高いと思われます。今日ぐるるんを見せたのはそういう理由……まずは魔獣というのはどういう生き物か、知らない人に見てもらうために集まってもらったわけですが……」
王国西部には森がそれなりに多く、そして西のエルデラントが侵攻してきた場合、そこが戦いの場となる可能性は高い。
エルデラントは国土のほとんどが森に覆われており、兵士全員がこちらよりも森に慣れている。彼等がそこを決戦の場として選ばない理由はなく、その際起きうる問題の一つが魔獣であった。
王国西部の森には他と比べて魔獣が多いのだ。
行軍中や戦闘中、魔獣に遭遇する可能性は大いにある。
「まぁ、クリシェのお話はこれくらいにして、続きはおじいさまに」
クリシェは腹を見せてご機嫌なぐるるんの顎を撫でつつ、側に来たガーレンに目をやった。
ガーレンは頷き、彼等を見つめる。
「遭遇した場合にはサンディカ軍団長の言った通り、大抵が奇襲ということになる。木々を薙ぎ倒すこのような暴力だけが魔獣の全てと思うな。知恵があり、驚くほどの狡猾さを持つ獣だ。彼等は音も無く諸君らの側まで忍び寄る」
ガーレンは特に百人隊長達に視線を向ける。
こうした脅威に対するは軍団長や大隊長ではなく、まず彼等であった。
「そして、数十の命を一息で奪うだろう。このようなことを言いたくはないが、避けようとして避けられるものではない。これはある種の事故と言えよう。肝心なのはその後――その混乱にどう対処するかだ」
魔獣に襲われるのはもはや不運。
よほど警戒していなければ避けることは不可能と言える。
気配を殺した獣を見つけることは、敵の伏撃を見破る以上に難しい。
ガーレンは百人隊長達の顔、一つ一つを眺め、続ける。
「奇襲による兵力の損失、状況は伏撃を受けた場合と変わらない。……そのように混乱をまず、自分の知る想定の一つとして落とし込み、冷静に理解すること。伝令を隣の隊に走らせ、声を張り上げ隊を整え統制を維持する。当然その状況では簡単なことではないが、まずは一つ一つ、やるべきこと、できることに目を向けよ」
百人隊長達は真剣な表情でその言葉を聞き、考え込む。
驚きからは立ち直った様子で、ガーレンは満足げに頷いた。
ガーレンはこれに直接襲われたことはなかったが、それでも過去、隣の隊が魔獣に奇襲を受けるのを目にしていた。
優秀な百人隊長であったが、運悪く狙われたのはその男であったらしい。
指揮者を突如失った百人隊は散り散りとなり、結果壊滅した。
ガーレンが危うげなくそれを処理できたのはボーガンとノーザン、そしてコルキスにグランメルドという部下の存在もあったが、最初に奇襲を受けたのが隣であり、冷静さを保てたということが何より大きい。
連携さえ取れさえすれば、凶悪であれど殺せない相手ではない。
「冷静さを失わなければやりようもある。この巨体と運動能力、そして刃を防ぐ体毛――森で出会えば誰かを囮に逃げるしかない化け物であると思うかも知れないが、我々と同じく血が通う生き物だ。血を流せば死ぬ」
見た目の威圧感から来る恐怖心と、奇襲という状況による混乱。
何よりも恐ろしいのはそこであった。
「この体毛は線での斬撃に対しては強いが、槍のような点での攻撃にはそれほど強くない。矢も至近であれば肉に食い込む。投槍も同じく、剣を使う場合には刺すようにして使えば、わしのような老いぼれであっても殺せるだろう。要は正しい対処ができるかどうかだ」
肉は硬いが、体重を乗せれば貫ける。
冷静に連携を行なうならば、百人隊単独で十分に対処は可能な相手であった。
「恐ろしい相手――しかし諸君らに理解さえあれば、ただ逃げ惑うということにはなるまい。そしてこれを討ったならば多大な褒賞が約束される。遭遇した場合は不運ではなく、ある種の機会であると捉えるといい。魔獣からは到底逃げ出せるものではないし、怯えて逃げ出せば被害は増すだけ。戦うほかないのだから、腹を括った方が得というものだ」
ガーレンはその厳しい顔に笑みを浮かべた。
「遭遇した場合には何を置いてもまずそれを仕留め、味方に被害を出さぬことを考えよ。任務に失敗したとしても、理由が魔獣殺しとなれば誰もが事情を了解する。勇者とすら褒め称えよう」
その言葉にコルキスは息子のグランを思い出し、目を伏せる。
側面迂回時に翠虎と遭遇、混乱に陥りその対処を誤り――それが全ての始まり。
間違いなく優秀であったグランには、何かをやり遂げる覚悟だけが足りなかった。
前線に立つ指揮官には、ある種の狂気と言うべき克己心が必要となる。
母に似て繊細な気質が、戦士としての致命的な欠点であった。
コルキスはガーレンに目をやり、軽く頭を下げると背後の男達に向き直る。
「仕留めることままならぬ状況ならば、槍を突き出し投げつけ、相手の警戒を誘って時間を稼げ。相手は野生の獣、リスクに見合わぬ行動は取らない。そうして時間を稼げばすぐに隣の隊も来る。敵が近くにいるならいっそ、突っ込んでなすりつけてやるのも良いだろう」
そして軍団長として、その頬を吊り上げた。
「どのような逆境であっても笑える努力を。心にゆとりさえあれば選択肢は無数に生まれていくものだ。要は己の臆病さに勝つか負けるか――ガーレン殿の仰るとおり、勇気ある行動を非難するものなどどこにもいない。翠虎は見ての通り、俺ですら全力で挑まざるを得ない相手だ。恐れることは決して恥ではない。だがその上で笑うが真の戦士たるもの」
コルキスは言って、掌を翠虎へと向けた。
「お前達は幸運だ。クリシェ様という唯一無二の戦士のおかげで、そんな翠虎を生きた状態で落ち着いて見ることができる。わかっているだろうが、こんな機会は望んでも得られないものだ。近づいて将来の手柄首をよく観察するが良い。そして戦場で出会ったときには笑って見せよ。魔獣も単なる獣に過ぎない、と」
その言葉にクリシェはぐるるんの上から降りて、満足そうに頷いた。
「そうです。にゃんにゃんは良いことを言いました。要は大きいにゃんにゃん――猫なのです」
ぐるるんは猫にしてはあまりに巨大な体を転がらせ、雪を纏わり付かせてクリシェに体を擦りつける。
ぺちぺちとそんなぐるるんを叩いて起き上がらせ、
「この子は大分大人しい子なので大丈夫ですよ。そうですね、じゃあそっちの方から」
クリシェは微笑みそう言った。
何人かごとにぐるるんを見せ、本当に彼――いや、彼女が大人しいと知ってからは男達も興味を強めた。
動物好きなものなどは意外に可愛らしいところがあると驚いた様子で、許可を求めた後その体を撫でるものもあり――翠虎の鑑賞会は大盛況で終わりを迎えた。
魔獣の恐怖は軍に広く伝わっているが、実際に目にした者は多くない。
それがより大きな混乱を招く原因となっていることは間違いなかった。
散歩ついでにぐるるんを連れてきたクリシェを見掛け、コルキスが翠虎のお披露目を提案したのはそういう理由であった。
その目論見は十分成功に終わったと言え、翠虎の鑑賞会もそうして一段落し、コルキス達も満足そうに仕事へ戻り落ち着いた頃。
その場に残っているのはセレネとガーレン、黒旗特務の面々であった。
「く、クリシェはさっきので、あ、今日はちょっと疲れちゃったかも……」
「なるほど、では明日なら良いと」
「うぅ……」
ぐるるんに座っていたクリシェはアレハから逃れるため、助けを求めるように左右へ目を向け、
「あっ」
こちらへ歩いてくる赤毛の使用人を認めて勢いよく立ち上がる。
耳があればぴんと立ち上がり、尻尾があれば左右にぶんぶんと振られていただろう。
クリシェはぱたぱたと駆けだして、飛びつくように彼女へと抱きついた。
「えへへ、ベリー、どうしたんですか?」
「ふふ、お届け物がありまして。コーズ様から先ほど剣が」
ベリーは言って、袋に包まれたそれを軽く持ち上げて見せた。
彼女の護衛に付いていた二人の兵士はそれを苦笑しながら眺め、彼女へ敬礼するとダグラの所へ。
護衛班の彼等がダグラとこうして直接会うのも久しぶりの事であった。
「わざわざこっちまで届けに来たの?」
セレネは呆れたようにベリーを睨む。
王領からこの訓練場までは結構な距離がある。
「ええ、後でも良いかと思ったのですが、ガーレン様もいらっしゃると聞いていたので」
「ああ、なるほど……」
セレネは納得したように頷きつつ。
上機嫌なクリシェに腕を絡められ、何やら幸せそうな彼女の様子を眺めていると、単に口実を作ってクリシェに会いに来ただけなのではないかと邪推する。
案の定、先日の一件があってから二人はどこに行くにもべったりなのである。
こっちこっち、などとクリシェに誘われ、椅子――代わりに使われていたぐるるんの上に苦笑しつつも平然と腰掛け、肩を寄せ合う姿はなんとも言いがたい。
だが、竜の前では口づけを交わし。
もはや軍の中、特に黒旗特務においては二人の関係も暗黙の了解となりつつあった。
何を言うにしても今更感が漂っていて、セレネは眉間を揉みつつガーレンを横目に見た。
彼女の祖父はこの二人の様子をどう思っているのかよく分からないが、微笑ましいものを見るような優しげな表情から考えるとあまり気にしていないのかも知れない。
どうあれ、あまりこの老人の前では中々小言を言う気にはなれず、セレネは嘆息する。
「ぐるるんもお外に出られたからか、今日は随分ご機嫌ですね」
「やっぱり時々はこういう風に遊ばせてあげた方が良いかもですね。食べてばかりで太っちゃいそうですし」
ベリーは背後――へし折れた木々を見ながら困ったように笑い、欠伸をするぐるるんの頭を軽く叩いた。
大の男でも恐怖を覚える翠虎に平然と腰掛け談笑する、少女の如き使用人。
その絵面は何とも言えないものがあり、男達の困惑を誘うものがあったが、当の本人達は大して気にせず楽しげに包みを解いていく。
「ええと……お手紙もついてますね」
剣の包みは二重。
一つ解けば、丸められ代書屋の印が蝋に押された手紙が括り付けられていた。
「先に読んでみましょうか」
「はい」
ベリーは封蝋を割り、紐を解くと中に目を通す。
美しい筆跡。
職人にはある程度の識字を行えるものが多いし、書けるものもいる。
コーズもその例に漏れなかったが、貴族に手紙を出す場合にはよほどの自信がなければこうして代書屋に頼むのが普通であった。
簡単なものであればともかく、手紙には作法があるし、修飾文法や定型句、正確さを求めるならばやはりそれ相応の教養が必要となる。
中には少し遅くなった事への詫びが書かれていた。
どうにも装飾や細工、付属品に時間が掛かったらしい。
その分仕上がりは文句なし、これまでで最高の一振りが出来上がったと書かれていた。
「――微力ながらも、これが王国、そしてクリシェ様への貢献となれば本望。これからの武運長久をお祈り致します。鍛冶職人コーズ、そしてガーゲインの職人一同。……以上ですね」
「へぇ……期待出来そうね」
手紙を覗き込んでいたセレネは言って、ベリーの膝の上――包みの残りに目をやった。
ベリーは頷き、隣のクリシェにそれを手渡す。
周囲の男達も翠虎に怯えつつ、興味があるのかその輪を縮めていた。
「クリシェ、広げてみて」
「はい」
クリシェが包みを解くと、独特な鞘に包まれた曲剣。
そして少し金具の多いベルトが入っていた。
まず手に持ったのは曲剣の方。
幅広になった革の黒鞘には空を舞う鷹と雷が刻印され、硬く暗めなアルガナの柄にも滑り止めを兼ねたものか椿の彫刻が。
柄頭にも暗鈍色――銀細工の鷹であった。
ほうほうと感心したように眺めるクリシェとは違い、セレネは眉を顰め、ベリーや他の男達は驚きに少し目を丸くした。
クリシェはそのまま鞘から剣を引き抜く。
確かな重み、分厚く丈夫な刀身はしかし、女体のように優美な曲線を描き、中程から大きく前へと折れて、先の方では反り返る。
剣の腰には樋が切られ、それに沿うよう細くアルベリネアと古文字の彫刻。
根元には欠けて弧を描く月の姿が両面に彫り込まれていた。
重量バランスは以前と変わらず、しっかりとしているのに不思議と重さは感じない。
優美な彫刻が施されてはいるが、全体として目立たず、反射も鈍い。
自分が持つ剣としては実用性は十分。
強度も以前のものよりは随分高そうに見えた。
「すごく良い剣ですね。使いやすそうです」
「……すごく良いどころじゃないわよ」
「……?」
クリシェから剣を取り上げて、セレネはその細工を眺めた。
刀身を鍛え上げながら、ガーゲイン中の職人に協力を願ったのだろう。
彫刻は見事というより見事すぎるもので、金貨六枚などという出来ではない。
革職人から細工職人、何人の人間がこの一本に力を注いだのか。
どれも精緻な細工で、芸術的な出来映えであった。
これが普通の剣であれば――いや、そうでなくとも観賞用として数十枚の金貨を払って惜しくないと思うものもあるだろう。
「……ガーゲインの職人一同、というのはそういう意味ですか」
ベリーが驚いた様子で言って、セレネは頷く。
「でしょうね。びっくりしちゃうわ」
最高の一振り。
その言葉に間違いは無く、この剣はガーゲイン中でも一流の職人を総動員して作り上げられたものであった。
「コーズだけじゃなくて、ガーゲインの職人が何人もあなたのために作ってくれた一振りよ。金貨六枚どころか、金貨数十枚はしそうな剣なんだから、大事になさい」
「数十枚……?」
「普通に作ってもらうならそれくらい掛かるわよ」
セレネは呆れたようにクリシェに言った。
再び剣を受け取ったクリシェは困ったように剣を見つめ、ベリーを見る。
「採算度外視、商売ではなくクリシェ様のためにとガーゲインの皆様が作ってくださったということです。そのご厚意に感謝して、それできっと、コーズ様達も十分ですよ」
「……えへへ、はい」
クリシェは微笑み、すぐ側で眺めていたガーレンに手渡す。
ガーレンは眉根を寄せて静かに唸り、隣に来ていたダグラと共にそれを睨むように見つめた。
「細工も素晴らしいが、何より肌が良い。見事な一振りだ」
「……確かに。そうそう目に掛かることはない出来ですな」
「わしの部下であった頃から手先の器用な男だったが……しかし鍛冶が天職だったのだろう。あのはなたれ小僧がこれほどのものを作り上げるとは」
コーズは元々鍛冶屋の一人息子。
親と喧嘩して軍人となり、足に大怪我を負って親元に帰り、店を継ぎ。
若い頃にはまさにガキ大将といった青年であったが、しかしこの一振りを見ればそれから歩んできた全てが伝わってくるようであった。
コーズが軍を辞めてからも何度か彼の所へ足を運んだし、今使っている剣もコーズの打ったもの。
その出来映えも見事なものであったが、この剣はまさに彼の人生、その集大成と言えるものだろう。
「この世に二つとない渾身の一振りだ。人は変わるもの……歳を取ったと感じるよ」
「はは……しかし、軍を辞めた部下がそうして、何かの道を極めているというのは何より喜ばしいものでしょう」
「ああ、違いない。今度会いに行く機会でもあれば、良い酒を持っていってやらねばなるまいな」
ガーレンは嬉しそうに言って、クリシェに剣を返した。
クリシェは満足そうにそれを見つめつつ、彫刻があるので手入れがちょっとだけ大変そうですね、などと呟き――セレネはそれを聞いて嘆息する。
クリシェに剣の装飾など犬に宝石を与えるようなものである。
セレネは目頭を揉み、とはいえ、その心遣いは嬉しいものがあった。
コーズもクリシェが剣に実用性しか求めていないことくらいはわかっていただろう。
その上で彼女に相応しいものをと、これだけ手間を掛けたのだ。
きっと、見返りはきっと求めていない。
これは彼の矜持によって作り上げられた一振りであった。
とはいえ、これだけの剣を受け取りながら何もしないというのも気が引ける。
「後でわたしからお礼を書くわ、ベリー」
「はい、お嬢さま」
「看板にクリシュタンドの簡略紋を許そうかしら。お金よりもそっちの方が良いんじゃないかと思うけれど……」
「そうですね。少なくともコーズ様は素直にお金を送っても受け取ってはくださらないでしょうし」
紋章にはいくつかあるが、簡略紋は外に対して使用を許すもの。
そうした紋章はその貴族が認めた職人や商人であることを示し、彼等の腕前や品質を貴族の名によって保証する。
腕は名に勝るとするボーガンは好まないもので、クリシュタンドの簡略紋を誰かに許したことはなかったが、それだけにそのブランドは大きなものだろう。
今や王国一の貴族と言えるクリシュタンドの簡略紋があれば、少なくともこの先食うには困らない。
生粋の職人であるコーズはそれに驕るような人間でもなかった。
クリシェはその会話を聞きながら、包みからベルトを手に取り眺める。
頑丈そうなもので、内側には過剰に思えるくらいにしっかりとした当て布。
普通のベルトと比べて金具の装着部位が多く、尻を半ば覆うように革が垂れ。
クリシェは首を傾げ、少し考え込み、
「ああ、なるほど」
ぐるるんの上から降りて、腰のベルトを外してぐるるんの上に置く。
「どうしたの、クリシェ?」
「随分へんてこな形だと思っていたのですが、剣を二本提げられるように、みたいですね」
一本目はこれまで通り、後ろ腰の左右から二点で鞘を。
もう一本は腰骨の前辺りで二点、後ろ腰の中央で一点の計三点。
二本目の剣の重みは前にも分散され、後ろはその丸みに合わせた革が面で尻を押さえるため痛みはない。
鎧を着ず、普段着のまま身につけることが想定されているらしい。
過剰に見える裏地の布もそのためだろう。
腰に巻き付け、軽く飛び跳ねる。
二本提げても重さはそれほど感じず、金具の多さの割りに音も小さい。
走り回ると剣が尻に当たったり、ベルトが腰に擦れたりで時々痛かったのだが、それも随分と解消されており悪くなかった。
右手と左手、左右で同時に剣を抜けるというのも魅力的である。
「えへへ、どうですか? 似合ってますか?」
外套を捲ってふりふりとクリシェは腰を揺らし、セレネは嘆息した。
しっかりとした生地のズボンではなく、普通の服の上から身につけることを想定してわざわざあつらえてくれたのだろう。
なんとも申し訳ない気分である。
「はい、お似合いですよ。腰はどうですか?」
「二本提げても前よりは痛くないかもですね。ちょっとはましに……」
「それは何より。とはいえ……やっぱり、どうにかしたいですね。時々腰骨が変に擦れてしまって痛そうですし……」
「ちゃんと軍人らしい格好をすれば済む話よ、まったく。いっそコルセットでも付けさせればいいんじゃないかしら」
スカートやワンピースに曲剣を提げるというのがそもそもおかしいのだ。
セレネはベリーを睨みつつ、似合ってるわよと近づいてきたクリシェの頭を撫でた。
どうあれ剣が二本。
あの痩せた曲剣一本で戦場に出ることを考えれば、これで多少セレネも安心だった。
「コルセット……ああ、それはある意味逆転の発想のような。ベルトで擦れて痛くないよう専用の下着や肌着みたいなものを作ってもらえば良いのかも知れません」
「……はぁ。好きにすればいいんじゃないかしら」
「ふふ、そうしましょうか。クリシェ様の靴下なんかもまた注文しないといけませんし」
重いブーツを外で履くせいか、クリシェは靴下もすぐに破けてしまって消費が激しい。
寒い時期でもある。
寒がりのクリシェのため長めの靴下も――などとベリーは考え込み。
腰当てと長い靴下。
この発想が一月後、貴族女性の間で大流行となるガーターベルトなるものを世に生みだすことになるなどとは、誰も思ってはいなかった。