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掌中天女

「……お馬鹿。どこが全然重大な話じゃない、よ」

「申し訳ありません……」


しばらくして、日が暮れて。

セレネはクレシェンタとアーネを連れ、屋敷へと戻って来る。

そしてすぐにエルヴェナから事情を聞いて、椅子に座り顔を伏せるベリーから直接話を聞き、深いため息をつく。


アーネはその話を聞いて居たたまれなくなった様子で、クリシェの行方を探るために部屋を出た。

クレシェンタは眉間に皺を寄せて、エルヴェナに蜂蜜たっぷりの紅茶を淹れてもらいながら、頬杖を突きつつ呆れたように二人を眺めて嘆息する。


「はぁ、アルガン様はある意味おじさま以上に迷惑な人ですわね。今一番王国を危機に晒してるのは三国よりもアルガン様ですわ。わかってますの?」

「……申し訳ありません」


ベリーはただそう返した。

顔をあげるでもなく、肩を静かに震わせて。

そんなベリーを見て、クレシェンタは僅かに目を泳がせた。


「あ、謝ってる場合じゃないのですわ。わたくしが言いたいのは――」

「クレシェンタ、しばらく黙ってるか別の部屋に行ってなさい」

「……わ、わたくしに命令してますの?」

「じゃないと本気で怒るわよ」


セレネに横目で睨まれ、クレシェンタは不満そうにしつつ黙り込んだ。

そしてぐい、と紅茶に口づけ、熱かったのかやや乱暴にティーカップを置く。


セレネはまったく、とそんなクレシェンタから目を逸らし、ベリーを見つめた。

椅子に腰掛け、じっと顔を伏せ。

小柄な体は一層小柄で、細い肩は一層華奢に見え。


普段の余裕なんてどこにもなく。

けれどこれが、ベリーなのだろう。

いつも無理をして、保護者の顔をしているだけの小さな女性だった。


彼女の背後に回ると、そのまま背中から抱きついた。

ぴくりと跳ねた彼女の体を包むように腕を伸ばして、頬を彼女の頬に押しつける。

金の髪がさらさらと流れて、ベリーの首筋から滑り落ちていき。

それを眺めながら、セレネは静かに口を開く。


「あなたはどうしてそうなのかしら。たまには甘えて、手間を掛けさせてって言ったじゃない。わたしはまだそんなに頼りないのかしら」


母が死んだときもそうだった。

泣き続けるセレネを側でずっと慰めて、普段通りに色々こなして、葬式の手配をして。

いつでも立派な使用人。

誰より母と過ごした、彼女が一番悲しかったはずなのに。


母と過ごすときのベリーは、ほんの少し甘えるようで。

ほんの少し、幼く見えて。

随分昔に、彼女はそういう全てを置いてきてしまったのだろう。


『そーやってお馬鹿な意地ばっかり張って背伸びばっかりしてると、ベリーみたいに素直に甘えられない子になっちゃうわよ。子供は子供らしくお母様に甘えなさい、全く』

『ねえさま、その……お嬢さまの教育に口を挟む気はありませんけれど、まるでわたしを悪い見本のように使うのはやめてくれませんか? とてもやりにくいのですが……』

『だって事実じゃないの。ふふ、違うってところを見せてくれてもいいのよ?』

『……絶対嫌です』


二人の姿を思い出して、目を細め。


「あれだけ料理好きなあなたが味覚を失って、それがどれくらい辛いのかなんてわからない。……でも、それを隠してた理由がそんな理由じゃないことくらい分かってるわ」


ただ辛いだけならば、むしろ平然と話しただろう。

辛くないと言わんばかりに、平気です、だなんて。

いつもと変わらず、困ったように笑いながら。

彼女はそう言う人間だった。

そうしなかった理由は、きっと別なもの。


「クリシェに失望されるのが怖かったんでしょう?」


告げるとベリーは肩を跳ねさせて。

セレネは呆れたようにため息をつく。


「あなたのことくらいお見通しよベリー。知ってるかしら? わたし、生まれた時からずーっとあなたのこと見て来たんだから」


誰より尊敬するのが母であれば、誰より憧れたのは彼女だろう。

なんでも出来る才能があって、努力家で、だというのに偉ぶるでもなく驕るでもなく。

いつだって当然のように、どんなことでもさらりとこなす。

彼女はクリシェと同じ。

一度だって何かで勝てた事なんてなかったし、セレネが頭を捻る問題であっても彼女は無造作。


どこか隙のある母と違って、彼女は完璧超人なのだった。

聞けばなんでも答えてくれて、願えばなんでも叶えてしまう。

自分とは違う存在で、悩む事なんてないのだろう。

あったとしても、セレネには理解できない次元のもので――そんな風に思っていた時期もあって、そうではないと知ったのはクリシェが来てからのことだった。


彼女が来てからの彼女はボロボロと何かが剥がれ落ちていくようで。


『わたしと……これからもそうやって、ずっと一緒にいて頂けたらと思います』


王都へ向かう最中耳にした、どこまでも切実な言葉の響きはよく覚えていた。

何もかもを持っているように見えて、けれど何一つ持っていないように見えて。


『――クリシェ様のお側に。わたしの意味がそこにあるのだと、ふと気付いて。であれば、わたしの名はクリシェ様のものだと思ったのです。……そのためにあるのだと、そう望んだのです』


彼女とクリシェはある一面でよく似ていた。

答えの出ない何かに悩まされて、それに溺れるようで。

それはきっと、少し手を伸ばせば何もかもを手に入れられるような、そんな力があるからだろう。


「わたしに言わせればあなたたちはどっちもどっちよベリー。なんでも自分で解決できるんだとか、自分に出来ない事なんてないだとか、普段からそんな風にしか物事を考えてないからそんな些細なことが許せなくなるのよ、お馬鹿」

「そんな、ことは……」

「思ってるわよ。揃いも揃ってどうしようもない自信家なんだから」


小さな挫折の一つもなくて、限界さえも知らなくて。

だからこそ、自分の中の些細な綻びが酷く目立って、許せず、恐れ、臆病で。

誰よりも器用なはずなのに、誰よりも不器用だった。


「味覚を失った程度であなたの価値はなくなるの? それでクリシェはあなたに失望して、愛してくれなくなるかもって?」

「それ、は……」

「本当お馬鹿ね。あなたの言い分がそれなら、料理も出来ない家事も出来ない、得意分野を必死で頑張っても『そこそこのへたっぴ』だなんてクリシェに言われるわたしなんて一体なんなのよ」


セレネは嵐のように言葉を吐いて、クレシェンタを睨む。


「余計な事言ったら怒るわよ」

「い、言いませんわよ……おねえさまと違って空気くらい読めますわ」


横から口を挟みかけたクレシェンタは、慌てて視線を逸らす。

不機嫌そうにセレネは嘆息し、ベリーをぎゅう、と抱きしめた。


「普段は偉そうに講釈垂れてる癖に、自分の事となるとどうしてそこまで弱気になっちゃうのかしら。あなたはクリシェの欠点も、クレシェンタの欠点も、わたしの欠点だって気にならないだなんて言う癖に、自分の欠点だけは許せないの? 他の人間は絶対あなたのそんなところを認めないし、許さないって?」

「っ……」


自分に欠点などないなどと言わんばかりのクレシェンタは不服そうに、しかしセレネがそれを睨んで黙らせる。

ベリーは顔を伏せたまま、セレネの言葉を黙って聞いた。


「いつも言ってるそんな言葉は嘘なのかしら?」

「嘘、では……」

「なら、もうちょっと信頼してちょうだい。あなたの料理は素晴らしいものだと思うけれど、わたしにとってあなたの価値はそれだけじゃないし、仮にどれだけ欠点があろうとなかろうと、あなたはわたしの大事な家族で、尊敬する姉のような存在で……そう思ってる。信じられない?」


ベリーは小さく首を振って、セレネの腕を掴んだ。


「クリシェだって同じよお馬鹿。あの子があなたに失望して、どこかに行ったとか思ってるの? あなたが刺されて、それを助けるために命懸けでボロボロになって、竜にまで挑んじゃうくらい大事に思ってるあなたに、そんなことで失望しちゃうって? ……本気で思ってるならそれこそ、いくらあなたでも頬をぶつわよベリー」


ベリーの手は幼子のように弱々しく、セレネの腕を握り締め。

もう、とセレネは微笑んで、目を閉じると頬を寄せる。


「少し落ち着いたら、一緒に捜しましょ。あなたが行かないって言うならわたしが代わりにクリシェを優しく慰めて、あることないことあなたの悪口を言いつつ寝取っちゃおうかしら。それでいいの?」

「……その言い方は、卑怯です」

「素直に甘えないからそうなるの。気付いてるかしら、ちょっとは怒ってるのよ」


セレネは言って、腕を解くと彼女の前に。

そしてしゃがみ込むと、俯いた彼女の頬――そこに伝った雫を指で拭った。


「頼りないお嬢さまにこうやって慰められるのはそんなにも屈辱かしら?」

「……そうかもしれません」

「あ、あのね……」

「でも、ちょっとだけ……お嬢さまがねえさまみたいです」


セレネは満足げに額を押しつけ、涙で濡れた薄茶の瞳を覗き込む。


「ふふん、わたしが誰の娘だと思ってるのかしら?」

「ねえさまと、ご当主様の……ふふ、ねえさまとも色んなところがそっくりですね。すっごく不器用なところだとか……」


ベリーは微笑み離れて、目元を拭い。


「そのくせなんだか偉そうなところも、すごくそっくりです」

「主人に向かっていつも偉そうなのはあなたよ、ベリー。……なんて口の悪い使用人かしら」


桃色の唇を柔らかく、少女のように無邪気な微笑を浮かべた。


「だって、悪口ではありませんもの。……そっくりなのは、ねえさまの好きなところばかりですから」


赤い髪をさらさらと揺らして。

セレネの額に口づけを。

幼い顔はどこか大人びて、そこにあるのはいつものベリーの顔。


行儀も悪く頬杖を突き、見ていたクレシェンタは嘆息した。


「ちょっとはましかと思えば、あなたもノーラと同じで泣き虫ですわね。恥ずかしくないのかしら」

「申し訳ありません、クレシェンタ様。みっともないところをお見せしました」

「そう思うなら改善するべきですわ、全く。……あなたが泣こうが喚こうがわたくしは構いませんけれど、そのせいでおねえさまがお馬鹿なことをしでかさないか気が気じゃないですわ。あなたはご自分の立場と役割をもう一度よく考えるべきですわね」


不満そうに腕を組んで、頬を膨らませては椅子を揺らし。


「それに。……わたくしの夕食はどうする気なのかしら。どのような事情であれあなたの仕事、それをしないだなんてただの職務怠慢ですわ」


赤に煌めく金の髪を弄び、睨み付けるようにクレシェンタは告げる。


「話が終わりならさっさとおねえさまを捜しに行って、それが済んだらわたくしの食事を作って、湯浴みの世話をして。あなたがそうやって無駄に時間を使うことが許されるのはそれからですの。……言わなければわからないだなんて出来の悪い使用人ですわね」


ベリーは少し目を丸くして、クレシェンタを見つめ。

それからくすりと微笑んだ。


「……はい、申し訳ありません。使用人失格でした」

「自覚があるなら何よりですわね。役に立たない使用人は一人でお腹いっぱいですの。これ以上無能を晒さないで欲しいものですわ」


隣にいたエルヴェナは苛烈な女王の言葉を聞いて不安そうにベリーを見たが、彼女は不思議と嬉しそうに頷くだけ。

そして立ち上がると、クレシェンタに向かって丁寧に頭を下げた。


「はい。……気を付けます」

「……ベリーもともかく、一番偉そうなのはあなたよね、クレシェンタ」

「知らないみたいだから教えてあげますわ。わたくしはこの国で一番偉い女王で、わたくしが過ごしやすいよう誠心誠意奉仕するのがあなたたちの役目――偉そうじゃなくて偉いんですの」


セレネは苦笑すると、クレシェンタの頭を撫でる。


「そうね、忘れちゃってたわ。お許し頂けるかしら、女王陛下」

「……馬鹿にしてらっしゃるのかしら?」

「敬愛すべき女王陛下への精一杯のご奉仕ですとも」


セレネは笑って彼女を抱きしめた。

クレシェンタは不満そうに鼻を鳴らすが、抵抗はせず。


そんなタイミングで玄関の扉が荒っぽく開かれて、ドタバタと聞こえる足音。

扉を開ける前から誰かを理解し、ベリーはすぐさま扉を開ける。


飛び込んできたのはアーネ――そして少し遅れて工作班長ネイガルが敬礼する。


「あ、アルガン様……」

「……ご心配お掛けしました、アーネ様」


ほっとしたようなアーネに頭を下げた。

アーネは慌てて首を左右に振り、ベリーは微笑むと視線をネイガルの方へ。


「それで、ネイガル様は……」

「は。クリシェ様を捜していらっしゃるとギーテルンス様にうかがって……少し前に我々の所へ顔を出されていましたから、ご報告をと」

「……今はそちらに?」

「いえ。以前まで使っていた王宮地下の部屋に今はいらっしゃると」

「……ありがとうございます。お嬢さま、失礼してもよろしいでしょうか?」


セレネは呆れたように笑った。


「今更。それにもう夜なんだから一人じゃ危ないわ、わたしも行く。ネイガル、悪いけれどダグラに周囲の捜索はもういいって伝えてもらえるかしら?」

「は。元帥閣下」

「待機状態は維持、追って別命なければ一刻後に解散を」


ネイガルは再び敬礼する。

事情を聞いてセレネはすぐに、クレシェンタの護衛についていたキリク達に伝え、彼等をクリシェの捜索に向かわせていた。


「色々、ご迷惑お掛けしました」

「そう思うならさっさと行くわよ」

「……はい」

「分かってるとは思いますけれど、あんまり大事にしないでくださいまし」


クレシェンタは不機嫌そうに言って、二人は頷き。

そして部屋を出る辺りで、エルヴェナが声を掛けた。


「……ベリー様、その」

「……? なんでしょう?」


エルヴェナは少し考え込むようにしながら、頷き。


「クリシェ様がお帰りになる前にしていた、話の続きなのですが――」


それから彼女は微笑んだ。









それからセレネと二人、王宮へ。

歩哨の兵士に確認を取りながら地下へ入って、常魔灯の光に照らされた薄暗い廊下を進み、少ししたところでセレネは立ち止まった。


「……お嬢さま?」

「ここからは一人で行きなさい、ベリー。わたしが行くとややこしいもの」


セレネは腕を組んで、壁に背中を預けた。


「結局、問題はあなたの心の内側だと思うの。わたしはさっき全部言ったわ、どう受け止めるかはあなた次第。そういうものでしょう?」


金の髪を弄び、眺めて。

セレネは苦笑した。


「わたしは正直、嫉妬するくらいにあなたが羨ましいわ、ベリー。あなたはわたしよりずっとなんでも出来て、クリシェにはべったり愛されて、クレシェンタにだってそう。わたしじゃきっと出来ないようなことを簡単に……あなたみたいになれるなら、そうなりたいと思えるくらい、あなたのこと、尊敬してるの」

「……お嬢さま」

「あなたは買いかぶりだって言うでしょう。でもあなたと違って、わたしは嘘を吐いた事なんてないの。知ってるかしら?」


悪戯っぽくセレネは微笑み、ベリーを見つめた。

ベリーは静かに頷いた。


「……そうですね。ふふ、お嬢さまのそういうところはねえさまと違って、ご当主様にそっくりです」


セレネは満足げにそれを眺め、腰の剣を引き抜いた。

それをまっすぐと立て、翳すように。


「でもどれだけ羨んだってわたしはあなたになれないし、お父様のようにもなれないわ。あなたもお母様みたいにはなれはしないし、あなたはあなたで、わたしはわたし。結局別の人間で、別々の人生を歩んで、学べることも違うんだもの。……あなたの言葉よ、ベリー」

「……はい」

「……あなたには納得が必要だと思うの。そしてあなたに足りないのは、きっとそれだけ。だからわたしに不安はないし、あなたに任せる」


セレネは剣を鞘に。

ベリーに近づくと、ほんの少し背伸びをして。

ゆっくりとその額に口付けた。


「あなたは捧げて、クリシェは受け取った。わたしからすればこんなのもう終わったような話よ。……それにどうせ、あなたは頑固なんだもの。わたしの言う事なんて聞いてくれたこともないんだから勝手にすればいいわ」


睨むように言って、微笑んで。


「お守りくらいはしてあげる。好きになさい」


それから彼女は背を向けた。

それをしばらく眺めて、頭を下げて。


「はい。……、セレネ様」


囁くように名前を呼んだ。


彼女が見えなくなるまでそうしたまま。

それから彼女も前へと進む。



人気のない廊下の暗がりを少し歩いて、地下実験室の前へ。

そこでしばらく呼吸を整え、扉を叩いた。


うっすらと聞こえていた物音が一瞬静かになり。

しばらくして、扉の方へ向かってくる静かな足音。

歩き方を聞けば誰かは分かる。


「……クリシェ様、開けて頂いてもよろしいですか?」


中からはクリシェの声の代わりに、ちゅうちゅうと鼠の声。


「少しだけ待ってもらっていいですか?」

「……? はい」


再び足音が響いて、何かを片付けるような音。

鼠の小さな声が響き続けて、それが薄れ。

扉が開いたのはそれからだった。


部屋から出てくるとクリシェはすぐにベリーに抱きつき、ごめんなさい、と一言告げた。


「クリシェ、ベリーを騙すようなことをしちゃいました」

「大丈夫ですよ。気にしてません」


クリシェはベリーの胸に顔を押しつけたまま頷き、顔を上げる。

その顔には微笑が浮かんでいた。


「ベリーはきっと、クリシェに心配掛けたくないって思ってくれたんですよね。でも、大丈夫です。何にも心配なんてありませんから」

「えと……」

「クリシェがすぐ、ベリーの舌をちゃんと治します。だから、その……ちょっとだけ時間をください。そうすればきっと前と同じように、ベリーは沢山料理が出来ますから」


ちゅうちゅうと、扉の向こうからは鼠の鳴き声。

眉を顰めて、扉の隙間から実験室を眺めた。

木製の箱がいくつか転がっていて、台の上には医療用の鋭いナイフやハサミが綺麗に並べられていた。


「……あの、あそこにいるのは鼠でしょうか?」

「はい、さっき集めて……まずは鼠で色々試そうかと。すぐに増えるみたいですし、実験するには一番良いって、その……ちょ、ちょっと、ベリーはかわいそうって思うかもですが」


クリシェは困ったようにしながらも、ぱたぱたと中へ。

箱から一匹の鼠を取りだしベリーに見せた。

鼠は驚いた様子でちゅうちゅうと悲鳴をあげ――クリシェは微笑む。


「でも、食料庫にいた悪い鼠ですから仕方ないです。良い子の鼠じゃなくて、悪い子なので、その……」


何かの実験に鼠を使うのはよくあることであった。

ただ、それでどうする気なのかとナイフやハサミ――他の器具へと目を向ける。


「クリシェ様は、何をなさろうと……?」

「昔見たのですが、例えば切られた腕をくっつけたりだとか、そういう試みがあったそうで……その実験は上手く行かずに終わっていたのですが、でも理屈自体は利に適っていたのでそれを応用しようと」


鼠をもう一匹掴んで、ベリーに見せる。


「ほら、こっちの鼠の右手をこっちの鼠の右手と入れ替えるだとか。傷がちゃんと治ってくれる理屈を考えれば、十分に可能なことだと思うのです」


きっと簡単です、とクリシェは微笑み。

それから二匹を箱に戻した。


「その、多分竜の血が原因で、ベリーの舌は変になってしまって……でもでも、それなら悪いところをそのまま付け替えてしまえばいい訳で……」

「……クリシェ様」

「大丈夫です。他の人に酷いことをしたりしませんし、迷惑も。取っ替えっこするのはクリシェとですから」


告げるクリシェは笑顔だった。


「多分それなりに味覚は良いと思うので……その、ベリーほどではなかったりするかもですが、でも、お料理するには問題ないはずです」


指を立てて、うんうんと頷き。


「ほら、これならクリシェの食いしん坊もちょっとは軽減されるかもしれませんし、ベリーは全然気にしなくていいです。クリシェ、前々から自分のそういう所は直さないとって思ってましたし」


おかしいくらいにクリシェは明るく、ベリーに告げた。

ベリーは目を伏せて、クリシェは慌てたように首を振る。


「本当ですよ? ベリーはなんにも気にすることはないのです。その、クリシェはベリーにこれからもいっぱい、すごいお料理作って欲しいですし」


いつもより高い声のトーン。

ただただ彼女は笑顔を浮かべて、心配なんて何一つないと言わんばかりに。


「クリシェはただ、そんなベリーのお手伝いをさせてもらえれば――、っ」


ベリーは何も言わず、そんなクリシェを抱きしめた。

力を込めて、引き寄せて。


「ぁ、あの、ベリー……?」


怯えるようなその体を、ただ抱いた。

慌てたように、少しすると、呆然としたように。

鼠の鳴き声と、二人の吐息だけが静かな部屋に響いていた。

クリシェの鼓動は走った後のように早鐘を打っていて、怯える小鳥か何かのよう。

ベリーは静かに目を閉じて、


「……申し訳ありません」


それから一言そう告げる。

彼女の体は強ばって、何度も首を振った。

銀の髪を乱すように。


「ベリーが、謝ることなんて……く、クリシェが、ベリーの、舌……」

「どうして、クリシェ様のせいなのでございましょう?」


小さな体は震えていて、腕の中から逃れようとするようだった。

それを離さないように、ぎゅっと抱く。


彼女はなおも首を振る。


「クリシェ、ちゃんと、リーガレイブさんから聞いてて……でも、ベリーが治るならって、気にしてなくて、それで、そしたら……」


声も震えて、ほとんどそれは泣き声であった。


「クリシェ様がわたしを助けようとしてくださったことでしょう? 事実こうして助かって、クリシェ様のどこに非があるのでしょうか」

「他にも、手段が……もしかしたらっ、クリシェが、余計な事しなくても、ベリーはちゃんと――」


嗚咽が混じって、肩を揺らして。

臆病で、自信がなくて、恐がりで。


なんて馬鹿なのだろうと、ベリーは目を閉じた。

ベリーの頭にあったのは、自分の事ばかりであった。


「結果論ですよ。だからと言って、どうしてそんな話になるのですか。例え付け替えることが出来たって、クリシェ様がこんな風になってしまっては――」

「クリシェ、二度と美味しいもの食べられなくて、いいです」


知っていたはずで、理解していたはずで、疑う余地も何もなかったはずなのに。


「ベリーが、そんな風になって、たのに、クリシェ、美味しい美味しいって、馬鹿みたいに……」


ただ臆病に、下らないことにこだわって、怯えて。


「ベリーがとっても辛いのに、クリシェ、なんにも気にしてないで、はしゃいでて」


だからこそ、この美しい少女を一番傷つけてしまう形で伝えることになったのだ。


「ごめ、なさい、くりしぇ、べりーに――」

「……泣かないでください。クリシェ様は悪くありませんし、不愉快になったり、まして嫌いになったりだなんてしてませんよ」


どうしようもない馬鹿だった。

世界で一番の愚か者は、きっとベリー=アルガンと言うのだろう。


「大好きなクリシェ様が、そんな風に悲しまれることの方が……わたしは何よりずっと辛いです」

「でも……」


体を少し離すと、彼女の泣き顔が目に映る。

月のように輝く銀の髪――隙間から覗く紫の瞳は涙が溢れて。


美を象った細工のような、端正な美貌はみっともないくらいに歪んで見えた。

泣きじゃくる子供のように不細工で、だからこそ、どこまでも美しく見えた。


――これほどの幸せ者が、一体どこにいるのだろう。

この世界で一番美しい少女に、こんな顔をさせるくらいに愛されて。

それに気付かないとするならば、やはりそれは世界一の愚か者だろう。


その泣き顔に、顔を近づけ口付けた。

どこまでも柔らかい感触がそこにあって、それは確かに今もある。

それで全てのことが十分なものに思えて、目を閉じ、味わう。


少し離しては繰り返し、その涙を指で拭い。

少なくとも今、それが許されるのはこの世界で自分だけ。


泣き止まない少女の体を抱きしめて、微笑む。


「……クリシェ様、お料理しましょうか」

「お料、理……?」

「はい。夕食の準備はまだですし、ひとまずここの後片付けは明日と致しましょう。お嬢さまやクレシェンタ様も待っておられますし」


クリシェは答えず、ベリーは繰り返した。


「お料理、です。……それともわたしではもう、一緒にお料理はできませんか?」

「そんなこと――っ」

「では。ふふ、行きましょう」


無理矢理彼女を抱き上げて。

ベリーはただただそう微笑む。








もう完全に日が暮れて、月の光が雲の隙間から零れていた。

雨で乱れた雪の上を歩き、屋敷へ向かうと出迎えたアーネに一言二言。

キッチンへ入るといつものように常魔灯を点け、クリシェを降ろした。


「今日はクリシェ様のお好きな、カボチャのグラタンとスープにしましょうか」


言ってベリーは台に乗り、棚から出すのは冬カボチャであった。

夏から秋の終わりに掛けて収穫されるものとは違い、少し小ぶりで数は少なく。

普通のカボチャに比べると少し値が張り、けれど甘みはとても強い。

クリシェの大好物で、入った時には常にいくつかキッチンに取り置いた。


けれどクリシェは顔を上げず、何度も袖で目元を拭う。

ベリーは苦笑して、少し屈むとハンカチで優しく涙を拭いて、彼女の頬にキスをした。


その目を覗き込めば、涙を湛えた紫の瞳は怯えたように逸らされて。

ベリーは彼女をしばらく見つめ、微笑み、手を洗っては料理へ取りかかる。

鍋に水を注いで、他の野菜を取りだして。


しばらくは小気味の良い包丁の音だけが響いた。

鍋の中には豚の骨。野菜をいくつか。しばらくすると魔水晶を調節し、熱を弱める。

いつもよりは一つ一つ時間を掛けて、少しゆったりと。


「平気かと聞かれれば、平気だと。……でも、辛くないかと聞かれればやっぱり、正直少し辛くはありますね。味が全然わからないというのは大変です」


泣いたまま動けずにいるクリシェに、ベリーは素直にそう言った。


「新たな味付けに挑戦してみようだとか、この組み合わせはどうだろうとか、頭の中には色々あって……でも、失敗したらと思えば怖いです。そういう風に挑戦すればするほど以前とはかけ離れて、いつの間にか普通の料理一つまともに作れなくなってしまうのではないかと」


ベリーは自嘲するように言って、スープに滲んだ具材の香りを確かめた。

この骨はどのような旨味があって、この具材からはどういう風味が滲み出て。

経験と慣れだけで、料理は出来上がっていく。


「……そんな料理を作っても、お嬢さま達は美味しいと言ってくれるのかも知れません。失敗してしまってるのに、今日も美味しい、だなんて。わたしは分からないまま、気を使われていることも知らないまま、それに納得して――そうして日々が続いていくのかも。……そんなことを想像すると、とても怖いです」


おたまにスープをすくい、クリシェの所へ。

少し冷まして、桜色の唇に近づける。

クリシェは何も言わずそれに口づけ、スープを味わい飲み込んだ。


「良く味が染み出てくれているのではないでしょうか。ベースとしては悪くないと思うのですが」


こくり、とクリシェは頷いて。

それを見たベリーは苦笑する。


「クリシェ様が良いと仰るなら、もう豚骨は除いてカボチャを入れてしまいましょうか」

「え……?」

「ふふ、こういうことです。本当の旨味が出るにはもう少し、でしょう?」


顔を上げたクリシェは視線を揺らし、再び頷く。


「今はまだちゃんと分かります。香りや見た目で、どんな味わいになっているか。でもきっとその内わからなくなって、そんな時、気を使われてはわたしは何もわからなくなってしまいます。……わたしはもう、一人で料理はできません」

「っ、ベリー」

「けれど、きっとそれは些細な事です」


ベリーは続けて、スープに浮いたあくを取る。

丁寧に繰り返し、それが澄み切ったものに変わるまで。


「お腹に入ればどれも一緒。そんな風に考えていた時期がありましたし、今もそう思っているところがあります。美味しい料理を作るというのはある意味、贅沢なだけで、とても無駄なことであるようにも。そうは思いませんか?」

「……それ、は」


時間の浪費。食材の無駄遣い。

それでもベリーは続けて来たし、そこに疑問を覚えなかった。


「無駄で無意味で――でも、わたしはそれで喜んでくれる誰かがいるなら無価値ではないと思っています。自分が作った料理を口にして、美味しいって言ってくれて……そういう時にわたしは幸せで、だから明日はもっと美味しいものを、誰より上手に作ってあげたいと考えて」


あくが消えても、ゆっくりとスープをかき混ぜた。

薄く色づくスープの香りは次第に強く、鼻をくすぐる。


「わたしにとって料理とはそのようなもの。そうやって自分が誰かを喜ばせることが出来るということが嬉しくて、馬鹿みたいに続けて来ました。そこに自分の価値があるんだって、それが作れる限り自分がそこにいてもいいんだって、そう思えて」


生きる事にさえ理由が必要だった。

どこまでも弱い人間であったから。


似ているだなんて彼女達は言って、けれど本当は真逆の存在だろう。

クリシェやクレシェンタが誰より強い存在だったとするならば、自分は何かに縋らねば生きていけない、どこまでも弱い生き物だった。


「愛する人が、心から美味しいって言ってくれることがわたしの幸せで……これからもそう。ですから、クリシェ様の提案はありがた迷惑というものですね」

「……めい、わく?」

「はい、とっても迷惑です。……わたしはクリシェ様が美味しいって言ってくださる姿を誰より見たいんですから、クリシェ様の舌がお馬鹿になってしまうのが何より一番困ってしまいます。クリシェ様はわたしを困らせるのがお好きなのでしょうか」


おたまを置いて、悪戯っぽく笑みを浮かべて。

クリシェはなおも納得がいかない様子で首を振り。


「……でも」

「クリシェ様がご自分を責めていらっしゃるのはわかります。逆の立場ならわたしだって同じことを言ったのかも。……なので、クリシェ様が納得できるよう、罰を与えましょうか」


クリシェはベリーを見上げて頷く。

生まれたての雛のように、無垢な瞳だった。


「……わたしはこれからも沢山料理がしたいですし、続けたいです。でもやっぱり、味が分からないのは困ってしまいますから……ですから、クリシェ様」


最低だとも思い、けれどそれでいいとも思えた。

今のベリーにとっては料理以上に大事なものがあって、それは料理よりもずっと、ベリーに価値と生きる意味を与えてくれる。


人間は自分勝手な生き物で、そして自分も人間だった。

聖人にはなれはしないし、他の誰とも変わらない。


「――これから先ずっと、わたしの舌になってくださいませ」


そんな自分の手の中に、誘い込まれた彼女も悪いのだった。


「側にいるときは毎日料理を手伝って、わたしの代わりに味を見て、わたしの代わりに味わって。これはわたしからの罰ですから、嫌と言ってもずっと一緒。ふふ、一生の終身刑です」


まだ目元を赤くしたまま、きょとんとした顔で。

誰より美しい少女は、美しいまま無警戒にこちらを見上げた。

戸惑うように、少し困ったように、そうして彼女は口を開いた。


「ぁ、あの、全然、罰に……」

「あら、そんなことを仰るなら、もっともっと色んなものをもらってしまいますよ?」


からかうような言葉に対して、少し考え込むようにした後。


「……はい。ベリーが、欲しいなら……クリシェ、全部あげます」


そんなことを平然と告げる彼女は、目を逸らしたくなるくらいに綺麗だった。


「クリシェはベリーのです。……他のものでもなんだって、ベリーが欲しいならなんでもあげます」


クリシェはそっと身を寄せて。


「……名前に誓って。この先ずっと……クリシェはベリーのクリシェです」


囁くようにそう告げた。


「だから……これからもずっと、クリシェと一緒にいてください」


とろけるように甘い声。

取り返しの付かないような誘惑で、どうしようもないほど拒みがたく。

誘い込んだのは自分か、それとも誘われたのが自分であるのか。

それすらも曖昧に溶けてしまうような響きであった。


苦笑して、ほんの少し身を屈める。


「……以前仰ってましたけれど、クリシェ様は商人でなくて良かったですね」

「……?」

「値段の付け方がへたっぴですから、商売で損ばかりしてしまいそうです。今も大損ものの取引ですし……」


彼女の頬を挟み込み、顔を近づけた。

宝石のような瞳を眺め、鼻先を擦りつけるように距離を縮めて。


「……でも残念ですね。わたしは悪い客ですから、クリシェ様が大損をしたってもう気にしません」


薄く柔らかな唇を奪って、微笑む。


「クリシェ様はもうわたしのものです。言った通り、嫌って言ってもこの先ずっと。悪い客に買われてしまって、いつか後悔しちゃうかも知れませんね」

「……しません」


言ってクリシェも口付けて、嬉しそうに身を寄せた。

頬を擦りつけて、ぎゅうと抱きつき目を閉じる。


「えへへ、クリシェ、ベリーに買われちゃいました」

「そんなことで喜んでると、お嬢さまにまたお馬鹿って言われてしまいますよ」

「……クリシェ、ちょっとお馬鹿なのでいいです」

「ふふ、そうですか」


目元は赤いまま、けれど頬には柔らかい笑みが浮かび。

笑っている顔が、いつだって彼女は一番だった。


「さて、ではそんなクリシェ様に与える最初のお仕事はお料理の手伝いですね。まずはかぼちゃを真っ二つにして、中をくり抜いてもらうという重労働です」

「はいっ」


自然と頬が綻んで、ベリーはカボチャを彼女に預ける。


「それからわたしの作るグラタンソースの味見です。細かくどういう味かを伝えてもらわないといけませんから、これも大変ですよ。ちゃんと正直に答えること、味見の時はただ美味しいじゃ駄目ですからね」

「……はい、頑張ります」


料理が好きなのは、誰かに喜んでもらえるからで。

それが自分の価値だと思っていた。


「でも、だからと言って顔を硬くするのはだめです。お料理は楽しく、そんな顔をしているとわたしまで緊張してしまいそうです。大事なのは笑顔ですよ」

「う……はい」


けれどいつしかその出来映えよりも、過程の方が好きになって、それだけで幸せで。

それに比べれば、そんなものは些細なものへと変わっていた。


食べてくれる人のことを考えて、想像して、技巧を凝らして努力して。

側で同じことを考える人間がいて。

それさえあれば些細な事。


料理はあくまで手段であり、それそのものに価値があるわけではなく。


「折角クリシェ様とっておきのカボチャを使うんですから、今までで最高の一品を作りましょうか。今日はそうですね、グラタンにも刻んだハーブを効かせて――」


少なくとも自分にとって、全てのものがここにある。


「じゃあ、その……ネリプなんか……ちょっとぴりっとして」

「……なるほど、面白いかも知れません。細かく刻んでみましょうか」

「はいっ」


そう納得できて、だからそれで十分だった。

そこに疑う余地もなく、このためにこそ、きっと自分は生まれてきたのだろう。


「ふふ、今日はとても良い一日です」

「あの……?」

「自分が世界一の幸せ者だと気付けて、生まれて初めて誇らしい気分になれましたから」


――クリシェ様のおかげです。

ベリーは一言そう続けて、隣の少女に肩を寄せた。


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  2024年11月20日、第二巻発売決定! 
表紙絵
― 新着の感想 ―
涙が止まらない; ;
アーネ「役に立たない使用人って………誰のことなんでしょう?」
[良い点] 良かったー!クリシェとベリーの心が通じ合う描写がとても素敵でした
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