臆病者
特に料理が好きだった、というわけではない。
口の中に入って腹を満たせばどれも同じ。
栄養があるかないか、食べやすいかどうか。
それくらいのもので、最初から興味があったわけではない。
アルガンの借金を払うため、クリシュタンドは私財のほとんどを吐き出した。
当時のクリシュタンドには使用人を雇う余裕もなかったし、世話になるのだからせめてそうした雑事は済ませておこう。
始まりはそういう単なる義務感。
買ったばかりだったという古い屋敷は三人で過ごすにはそれなりに広かったが、ボーガンは書物を除いてほとんどの調度品を売り払っている。
あるのは必要最低限――値も付かないような壺や絵画だけ。
そんな寒々しい屋敷を管理するのはそれほど難しいことでもなかったし、自分一人いれば十分。
姉のために多くを手放したボーガンのため、せめて以前と変わらぬ暮らしが出来るようにと努力して、そうした生活はそれなりに上手くやれていた。
姉は軍団長に出世したばかりのボーガンを手伝い、書類仕事や様々な業務を。
ベリーは屋敷の中のことを。
幸せそうな姉を見られることが何よりで、そんな生活には何一つ疑問がなかった。
洗濯をして、掃除をして。
小さな果樹園と菜園の手入れをしつつ、手頃なものをもいでは夕食を考え。
いつもは大抵、そんな頃に姉はキッチンに顔を出す。
『……ベリー、もう夕食を作ってるの? ちょっとは休憩を入れなさい、もう。わたしがやることをちょっとくらい残しておいてくれないと困るわ』
『だって、ねえさまにお任せすると二度手間になってしまうことが多いですし、お料理をお任せするのは特に……』
『あ、あのね……』
赤い優美な髪を揺らして、不満そうに両手を腰に。
そういう顔もどこか魅力に溢れていて、ベリーはくすりと微笑んだ。
ラズラ=アルガンはいつも綺麗で、いつだってベリーの憧れの女性であった。
『……そーいうことを言って、あなたはすぐ熱を出すから怖いのよ』
『昔と違って近頃は体の調子も良いですから。ご当主様に肉体拡張を教えてもらってからは疲れも少ないですし、ねえさまは心配しすぎですよ』
『あなたの場合、心配しすぎるくらいで丁度いいの』
背中から抱きつかれ、頭の上に顎が乗る。
さらさらとした髪がうなじと肩をくすぐって、そんな感触がこそばゆくて好きだった。
『まだまだお子様なんだから、おねえさまに甘えてみなさい』
『……既に十分、甘えすぎてるくらいです』
『根本的に甘え方が足りないの。ラズラおねえさまは不満だわ。もっとべったりしてくれていいのよ、べったり。……今日は何を作ってるの?』
『トマトベースのスープです。ねえさまが好きって言ってましたから』
姉はどこか楽しげに、おたまを取るとスープを口に。
その横顔が綻んで、優しげにこっちを見た。
『美味しい。ふふ、何をやらしても天下一の妹だけれど、料理に関しては大天才ね』
『ねえさまはいつも褒め方が過剰ですね。何を作っても美味しいばっかり』
『わたし好みにベリーが一生懸命作ってくれてるんだもの。美味しくないことがあるわけないでしょ?』
頬を挟んで目を合わせ。
恥ずかしくなって視線を逸らすと、姉は楽しげ。
『わたしはあなたの作る料理を毎日楽しみにしてるんだから。……またそんな顔をして、おねえさまがあなたに嘘を吐いたことがあるかしら?』
『……少し思い出すだけで沢山あります』
『忘れなさい。それは気のせい――大切なのはいつだって今だけよ、ベリー』
『そんなだからねえさまはいつも適当なんですね』
『そーいうこと言わないの。なんて口の悪い子かしら』
切っ掛けはそんな些細なものだろう。
卑屈な妹へのお世辞かも知れないし、そうでないかもしれない。
ただ、自分が作った料理でそんな風に笑顔を浮かべてくれるのが嬉しくて――そういう風に喜んでもらえるならと努力して。
料理が好きになったのは、それで自分が誰かを喜ばせることができるのだ、という自信になったからだろう。
何一つ出来なかった自分が、たまたま手にしたものが料理であっただけ。
本当はなんでも良かったのだ。
少なくともその頃は、復讐を果たすための命であった。
その片手間に、少しでも二人への恩返しが出来れば良いと思ったし、それはそんな手段の一つであって。
それが変わったのは、セレネが生まれたもうしばらく後のこと。
『……え?』
『あなたがお馬鹿なことを考えてることくらい、あなたの尊敬する素敵で立派なおねえさまが見抜けないだなんて思った? 言っておくけれど、それはただの自己満足よベリー。わたしのためだと思ってるなら大間違い。あなたがロランドを刺し殺したところで全く嬉しくなんかないわよ』
『っ……でも、わたしは――』
『でもも何もないの』
姉は腰に手を当てて、怒ったように指を突きつける。
『わたしもそれはそれは不愉快で、ロランドを八つ裂きにでもしてやりたかったわよ。でも終わったことで、過ぎたこと。おかげで今はこうしてボーガンと出会えて、セレネが生まれて、妹の美味しい料理が毎日食べられて幸せなんだもの。ロランドにも感謝したいくらいだわ』
『そんなこと――』
『こういう巡り合わせだったのよ、ベリー。少なくとも今のわたしは天下一の幸せものだわ。あなたがわたしの代わりにだとか、わたしのためだとか、そんなくだらない理由でやるならやめてちょうだい』
じっと見つめられて目を逸らす。
姉はいつもそういう時に、勝ち気でどこか優しい笑みを浮かべた。
『あなたが貴族として自分が受けた屈辱を許せないというのなら、わたしには止められない。でも、わたしの家族として、それがわたしのためだというのなら、それは違うと断言してあげる。どうしてかなんて今更言わせないでちょうだい』
『……でも』
『ほら泣かない。口答えもしない。……あなたがそう思ってくれるのはとっても嬉しいわ。姉としてはそれだけ妹に愛されて、誇らしいくらいかしら』
泣けば、いつも姉はそれを拭った。
みっともなくて、情けなくて、嬉しくて。
甘えた自分が嫌だった。
『でもそうやってわたしのことを思ってくれるなら、わたしの幸せが続く方向で努力してくれると嬉しいわ。あなたはわたしの自慢の妹で、あなたがそう思ってくれるように、あなたの幸せがわたしの幸せ。今の生活は嫌い? あなたにとって不幸なものなのかしら?』
『そんな、こと、は……』
『でしょう? ふふ、あなたのことはおねえさまがなんだってお見通しなのよ』
泣かないの、と額にキスする。
どうしようもなく涙が零れて、困ったように姉は笑う。
『あなたの卑屈さはよく知ってるわ。どうせまた自分に価値なんてないんだとか、自分に出来ることはそれくらいしかないんだとか、そういうことばっかり考えてるんでしょう?』
黙り込むと姉は睨んで。
『確かにあなたに足りないところをわたしが持ってるかも知れない。でも、わたしに足りないところもあなたが持ってて――あなたはわたしのもう半分。わたしの代わりに家事をして、料理をして……あなたがいないとわたし、困っちゃうの。敬愛する半身であるおねえさまを困らせたりするのがあなたの望みなのかしら?』
首を振ると抱きしめられて、頭を撫でられ。
ますます涙が溢れて、情けなく。
『折角の巡り合わせなんだもの。あなたにもわたしと同じように、そんな巡り合わせに感謝して、これからは自分の幸せを見つけて欲しいと思う』
世界一の妹なんだもの、と悪戯っぽく笑う声。
世界一幸せになってもらわないと、と馬鹿な言葉が続いて響く。
姉はいつも過剰なくらい、そうやって言葉を重ねる。
『それでわたしは幸せで、ボーガンもそう。いい? 刃物の扱いが上手なら、お馬鹿なことを考えてないで美味しい料理でも作ってなさい。あなたまさか、わたしの可愛いセレネにわたしの手料理なんかを食べさせる気なの? そんなこと言ったら怒るわよ』
『……ねえさまの、手料理は……食べさせられませんね』
『そうよ全く。あなたにはわたしの代わりに料理してもらわないと困るんだから』
みっともないことを堂々と、いつだって姉は偉そうだった。
そんな姉のことが大好きで。
『あなたが大好きよベリー。……だから、約束してくれる? あなたにいつか別の幸せが来るときまで、ずっとわたしの側にいて、そうしてくれるって』
『……はい、ねえさま』
『ふふん、言質は取ったわよ。二言は許さないからね』
『はい。……この名に誓います』
だから、手段の一つだったそれが、いつの間にか掛け替えのないものに変わっていて。
「……可愛い」
雨が止み、雲間からは月明かり。
隣で眠るクリシェとクレシェンタを眺め、その頭を撫でた。
銀の髪と、赤く煌めく金の髪。
混ざり合う髪は美しく、眠る横顔はそっくりだった。
二人の髪をそっと撫でて、微笑み。
そうしてゆっくり身を起こし、そっと靴を履いて廊下に出る。
階段を通り、キッチンに向かい、そうしてしばらく周囲を眺めた。
広々としたキッチンに並んだ調理器具に目をやり、目を細める。
長い年月を掛けて集めた道具、一つ一つに思い出があった。
色んな料理に挑戦しようと色々揃えて、随分なお金を掛けたと苦笑する。
やはり半ば趣味で、無駄遣いと言えるものかも知れない。
『ベリーっ、これ、これはどうやって使うんですか?』
けれどそれに後悔はなかったし、それで良いとも思えた。
彼女の嬉しそうにはしゃぐ顔はいつだって思い出せるから。
調味料に目をやると、一つ一つ取りだしては、ほんの少しを口にした。
単なる風味付けから隠し味――多様な調理器具と同じく、集めた数は宮廷の調理場にも負けないだろう。
ただどれも、今のベリーには砂のよう。
食感と香り、分かるのはそれくらい。
記憶の引き出しからそれら一つ一つを取りだして、眺めるように理解する。
目覚めてから二週間、再び前と同じように料理をしながら、胸にあるのは不安だけ。
作るのは自信のある、手慣れた料理だけだった。
目を瞑っていても大抵の料理は作れる自信がある。
味付けも間違えることはないだろう。
ただそれがいつまでかと思えば、自信はなかった。
ほんの少しの狂いが日に日に重なって、数ヶ月後には来年には、大きな狂いとなるに違いない。
そうなればクリシェも気付くだろう、間違いなく。
新しい味付けに挑戦する勇気はなくて、楽しげなクリシェを見ながら、頭にあるのは怯えるような感情で。
もしかしたら明日には治っているかも知れない。
明日が駄目でも明後日には。
そんな風に思ってしまうと、言い出す勇気も出てこない。
「……やっぱり、ねえさまみたいにはなれませんね」
昔よりは少しくらい成長したと思っていた。
些細な事、命が助かったのだからそれでいい。
それ以上は望みすぎなくらいだろう。
自分のせいでクリシェは竜にすら挑んだのだ。
戦場ですら怪我をしないクリシェが、あちこちに傷だらけだった。
竜がどれほどのものかは知らなくても、それがどれだけのことであったのかは理解が出来た。
こうして自分が生きていられるのはそのおかげで、そうまでして自分を助けたクリシェを悲しませたくもなかった。
――いや、違う。
きっとそんなことではなく、結局自分は怖いのだ。
クリシェと繋がる料理というものが、自分から消えてしまうことが。
味覚のなくなった自分を、彼女はどう思うのだろうかと、それが怖いだけ。
彼女を驚かせたり、喜ばせたり。
そういうことが出来なくなって、そんな自分のどこに価値があるのだろうかと。
結局、自分が怖いのは利己的なもので。
彼女と繋がる一番のものを、手放してしまうことがどうしようもなく怖かった。
クリシェの優しさも、愛情も知っている。
そんなことはきっとないと思いながらも、けれど彼女に失望されるのではないかと、そんな風に考える心があって。
だから言い出せず、こうして先延ばしにしている。
どうしようもなく情けなくて、弱い人間だった。
「……ベリー?」
聞こえた声に肩を跳ねさせ、振り返る。
ネグリジェ姿のクリシェが少し眠たげに、不思議そうに入り口からこちらを見ていた。
「クリシェ様、どうされましたか?」
「……いえ、その、クレシェンタの寝相で起きたら、ベリーがいなかったので。何をしてるんですか?」
調味料を片付けておいたことにほっとして、微笑む。
「少し喉が渇いてしまって。ホットミルクでも作ろうかと」
クリシェはとてとてと近づいて、身を寄せる。
眠っていたせいか、その体は温かかった。
紫色の瞳は暗がりでも、窓から差し込む月明かりに輝いた。
きらきらとした宝石のような瞳が向けられ、彼女は尋ねた。
「ベリー、その、平気ですか?」
「え?」
「その……体の魔力も変わっていますし、本当はどこか痛んだり、違和感があったりするんじゃないかと思って。……リーガレイブさんにもらった血は随分刺激が強いって聞きましたから、やっぱり心配で」
クリシェは言って目を伏せる。
「前にも言ったとおり、体の調子は前より良いくらいですよ。確かに少し、体を操る時に違和感はありますけれど……慣れてきたのか以前よりも楽なくらいで」
言いながら、情けない、とため息をつきたくなる。
この期に及んで言うのが怖いのだった。
いっそあの時、セレネに打ち明けていれば良かったかも知れない。
日に日に心は怯えていくようで、日が経つにつれ勇気がなくなる。
「大丈夫でございますよ」
頭を撫でてやると、彼女は静かに頷いた。
嘘を吐いていることに罪悪感があって、けれど言い出すことも出来ず。
最低だと自分でも思う。
「その、変な所があったらすぐに言ってください。きっとクリシェ、なんとかしますから」
「はい。……クリシェ様もお飲みになりますか?」
「えへへ、はい」
クリシェは頷き、微笑み。
ベリーもそれに微笑んで、冷蔵庫から冷えたミルクを取りに行く。
クリシェは蜂蜜を手に取ろうと、すぐ側の調味料に目を向けて。
固まった彼女に、背を向けたベリーは気付かなかった。