見守られる者
※一間=1.8mほど 一里400mほど
ガーレンは何も言わず廊下を歩き、雪の積もるバルコニーへ。
クリシェもその後ろについて歩き、様子を窺うようにガーレンを見上げる。
「竜の件に関して、セレネ達から大体の事情は聞いた。事情もお前の気持ちも理解できないわけではない。聞きたいのはもう一つ……お前が出て行った晩に、王都で死んだ貴族達についてだ」
ガーレンは目つきを鋭く、クリシェを見た。
クリシェの記憶では、初めて向けられた目であった。
「お前が殺したのか?」
「……はい、おじいさま」
「では、目を瞑りなさい」
言われるまま目を閉じる。
閉じていても、何をされるのかはなんとなく理解が出来た。
手を振りかぶる音――咄嗟に避けようとする体を押しとどめて、我慢する。
「っ……?」
しかし予想したような痛みはなく。
ガーレンの手はクリシェの頬を撫でるように優しく触れただけだった。
恐る恐る目を開けると、ガーレンは悲しげにクリシェを見つめていた。
「何故避けない? お前ならば簡単だろう」
「……クリシェ、良くないことをしましたから。それでおじいさまが怒るのなら、我慢しようと思いました」
ガーレンはため息をつくと、眉間を揉んで扉にもたれ掛かる。
「良くないこととわかってやったのかい?」
続いたのは優しげな、祖父が孫に尋ねるような声音であった。
「はい。でも……それに関しては悪いことだともクリシェは思ってません。いつかクレシェンタが裁く相手を、先に取り除いただけです」
クリシェは顔を上げてガーレンを見つめる。
「村の近くで狼を見れば、被害に遭う前に殺します。仮にそれが赤子であっても、それを怠ればいずれその先、狼は村を襲って死人を出す。……おじいさまに昔、そんなことを教わりました」
「……確かに言った」
「そういうことをクリシェが怠ったから、何にも悪いことをしてないベリーが刺されました。あれは良くないことで、でも、決まり事が守られていない以上必要なことだと思いましたし、クリシェがいない間、セレネ達も不安でしたから」
クリシェは少し考え込み、言葉を探すように視線を左右に揺らす。
「村が賊に襲われた時だって、クリシェ、あの人達が良くない人だって気付いてました。クリシェがさっさと始末していれば、かあさまもとうさまも死なずに済んで……本当はそれが一番良かったと思います。例外はあるべきで……そういう危険は早い内に取り除いておくべきではないでしょうか」
後に回って良いことはない。
クレシェンタの言葉通り、それは一つの理屈であった。
物事は不可逆であるのだ。
「クリシェは良い子でありたいとは思いますけれど、やっぱり、善悪や決まり事よりも、取り返しが付かなくなる前に必要なことはしておくべきだと思うのです。……でも、それで怒られるのも当然で、我慢しなくちゃいけないことだとも思いますから、おじいさまが怒るのなら、罰は受けるべきだとも思いました」
ガーレンは目を閉じながら、黙ってその言葉を聞いた。
クリシェもそれきり黙って、しばらくその場を沈黙が満たした。
言葉を重ねようかと迷うクリシェより先に、口を開いたのはガーレンだった。
「……お前がそれを正しいと思ったならば、わしはそれで構わん。間違いとも思わんし、わし個人の考えもお前の考えとそう外れたものではない」
「……?」
「狼を見れば殺せ。お前の言うように、事実それを怠って村では多くを失った。ボーガンにしても、わしがしっかりとその脇を固めていれば避けられたことであったかもしれん」
過ぎたことだがな、とガーレンは続ける。
戦場から帰ったガーレンは剣を忌むように置き捨て、自警団ではなく単なる一狩人へと戻った。
あるいは自警団長ザールの言葉に耳を貸し、自分が自警団の中心となっていれば、上手く対処が出来たかも知れない。
老いた体にはそういう後悔ばかりが積み重なっていた。
しかしそれらは後悔でしかなく、自らの重ねた結末であった。
今更悔いたところで何が返ってくるわけではない。
「時に規則、社会的な善悪よりも正しきがあるとわしは思う。お前が全て理解した上で結論づけるなら言うことはない。……力ある貴族としては、それが一つの在り方と言えるだろう」
ガーレンは空を見上げた。
目映い太陽はしかし、積もる雪を溶かすほどではなく。
「貴族とは人の上に立ち、物事の規範を作るもの。社会とその善悪は、過去に多くの貴族が作り上げたものに過ぎない。しかしその構造に大きな歪みはなく、民衆は貴族の行いに納得を示し――それ故に社会は保たれる。社会とはそうした納得の上で成り立つものとまず理解しなさい。本質的には、村にあった掟とそうは変わらない」
「……村の掟?」
「そう。国と村では規模が違う。それ故、その仕組みや規則は大きく異なるように見えるのかも知れないが、本質的には同じものだよ。皆の納得の上で保たれるものだ」
ガーレンはそうだな、と歩き出し、欄干にもたれ掛かった。
「クリシェは一度、自分の存在を忘れてみなさい」
「えと……?」
「例えばお前がグレイスになったと考えるんだ。頭が良いわけではなく、不器用で、お前のようには剣も振れない。自分の身を自分で守る事すら出来ないだろう」
「……そうですね。かあさまにそういうのは無理です」
何が言いたいのだろうかと、首を傾げながらも言われたままに。
クリシェは考え込んで頷いた。
「法や掟とは突き詰めれば、そんな弱者が安心して日々を過ごすためのもの。……力なきものがそれに自ら縛られることをよしとするのは、それを守る限り安心が与えられるとそう信じるからだ。お前にとっては時に煩わしいものに感じるだろうが、それは単に、お前がそういう手段を取るだけの力と知恵を持つからに過ぎない」
クリシェはガーレンに近づき、ガーレンはそんなクリシェを見つめて撫でた。
ガーレンは腰を折ると、クリシェと視線の高さを合わせる。
「人を殺せば悪と言われる。けれど戦で人を殺せば英雄だ。不思議に思わないか? 何が違うと思う?」
「……共同体を守ったという大義名分があるか、ないかでしょうか?」
「極論で言えばそういうことだ。誰もが殺されることを恐れるから、人殺しは悪と規定される。これが弱者の論理――例えば誰もが殺されぬ強さを持つならば、そのようには扱われまい。誰もが己を殺されたくはないし、そして身内も殺されたくはない。……そう思うからこそ、人殺しは悪とされる」
少なくともそれは一つの答えだろうとガーレンは思う。
情も何もなく、善悪などとはそのようなものだ。
利己的発想に起因する。
「しかし戦争において敵はこちらの社会を脅かそうとするから、これを殺すことはむしろ正義である。善悪などは単純なものだ、弱者にとって都合が良く作られ、そして都合が良いから多くのものに受け入れられる」
クリシェはカルカの村――ベリーの言葉を思い出した。
ガーレンの言葉はそれに近しいものなのだろう。
「今回のことも同じこと。お前は自分の周囲にある弱者、クリシュタンドという小さな世界を守るため、法を犯して多くの貴族を殺した。……お前は一面で確かに善であろう。クリシュタンドを外敵から守ったのだ」
褒めるようでありながら、褒めるような口ぶりではなく。
「けれど国という大きな世界で見れば、やはりお前は悪だろう。小さな世界のことだけを考え望みのまま、自身に仇なすものを処罰するお前は、多くの力なき者にとって恐ろしい存在であるに違いない。少なくとも多くの弱者――貴族達はお前によって安心を脅かされたと感じたに違いない」
悲しげに目を細め、ガーレンは続ける。
「そして恐れは必ず敵意に変わる。今はお前を恐れ、彼等は従うことにはなるだろう。しかしそれは禍根となって、十年、二十年の先に再びお前と周囲を脅かすのかも知れない。弱者から法で守られる安心を奪うというのはそういうことだ。……お前はその度、同じことを繰り返すのかい?」
「それは……」
迷うようにクリシェは視線を揺らした。
こつん、と触れるように。
ガーレンはその拳で、クリシェの額を叩く。
「馬鹿な事だ。それくらいは分かるだろう?」
「……はい。お馬鹿なことです」
痛くはなくて、重みはあり。
初めて叩かれた感触は頭がくらりとするものがあった。
優しいガーレンに叱られたという事実が、とても大きく。
彼女の中では衝撃が鈍く響いた。
「ベリーが刺され、状況が状況だった。少なくともわしはお前を責めはせん。だが、短絡的に物事を見ることはやめなさい。……お前がしたことのために、女王陛下やセレネ、ファレン殿――色んな人間がお前の身を案じ、そしてお前の代わりに色々な苦労をした。だからこそ、こうして王都は落ち着いている。そのことにまず、きちんと感謝しなさい」
「……はい」
「……いい子だ」
ガーレンは微笑み、そのさらさらとした髪を撫でた。
そして身を起こし、欄干に手を掛ける。
「わしも後五年か十年か……なんにせよ、そう長くは生きまい。グレイスやゴルカの代わりにずっとお前のことを見守ってやりたいとは思うが、寿命ばかりはなんともしがたいものだ」
「おじいさま……」
こうして小言を聞かせることもそうないだろう、とガーレンは笑った。
「そうして寿命が来た時、お前ならばわしがいなくても安心だと、そう思いながら心残り無く旅立ちたい。ベリーをはじめ、多くのものがお前のことを大切に思って支えてくれている。今となってはそれほど多くの不安があるわけではないが……」
そしてしっかりとクリシェの眼を見つめた。
その頬に、硬い掌で優しく包み込むように。
「望む望まずに関わらず、お前はもう単なる村娘ではない。これからは自分の周りだけではなく、もっと長く広い視野で、色んな角度で物事を考えなさい。それからもっと、身近な人達にも気を配りなさい。……それが大人になるということだ」
「……はい」
「お前は幸い、見習うべき多くの人間に囲まれた。皆お前の良い手本となるだろう」
ガーレンはそこまで言うと、再びクリシェの頭を撫で。
クリシェはそんなガーレンを見上げ、甘えるように腕を絡める。
「まぁ一朝一夕でどうなるものではない。……お前の人生はまだ始まったばかり、これからゆっくりと考えていくといい」
「えへへ……はい、おじいさま」
そんな孫娘の様子は大人とはほど遠く。
ガーレンは苦笑しながら、そのまま彼女と歩きはじめる。
そんな二人が戻ってくると、セレネはほっと安心したような表情を見せ。
二、三、言葉を交わすと自分の仕事へ。
クリシェが心配で残っていたらしく、ガーレンに指摘されると顔を赤くして逃げていった。
黒旗特務の人間も既に訓練場へ戻っており、それからクリシェはガーレンと共にしばらく放置していたあちこちを見て回ることになる。
放置していたジャレィア=ガシェアは最初の一体に加えて更に二体が組み上がっていた。
ベリーが刺されたことをクリシェに伝えたネイガルは、随分と彼女の不在を不安に思っていたらしい。
良かった、良かった、と繰り返しながら心底安堵した様子で、そうした再会の後は軍人の顔になり、意気揚々と不要な部分を削ぎ落とした量産型ジャレィア=ガシェアを見せた。
現在の人員では月に2体の製造がせいぜい。
人員増加が必要かどうかはともかく、地下実験室では限界がある事を告げ、新たな工房の割り当てが必要であると報告した。
これには既にセレネが対処していたようで、かつてクリシェが幽閉されていた塔――その近くの倉庫を一時的な工房として用いることになっているらしい。
いずれそこでも手狭になるかも知れないが、先の事。
将来的には王都に大規模な製造工場を作ることになるだろうが、まだ実戦で使われてもいない。
しばらくはそれで十分だった。
その後は各軍団の視察に向かい、木々に囲まれた黒旗特務の訓練場へ。
「アレハ、駄目ですからね。クリシェは怪我人ですから、しばらく訓練とかしたら駄目なのです」
帽子を被り、マフラーを巻き付け、手袋を。
完全防寒、冬クリシェは両手を腰に当てながら、会って早々アレハを睨んだ。
クリシェはよほど嫌なのか、彼女としては非常に珍しいセリフだろう。
アレハは茶金の髪を掻き上げながら苦笑し、首を振る。
「ははは……もちろん、まさか怪我人のクリシェ様に手合わせを願うような真似はいたしませんとも」
「……それならいいですけれど」
「怪我が治った後、お付き合い頂ければ」
しかしアレハは剛の者。
ずい、と一歩近づきそう告げる。
クリシェはじり、と一歩下がった。
「く、クリシェは結構大怪我なので、ずっと先になるかもですね」
「ということは怪我さえ治ればお付き合い頂けると」
「え、ぅ……そ、それは、その……」
「先日は機会を逃してしまいましたからね……あれからは随分と間が空いてしまいました。あの時の埋め合わせも兼ねて、というところもありますし、怪我とはいえ訓練が出来ないというのは王国武人の規範にして長たるアルベリネア――クリシェ様としても思うところがあるでしょう。これでは部下に示しが付かないと」
黒旗特務の隊員達は彼が来てから恒例となったやりとりを呆れたように眺める。
普段周囲を振り回すアルベリネアは、理詰めの押しに弱い。
「そ、それは、確かにそうかもですが……」
「怪我が治った暁には、私が存分にお相手を。その際には是非声を掛けて下さい」
「うぅ……」
「アレハ副官、そーやってうさちゃんをいじめないの」
性質の悪い女衒にでも捕まれば、次の日にはどこかに売られていそうなクリシェである。
カルアは呆れつつも助け船を出し、クリシェを背中から抱いてアレハを睨む。
「人聞きの悪いことを言う。部下と上官の至って普通な会話だが」
「あたしにはすーっごく犯罪的に見えますけれど。ね、うさちゃん、怖いおにーさんとのお話はこれくらいにして、おねーさんがあっちでほーたい巻き直して上げようか?」
「……? カルア、包帯は朝替えたばかりなので……」
クリシェは困ったように首を傾げ、
「はい、ストップ」
「うぐっ」
「どっちかって言うとカルアの方が犯罪的だよ、もう」
ミアがカルアの束ねた髪を引っ張り、嘆息する。
カルアは引っ張られた髪を撫でつつミアを睨んだ。
「うぅ、だからそーやって引っ張らないの」
「カルアが馬鹿な事ばっかり言うからでしょ」
ミアは眉尻を吊り上げつつ、くいくいと馬の尾のような髪を引っ張った。
クリシェは不思議そうにしながらミアに目をやる。
「ミア、隊の様子は?」
「はい、クリシェ様。現在の人員は247名。弓兵育成の方は大体の選別も終わり、狩人出身者13名を基軸に、計67名が適性ありとして訓練継続中です。ほとんどが新兵で、ガーレン様の提案もありダグラ隊長は白兵訓練に混ぜてからも並行して弓術訓練を続けると」
弓の習熟にはそれなりの時間が掛かる。
ある程度まともに矢を放てるようにするだけならば一ヶ月もあれば十分だが、そこからの技術向上は先が長い。
ある程度集中した訓練を行なった後は白兵戦闘と並行し、訓練を継続していく必要があった。
「速成となれば特に、毎日弓は引かせた方が良い。少なくとも感覚が体に染みつくまでは。わしらやゴルカが毎日森へ入っていた理由は知っているだろう?」
ダグラと話していたガーレンが告げる。
カルカの狩人は獲物を狙うのでなくとも、嵐でなければ毎日一度は森に入り弓を引いた。
そこでの感覚を損ねないためだ。
特に木々に覆われた森の暗がりや光量の少ない夜の闇。
そうした場所では目の錯覚で的に対して狙いが僅かに上へとズレる。
日中の平原とは異なるその感覚を体に覚え込ませる必要があり、点ではなく面で目標を捉える癖を付ける必要があった。
「はい。えーと……クリシェにはその辺りの調整がよく分からないので、ハゲワシ達やおじいさまにお任せします」
初めて弓を持てば、その日の内に狙った的の芯を射抜ける。
そんなクリシェにそうした弓の難しさはわからない。
剣も同じく――クリシェは基本的な訓練計画立案には一切触れず、部下に全てを任せていた。
必要とする最低水準を提示し、その訓練に必要なものを与えて終わり。
それがダグラとガーレンの決定であれば口出しもない。
「投槍は?」
「特に遠投は順調に伸びてますね。みんな頑張ってます」
「ふむふむ……」
投槍は訓練の終わり、疲労状態で行なわれることになっており、特に金属製の訓練投槍――通称『悪夢の十本投げ』は特に新兵からは不人気であったが、その分訓練効果は高かった。
「カルアなんかびっくりですよ。先週、普通の投槍で一里近く投げたんですっ」
「えへ、ほーらうさちゃん、褒めて褒めて」
「んー、平均は?」
「大体七十間、八十間くらいですね」
弓の有効射程が精々百間。精鋭の長弓ならば百二十から百四十程度。
兵士の投槍平均は二十間から三十間。専門の軽装散兵ならば三十を少し超える程度。
一里近く――二百間を投げたとなれば中々悪くはない。
黒旗特務平均の倍以上は飛ばしている計算になるし、長弓を超えている。
クリシェは少し考え込むようにしながら、頭の後ろに手を伸ばし、適当にカルアを撫でた。
「及第点ですね。褒めてあげます」
「まー、うさちゃんには敵わないけどね」
「そんなところで満足してたら駄目ですよ。クリシェと比べたらカルアの方が背が高くて有利なんですから、クリシェより投げられるようにならないと。まだまだです」
肩の上に顎を乗せたカルアを撫でつつ、クリシェは告げる。
魔力保有者の身体能力を考えれば、常人の倍は投げられて当然。
そしてクリシェにとって、上手の定義はつま先から指先までを利用した完全なる理論値である。
常人からすれば想像を絶するものとなったカルアの投槍は、やはり彼女にとってそこそこであった。
話を聞いていた新兵達は困惑したように彼女を見る。
酷く小柄に見える彼女が城壁を崩しかねない投槍を行なうと聞いてはいるが、槍とは思えぬ轟音奏でるカルアの投槍を見た後では、それより強力な投槍というのが想像も付かない。
「ミア、悪くない数字ですが、以前言ったようにクリシェの希望はひとまず平均値で百間超です。弓兵の有効射程外から投槍で狙えるようになれば随分と楽ですし、伏撃に頼らない真正面からの決戦であっても戦術として組み込めます。もっと頑張らせるように」
弓が正面からの曲射で致命的打撃を与えられないのはその重量が原因。
矢を重たくすれば射程は損なわれ、軽くすれば貫通力を損ねる。
矢にはどうしても限界があった。
しかしそれが槍ならば雑兵の鎧や盾などで防ぎきれる限界を超え、致命的な打撃を与えることが可能になるだろう。
危険を冒すことなく一方的に相手を殺す。
クリシェが求める結果はいつだってそれだけで、そして彼等に求めるのはその手段であった。
「えぇ……?」
「口答えはしないようにってハゲワシがいつも言ってますよ。ミアはちゃんと出来てるんでしょうね?」
「わ、わたしは結構、その、今回は平均より上というか……結構投げられてる方ですよ?」
「駄目です。カルア、ちゃんとミアを鍛えておかないと駄目ですよ。こういうのは訓練を指示する側がきちんとやらないと示しが付きません」
「んー、ミアは力業で変な癖があるからなぁ」
「カルアうるさい。飛べばいいの」
拗ねたようにミアが言い、カルアは悪戯っぽく笑みを深めた。
「ふふん、頑張りましょうねミア副官。いくらミア副官の運動神経が鈍くてどんくさくても、このカルア特務班長がみっちり教えてあげますから。いつでも教えてくださいカルア様って言ってきてもいいですよ?」
「この……っ」
「うさちゃん、ミア副官はうさちゃんの命令は承服しかねるって。部下に教えを乞うなんてできないらし――うぇ」
「そういうの駄目って言ってるでしょ! クリシェ様は真に受けるんだから……」
ミアはカルアの頬を引っ張り、睨み。
クリシェは頭の後ろで行なわれるやりとりを少し迷惑に思いながらも、仲の良いのは良いことだろうと頷く。
クリシェの中で頬を引っ張るのは愛情表現である。
「まぁ概ね順調ですね。訓練に増員……ぴりりん班もちゃんと真面目にやっているようで何より。ハゲワシ」
「は」
「以前言った通り、今回は護衛班キリク達を抜いて新規のぴりりんは300名まで。ぴりりん班にはぴりりんが終わり次第、適当に休暇を与えてください。クリシェが別業務を与えますからそのつもりで」
「かしこまりました。選別班――い、いえ、ぴりりん班長ダズには改めて連絡をしておきます」
選別班という呼び名に不満を浮かべたクリシェは、言い直したダグラを見て満足そうに頷いた。
「正式名称はぴりりん班ですからね? 隊の外ではそういう呼称を許しましたけれど、こういうところはハゲワシがきちんとしなきゃ駄目です。命令の際に呼称で誤解が生じたりしては問題でしょう?」
「は、申し訳ありません……」
カルアは堪えきれず顔を背けて肩を揺らし、ダグラが睨む。
それに気付いたカルアは咄嗟にクリシェの細い腰を掴んで持ち上げ、ダグラと自分の間に置き、その背後に隠れた。
ダグラに対する盾――流石のダグラもクリシェの真後ろにいるカルアを睨みつけるわけにはいかない。
目頭を揉んで嘆息する。
「……? まぁとりあえずです、命令、報告の際は常に正式な名称を用いるように。ぴりりん班ですからね、業務名は新規ぴりりんです」
「は。……い、以降気を付けます、クリシェ様」
ダグラの様子にガーレンは苦笑し、ミアは、うわぁ、とぴりりん班――ダズ達に憐れみを浮かべた。
ぴりりんという名前が気に入っているらしいクリシェである。
やはりこの先ずっと、彼等はそうして彼女に呼ばれることになるのだろう。
不憫である。
「理解したならそれでいいです。これくらいでしょうか……」
クリシェは唇をむにむにと動かし、そのままカルアにもたれ掛かった。
日は既に傾き始め――視察とは言えあちこちを歩き回り見て回り、クリシェも傷が癒えきった訳ではない。
体には少し気怠さがあった。
カルアは彼女の頭を撫でつつ、大丈夫? と声を掛ける。
「平気です。でもやることは終わりですし、今日はこれで帰ろうかと」
「そか。まぁうさちゃんも病み上がりだしねぇ、送ろうか?」
「そこまで気を使ってもらわなくても大丈夫ですよ」
クリシェは嬉しそうに言って、微笑む。
「うさちゃんも竜の血をもらえば良かったのに……ああいや、それはそれで元気になりすぎるのかな。なんか強すぎる、みたいなこと言ってたし……ベリーさんはどう?」
「えっと、大分。今日はお庭に出てましたし……でも、そうですね、あんまりよく考えてませんでした。……ベリーは元気になったって言ってたので、大丈夫だとは思うのですが」
心配そうにクリシェは言って、カルアは考え込む。
「んー、あの人は多分、何かあっても我慢して気を使いそうな人だから、うさちゃんもよく見てあげた方がいいよ。本当に元気だって言うなら何より、それでいいんだろうけれど」
「……はい。体のふよふよも前に比べて随分量が多くなってますし、ちょっとおかしな所くらいはあるかもしれません」
見た目にわかる変化はその辺りだろう。
以前までのベリーとは魔力が少し異なっている。
竜の魔力と混じり合ったせいか――増えること自体はそれほど問題がないことと思っていたが、感覚的な問題はあるかも知れない。
特に体があまり強くないベリーは、クリシェやクレシェンタのように日常的に魔力を用いた肉体拡張を使う。
魔力に変化があればそういう部分にも多少の影響があるはずで、けれどベリーは何も言っていない。
誤差や違和感程度であるからか、それとも、クリシェに心配を掛けないためか。
ベリーならカルアの言うとおり、もしそういうことがあっても口に出さないように思えたし、普段よりずっとクリシェが気を使うべきだろう。
「ありがとうございます。お昼におじいさまにも、もっと周りに気を使えって言われたばっかりです。……考えてみればクリシェ、自分が喜んでばかりで誰よりちゃんとベリーのことを気遣えていませんでした」
クリシェは言って目を伏せた。
カルアは苦笑して、そんなクリシェの頬を挟む。
「ほらほら、そんな顔してたらだめだよ。あたしもちょっと気になっただけだし、心配しすぎって可能性の方が高いだろうさ。うさちゃんがそーいう顔をしてる方がベリーさんには大打撃だ。ほーら、笑顔笑顔」
カルアは笑いながら、クリシェの口角を無理矢理に上げ。
ミアはまったく、と呆れたようにカルアを見る。
いくらクリシェが気にしない人間とは言え、王族かつ元帥に次ぐ地位の軍人。
本来雲の上の存在である。
だというのに完全に子供扱い――いつものこととは言え、それはどうなのか。
とはいえ、そういうところが彼女のいいところでもあるとは言え、くすりと笑うとダグラとガーレンを見た。
「隊長、ガーレン様、クリシェ様には他に何か?」
「いや。どうあれ、クリシェ様の傷が癒えていないことは確かだ。しばらくお休みになって頂いた方が良いだろう。……クリシェ様、現状問題はなく全て滞りなく進んでおります。なにかあればまた連絡を致しましょう。傷が癒えるまではご静養を」
「ん……はい。ハゲワシもミアやアレハと交代でちゃんとお休みを取るように。無理しちゃ駄目ですからね、ハゲワシだって刺されたんですから」
ダグラは嬉しそうに笑い、脇腹を叩いた。
「はは、もう随分と前の話です。お気兼ねなく……とはいえ、肝に銘じましょう」
ガーレンもその様子を見て満足そうに頷く。
「休むのも仕事の内だ。ベリーにまた顔を出すと伝えておいてくれ」
「はい、おじいさま。それじゃあまた今度」
「ああ」
クリシェが挨拶を済ませると、すかさずカルアがその手を取った。
「では姫、わたくしめが付き添いを……」
「あの、カルア? だからクリシェは一人でも……」
「いいからいいから、怪我人なんだし」
カルアが言ってクリシェの手を引こうとし――ダグラが低い声音でカルアを呼んだ。
「カルア。……後でお前には色々と言いたいことがある。いつもそうやって逃げられるとは思わんことだ」
「うぇ……」
「はぁ、まったく、お前という奴はどうしてそう……まぁいい。ひとまずはクリシェ様をお送りして妹の顔でも見てくるといい。説教はそれからにしてやる」
「はーい……」
「返事は短くだ馬鹿者」
「はい隊長、黒旗特務中隊特務班長、これよりアルベリネアの護衛任務に就きます」
カルアが踵を鳴らして敬礼すると、ダグラはこめかみを揉んで嘆息する。
こういう所さえなければ言うところはないというのに、ダグラは彼女を見ていると頭が痛い。
彼女は群を抜いて優秀なだけに、ダグラとしては悩みの種であった。
カルアはそんなダグラに構わず、クリシェに目をやり微笑んだ。
「じゃ、行こっかうさちゃん。エルヴェナにお茶でも淹れてもらおうかな」
「はい」
「……カルアって本当ずるいよね」
「ふふん、賢いと言って欲しいね」
「そういうのはずる賢いって言うの」
ミアもまたダグラと同じく嘆息し、手を引かれるクリシェの姿に微笑んだ。