竜の血
第十七次クリシュタンド内戦の発端は翌日目覚めたベリーにあった。
すぐさま抱きつこうとしたクリシェであったが、ベリー自身の肉体は時間が止まっていたため、刺されてからの経過時間は僅かに二日。
偉大なる竜の恩恵があるとはいえ腹の傷は当然まだ塞がっていない。
彼女の動きはクリシュタンド家当主セレネ=クリシュタンドによって制止され、ベッドの中へ侵入、ベリーに抱きつくというクリシェの試みは断念せざるを得なくなった。
ではどうするか――ここで前に出るはアルベラン女王にして名誉クリシュタンド、クレシェンタ=アルベラン。
おねえさまはこっちに座るべきですわと椅子を示し、姉の上に自らのポジションを作り上げようと画策する。
だが、これに反発したのはまたもセレネ=クリシュタンド。
彼女はクリシェもまた怪我人であるという大義名分を用い、自らの膝の上こそクリシェに相応しいと宣言。
事態は混迷を極め、最終的にはベリーの隣、枕元に座り込んだセレネの上にクリシェが座り、真正面からクレシェンタが抱きつくという奇妙なオブジェをベッドの上に構築するに至る。
「大体理解できたかしら?」
クリシェを抱きつつ頭を撫でるセレネの言葉に、ベリーは頷く。
ベリーが寝ている間に起きたこと――内容は比較的真剣な話ではあるものの、ベリーから見える構図とのギャップは激しい。
困ったように曖昧な笑みを浮かべたまま、申し訳ありません、と横になったままベリーは告げる。
「……わたしの油断のせいで――」
「本当ですわ。あなたの油断で王国滅亡の危機ですもの。謝って済む問だ――うぅ……」
「クレシェンタ、次にそういうこと言ったら怒りますからね」
クリシェはクレシェンタの唇を指で挟み。
セレネは手を伸ばすとベリーの額を軽く叩いた。
「そうやってうじうじしないの。……あなたは単に被害者、お腹を刺されて死にかけたあなたに責任を問う人間がいるなら見てみたいわよ。堂々と命が助かったことを喜んで、このお馬鹿と聖霊にでも感謝してなさい」
ベリーは叩かれた額を押さえ、呆けたようにセレネを見るとおかしそうに。
少女のように笑って、わざとらしく両手を組んだ。
「……ああ、ねえさま、お嬢さまがねえさまみたいなことを仰ります」
「あのね……」
セレネはクリシェを膝に乗せたまま、ベリーの柔らかい頬をつまんで顔を近づける。
「随分元気そうね。気を使って失敗だったかしら」
「ふふ、お腹はちょっと痛いですけれど……体の調子自体は悪いものでは」
「そう。まぁ心配してなかったけれど。……目覚めてすぐ、公衆の面前で、堂々とクリシェにキスをしちゃうくらいだものね」
「え、えと……」
途端に顔を真っ赤にさせて、ベリーは視線を泳がせる。
そして窺うようにセレネを見た。
「あ、あのですね、そ、その記憶は、曖昧と言いますか……」
「覚えてないの? クリシェ、ベリーはあなたにキスしたことを忘れ――」
「う、嘘です、覚えてます……で、でも夢だと思ってて……」
恥ずかしそうに目を潤ませ。
セレネは苦笑して頭を軽く叩いた。
「全く。それで、本当に体は大丈夫?」
「はい、その……ちょっと火照っているくらいですね。……お水、頂けますか?」
「あ、はいっ」
クリシェが水差しに手を伸ばし、水をコップに注ぐ。
ベリーは身を起こそうとして眉を顰め、セレネは彼女に手を貸した。
ほんの少し熱っぽく、上気した肌。
薄手のネグリジェから覗く乳房や腰のラインにはなんとも言えない色気があって、セレネは呆れたように彼女を見つめる。
「あなたってそうしてると、本当に色々勿体ないわよね」
「……?」
首を傾げる姿も色っぽい。
本当引く手数多だろうにと嘆息すると、左右に首を振る。
「いや、いいんだけれど。さっきから水ばっかりだけれど気分はどう? 何か食べられそう?」
「ええと……はい、大分、落ち着いて来ましたので」
クリシェはコップの中に蜂蜜を溶かしてかき混ぜ、ベリーに手渡す。
受け取ったベリーはしばらくそれを眺め、ゆっくりと口を付けた。
ゆっくりと味わうように目を伏せ。
それからクリシェに微笑んだ。
「ありがとうございます、クリシェ様」
「えへへ、じゃあ早めにお食事を作ってきた方が良いかもですね――」
ドアがノックされ、アーネが入ってきたのはそんな時。
三段重ねの美少女オブジェを困惑しながら眺めつつ、アーネが銀のトレイに乗せて持って来たのはラクラの蜂蜜漬けであった。
おお、とクリシェは少し感心したようにアーネを見る。
見計らったようなタイミング――実際アーネは扉の前でトレイを持ったまま、タイミングを見計らっていた。
「アーネ、まるで普通の使用人みたいですね」
「あ、ありがとうございます……」
普段は普通の使用人ではないと言わんばかりの言いぐさである。
僅かにアーネは傷つくが、
「そんな言い方しないの。あなたがいない間、アーネは頑張ってくれてたんだから」
「っ……!」
その言葉に涙を滲ませ、彼女は感動したようにセレネを見つめた。
クレシェンタはそんなアーネを胡乱な目で見つつ、しかしそのトレイの上――ラクラの蜂蜜漬けには興味を示す。
クレシェンタは甘党である。
「は、はい! 以前教わったラクラの蜂蜜漬けを作っておいたのですが……いかがでしょう? 食欲がなくとも、これならば食べやすいと思うのですが」
ベリーが目覚めた時にはアーネもいた。
当然何かと世話を焼こうとしたのだが、クリシェがやると部屋を追い出され――しかしアーネも剛の者。
そんなことでは彼女も折れず、そして彼女には秘策があった。
昨晩から漬け込んでいたこのラクラの蜂蜜漬けである。
白桃色の果実は琥珀の蜂蜜に包み込まれ、美しい輝きを見せていた。
皮を剥いて切り分けた甘いラクラを蜂蜜に浸けるだけ、料理とも言えぬ単純な代物であったが、出来映えは悪くない。
クリシェはじっと蜂蜜漬けを眺め、ベリーを振り返る。
「ベリー、どうですか?」
「はい、では折角ですし頂きます」
「良かった。……ふふん、アルガン様に教えられた通りの出来映え、今日の蜂蜜漬けは結構自信作なのです」
「ふふ、ありがとうございます」
クリシェはアーネから皿を受け取り、ラクラの蜂蜜漬けをいくつか取るとじっと見つめる。
果実には切れ込みが入っており、これはベリー流の細工であった。
数日浸けるのであればともかく、一夜漬けの場合中まで蜂蜜の甘味が浸透しきらない。
そこで包丁による切れ込みを入れて、果実全体に蜂蜜を浸透させる――よくできているとクリシェは頷き、アーネを見た。
「アーネにしては中々ですね。ベリーに教えてもらったことをちゃんと覚えているようです」
「っ、はい! 味見をしましたが、今日はこれぞと言える出来のはず……これならば皆さんにもご満足頂けるだろうと」
セレネは偉そうなクリシェと嬉しそうなアーネの様子に呆れて苦笑した。
単純極まりない病人食である。
不器用なセレネどころか子供でも作れる代物であるが、クリシェの中でアーネというのはどういう評価であるのだろうかと少し不安になる。
極めてドジが多いことを除けば、アーネは何事もそれなりにこなせる使用人なのだが、クリシェとクレシェンタの評価は極めて辛い。
クリシェは満足げに微笑み、スプーンで切り分けるとベリーの口元へ。
「はい、あーん」
「あ、あはは……失礼します」
困ったようにベリーは口を開き、ラクラを味わい――ほんの少し固まった。
クリシェが首を傾げると、ベリーは首を振って微笑み、アーネに告げる。
「とても美味しいです、アーネ様」
「っ!」
「えへへ……じゃあクリシェも」
クリシェは言ってラクラを口にし、頬を綻ばせた。
「ちょっと酸味が強いラクラですね。美味しいですけれど」
「えーと、その、アルガン様のお好みはこちらの方ではないかと、あまり熟し過ぎてないものを……ただでさえ甘い蜂蜜漬けですし」
「ありがとうございます。ちょっとシャリシャリしていて食感が良いですね」
「……クリシェの知らない間に、アーネがちゃんと食材選びまで……」
クリシェは驚きながらアーネを見て、彼女は照れたように笑う。
「ふふ、お二人がお休みの間、お料理はお任せください。お二人がキッチンからいなかった間に、密かに特訓を積んでいたのです」
「……意外です。ちゃんとまともな努力は出来たんですね」
「え……?」
アーネは固まり、ベリーは駄目ですよ、と苦笑しながら彼女をたしなめた。
そうしたやりとりを何やら羨ましそうに見ていたクレシェンタは、じっとクリシェを見上げて口を開く。
「クレシェンタは甘えん坊ですね。はい、あーん」
「んむ……」
クレシェンタは与えられたラクラを味わい頬を緩め、ふと気付いたように真面目な顔でアーネを睨む。
「まぁまぁですわね。悪くないですわ」
「は、はいっ、ありがとうございますっ」
セレネは苦笑して、アーネから皿を受け取りラクラをつまむ。
問題がないではない――だが少なくとも、今までの日常が続いていることを安堵して、微笑み。
ラクラの果実は甘ったるいくらいに、セレネの味覚を楽しませた。
「お昼は何がいいですか? スープの方がいいでしょうか?」
「そうですね。お願いしてもよろしいですか?」
「はいっ、ベリーには早く元気になってもらわないと……いっぱい栄養がありそうなスープ作りますね」
「……はい」
クリシェはクレシェンタの腰を掴むとベッドに降ろし、立ち上がる。
「じゃあクリシェはお昼の準備をしてきます。アーネがちゃんと、キッチンを綺麗にしてたかちょっと心配ですし……」
「い、一応綺麗には……」
アーネは視線を泳がせ、ベリーは困ったように。
ベッドに降ろされたクレシェンタも立ち上がり、
「わたくしも行き――」
「あなたは会議があるんでしょう。待たせてるんじゃないの?」
クリシェに続いて出て行こうとするも、その首根っこをセレネに掴まれる。
クレシェンタは唇を尖らせつつセレネを睨んだ。
「……女王はちょっと遅れるくらいがいいのですわ」
「全く、駄目。後でこっちとも会議があるんだから。……クリシェ、お昼には一度帰ってくるから、わたしたちの分もお願いね」
「はい」
クリシェはベッドに乗り上げるとベリーに口づけ、行ってきます、と部屋を出た。
あちこちを怪我しているわりには随分と元気そうなクリシェを見ながら、セレネは苦笑しベリーを撫でた。
「……色々と問題がないとは言えないけれど、ひとまず最悪の事態は避けられた。だから気にせず、たまにはゆっくりなさい。元気になってよかったわ」
「……はい、お嬢さまにもご心配をお掛けしました」
「いつも心配を掛けてるのはわたしの方だもの、おあいこ」
セレネは微笑み、ベリーも微笑みを返して頷く。
「治ったらまた、あなたの美味しい料理を食べさせてくれるかしら?」
「……そう、ですね」
ベリーは僅かに視線を泳がせ、セレネが首を傾げる。
彼女は脇腹を押さえて苦笑すると、困ったように静かに笑う。
「いえ、横になろうとしたらお腹が少し」
「……もう」
セレネはベリーの背中に手を当てると、そのままゆっくり寝かせてやる。
申し訳ありません、と恥ずかしそうにベリーは言って、セレネは呆れたように睨んだ。
「後でまたお医者様を呼んでもらうわ。痛み止めか何かをもらいましょう?」
「はい、お手間を――」
「そういうの禁止。たまには甘えて、手間を掛けさせてちょうだい。……あなたは頑なに使用人って立場にこだわるけれど、その前にわたしたちは家族なんだから」
セレネはベリーの頬を両手で押し潰すように。
ベリーはそんなセレネをじっと見つめ、目を伏せて。
「えぇと……ですね」
「……何?」
「もうっ、セレネ様、自分から言っておいていつまで待たせる気ですの?」
聞こえた声は扉から。
クレシェンタが頬を膨らませ、セレネとベリーを睨んでいた。
「もう行くわよ。……ベリー?」
「いえ、なんでもありません。行ってらっしゃいませ」
「……何かあるなら言ってちょうだい。気になるじゃないの」
セレネは眉根を寄せて、両手を腰に当てる。
ベリーは首を振って、微笑む。
「また今度、落ち着いたときにでもまたお話しします。気にしないでください、重大なものではありませんから」
「……はぁ。わかった。……いい? なんでもいいけれど、一人であれこれ考えるのは駄目よ?」
「はい。気を付けます」
そうしてセレネも部屋を出て、一人残ったアーネはどうしたのかと、首を傾げてベリーを見る。
ベリーは首を振って微笑んだ。
「アーネ様、申し訳ありませんが……何か果物を持って来て頂けますか?」
「はい、もちろんですっ。どんなものが良いでしょう?」
「さっぱりとしたものが……ふふ、少し食べたら食欲が出てきたかも知れません」
「そうですか、それは何より……少々お待ちくださいませ!」
アーネは慌ただしく部屋を出ていくのを見送って、苦笑し。
ベリーは一人きりになった部屋で、静かにその身を起こす。
サイドテーブルにあった蜂蜜をスプーンですくい、手の甲へ垂らして眺めた。
そのうっすらとした香りを感じながら、ゆっくりと彼女は口付ける。
とろりとした蜂蜜を、しばらく確かめるように舌で転がし。
それから彼女は目を伏せた。