竜の盟約者
竜の声は周囲一帯に伝わっていた。
言葉の意味する内容よりも頭の内側に響くような奇妙な声。
竜が現れたことに慌てていた民衆は更に混乱を強め、城下街は混沌としている。
そこに人の身の丈を優に超える翠虎が現れれば、当然それは激しさを増す。
人混みを抜け、屋根を伝い、翠虎を走らせ王領へ。
クリシェは横乗りにその毛を掴み、声と魔力で行き先を伝えるように。
知らぬ土地にも関わらず、翠虎はクリシェの意思をよく読み取った。
王領前――守衛の兵士は翠虎の姿に身を強ばらせて警戒するも、その上に乗る少女を見て、彼等はすぐに道を譲る。
王都にあって、彼女の名を知らぬものなどどこにもいない。
王領の門を潜って飛び込めば、屋敷などはすぐであった。
「く、クリシェ、様?」
「エルヴェナ、久しぶりです」
屋敷の前でセレネ達の帰りを待っていたエルヴェナは、突如眼前に現れた翠虎――その巨体に腰を抜かしかけ、ドアにもたれ掛かる。
そして翠虎の背中から飛び降りたクリシェの姿にほっと胸を撫で下ろした。
「良かった……ご無事で。その、お怪我を……」
毛皮の外套から覗く破れたワンピースや包帯を認め、彼女は僅かに眉尻を下げ。
そんなエルヴェナを見てクリシェは背伸びすると、その頭を優しく撫でた。
「大丈夫です。エルヴェナにも心配掛けてしまいました、ごめんなさい。……でも、全部ちゃんと、これで解決しましたから、安心してください」
「は、はい、いえ……わ、わたしが謝られるような、ことは、何も……」
言いながらも涙を滲ませ、慌てたように指で拭う。
クリシェはじっと彼女を見つめ、微笑んだ。
「屋敷のこと、ありがとうございます」
「……はい」
エルヴェナもまた微笑み、頷いた。
「でも、続きはまたちょっと後で……ベリーの所に行かないと。ちょっとこの子を見ていてくれますか?」
「こ、この子……」
「ぐるるんです。危ない所を助けてくれて……クリシェの恩猫というやつでしょうか」
「そ……そうなのですか」
四足歩行にも関わらず、その背丈はエルヴェナよりも随分と高い。
肩から腕の筋肉など、エルヴェナの腰ほどはあるだろう。
一目にそれとわかる猛獣である。聞きたいことはそのような説明ではなかった。
だがこの猛獣を目の前に置き去りにされるという現実に、恐怖を覚えつつも頷くほかないのだろう。
このクリシェという少女には、どう説明しても自分の感じる恐怖など伝わるまいし、もう説明は終わったと言わんばかりであった。
「ぐるるん、エルヴェナを食べちゃ駄目ですからね。じっとしてるんですよ」
ぐるる、などと分かっているのかいないのか、ぐるるんなる猛獣は応じるようにうなり声。
彼を前に指を立てて告げる言葉は更にエルヴェナの恐怖を掻き立てたが、クリシェは当然気付かない。
エルヴェナを翠虎の前に置き去りにすると、そのまま彼女は二階へ飛んだ。
向かった先はベリーの眠る、自分の部屋のバルコニー。
魔力を用いて鍵を外から解錠すると、中にはフライパンを構えたアーネが廊下側のドアの前に立っていた。
彼女は入ってきたクリシェに気付きもせず、両手でしっかりとフライパンを握り締めている。
「……何してるんですか?」
「ひっ!?」
アーネは肩を跳ねさせ振り返り、クリシェの姿を見てその場にへたり込んだ。
クリシェ様、と情けない声をあげ、間の抜けた様子で答える。
「りゅ、竜が来たと聞いて、も、もしものためにアルガン様をお守りせねばと……」
竜を相手にそのフライパンでどうする気であったのか。
廊下を警戒してどうするつもりであったのか。
何故そもそもフライパンであるのか。
「……フライパン返してきてください。それ、ベリーのお気に入りなんですから……もう。乱暴に使ったら怒りますからね」
言いたいことは色々とあったが、一言で済ませるとベッドへ近づく。
赤い髪、整った顔。
時間の止まったベリーは、出て行ったときと変わらぬ姿であった。
この状態でどうかなるなどと考えてはいなかったが、その姿を見てほっと息をつく。
掌を向け、描き出すは幾何学紋様。
作るときと比べれば、解除するのに要する魔力は小さなもの。
世界を隔てる見えない壁は消え失せて、少し荒れたベリーの寝息が部屋に響いた。
すぐにシーツを下げて、ネグリジェ姿の彼女を両手に抱く。
少し苦しげに眉根が寄せられ、体は酷い熱を帯びていた。
クリシェは眉根を寄せると、その頭に頬を寄せる。
「アーネ、ドアを」
「は、はいっ」
慌てたようにアーネはドアを開けて玄関に走り、クリシェもそれに続く。
出来るだけベリーの体を揺らさないようにしながら廊下を進み、階段を抜ける。
表に出ると二人に告げる。
「じゃあちょっと行ってきます。……アーネはフライパン片付けておくように」
返答を待たず、クリシェは駆けた。
翠虎は不思議そうにそれを追い越し、随分とゆっくり走る主人を何度か振り返るが、
「ぐるるんは荒っぽいので駄目です」
クリシェに言われ、ぐるる、と声を上げつつ歩調を合わせた。
王都に現れた竜。
そして街中を悠然と走る翠虎。
来た時と同じく騒ぎは凄まじいことになっており、少々面倒。
こんな状態のベリーを抱きながらでは、屋根を伝って進むことは出来ない。
どうするべきかと考えるが、しかしそれも一級市街を抜ければ次第に止んでいく。
「クリシェ様!」
そこにいたのは黒塗りの鎧を着込んだ男達。
黒旗特務がクリシェの駆ける王都中央の大道、混乱に陥りかけた民衆を宥めつつ道を作らせている。
正面に現れ並走するはダグラであった。
「流石ハゲワシ、気が利きますね」
少し先にはミアやアレハ、タゲルやコリンツといった者達が民衆整理の指揮を執っている様子が見えた。
クリシェは素直に感心しながらその道を駆けていく。
「いえ、当然のことです。これは特別任務として事後承諾をお許し願いたいのですが」
「……そうですね、許して上げます。でも今回はともかく、あんまりこういうことしちゃだめですよ。怒られちゃうと大変ですから」
「は。もちろんです。部下にも示しがつきません」
不作法ながらもダグラは走りながら敬礼した。
許可なく訓練以外の名目で隊を動かすことは認められていない。
状況が状況、民衆の混乱を抑えるためという名目の言い訳が使えるし、事後承諾さえ取れればどうとでもなることであったが、とはいえ好ましいことであるかと言えばそうではない。
生真面目な彼にあっては珍しい行動――しかし今のダグラは軍人としてではなく、生涯仕えるべき主として彼女を見ていた。
彼女の使用人ベリーが刺されたことは知っている。
その後姿を眩ませた理由も恐らくそこにあるのだろうと想像しており、その上で竜の言葉を聞けば事情も大体のところが理解できた。
ならばそれを助けるのは自分の役目。
ダグラがすぐさま彼女を追うよう独断で部隊を動かしたのはそういう理由であった。
「しかし突如姿を消したかと思えば、竜の背に乗り帰ってくるとは驚きましたな。既にそういう驚きには慣れたものですが」
ダグラは彼女が抱く少女のような女性に目にやり、翠虎に目をやって眉を顰めた。
周囲の混乱を強める一番の原因はそこにある。
クリシェが気にしないものに気を配るのが彼の役目であった。
「その路地を左に。先導します、人払いを済ませておりますゆえ」
「ん、任せます」
クリシェはダグラに先導されるように、門の前で人払いをさせていたカルアと合流。
「ふふ、全くうさちゃんにはいっつもびっくりだねぇ」
などと、いつものように軽口を叩かれながら表に出ると群衆を抜けていく。
――そうして再び竜の前に。
ダグラやカルアは少し前で止まり。
クリシェはセレネとクレシェンタの前に出て、抱いたベリーをリーガレイブに見せた。
「リーガレイブさん、助けて欲しいのはこの人です」
リーガレイブは顔を近づけベリーをしばらく眺めた後、ゆっくりとその左腕、指の一本を近づけた。
彼女が押し潰されるのではないかと、その場の誰もが息を飲み――けれど竜の動きは意外なほどにゆったりとしたもの。
『口を開かせよ』
「えと……はい」
クリシェは優しくベリーを降ろし、その首を支えた。
そしてその顎を押さえるようにして、ほんの少し青ざめた唇を開かせる。
竜は右手を使い、自らの左腕に爪を立てた。
魔力に青の輝きを見せ、赤きその血は紫に。
滲んで伝い、指の先からその鋼のような爪の先へと流れていく。
一滴の雫が眠り姫の口元に。
不思議とその血は自ら意思を持つかのように、吸い込まれるようにしてその唇の中へ消えていく。
二滴、三滴――竜はそれだけで腕を引いた。
既にその血は止まり、その雫は青い靄となって消えていく。
クリシェが不思議そうに竜を見上げると、揺れて響くは魔力の声。
『言ったろう、お前達には過ぎたものだと』
竜は爪の先で自らを示す。
『かつて我らの屍肉を欲望のまま貪り食らった小さきものは、血に耐えきれずに多くが死んだ。それ以上は過剰となろう』
「……強すぎるお薬みたいなものでしょうか?」
クリシェはその言葉に考え込み、竜は目を細める。
『……交配を繰り返し、血に馴染んだ体とは言え、そもそもの体が違う。お前がその者の体で試したいのであれば、更なる血を与えてやらんでもないが』
「……いいです。意地悪ですね」
楽しげに、断続的に魔力が波打つ。
クリシェは唇を尖らせて――不意に腕の中の体が動いた。
「っ、ベリー?」
ベリーは苦しげに胸を押さえ、その体に青き魔力が生じて包む。
咄嗟に彼女の体を抱きしめて、溢れた魔力を安定させた。
発作のような動きは次第に和らぎ、クリシェはベリーの背中を撫でながら、その頬に自分の頬を押しつける。
誰も口を開かず。
竜の前、そこにある二人の姿をただ眺め。
――しばらくの後、響いたのは、
「クリシェ……様……?」
クリシェに取って、誰より聞き覚えのある声だった。
「ベリーっ、良かった、ちゃんと……」
少し体を離すと、彼女を見つめる。
どこか夢見心地の大きな瞳は、うっすらと、しかし確かに開き、不思議そうにクリシェを見返した。
虚空を見るように、まどろむように。
けれど確かに微笑んで、クリシェの背中に手を回す。
「……死後、の世界も、クリシェ様にお会いできるだなんて」
「ベリーは死んでないですっ、ちゃんと、ちゃんと生きてますよ」
不思議そうにベリーは首を傾げ、左右を見渡し。
ぼんやりとした目は未だ夢の中にあるのか、頭が働いていないように見えた。
けれど確かに彼女は目を開き、クリシェに話し掛けていた。
「そうなのでしょうか……?」
「はい、そうですっ。えへへ、あれ……?」
嬉しいはずなのに、ふと視界が滲んで。
困惑するようにクリシェはそれを手で拭う。
溢れてくる雫を何度も拭って、不思議そうにそれを眺めた。
ベリーはそんなクリシェの頬を両手で挟むと、その親指で丁寧に、彼女の代わりにぬぐい取る。
「でも、どちらでも……」
そうしてそのまま、互いの鼻先を触れ合わせ。
ゆっくりと唇を重ね合わせる。
柔らかく、優しく。
いつもと変わらないキスの感触。
しばらくの間そうすると、ベリーは嬉しそうに微笑み離れ、クリシェの唇を親指でなぞり。
「また、クリシェ様にお会いできたなら」
クリシェの体を抱きしめると、長い睫毛を揺らして瞼を閉じる。
「わたしは、それで――」
そしてそこで言葉は途切れた。
代わりに落ち着いた、静かな寝息がただ響き、クリシェは安堵したように笑みを浮かべて彼女の体を優しく抱きしめる。
「……えへへ、おやすみなさい」
愛しい者を抱くように、その赤毛を撫で、その頬を押し当て目元を拭い。
横から見ていた兵士達には何が起きたか理解できていただろう。
セレネ達のすぐ背後にある兵士達も同様。
セレネとクレシェンタは感動の光景――から一転。
セレネは露骨に、クレシェンタですらも僅かに頬を引き攣らせていた。
『お前の望みはこれで叶った。用がなければこれで帰ろう』
「えへへ、はいっ、ありがとうございましたリーガレイブさん。……本当は何か、お返しをして上げたいところですけれど」
『不足はない。数百年ぶりの楽しみ、その対価としては些細なものよ』
「ん……でも……」
『お前と我では物事の捉え方も、尺度も違う。そう言ったろう? お前が気にすることは何もない』
クリシェは困ったように首を傾げ、考え込み、何かを思いついたように頷く。
「ああ、じゃあクリシェ、リーガレイブさんにも愛しょ――むぐ」
「……やめなさい」
咄嗟にセレネがクリシェの口を手で覆い、はぁ、とため息をつく。
クリシェは少し不満げにセレネを睨んだ。
「むぅ……」
「むぅ、じゃないの。気にすることはないと言ってくれているでしょう? それは善意の押しつけというものよクリシェ。いらないと言っているのにカボチャを十個も二十個ももらったらあなただって困るでしょう?」
セレネの言葉にクリシェは眉根を寄せて考え込み、セレネは呆れたように再び嘆息。
竜を見上げると口を開いた。
「……ありがとうございます、ヤゲルナウス様。この恩義、生涯忘れることはないでしょう。どうかこのクリシェとの縁、この先も続かんことを」
『この先その者の気が変わらぬ限り、心配するまでもない。自ずと続くだろうよ』
カボチャの説明でひとまず納得したらしいクリシェは、竜を見上げて微笑んだ。
「えへへ、リーガレイブさんはともかく、クリシェはすっごく感謝してます。本当にありがとうございました」
『我も体を休めるとする。……またいずれ、気が向けば顔を出すが良い』
「はい」
告げると竜は背を向けて、北に向かって歩き出す。
地響きが続いて雪が舞い、飛び立つときには遠く吹雪が巻き起こる。
穴が空いてなお力強い翼の羽ばたきはどこか優美で、舞う雪が陽光を散らして、溶けた雫が虹を作る。
それをクリシェは見送りながら、眠るベリーに頬を押し当て。
ただ幸せそうに竜の後ろ姿を見送った。