王都と竜姫
そこにあるのは城壁ですらなく。
高い柵で囲われたピルケ砦の見張り櫓には、二人の男が立っていた。
「昨日のは何だったんすかね、ミルケさん」
「俺に聞くな、ビグ。分かるわけがないだろう」
王国北西の平原、山に向かって立てられたピルケ砦は、クレィシャラナを監視するため数百年前より存在する、歴史ある砦であった。
とはいえあくまで監視――敵の侵攻を食い止めるにはあまりに脆弱。
今は国と言うより部族と言うべきクレィシャラナが相手であっても、攻められれば一日と持たず陥落するだろう。
この砦は狼煙を上げて彼等の動きを知らせるためだけに存在しており、敵の侵攻を食い止める砦というよりは伝令詰め所と呼ぶ方が正しい。
こちらの様子を見に来ているのだろう、時折山の上を飛ぶクレィシャラナの獅子鷲騎兵が見える他は特に何かしらの動きがあるわけでもなく――王国全土を見渡してもここは最も暇な砦。
戦に巻き込まれることなど、この数百年一度もなかった。
そんなこの砦を襲った前代未聞の大事件が、昨日の閃光であった。
山を削り取り、空を貫き――魔力というよく分からない力を知る人間は、あれが魔力とやらの塊であると怯えて叫んだ。
あれは竜の咆哮に違いないと彼等は告げ、長く沈黙を保ってきた古竜ヤゲルナウスが目覚めたのだと大慌て。
確かに山を削り取ったその破壊力を見れば、それが並々ならぬ事態であることは二人にも理解は出来る。
とはいえあまりの出来事に過ぎて実感も湧かなかった。
今日は朝から見張りに立ってはいるが、昼になっても山は沈黙している。
実は昨日の光は気のせいで、単に山崩れが起きたのではないかなどとぼんやり考えていた。
梯子を上がってくる音に二人は肩を跳ねさせ、そちらに向けて姿勢を正す。
交代の時間にはあまりに早い。
にも関わらずこの梯子を上がってくる人間は限られる。
「異変はないか?」
「っ、は! ギーテルンス侯爵」
現れたのは黒髪を後ろに撫で付けた貴族であった。
アルゴーシュ=ヴィケル=ギーテルンス。
剣を持って戦う軍人貴族ではなかったが、家柄古きギーテルンス家当主。
ここからも近い街ピールスに居を構え、この辺り一帯を治める貴族で、昨日の閃光騒ぎを見てはすぐに馬を飛ばしこのピルケ砦に来ていた。
細身ではあるが眼光は鋭く。
辣腕家で知られる彼は軍人貴族でないにも関わらず、相手を萎縮させる何かがあった。
二人は緊張しながら胸に手を当て敬礼を行なう。
「今のところは何も。昨日はクレィシャラナのグリフィンが空を飛ぶところを何度か見たのですが……」
「今日は見ていないと」
「ええ。報告に上がっているとは思いますが、ここ数日はグリフィンをよく見ています。このこととの因果関係はわかりませんが……」
アルゴーシュは睨むようにアルビャーゲルの山を見た。
「クレィシャラナで何かがあったのかも知れんな。気は抜けん。砦長のコールスとも話をしたが、見張りの人員を増やすことに決めた。もうしばらくの間は気を抜かずに頑張ってくれ」
「は!」
アルゴーシュは朗らかな笑みを浮かべて二人の肩を叩く。
「ここにいくらか酒を送ってくるよう手配してある。交代した後に飲むといい。見張りは特に神経を使う仕事だからな」
「っ! ありがとうございます、ギーテルンス侯爵」
「礼はいい。しかしくれぐれも、深酒には気を付けてくれよ」
厳しい顔を柔らかく。
生真面目な辣腕家――ともすれば兵士や民衆から嫌われそうなギーテルンス侯爵であったが、貴族としての彼を嫌う者はこの辺りには存在しない。
引き締めるべきは引き締めるが、同時に彼等の様々な不満をくみ取り、解消することにも力を入れる。
当主自ら各地を走り回る彼の姿を悪し様に言う者はおらず、その名声は高かった。
兵士二人はこの砦に配属された幸運を喜び、顔を見合わせる。
アルゴーシュもそれを見て微笑み、しかしふと空を見上げて眉を顰めた。
「……あれは」
「……何か?」
アルゴーシュが見上げる先――山の上空を何かが飛んでいるように見えた。
グリフィンではない。
距離は遠く、それよりも遥かに巨大に見えた。
そうして眺めれば、その姿は更に大きく。
その場にあった三人も、他の櫓に登っていた者達も身を強ばらせた。
理解を超えたものが目の前に現れた際、人間というものは凍り付くもの。
村一つを飲み込まんばかりの巨大な翼。
その巨体はまるで城塞が如く。
「……竜、なのか?」
アルゴーシュは呆然と呟いた。
答えるものはいない。皆が同じことを考えていた。
それはこの場所を通り過ぎるではなく、ゆっくりと降りてくる。
一里の先にあって、その羽ばたきに櫓が揺れていた。
積もった雪が嵐のように舞い上がる。
その巨体を前にはこの小さな砦など砂山のようで、腰を抜かす兵士すらが見えた。
「全員に動かぬように伝えよ。私が出向く」
「っ、しかし……」
「コールスにもそう伝えてくれ。武力でどうにか出来る相手ではなかろう」
アルゴーシュもまた同じく足が震えていたが、しかし彼は貴族であった。
その気になればその羽ばたき一つでこの小さな砦など吹き飛ばせるに違いない。
だというのに、わざわざ一里も向こうに降り立った――恐らくあちらに害意はないのではないか。
憶測に縋るような気持ちになりながら、アルゴーシュは櫓から柵の外、雪の平原に飛び降りた。
魔力を扱う術は身につけているし、貴族として最低限の訓練はしている。
しかし、眼前の竜を前には無意味だろう。
害意なきことを示すため家宝の長剣を雪に置き捨て、一人前へと進む。
竜は着地するだけで大地を揺るがした。
アルゴーシュは半ば死を覚悟する。
そうでなければ歩くことなど出来もしない。
近づくほどにその巨体の程が知れ、決して敵いはしない存在であると思い知る。
その長い首は城砦に築かれた塔より高く、その顎は小屋を丸呑みにするだろう。
伝承でしか知らぬ竜の姿――それを死ぬ前に、こうして目に出来たことを喜ぶべきか。
離れていても分かる膨大な魔力、山を削り取ったのは間違いなくこの竜なのだと理解する。
近づけばその翼のあちこちが破け、鱗は斑に肉が見えている。
どうにも傷ついているらしい。
しかしだからと言ってこの竜が弱っているなどとは感じない。
むしろ気が立っている可能性に恐れを増し――
「っ!?」
――その背中からぴょんぴょんと飛び降りてくる何かを見て、アルゴーシュは完全に固まった。
銀色の髪を二本の尾のように、左右に揺らして降りてくるのは一人の少女。
「んー、ごつごつしててちょっと乗り心地が悪いのは難点ですね」
『そう思うなら、背中の鱗をもう少し剥いでおくべきであったな』
「それはそれで、折角綺麗にした服が血で汚れちゃいそうです」
続いて一匹――巨大な虎が彼女に続いた。
翠の体毛、その巨体。
一目にそれが翠虎であると理解したが、既に目の前の情報はアルゴーシュの処理限界を超えている。
彼は硬直したまま、竜に向かって話し掛ける少女の後ろ姿――毛皮の外套を眺めていた。
「それに冗談でもそういうことを言っては駄目ですよ。そういう趣味なのかも知れませんけれど、体はもっと大事にするべきです」
断続的に魔力が揺れて、少女はちょっと待っててくださいね、と竜に告げた後、こちらに振り向いた。
銀の髪から覗く、紫の瞳。
彼女は小走りに近づいて、アルゴーシュに話し掛ける。
「ん……貴族みたいですね。こんにちは」
「あ、あなたは……」
「クリシェ=アルベリネア=クリシュタンドです。ちょっとお願いがあって立ち寄ったのですが」
「クリシュタンド……」
アルゴーシュは呆然と繰り返し、咄嗟に膝をついて頭を下げた。
「お、お初にお目に掛かります。わ、私はアルゴーシュ=ヴィケル=ギーテルンスと申します、アルベリネア」
「……ギーテルンス? ああ、もしかしてアーネの……そういえばすぐ近くのピールスはアーネの実家があるところでしたね」
「む、娘が世話になっております」
「えへへ、こんなところで会うだなんて巡り合わせですね。初めまして、アーネはよく……ええと、その……はい、とてもよく頑張ってくれていますよ」
何故このような場所で娘の奉公先、内戦の英雄と挨拶をしているのか。
何故この少女は竜から降りてきたのか。
何故翠虎が普通にこの場にいるのか。
ここにあるのは辣腕家アルゴーシュであっても処理しきれない情報の暴力であった。
翠虎は身を震わせると体についた雪を散らし、目の前の少女に鼻先を擦りつけ、猫か何かのように頭を撫でられている。
彼女が身につける毛皮の外套、その内側のワンピースはボロボロ。
体のあちこちに包帯が巻かれており、同じく傷だらけの竜と頭に響いた先ほどの言葉。
あの閃光騒ぎはこの少女が引き起こしたのではあるまいか――彼の頭脳は正解そのものを導き出していたが、混乱した頭はそれを尋ねるため話を組み立てることも出来なかった。
「あ、ありがとうございます。あの不出来な娘が女王陛下やアルベリネア、クリシュタンド辺境伯へご迷惑を掛けていないかと心配しておりました」
「そ、そうですね……大丈夫です。えと、ちゃんと頑張って……頑張ってますよ」
喉から出るのはこの場にそぐわない社交辞令である。
混乱しきった頭に思い浮かぶのは、『王領を出た選択は正しく、今や一流の使用人に近づき時には女王陛下のお世話を任されている』などと何やら自慢げな馬鹿娘の手紙。
自分の頭が混乱で暴走しているのは理解していたが、頭にちらつくアーネの顔が中々に消えていかなかった。
クリシェの何とも言えない微妙な反応にも気付かない。
「そ……それは何より。不器用な娘ですが、どうかこれからもよろしくお願い致します」
竜を前に何を話しているのか。
自分を殴りたい気持ちであったが、とはいえ普通に受け答えをするクリシェである。
信じられないような脅威を前にした今のアルゴーシュには、会話に間を設けることが恐ろしく、つい口から言葉が出てしまう。
話題を先に変えたのはクリシェであった。
「まぁ、挨拶はいずれ、王都に来た時にでも……それよりちょっとお願いがあるのですが」
「っ、なんでございましょう、アルベリネア。いかなるものであろうとこの身命を賭し、御意に従います」
「いえ、別に命は必要ないのですが……」
クリシェは竜が飛んできた、アルビャーゲル山を指さした。
「クリシェの馬をクレィシャラナの人達が後日ここまで送ってくれる手筈になっているのです。ここから誰かに王都まで連れて行ってもらいたいと思っているのですが」
「は。……は?」
アルゴーシュはそれがどのようなものであっても受ける気でいたが、聞こえた言葉に新たな困惑。
咄嗟に間の抜けた反応を見せてしまい、口を押さえる。
数多の疑問へ更に加わるクレィシャラナ。
クレィシャラナとは不可侵を結び、国交すらが断たれている。
何故そこにクレィシャラナという言葉が出てくるのか――そうした疑問に頭を埋め尽くされるアルゴーシュに、首を傾げたクリシェがああ、と手を叩く。
「ほら、このぐるるん――翠虎ならクリシェと一緒に背中に乗れるのですが、馬の体で竜の背中に乗るのは難しいので仕方なく別々で帰ろうと。最初は手にでもぶら下げてもらおうかと思ったのですが……」
――ぶるるん輸送計画。
これはリーガレイブの指先にぶるるんを引っかけ王都まで輸送しようというもので、彼をどうやって王都まで連れ帰るかという難題に対し、瞬き程度の熟考の末クリシェの中で立案、実行されようとした空輸計画であった。
大柄なぶるるんの体に負担のないよう、持って来た毛布などを駆使し、彼をぶら下げるための吊り布を作ろうとしていたクリシェ。
しかしその計画は発覚した瞬間、リラ達に止められ断念せざるを得なかった。
聖霊がお許しになったこと。
百歩譲ってクリシェと翠虎が背中に乗るのは目を瞑るが、せめてそのような間の抜けた姿を晒させるのは許して欲しいと懇願されたのだ。
特にリーガレイブもクリシェも気にしていなかったのだが、彼等にはとても気になるものであるらしく、仕方なくそれに応じ――結果として彼等がここまでぶるるんを運ぶという手筈となっていた。
わざわざここに降りたのはそれを伝えるため。
あそこまで頑張って槍を運んでくれたぶるるんに少しでも楽をさせてやろうという思いやりであったが、残念だと唇を尖らせる。
「駄目って言われたのでこうして……」
「い、いえ、それよりも、その……何故クレィシャラナの者達が」
「……?」
クリシェは再び少し考え込み、再びぽん、と手を叩いた。
「ああ、そうですね。クリシェがこのリーガレイブさんとお友達になったので、クレィシャラナも王国と仲直りをしたいそうで。良いことです」
うんうんと頷き、真面目な顔で指を立てた。
「あ、でもまだ内々のことなので、あちこちに広めちゃ駄目ですよ。クレィシャラナが旗色を決めてしまうと、今後の戦で巻き込まれて大変かもですし……ひとまず後日、使者を何人か送ってくれるそうなのですが、詳細はそれからですね」
断続的に魔力が波打ち、恐る恐るアルゴーシュは彼女の背後――竜を見上げた。
『あの者達の振る旗など決まっておるだろうに。お前は本当に察しが悪いようだなクリシェ。我の方がよく、お前達のことを理解できておるのではないかと思える』
「む……流石にクリシェ、種族が違うリーガレイブさんよりは人間社会というものをよく理解できていると思いますけれど」
『それはお前がそう思いこんでおるだけだろうよ』
不満そうにクリシェは頬を膨らませ、竜を睨み。
アルゴーシュは異様な関係の彼女と竜に身を強ばらせる。
竜とお友達になったとはいかなる意味合いか。
何故クレィシャラナが今になってそのようなことを言い出したのか。
彼の中の疑問は増えていく一方だった。
「落ち着かれよセレネ様!」
「っ、でも……!」
屋敷の中、竜の襲来をクレシェンタと共に聞いたセレネはすぐさま剣を掴んで王領を出て、竜が降り立った訓練場へ。
王都に現れた竜は、鱗が剥がれ落ち、翼の破れた姿――何故竜が王都に現れたのか、何故傷ついているのか。
理由はわかっている。
頭が真っ白になるとは、そういうことを言うのだろう。
膨大な魔力、王城そのものに匹敵する巨体。
勝ち目なく、目にするだけで足の震える相手に対し、セレネは剣を引き抜き。
それを止めたのは同じく、王都から出てきたエルーガであった。
兵達が皆怯え、身を強ばらせる中、ただ一人敵意と憎悪を滲ませるセレネを抱くようにエルーガはその身を押しとどめる。
先日雲を貫いた閃光――クリシェは恐らく、この竜によって殺されたのだろう。
セレネの気持ちは痛いほどに理解できたが、激情に身を任せるほどエルーガも若くはない。
密集地を離れ、開けた訓練場に降り立った竜。
竜に少なくとも、今すぐ王都を焼く意思はないと考えたエルーガは、必死で暴れる彼女を押さえる。
少なくとも、それが引き金となることだけは避けなければならなかった。
竜の意図を探るべき、いやそれよりもまずセレネを冷静に――そのように思考を巡らせるエルーガであったが、
「……ん?」
「え……?」
竜の肩に飛び乗り、腕を伝って降り立つ少女と翠虎。
それを見て、二人は硬直した。
彼女はとてとてと雪の中を小走りに近づき、エルーガに体を押さえ込まれるセレネを見て首を傾げた。
「……あの、何してるんですか?」
毛皮の外套を身につけ、体は包帯にまみれ。
白い帽子とマフラーを巻き付けた銀の髪――クリシェは不思議そうに二人に尋ねる。
「もしかして、知らない間に二人はとっても仲良しに――ぅぐっ!?」
「クリシェ!」
エルーガの手から力が抜けて。
セレネはすぐさま剣を放り捨てると、クリシェを雪の上に押し倒す。
「お馬鹿! いきなり出て行って、どれだけ心配……取り返しの付かないことに、なったかと……」
傷ついた体を圧迫され、強い痛みがあったものの、クリシェは呆然とセレネを見つめた。
肩を震わせ涙声で、自分の胸に顔を押しつけるセレネの姿に目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「ごめんで済むと思ったら大間違いなんだから、もう、本当に……」
クリシェはしばらくそうしたまま、自分に抱きついて泣くセレネの頭を撫でた。
遠巻きに黒旗特務を含めた兵達が二人と竜を見つめていたが、視線も気にせずその頭を抱いて、身を起こし、
「ごめんなさい、言ったらセレネ、絶対止めるって思ったので」
「……当たり前よ、お馬鹿。あなたは自分の体をなんだと思ってるの、本当に、何にも考えてないんだから……お馬鹿」
返ってきた言葉を聞いて、泣く子をあやすように背中を撫でた。
涙で顔をくしゃくしゃにしたセレネがクリシェを睨み付ける。
クリシェは困ったようにワンピースの袖でセレネの涙を拭い、ごめんなさい、と繰り返した。
「……ごめんと言えば許してもらえると思ってるんでしょう」
「だ……駄目でしょうか?」
「謝っても、今日は一晩中説教だからね」
「うぅ……」
セレネはその反応を見てようやく微笑みを浮かべ、額に額を押しつけた。
鼻先を触れ合わせるようにその紫の瞳を見つめ、お馬鹿、と繰り返し。
それから袖で涙を拭う。
両手でしばらく顔を隠したまま呼吸を整え――そうしてようやくクリシェの背後の竜を見やり、眉間に皺を寄せながら、クリシェに目をやった。
「はぁ……とりあえず、怒るのは後にしてあげる。それで、どういうことなの」
「えへへ、はい。えーとですね……」
一から話した方が良いのかどうなのか。
クリシェは少し考え込み、そこで響くは魔力の波。
『その者は単身我に戦いを挑み、その力を示した。ゆえに、我に対等なる者として我が名を許し、盟約を交わし――その者の望みによってこの場にある』
頭の中に響くような、そういう不思議な声だった。
全身の魔力を揺らされる奇妙な感覚。
ただ声を発するだけで、その場にあるだけで異様な威圧感がある。
『お前達小さき者の世界に興味はない。我はその者との盟約に応えるのみ、それさえ済めばここを去ろう。怯える必要も、慌てる必要もありはしない』
おお、とクリシェが満足そうに頷き、竜を見上げる。
「リーガレイブさんは中々説明上手ですね」
要点だけ、クリシェ的にはわかりやすい説明である。
それが他の者にとってわかりやすいものかと言えばそうではなかったが、クリシェはひとまずうんうんと頷きセレネに目をやる。
「大体そんな感じです。ベリーを助けて欲しいってお願いして、乗せてきてもらったんです。リーガレイブさんは自分の血を使えば大丈夫だって」
「え、と……そ、そう……」
クリシェを連れてきているところを見れば害意があるわけではないことは理解していたが、予想の斜め上である。
なんとも言えない気持ちになりながら、ひとまずセレネは納得する。
「あの、それでベリーを連れて来ようと思うのですが」
「あなたは、本当に……」
「……?」
「……もういいわ、行きなさい」
「はいっ」
クリシェは嬉しそうに走り出し、追いかけてきた翠虎の背に横乗りになると、王都に向かって駆けていく。
兵士のみならず、遠巻きながらも多くの人間が集まりだしており、周囲にはざわめきが広がっていた。
これだけの騒ぎ、今更箝口令も何もあるまい。セレネは嘆息する。
背後で更なるざわめきが広がって、振り返ればそこにいたのはキリク達を伴ったクレシェンタであった。
ドレス姿で困ったように、スカートをつまんで小走りに。
左右を見渡しながらセレネの隣に立つと、竜を見上げつつ小声でセレネに話し掛けた。
「……流石のおねえさまとはいえ、本当に竜とお友達になって帰ってくるだなんて、わたくし思ってもみませんでしたわ」
「……誰が想像するのよ、全く」
クレシェンタは呆れたようにしながらも、それだけ言うと一歩前へ。
雪の上、白いドレスを揺らしながら、丁寧に頭を下げる。
「お初にお目に掛かります、聖霊ヤゲルナウス様。アルベラン王国女王、クレシェンタ=ファーナ=ヴェラ=アルベランと申します」
優雅な一礼、顔を上げて再び竜を。
紫色と赤紫が交錯し、魔力が波打つように静かに揺れた。
『見掛けは違うが、お前の方がバザリーシェに近く見えるな。小さきものの長よ』
「あら、偉大なる建国王と比べられるのは光栄ですわ」
クレシェンタは微笑み、言葉を続けようとしたが――それより先に竜の声。
『先も言ったとおり、お前達への興味はない。過去の約定通り、お前達は我に関わらず、そして我も、お前達には関わらず。ここにあるのはあの者クリシェとの盟約ゆえ――それを理解した上でなら好きな言葉を紡ぐが良い。あの者を待つ間、いくらでも付き合ってやろう』
クレシェンタは微笑みを僅かに強ばらせ、それから更に笑みを濃くした。
「もちろん、立場は弁えておりますわヤゲルナウス様。ただ友誼によって、姉上のためこうしておいでくださったヤゲルナウス様に、一言お礼を申し上げようと」
セレネは胡乱な目でクレシェンタを見た。
竜がアルベランへ肩入れすることを彼女が期待したのは明らかであったが、言葉を交わす前からどうにも、この悪辣な女王はその性根を見透かされていたらしい。
建国王バザリーシェがどういう人物であったかなど知りはしないが、似ているという竜の言葉は決して褒め言葉などではあるまい。
『いらぬ。盟約は我とあの者、クリシェという個の間に交わされたもの。不足はなく、過分もない。盟約とはそのようなものだ』
取り付く島もないとはこのことであった。
微笑みを浮かべ続けるクレシェンタの内心は、その外面とは真逆だろう。
ここが屋敷の中なら今頃、頬を膨らませて子供のように憤慨しているに違いない。
「その寛大なお言葉で、ヤゲルナウス様の御心の深さが知れるというもの。それでも、心からお礼を申し上げます」
笑顔のままでクレシェンタは頭を下げた。
セレネは憤怒と緊張から一転、不意に訪れた笑いの波を我慢する。
衆目があった。ここで唐突に自分が笑い出すわけにはいくまい。
しかし響くは言葉にならぬ、断続的な魔力の波。
声なく周囲に響いたそれは、あるいは竜の笑いであるのか。
『お前はあの者とは真逆だな、それはそれで愉快であるが……似ているようで随分と違い、中々に面白いものだ』
「……それはお褒め頂いていると受け取ってもよろしいのでしょうか?」
『さて、好きに捉えるが良い。お前達小さきものは、そのようなものであろう?』
クレシェンタの眉がぴくぴくと動く様が、側にいるセレネには見て取れた。
しかし彼女は決して笑顔を崩さず――その面の皮の厚さにはいつも感心する。
「そうさせて頂きます、ヤゲルナウス様。……それと、もう一つ」
繰り返すこと三度目。
再びクレシェンタは頭を下げて、静かにため息をついた。
「これはただ、個人として。姉上との間で交わされた盟約がどのようなものであれ、ヤゲルナウス様がその願いを聞き届けてくださったこと……そのことに関してはただ一人の人間として感謝致します。どうあれ、姉上の願いはわたくしの願いでもありましたから」
セレネは少し驚いたようにクレシェンタを見て、静かに微笑むとそれに倣って頭を下げ、エルーガもそれに倣った。
周囲の兵士達は彼女の言葉の意味がどういったものかが分からなかったが、女王陛下が頭を下げている以上、無視するわけには行くまい。
動揺していた兵士達もようやく膝をついて、頭を下げた。
クレシェンタは顔を上げると微笑んだ。
「単なる個人として、こういう形でならお礼を受け取ってくださるでしょうか?」
『お前がそれで満足するならば、好きにするが良い。石に声を掛けても声は返るまいが、それで満たされるものがあるならば、我はそれを否定はせぬとも』
赤に煌めく金の柳眉がピクピクと揺れる。
クレシェンタは笑みを崩さなかった。
「石にお礼は言いません。言葉は通じ合えばこそ、はじめて意味があるもの――そしてこうして通じ合っている今、無意味なものではないと思いますの」
断続的に魔力が揺れて。
竜はその目を細めて見据える。
『中々やはり、よく似ておる。……そうだな、どうしてもと言うのなら』
そしてその大きな顔を近づけた。
『死ぬ前までには一度、気が変わらぬのならあの者と共に顔を出すと良い。……その時に、お前の礼とやらを受け取ってやろう。楽しみ程度にはしておいてやる』
要するに今は受け取りもしないし、関わりもしない。
そのような意味合いの言葉。
今なんとかして竜の力を借りたいというクレシェンタの目論見は完全に見透かされていた。
「…………、はい、ヤゲルナウス様」
普通に考えれば、この世界に住まう人間に取って何より栄誉ある誘いであったが、しかしこの世界には二人の例外があった。
今さえ乗り切れば、この不愉快な蜥蜴の如きはどうでも良いクレシェンタである。
竜の誘いには大した益もなく、覚えるのは不愉快と面倒。
笑顔を浮かべつつ心底嫌そうなクレシェンタを見透かすように、断続的に魔力が波打った。