竜は幼き踊り子に笑い
ヤゲルナウスは名ではなく、それはかつて人の付けた尊称。
竜の名とは人が言うところの真名であり、それは竜が、同じく対等なる竜に対し盟約を交わす場合にのみ用いられるものであった。
当然、人が竜の真名を呼ぶことなど決して許されるものではない。
だからこそ彼等は皆、驚愕と共に少女を見つめた。
少女はその言葉を聞いて、しかしその異様な槍を消すことなく。
眉間に皺を寄せて、竜を見上げる。
緊張が走った。
この少女であれば、どのような反応をすることもあり得る。
その言葉を聞いた上で、再び聖霊に切っ先を向けることも。
人間とは、聖霊を前には虫けらが如き存在であった。
その人間がこうして無礼を許され、聖霊から真名を勝ち取ったのだ。
それはこれ以上ない栄誉と言え、そこに選択肢などあるはずもない。
だが人でありながら人を外れたこの少女だからこそ、その当然が理解できるかどうかが怪しく思えた。
竜の姿を見て恐れず、その上で刃の切っ先を向け。
そもそもからして常軌を逸した少女である。
常識の理屈では測ることも出来ず、だからこそ男達は警戒を強める。
この少女が聖霊を殺すこと。
聖霊がこの少女を殺すこと。
どちらに転んだとしても、それは彼等が望むことではない。
どうあれ聖霊の力に――そしてそれに立ち向かった彼女の武にも、今では同じく尊崇の念を向けている。
だからこそ、その言葉で彼女が敵意を収めることを望んだ。
しかし少女は彼等の望みとは裏腹に、その顔に険しいものを浮かべたまま。
その右手には雷の如き槍を構えて警戒を解かず。
少女の姿に、彼等の顎先を緊張の汗が伝う。
その場には静寂。
しばらくして、
「丁寧に自己紹介ありがとうございます。でもですね、あの……」
ようやく彼女は真剣な顔で口を開き、
「……クリシェが望んでいるのは別に、リーガレイブさんの名前を呼ぶ権利じゃないのです。……クリシェ、ちゃんと最初に言ったと思うのですが」
などと、よく分かっていない様子で竜に答えた。
そうして再び、その場を沈黙が支配した。
愉快げな、断続的な魔力の波がしばらく響き。
その静寂を破ったのは平地の言葉を知る戦士長、ヴィンスリールであった。
彼は曲剣を鞘に収め、不可解そうに首を傾げた少女を前に膝をつく。
「……ヤゲルナウス様はあなたの力をお認めになり、友誼を交わす旨をお示しになりました。あなたの望みがどのようなものであれ、それが節度あるものである限り叶えてくださるでしょう。聖霊が御名を許すということは、そのような意味であると聞きます」
ヴィンスリールを見た戦士達は、それに倣ったように膝をついた。
「……? さっきまで戦っていたのに……気が変わったのですか?」
クリシェはその槍を収めることなく竜を見上げる。
『これ以上の戦いは、いずれかが死ぬまでのものとなろう? お前にとって死に益はなく、我にとっても同じこと。更に我には、お前を殺すことには何の益もない』
「……それは確かに、そうでしょうね」
指先で桜色の唇をなぞるように。
少し考えると、クリシェは右手の槍を手放した。
雷の如き槍は霧散するように、魔力へ変わり消失する。
『力の差もわからぬ愚か者を殺してやろうかと思うたが、随分に難儀なことだと知ったがゆえ、素直に脅されてやろうと言うわけだ』
魔力の波が、笑うように揺れて響いた。
『……喜ぶがいいクリシェよ、竜を脅し要求を呑ませた小さきものは、世界全てを見渡してもお前が初めてであろう』
「えぇと……ありがとうございます……」
クリシェは困ったように首を傾げる。
「いきなり脅されて、そんなに槍を突き立てられて……リーガレイブさんは怒っていないのでしょうか?」
『お前達と比べれば、痛みなどあるかないかのものだろう。些細なもの、千年振りの痛みはむしろ、忘れかけていた生を思い出して心地良い』
頬を引っ張られるようなものだろうかとクリシェはぼんやり考えつつ、怒っていないなら良いだろう、と一人頷く。
『それを与えたのが同じ竜ではなく、お前のようなものであるとなればむしろ愉快なものだろうよ。大抵のことには飽いたものだが、興味が湧いた。……望みは我が血であると言ったな?』
「はい。場合によると心臓も欲しかったのですが、協力してくれるならそれは良いかもですね」
平地の言葉を知る者達はクリシェの冗談にもならない言葉に背筋を凍らせる。
だがクリシェの言葉に、再び竜は笑うように魔力を揺らしただけであった。
『我が血に何を望む?』
「クリシェの……大事な人を助けたいのです。刺されてしまって、体が毒に犯されて……竜の血肉には膨大な魔力が宿ると書物で見ましたから、それを用いれば、ベリーを助けられるのではないかと思って」
『……些細な事だ。可能だろう』
竜は告げ、クリシェは目を見開いた。
「本当ですかっ?」
『ああ。だが……お前達には過ぎたもの。耐えられぬものもある。その小さき身の内に孕むには、あまりに大きな力だ』
「……えと、それは」
『かつて我らの血肉を喰らいし者達の末裔ならば、あるいは。その者はお前やこの者達のように、多少なりとも魔力を扱う術を身につけておるのか?』
竜の言葉――その意図を探り、クリシェは頷く。
「それなら、はい。末裔かどうかはともかく、ベリーは魔力の扱いも上手な方です!」
『……ならば大きな問題もそうはあるまい』
「えへへ……よかったです」
銀の髪を揺らして、嬉しそうに微笑む。
そして丁寧に頭を下げて、ぱっと顔を上げた。
「じゃあすぐ行きましょうっ、飛んでいくなら王都ですし、クリシェも一緒に乗せていって欲しいです。下を行くと結構距離があるので大変――」
周囲の者はその恐れ知らずな言葉に呆れ、しかしクリシェの体が揺らぐ。
咄嗟にヴィンスリールがその体を支えた。
「あ……すみません、ちょっと、力が抜けて」
汗と血を吸った衣服。
少女は傷だらけで、視線は虚ろ。
安心したことで疲労が一気に来たのだろう。
先ほど行なったのはそれだけの闘いであった。
翠虎は窪地の隅から、荷物を載せた大柄の馬が丘であったものの上から飛び降りるように駆けてくる。
そして、彼女の側に擦り寄った。
『……少し休ませた方が良かろう。手当てをしてやれ。我が名を許した相手を、盟約を果たすことなく死なせるはどうにも具合が悪い』
「は、ヤゲルナウス様……」
ヴィンスリールは上空からリラを呼び、ラーネルに跨がったリラが険しい表情で降りてくる。
彼女はラーネルを降りると、竜に対して頭を下げた。
「……ありがとうございます、ヤゲルナウス様。覚悟は出来ております。この方の手当てが済み次第……此度の無礼、わたしの命を持って――」
『いらぬ。お前の如き命を潰すことで、我が喜ぶとでも思うのか?』
「……いえ、それは」
『今も昔も。……お前達小さきものがどう生き死ぬかになど、我に興味もない。かつての約定をお前達が気にするのならば、此度は良い余興……無礼と取らず許してやろう』
かつてクレィシャラナの民が誓った約定は、竜の平穏を乱さないこと。
竜に取ってこの世で行なわれる彼等の営みになど興味はなく、それは煩わしきを避けるための虫除けのようなものだった。
アルベラン建国王による聖霊会議、聖霊協約を認めた理由もそこにあり、そのため聖霊協約の第一には『竜に対して決して刃を向けぬこと』という原則が記される。
クレィシャラナの者達が何より恐れていたのは、その誓約を破ってしまうことであった。
『年月とは面白いものだ。お前達のような小さきものの中にも、我らの命すらを脅かすこのようなものが現れる。千年も昔には想像も出来なかったことだが』
断続的に魔力が揺れ、その場にいた者達はクリシェに目をやる。
聞いていたクリシェはヴィンスリールから離れ、仕方なくぐるるんに背を預けて座り込む。
竜の言うとおり、少なくとも今すぐ帰るには体力を消耗しすぎている。
それにふらふらの状態で帰れば、ベリーが目覚めた時に心配するだろう。
ベリーにあまり心配を掛けたくはない。
彼女を助けるために自分が無理をしたなどと思われたくはなかった。
「……普通はいきなりそれだけ刺されたら、怒るのが普通だと思うのですが……なんだか楽しそうですね」
『それはお前達がか弱く、瞬きのような短い時間を生きているがゆえの普通であろう、この感覚はお前のようなものにはわかるまい』
クリシェは少し考え込む。
この竜はクリシェにこれだけ槍を投げつけられ、殺されかけたというのに、随分と愉しげであった。
『おねえさま、ほっぺたを引っ張られたり、痛いことをされて喜ぶのは変態というものですの。アルガン様がなんて言ったか知りませんけれど、明らかにおかしいことだともう少し理解してくださいまし――』
クレシェンタの言葉を思い出す。
ほっぺを引っ張るのは愛情表現の一つである。
クリシェはそれで喜ぶことがおかしなことだとは思わないが、しかしこの竜の発言は明らかにそれとは違う。
クリシェは悪意を持って、殺す気で槍を投げたのだ。
その上でこの竜は喜んでいる。
かちり、と何かがハマったような気がして、ぽんと手を叩いた。
「なるほど、クリシェの妹が言ってました。リーガレイブさんはいわゆる変態というやつなのですね。痛いのを喜ぶ奇抜な趣味の持ち主をそう言うのだとか」
竜の咆哮――その熱気冷めやらぬ死闘の場。
言葉の内容を理解した者達はクリシェの言葉に凍り付く。
くつくつと、断続的の魔力の波だけがその場に響いた。
際どい冗談を通り過ぎ、彼女が発するは単なる罵倒。
冗談では済まされぬクリシェの言葉に竜は怒りを見せず、リラ達平地の言葉を知る人間は胸を撫で下ろした。
ひ、ひとまず手当てをなどと、リラは声を裏返しかけながらも彼女の口を封じるべく手当てをはじめる。
人前で服を脱ぐことに難色を示したクリシェは偉大なる聖霊の体を目隠しのように使い、持って来ていた水で体を清めつつ、素直に包帯を巻いてもらう。
その様子を見たヴィンスリールなどはこの少女を聖霊の側に置いておくのは危険だと考え、一度手当てのため村に連れて帰ったほうが良さそうだとリーガレイブに進言するが、クリシェは魔力の濃いここが良いと告げ、またリーガレイブ自身もそれに同意を示した。
結果としてアルキーレンスやヴィンスリール、リラやヴェルヴァスといった、クレィシャラナでも主立った平地の言葉を知る人間だけがここに残り、クリシェの世話――もといその言動の監視を行なうこととなる。
ひとまず丸く収まったはずの大災禍――それがこの少女の歯に衣も着せぬ発言によって崩れることを恐れたのだった。
しばらくすると彼女は眠りについたが、放っておけば、
『竜というのはみんな、リーガレイブさんみたいに蜥蜴に似てるんですか?』
などと聖霊に対し、失言を超えた発言を繰り返す異常者である。
一見可憐で礼儀正しく、大人しそうな少女に見えて、けれど彼女は頭がおかしい。
世界を巻き込んだ度胸試しでもしているのか、どうあれ元々彼女は聖霊に対し刃を向けるような狂人である。
野放しにするわけにはいかなかった。
そうして眠りについたクリシェが目覚めたのは夕刻を過ぎてから。
溶けた大地の熱気も落ち着き、焚き火や水汲みなどといった雑事は既に戦士達が済ましたらしい。
目覚めたクリシェは燻製した翠虎の肉を囓りつつ、リーガレイブの体に刺さった槍の破片を引き抜いていく。
魔力の濃さもあってか、少し眠っただけで体は随分と回復し始めていたし、小さな傷口からは既に新たな肉が盛り上がっていた。
少なくとも動くことに問題はなく、アルキーレンスやヴィンスリール、クレィシャラナの戦士達の内、この場に残った数人が恐る恐るといった様子で竜に乗ってそれを手伝う。
「……アルベランの第一王女、ですか?」
「そうですね、一応そういう形になるのでしょうか。妹のクレシェンタが女王なので王姉と呼ぶのが正しいのかもですが……あんまりその辺りはどうなってるのかよくわからないです。適当にやってるみたいですし、クリシェもあんまり興味もないですし」
その間も彼女が妙な事を口走らないよう、適当にリラが世間話程度の会話を行なっていたのだが、彼女の語る内容には随分と妙なところがあった。
妹のクレシェンタなる人物の名である。
クレシェンタなる人物はこの少女の妹ながら若くして国政を司る存在であるらしく、詳しく聞けばアルベラン女王であるなどと、クリシェは当然のように説明した。
となればこの少女は何者か――返ってきた言葉はそのようなものである。
至極どうでも良さそうな口ぶりであったが、どうあれ、アルベランの王族であることは事実であるらしい。
要するに彼女は大国アルベランの王族でありながら自ら剣を取り、一使用人のために竜を殺しに来たということだ。
狂気もここに極まれりである。
アルベランというのは一体どのような国であるのかと、彼女らはその話を聞いて困惑する。
『……アルベラン、バザリーシェの末裔か』
「建国王のバザリーシェを指しているなら、そういうことになるのでしょうか。実際はともかく、記録上は一応血も繋がっているみたいですし」
『その紫の目に銀の髪――雰囲気はよく似ている。……お前に比べれば幾分、小賢しくはあったがしかし』
リーガレイブは愉快そうに目を細めた。
『あれの子孫となれば、納得もできる。あれも小さきものでありながら、お前とよく似て傲慢であった。我に取引などと、中々に愉快なものであったよ』
――クレィシャラナにだけ肩入れするのはあんまりです。わたしたちとも取引しましょう? そうすればこの蛮族と違ってこの先数百年、このような雑事であなたをわずらわせないとこのバザリーシェの名に誓って約束してあげますわ。
リーガレイブはその姿を思い出して、笑うように魔力を波打たせた。
「ん……聖霊協約のことでしょうか?」
『お前達はそう呼んでいるのだったか。その下らぬ取り決めのことだ』
竜と竜との戦に誰もが飽いて、その後に大地を我が物とするようになった小さきもの。
竜の屍肉を集りに来る獣の一つであったが、いつからか彼等は知恵を付け、群れを作り、バザリーシェはそうした種族――人間の中でも最も小賢しい個であった。
人は竜に関わらず、竜も人に関わらず。
彼女が提案し、リーガレイブに求めたのはただそれだけ。
どうあれ向こう数百年、そうした獣に眠りをわずらわされずに済むというのはリーガレイブとしても悪くはなく、バザリーシェはそんなリーガレイブを利用して周辺世界に決めごとを作った。
聖霊協約とはそのように生まれたもので、自分達の利益のため、竜すらを利用したバザリーシェのことは良く覚えている。
『力なき獣でありながら、よく頭の働く小賢しきもの。……いずれは我らの時代も終わり、お前達の時代となるのかもしれんな。お前のような者を見ているとそう思える』
「ヤゲルナウス様……」
楽しげなリーガレイブの言葉に族長アルキーレンスは戸惑うように首を振り、クリシェは竜の背中から飛び降りて少し考え込む。
「……やっぱりリーガレイブさんは変な人……竜ですね。殺されるのが楽しいのですか?」
『言ったろう? 物事の捉え方がお前達とは違うのだ。お前も数千年を生きれば我らの心が理解できるだろう』
リーガレイブはクリシェに顔を寄せた。
『刹那に生きていては見えぬものが見えてくるものだ。視野は広がり、次第に世の移り変わりを楽しめるようになっていく』
「はぁ……」
『我らも若き頃には、お前達のように刹那を生きていた。力を示し、土地を得る。そういう下らぬ遊びを繰り返してな』
クリシェは立ち上がるとぶるるんの荷物から燻製肉の塊を取り出す。
リーガレイブの前にぶら下げ左右に振ってみるが、竜は笑うだけだった。
聖霊をペット扱いするクリシェに対しリラ達は戦々恐々であったが、リーガレイブに怒りはなく、楽しげなその様子を見ると止めにも入ることは出来ない。
聖霊が語る内容は史書にも記されていない貴重な真実であったが、この少女には欠片の興味もないらしい。
彼女は自由であった。
『時間が経つにつれ皆が飽いて、我のように世界を眺めて過ごすようになった。大抵の者は我と同じような心持ちであろう』
「……やっぱりよくわかりませんね」
『何事も刹那であれば、いずれ飽きが来るものだ。お前は若く、それを知らないだけだろう』
「んー……それはリーガレイブさんが本当に楽しいことを知らないだけじゃないでしょうか」
クリシェは微笑み、燻製肉を振ってみせる。
「楽しいという感情はきっと、成長したり進歩したり、そういう変化に由来するものです。えへへ、その点お料理はとっても楽しいのですよ。毎日違うものが食べたくなって、毎日違う美味しいものができあがって、その日の完璧はあっても毎日の絶対なんてものは存在しないのです」
『……ふむ』
ベリーが言ってました、と指を立ててクリシェは告げる。
「リーガレイブさんにもお料理の楽しさを教えてあげられれば良いのですが……その大きな体だとちょっと難しそうですね。残念です」
『そもそもお前達のように、我らは何かを喰らう必要もない。どうあれ、お前の言う楽しみは我に理解はできないだろうよ』
「……だからと言って退屈だから痛いのも楽しいだとか、そういう変態な趣味はクリシェもあまり健全ではないと思うのですけれど」
「く、クリシェ様……っ」
「……? ああ、もちろんクリシェを許してくれたというのは嬉しいことなのですが……立場的にクリシェ、リーガレイブさんが変態なことを喜んだ方が良いかもですし」
リラの必死な声を全く勘違いしたまま、何のフォローにもならない補足を行なう。
彼女はまるで竜の逆鱗を探るかのようだった。
楽しげに魔力を揺らすこの竜がその実怒っているのではないかと誰もが恐れを抱いていたが、彼女だけはその空気を無視している。
悪意はないのだろうが、言葉には悪意しかなく。
叶うのならばこの少女に猿ぐつわを噛ませておきたいところである。
「……しかし、アルベランの」
守手長ヴェルヴァスは話題を戻すように顎に手を当て、アルキーレンスとヴィンスリールに視線を向けた。
ヴィンスリールもまた考え込むように真白い髭の老人、アルキーレンスを見る。
アルベランの王族自ら不可侵を破り、その上聖霊に刃を向けた。
その歴史を考えても彼女が行なったことは本来決して許されることではなかったが、とはいえ彼女は彼等が信仰する聖霊に対し、力を持って真名を勝ち取り友誼を交わしている。
彼女にその罪を問うことなど不可能であるし、個人として見るならば聖霊の友――聖霊に次ぐ賓客として扱うべき相手であろう。
単に個人として彼女を見るならばそれでも良かった。
終わってみればクレィシャラナの戦士を含め被害はあってないようなものであったし、精々火傷や骨が折れた程度――少なくとも命に関わる傷を負ったものはいない。
風に巻き込まれ、あるいはグリフィンの暴走によって獅子鷲騎兵として復帰できるかどうか分からないものもいないではなかったが、あくまで戦いで負った名誉の傷。
不可抗力のものだ。
命を狙われながら、命を奪わず。
その戦いを見れば非難は出来ないだろう。
彼女の凄まじい技量あればこそとはいえ、リラとの間で交わされたらしい個人的な約束を果たすために彼女は最大限努力し、疑うことのできぬ誠意を見せていた。
聖霊にさえ認められた武人として、彼女を尊敬すべき客人として扱うべきとするのは至極当然のことで、そうすることに異論はない。
彼女の戦いはそれだけのものがあった。
少なくともこの場にあった戦士達であれば、皆が同じ結論に至る。
しかしその相手が王族であるというのであれば、それはもはや政治的なものであった。
自身の認識がどうであれ、彼女はアルベランの王族として扱うべき存在だろう。
個人的にであっても聖霊に向けるような敬意を彼女に向けることは、どう考えても政治的な色が付く。
彼女が皇国の人間であればまだしも、アルベラン。
クレィシャラナが数百年に渡り敵視してきた国である。
それをどのように扱うかは、族長の意思に委ねられる。
「長老には後ほど、わしが話そう。どのように考えるにしろ、他ならぬヤゲルナウス様がお認めになったこと。ならば我らはそれに従うのみだろう」
クリシェは首を傾げ、竜が魔力の波を揺らす。
『お前達はいつも下らぬことで悩むものだな。あの頃を生きていた個体など、どこにも残っておるまいに』
「……ヤゲルナウス様とは違い、弱き我らは群れて一個となりますゆえ。クレィシャラナとアルベランは、ヤゲルナウス様の語る古きと変わらず、今もこうして生きております」
『なるほど、そういう見方もあるものか』
クリシェはますます不思議そうな顔をして、隣にいたリラが疑問に答える。
「先日申し上げた通り、クレィシャラナとアルベランは古き遺恨によって国交が断たれていますから……クリシェ様個人を賓客と扱うならば、それに関してもどうするかを決めなくてはならないのです」
「なるほど……大変なんですね」
彼女はまるで他人事であった。
『我が名を許すはクリシェ――この小さき個に限ってのことだ。お前達がそれをどうしようと、我の関するところではない』
「は、ありがたきお言葉……。しかしヤゲルナウス様がお認めになったように、どうあれクリシェ様は我らにとっても尊敬するべき戦士であります。それがアルベランを冠するものであるならば、仰るよう些事を忘れ、ただ戦士としての我らを優先するべきと考えました。以降はそのように、里の未来を定めようと思います」
『好きにするが良い。元より、お前達に何かを強いるものなどどこにもないのだから』
「……ありがたく」
アルキーレンスは膝をつき頭を下げ、その場にあった全員がそれに倣う。
中心にあるはずのクリシェだけが大変そうですね、などと馬と翠虎を撫でており、アルキーレンスは呆れながらも彼女に目をやる。
「……長く王国との間には亀裂がありました。長く互いに干渉することなく、それで平和を保ってきたとはいえしかし、ヤゲルナウス様と友誼を結ばれたあなたがアルベラン王家の方となれば、現状の関係は決して良いものとは言えないでしょう」
「ん……そうでしょうか? 今まで平和だったならそれでも――まぁ、仲良く出来るならそれに越したことはないとクリシェも思いますけれど」
クリシェは困ったようにアルキーレンスを見た。
「なんだかうやむやになってしまいましたけれど、あなたたちも怒ってないのですか? クリシェがリーガレイブさんとお友達になってしまったので言いづらいのかもですが、あなたたちを蹴り飛ばしたりだとか色々酷いことをしましたし……ほら、そっちの人達だとか」
そしてヴィンスリールやヴェルヴァスに目をやった。
ヴィンスリールは苦笑し、首を振る。
「あれは戦いです。それを言うならば、我々はあなたを殺そうと刃を向けてもいます。それが終わった今……あれほどの戦いを繰り広げ、ヤゲルナウス様にその実力を認められたあなたに憎悪を向けるものなどありません。今我々の胸にあるのは、一人の武人としての尊敬だけですよ」
ヴィンスリールは自らの胸を示し、そしてクリシェに蹴られた脇腹を示す。
そこは痣になっていた。
「無論痛みますが、それは単に私の修行不足というだけ。あなたの責任ではありません」
彼に同意を示す男達を眺め、クリシェは考え込む。
しばらくして丁寧に頭を下げるとアルキーレンスに視線を戻した。
「クレシェンタに伝えておきます。なんにせよ、仲直りするのはきっと悪いことではないでしょうし」
「ありがとうございます。後日、正式に使者を向かわせましょう」
「んー、それならなるべく早めの方が良いかもですね。もしくは数年後か……王国は今結構、周囲から攻められそうで危ない時期ですから、巻き込まれるといけません」
「攻められる?」
「内戦が終わったばかりで不安定なんです。折角平和に暮らしているところを巻き込まれると大変ですから、落ち着いた後に王国から使者を送る方がいいんじゃないかと」
アルキーレンスは白い髭を弄び、ヴィンスリール達に目をやる。
彼等が頷くのを見て、アルキーレンスは答えた。
「……今後の身の振り方を含め、考慮しましょう」
「はい。迷惑を掛けたクリシェが言うのもどうかと思うのですが、やっぱり平和は大切にするべきものです」
クリシェのそんな言葉を聞いて、魔力の波が楽しげに揺れる。
竜は目を細めた。
『お前は頭が良いのか悪いのか、よくわからんなクリシェ』
「……? クリシェはとても賢いのですが」
不満そうに眉間に皺寄せ、腰に両手を当てては竜を睨み。
少女はどこまでも子供のようだった。
『しかし、なればこそなのだろうよ。……愉快なものだな、お前は』
それを見てまた、断続的に魔力が波打ち。
笑う竜の声だけが、そうしてその場に響き続けた。