天帝矛盾
光が消え、靄が晴れる。
周囲に漂うのは、火口のような熱気であった。
彼等が越えてきた丘は既に原形を失い、代わりに窪地より繋がる灼熱の川が生じている。
先ほどまで少女が走り回っていたはずの大地は、もはや見る影もない。
そこは人の生存を許さない極地へと変貌していた。
そして、異常はここだけではなかった。
遠く背後に見えていたはずの山は削り取られ、欠けた月のように奇妙な輪郭を映し出している。
その滑稽な姿が誰の目にも信じられず、けれどこの場にいる彼等だけはそれを理解することを強いられた。
マグマの終点、そこに佇む竜の姿を見れば、未だ大気を焦がすその熱を感じれば。
――竜の顎から放たれた先ほどの光を思い出せば、何が起きたのかは自明である。
「……これが、竜の咆哮」
アルキーレンスは呆然と呟く。
戦士達が手綱を引く前に、グリフィン達は本能で回避を選んだ。
そのおかげもあってか、戦士達に巻き込まれたものがいないように見えたのは幸いだろう。
グリフィンを制御できず地上に落下したもの、咆哮が生じさせた熱風に煽られたもの、暴走したグリフィンを制御できず背を向けるものはあったが、損害は軽いもの。
巻き込まれて死んでいたとしても一人や二人だろう。
ヴィンスリールも脇腹を押さえながら、リラと共に空へあった。
不幸中の幸いと言える。
だがそれはクレィシャラナが危機を脱したことを意味するものではない。
ここにいる人間の生き死になど、もはやどうでも良かった。
仮にこの場の全員が命を捧げ、それだけで此度の無礼が許されるならば、それは何より喜ぶべきことであるからだ。
――たった一度の咆哮。
それだけで、遥か過去から存在していたであろう風景そのものが書き換えられていた。
地形を変え、国さえ滅ぼす彼等はもはや天災と称するほかなく。
どれほどの勇者であろうと、どれほどの大軍であろうと、竜を前には虫けらに等しい。
人の敵う相手などではなく、人が刃を向けて許される相手でもない。
――竜とは絶対者。
神に等しき存在であると、無数の伝承は度々語る。
人を指して、嵐の如きと称することがあるだろう。
その一撃は山をも砕くと、そのような怪物であったと記されることもあるだろう。
多くは誇張で――しかし竜に関して言うならば、そこには何一つの誇張もなかった。
滅ぼす気であるならば、大陸全てを滅ぼせるに違いない。
都を湖に変え、山を平地に、その力を存分に振るうならば不可能などと言う言葉は存在しない。
子供が蟻の巣を潰す程度に、砂山を崩す程度に。
彼等にとってはきっと、容易なことなのだ。
人の営みはただ、彼等の気まぐれによって許されているに過ぎない。
そこに居合わせた誰もが改めてそれを理解し、恐れ。
しかしこの言葉には、
「っ……油断するな! 奴はまだ生きている!!」
――ただ一人の例外を除いて、という枕が付いた。
ヴィンスリールの叫びと共に、山に響くは轟音。
その絶対者を貫き抉る、常軌を逸した槍の音だった。
「……全く、ぐるるんはお馬鹿ですね。危ないですよ」
ただの人間であればまず不可避であった。
身一つで宙に巻き上げられ、放たれるのは山すら貫く竜の咆哮。
クリシェは魔力によって風を操ることを考えた。
ただ、それで避けられるかどうかは賭けであり、それを用いてようやく五分。
身一つを浮かび上がらせ自在に操るような風を生み出すのは至難の業。
根本的にクリシェの魔力が足りず、回避を可能とするほどの推力を生み出せるかが怪しいところ。
周囲にある膨大な魔力を用いれば可能と断言できたが、その掌握には時間を要するのだ。
ただ浮遊する魔力とは違い、この場にある魔力は竜を起源とする魔力。
竜の色がついた魔力を無垢なものに変え、自分のものとするにはあまりにタイムラグが大きく、既に十分な魔力を集積し終えた竜の放つ咆哮が一寸早かっただろう。
魔力とは絵の具のようなものだった。
個人個人で色が異なり、そして一人が描くことが出来るのはその一色。
大気中にある魔力のように無色透明なものであれば、単純にそれを自分色に染めればそれで済む話――だが、他の色の絵の具を用いるには一度、無色透明なものにするための手順を踏む必要がある。
クレシェンタから魔力を吸い取ったときのように、それだけに集中した状態ならばまだしも、仮想筋肉を稼働させ、魔力で風を操りながらでは流石にクリシェであっても難しい。
体外に出た魔力は、自然と色のない状態へ戻ろうとする。
空中に描く魔法――それを扱う際もっとも難しいのは、いかに自分の魔力を自分の魔力として維持したままで運用するか。
自分の魔力で魔水晶の代替となるキャンバスを作り、そこに望む術式を刻み込む。
クリシェの生み出した魔法という技術はそのような工程を必要とし、それ故に些細なものであっても浪費する魔力は膨大。
グリフィンであれば、元より人を遥かに超える魔力を空を飛ぶという一点に費やすことで、風を操り飛行する。
恐らくそれは竜も同じだろう。
あれだけの魔力があるならば、あの巨体を浮かべることなど容易であった。
クリシェの魔力操作の精度は彼等を遥かに上回る。
彼等と同じだけの魔力があれば、翼がなくてもより効率的に空を舞うことは出来ることは間違いない。
ただ問題は、クリシェにはその力業を行うための魔力がないという点であった。
グリフィンが空を飛ぶ原理から何か新たな発想が生まれないかと考えていたが、グリフィンは翠虎のように肉体拡張へ魔力を用いていない。
魔力をただ一点に絞る力業でようやく飛行を可能としており、やはりクリシェの参考にはならず――結果はやはり、五分の賭けに出ざるを得ない状況。
そこに飛び込んできたのが、隅で怯えていたはずの翠虎だった。
ぐるるんは宙に巻き上げられたクリシェ目掛けて飛び、体当たり。
そのおかげでクリシェは間一髪、竜の咆哮を躱すことに成功した。
「いい子ですから離れてください。危ないですよ」
当初役に立たないと思っていた翠虎に助けられ、流石にクリシェも少し驚きながら。
戦いの中微笑を浮かべつつ、その頭を軽く叩いて遠くへ行かせる。
――ぬくぬくでお気に入りだったのに。
引っかかれてしまった外套はボロボロになっていたが、この際仕方ないだろう。
唇を少し尖らせながらも怒りはなく、掴んだ槍を投擲する。
今の一撃を無傷で躱せたことは何よりも大きい。
周辺の魔力を感じ取りながら、クリシェは目を細めた。
槍はいくつか巻き込まれて消失した。
灼熱の川が生じて足場も悪くなっている。
だが、戦える。
竜の力のほとんどは、先ほどのそれで大体のところが理解出来た。
後は根比べ――竜が致命的な隙を生じさせるか、あるいは自分の限界が来るか。
――翼が巻き起こす嵐を潜る。
その暴風は溶岩を巻き上げ、骨を砕いて体を溶かす、無数の火柱を作っていた。
致命傷を避けてそれを抜け、掴んで放つは槍の弾丸。
竜の鱗を削り、肉を穿つ。
ただそれを繰り返す。
溶岩の熱気は体を蝕む。喉が渇き、全身が汗で重たく感じた。
地形条件の変化は想像以上に体力を奪い、思考が鈍化していくのがわかる。
その翼が生み出す嵐はその威力を増していた。
灼熱が流れるこの場において、竜の羽ばたきはもはや完全に致命の威力を秘めていた。
これだけの魔力があれば文字通り、二、三日を続けて戦うことも難しくはなかったが、しかしその前にここで体力を奪われ、肉体的な限界を迎えることは間違いない。
人の体では竜を相手に、この極地へ対応しきることは不可能だった。
終結は近く、しかしそれでも多少の時間を稼ぐことには意味がある。
人を超えずに人を超え。
全ての槍と地形を捉えて、森羅万象を掌握し。
視界で捉えた全てから、全ての未来を演算する。
千人、万を束ねてなお及ばぬであろうその頭脳を、赤熱させて酷使する。
槍の配置、周囲のグリフィン、風が巻き起こす砂粒一つと魔力の粒子を捉えて支配し。
想像できるなら理解が出来る。
理解ができるならば、未来すらを捉えてみせる。
彼女はただ叡智によって、時空すらを超えるもの。
嵐の中を背後から迫る、勇猛な獅子鷲騎兵を読んで躱し。
振るわれる尾を避けては、炎の嵐を潜って抜ける。
放つ槍は常に、竜の体を貫いた。
灼熱の川を避けながら、縦横無尽に大地を駆ける。
吹けば飛ぶような体でありながら、彼女は竜を相手に不足なく。
「……これが、人とは」
ヴィンスリールは眼下の光景に呟き、背筋を震わせる。
――そこにあるのは、もはや神話と呼ぶべき現実であった。
竜と竜とが覇を競う、伝承の戦に等しき何か。
人の歴史が生み出した究極が、竜にすら劣らぬ武の結晶が、そこに形を成している。
太陽が天頂から揺らぎ。
その頃には彼女に刃を向ける男達ですらが、紛れもない尊崇の念を露わにしていた。
神と言うべき力を持った、竜という存在を崇めるように。
あるいはそれ以上に。
彼等の目指す究極を人の身で体現せしめた彼女に対し、感じ抱くは畏敬であった。
吹き荒れる炎の嵐を潜り抜け、天意が具象に切っ先を向け。
不可能すらを、無謀無意味なことすらを、少女は有意に変えてみせる。
理性はただ彼女を殺すことを望み、けれど同時に、そんな彼女の死を感情が拒んだ。
相反するものが彼等の胸の内を吹き荒れ、彼女が止まることをただ望み――しかし、その終わりも近い。
竜の体には無数の槍。
その血が大地を赤く染め、けれどその代償に、地表に突き立つ槍はもはや三本。
それで仕留めきることは不可能だろう。
少女は肩で呼吸をし、その顎先からは血の混じった汗が滴り落ちた。
ボロボロになった外套――その下にあるワンピースからも、赤い出血がいくつも見られる。
直撃を避けたところで、その全てを躱しきれるはずもない。
無数の飛礫、小さな傷は積み重なり、そしてそれもそろそろ限界だろう。
それでも彼女は動き、体を新たな槍の所へ。
ヴィンスリールは様々な情念を胸に抱きながら、声を張り上げる。
二十の戦士が彼の声に応じ、少女を囲むよう遠巻きに降り立った。
それぞれはグリフィンを降りて曲剣を構える。
彼女が唯一の武器とする槍は空に残った若い戦士達に預けていた。
他の二本も既に、別働隊が回収に向かっている。
――それが彼女の詰みだった。
彼等に呼応をするように竜は空へと舞い上がる。
顎を天に、そこへ集積するのは想像を絶する魔力の渦。
太陽が如き力がそこに集まっていくのを感じながら、ヴィンスリールは口を開いた。
「……一人の武人として、あなたのその力を心より称賛する」
先ほどの竜の咆哮――その威力を見れば、空に上がることを防げなかった時点で終わり。
どれだけこの少女が強くとも、竜はこの地形ごと彼女を消失させるだろう。
ここにある彼等はそのための決死隊だった。
この後のことを考えれば、彼女を助け、聖霊に刃を向けることも良いのではないかと思え、けれどそれは許されないことであった。
クレィシャラナはかつて、聖霊によって生きる事を許された。
遠く昔のことであったとしても、その恩義に対し仇で返すことなど許されない。
クレィシャラナの平穏は、聖霊の慈悲によって守られてきたものであったから。
もしこの先にあるのが破滅であったとしても、信仰とはそのようなものであった。
「ただ一人で聖霊に立ち向かったあなたに対し、このような卑劣な所業。許してくれとは言わない。……だが、我々にも守るべき誓約と恩義がヤゲルナウス様にあるのだ」
少女は視線を背後に向けて。
翠虎や馬の姿を認めると、微笑を浮かべて一人頷く。
「クリシェは怒ってませんし、卑劣だなんて思いませんよ」
告げると少女は左手を頭上に。
空へと舞い上がる竜へと向けた。
何を、と問うより先に、彼女の周囲を膨大な魔力が渦を巻く。
集約され、放たれ、天空に生じるのは無数の青いライン。
青い光は空の竜と彼女の中間で交差し、曲がり、夥しい幾何学的な紋様を生み出し始める。
「っ……」
そこに集積されるのは、先ほど竜が放った咆哮の残滓。
純然たるエネルギーに変換されそこねた魔力達は、飼い主を求めるように少女へ集う。
竜からすれば些細な魔力。
けれど人の身にすれば膨大な魔力。
「……戦いの決着は、これから」
槍を投げては走り回り、少女が手にしていたのは力であった。
竜の魔力を用いて天に築き――空を覆うは巨大なキャンバス。
描き出すのは幾何学紋様、竜に対する天蓋であり。
彼等は理解を超えた光景に硬直し、呆然と空を見上げる。
それを生み出しているのが彼女だと直感的に理解はしていた。
彼女がそれを持って、何をしようとしているかも分かっていた。
だが彼女は、竜に対し真正面から、
「まだ、クリシェの勝ちは消えてませんから」
ただ純然たる力を持って、竜に対抗しようとしているのだ。
そこにあるのはやはり、狂気以外の何ものでもなく。
竜は吠えるように、太陽が如き力をこちらに向ける。
無数の雷鳴が弾けるように。
――放たれるのは千里の先すら貫く光。
街一つ、山の一つを消し飛ばし、地形を歪ませ、眼前全てを薙ぎ払う圧倒的な暴威の渦。
それを止めるは美しき、空に浮かびし月鏡。
その膨大な力は少女の作る幾何学的レンズに妨げられ、光が弾けて霧散し、飛び散り、
「何、が……」
その残光は跳ね返るように、空と雲だけを貫いた。
周囲一帯を消し飛ばすはずの竜の咆哮は、少女が作る天蓋――世界というべき隔たりを超えることはなく、鏡に反射するように消えていく。
少女はそれで終わらない。
右手を突き出すように伸ばし、そこへ魔力を集積、回路を刻み。
再びその場に生じるは、理解を超えた幾何学紋様。
まるでそれは天の怒り、雷そのものを生み出すように。
――彼女がその手に掴むのは、大気に弾ける光の巨槍。
竜の咆哮を受け止めきれば、少女は光の巨槍を掲げながら前傾を。
助走は短く、けれど、槍の速度は先ほどまでの比ではなく。
彼女が放つのはまさに、小さな竜の咆哮であった。
大気の壁を、距離を無にして。
閃光のように竜の体を貫いた槍は猛烈な轟音と共に弾けた。
空を一瞬光が覆い、そこに生じるは大炎は天すら焦がし。
矢で射抜かれた鳥のように――炎に塗れて堕ちるは竜。
その巨大な体は魔水晶の岸壁を砕き、鉱石の如き鱗が周囲に飛び散り突き立った。
竜の巨体は崩れた岩壁に飲み込まれ、
「……この、ような」
それを目にしたヴィンスリールは、口元に手を当て、声を漏らす。
他の戦士達も同様であった。
瓦礫の隙間――焼けた竜の体が煙を上げる。
その優美な羽はボロボロになり、鱗は斑になっていた。
彼等は呆然と、剣を取り落とす。
――竜殺し。
人の身でありながら、道理をねじ曲げ。
少女がそれを成し遂げたのだと膝をつくものすらがあった。
「…………」
だがその中で、肩で息をする少女だけが戦意を失わない。
翼が揺れて、瓦礫が蠢く。
魔水晶の瓦礫に埋まりながらも鎌首をもたげ、身を起こす。
焼け焦げ抉れたような腹部と、穴の開いた翼。
その鱗はあちこちが砕けて剥がれ、しかしその威容は健在であった。
赤紫の瞳には、未だ確かな光を宿している。
その圧力には微かな陰りもなく、あれほどの咆哮を二度も放ちながら膨大な魔力に底は見えない。
傷だらけになってなお、そこにあるのは天に君臨せし異形。
――それこそが、竜と呼ばれる存在であった。
クリシェは眉間に皺を寄せ、再び雷光が如き槍を右手に生み出す。
彼女が手にしたのは所詮、竜が放った魔力の残滓。
湖の水を桶で汲んだところで、彼我の差が埋まることなどありはしない。
絶対的なまでの力の差が、依然としてそこにある。
あと何度咆哮を防ぎ、この魔力の槍を放てるか。
果たしてそれで、この竜を殺しきれるかどうか。
勝利はここまでしてなおその手になかった。
この竜をどうやって殺すか。
クリシェはそれだけを考え思考を組み立てる。
再び、その場には静寂が生まれ――断続的な魔力の波が周囲を歪めた。
それはどこか人が笑うに似た揺らぎ。
クリシェは僅かに眉を顰め、竜はその目を僅かに細めた。
『……なるほど、なるほど。どうにも侮りしは我であったか』
無機質に。
『よもや、その小さき体に死を感じるとは』
けれど愉快げに、声なき声でそう発した。
今ならばその頭蓋を貫いてやれるのではないかと思えたが、腹と違って分厚い鱗。
一撃では殺せまい。
会話をしたいというならば悪くはなかった。
時間が利するのは、魔力を集めるこちらである。
周りの戦士達は少なくとも、今襲い掛かってくるようには見えない。
『名を名乗るとよい、小さきものよ』
クリシェは一瞬迷いつつ、動くことなく口を開いた。
「……クリシェ=クリシュタンドです」
竜は満足げに首を揺らし、真正面からクリシェを見た。
『我が名はアルビャーゲルのリーガレイヴ。……良かろう、クリシェよ』
威圧的で、けれどどこか理知的な瞳は少女の小さな体を見やる。
『お前の言葉に嘘はなく。その小さき体に関わらず、お前はただその叡智によって我に等しき力を持つ。故に、お前は我と対等なるもの――』
笑うように、断続的に魔力が波打ち。
『――お前がそれを望むのならば、我が名を呼ぶ権利を与えてやろうではないか』
その場にいた誰もが、その言葉を聞いて息を飲んだ。