天を裂く光
※一間=約1.8メートル。
――禁域への侵入者。
その言葉を聞くよりも先に、ヴィンスリールは禁域へと飛んでいた。
途中で足跡を見失ったヴィンスリールはそれまでの足跡から侵入者は川へと向かったと考え、そこで見つけた痕跡にリラの存在を確信する。
真っ二つに裂かれて吊られた翠虎と、そこに落ちるグリフィンの羽。
羽は成体のそれではなく、リラに預けたラーネルのもので間違いない。
侵入者は少なくとも、リラとそこで過ごしていた。
そして恐らく侵入者の目的は聖霊にある。
拷問されたような形跡は見られなかったが、侵入者が仮に善良な人間であったならば既に村へ戻ってきているだろう。
何らかの形で情報を引き出され、聖霊の所へ向かったと考えられる。
部下の一人に報告を指示するとヴィンスリールはすぐさま禁域に向かい、そしてその途中で、
「早いなヴィンスリール!」
「族長!」
グリフィンに跨がり聖域へ向かう父――族長アルキーレンスと出会う。
アルキーレンスは二十数騎の戦士を連れ、遠く見える里からも数匹が更に飛び上がるのを見た。
族長自ら槍を持ち。
動ける戦士全てを動員するつもりだろう。
それだけで事態の深刻さを理解し、その隣へ並ぶ。
「リラは恐らく、侵入者と共に」
「……そういうことか。禁域から笛が鳴ったそうだ」
最悪の事態だ、とアルキーレンスは告げる。
聖域の笛が鳴らされるのは魔獣が現れるか、侵入者があった時だけ。
相手は魔獣を狩りの獲物とする、そういう狂った相手であった。
守手長ヴェルヴァスの実力は知っているが、守手達単独では分が悪いと言わざるを得ない。
恐らく既に突破されていると見た方が良いだろう。
「――並の相手ではありません。魔獣を兎のように狩っている。禁域の門は突破されているでしょう」
「報告があった時から油断はしておらぬ。仮に間に合わずとも、全力を尽くす。その他に手段もなかろう。少しでも早く仕留め、ヤゲルナウス様のお怒りを買わぬように祈るしかない」
――そうでなければ文字通り、この山一つ消えたところでおかしくはない。
続いた言葉にヴィンスリールは頷く。
リラがどう、という問題は完全に通り過ぎていた。
聖域の入り口には、手当てを受ける二人の男。
内の一人はヴェルヴァスであった。
こちらを認めると手当てをしていた戦士を押しのけ、グリフィンに跨がり上空へ上がる。
傷は酷いものではないようだった。
一人で追撃は不可能と考え、恐らくこちらの到着を待っていたのだろう。
ヴェルヴァスは勇気と無謀を履き違えない冷静な戦士だった。
「……申し訳ありません、族長。責任は全て――」
「言い訳は良い。相手は?」
「馬と……翠虎を連れた少女です。リラ様も共に」
「翠虎を連れた……少女?」
ヴェルヴァスは頷く。
「随分と若く見えました。しかし、見た目に侮ったわけではありません。私は全力を尽くし、その上で相手にもならず敗れました。……例え十度戦えど結果は同じでしょう」
真剣な顔だった。
アルキーレンスとヴィンスリールは眉間に深く皺を寄せる。
守手長であるヴェルヴァスの言葉は何より重い。
「こうして生きながらえているのは、相手に手心を加えられたから。……そのような無様を見せながら御前に顔を晒す恥は承知の上……ですがどうか同行をお許しください」
「許す。どうあれ、今は一人でも多くの戦力を必要とする。諸々の裁きは全てが終わってからだ、戦士としての矜持を見せよ」
「は」
ヴィンスリールは少し考え込み、尋ねた。
「相手はどういうつもりだ、ヴェルヴァス。お前が生きていたことは嬉しく思うが、しかし不可解に過ぎる」
「……わかりませんな。あの少女に同行していたリラ様は謁見だと仰っていた。手を出さなければ、彼女にクレィシャラナへの害意はないと」
「同じことだろうに。何を考えているのだリラは」
ヴィンスリールは一瞬目を閉じる。
巫女とは言え、許されざる大罪。
それはリラも知っているはずであった。
リラは優しい娘。
情にほだされたか――しかし罪の重さを考えれば、正気の判断とは思えない。
聖霊の怒りを買えば、失われるのは全てであった。
「……我が身可愛さにそのようなことをなさる方とは。恐らくその言葉と様子を見るに、クレィシャラナの民を脅しに使われたのかも。……相手は里一つを脅せる力量がある」
「……馬鹿なことを」
クレィシャラナの人間が何人死に、仮にそれで滅ぼされたとしても。
聖霊の怒りを買うくらいならばいっそ、そのほうがまだましだった。
ヴィンスリールが首を振り、アルキーレンスが告げる。
「終わったことだヴィンスリール。今はやるべきことにだけ目を向けよ」
「……は。申し訳ありません」
聖霊の窪地につくまでの間、ヴェルヴァス達の他、数人の戦士と合流する。
傷は深くなく、皆命があった。
驚くべきは相手が彼等を生かしたという事実よりも、手心を加える余裕があったという点だろう。
戦いにおいては殺すこと以上に、生かすことの方が遥かに難しい。
鍛え上げられたクレィシャラナの戦士、しかも空を支配する獅子鷲騎兵に対して、命を奪わず抵抗力のみを奪う――よほどの実力差がない限りあり得ないことであった。
一体どれほどの化け物か、考えながらもグリフィンを羽ばたかせる。
そうして進めば、目的地に。
眼前には聖霊の丘が見え、目にしたのは渦を巻く大気であった。
――もはや手遅れ。
恐らく聖霊の前に、その化け物はいる。
「ヴィンスリール!」
「は! 全員構えろ! 戦いは既に始まっているぞ! 敵は並の相手ではない、近づくな。状況が状況だ、一斉投槍にて即座に決める!」
槍を握り締め、手綱を引く。
グリフィン――リットグンドは首を上に向けて強く羽ばたき、一気に丘の傾斜を超え飛び上がった。
丘を越えた先の窪地――魔水晶の岸壁を背後に身を起こすは、城塞が如き聖霊の姿。
尾の一振りで村一つを消し飛ばすだろう。
その爪を前にはそびえ立つ城ですら、一薙ぎで削られ崩壊する。
蛇のように伸びた長い首の先には小屋を丸呑みせんばかりの巨大な顎があり――そしてその、凍り付くような赤紫の瞳。
聖霊の前にはこれまで七度訪れたが、その身を起こす姿を見たことはなかった。
膨大な魔力と威圧感――この場の空気は全てが異なっている。
二里の距離を隔ててなお、ヴィンスリールは恐怖を覚えて身を震わせた。
勇猛なるリットグンドですら聖霊の発する圧力に怯え、この場から離れることを望んでいる。
――竜は人からすれば神と呼ぶべき存在であった。
両者を比べることは人と虫けらを比べることと似て、竜と人にはそれほどの隔たりがある。
気まぐれ一つで街一つ、国そのものすら滅ぼせるだろう。
竜と人は、そもそも存在としての格が違うのだ。
それを前に切っ先を向けるなど、愚かさの極みと言うべきであった。
その翼が巻き起こす暴風。局地的な嵐であった。
それに巻き込まれたか、こちらに転がってくるリラとそれを追うラーネルの姿を捉え、窪地の隅で聖霊に怯える翠虎の姿を認める。
そして、そんな窪地の中にただ一人――
「何を……?」
――神に対峙するのは銀の髪をした虫けらだった。
黒い外套をはためかせ。
竜を前には小枝が如き槍を掴み、生じた嵐に逆らうように。
過度の前傾になった踏み込みから一転、上体を反らして槍を構え――美しさすら感じる一瞬の流れ。
しかしそこから放たれるのは、もはや槍とは思えぬ力の奔流。
轟音と共に奔った槍は、眼前を覆う砂の嵐を貫いた。
眼前にある風の障壁をこじ開け、一里の距離を無に変えて――竜の翼の付け根、その鱗と肉を貫いてなおその槍は止まらない。
硝子の割れるような猛烈な破砕音と共に。
竜の背後、その岸壁が青き輝きと共に崩れ落ちていく。
竜のその血と混ざり合い、生じるは紫。
――虫けらが如き少女が放つのは、神すらを殺しうる一撃であった。
ヴィンスリールも、ヴェルヴァスも、アルキーレンスも。
その場にあった全ての者が、一瞬呼吸と思考を忘れて少女を見つめる。
並の相手ではないと予想はしていた。
身構えもあった。
しかしその姿は、彼等の想像を遥かに超えていた。
転がるように体勢を立て直した少女は、再び槍をその手に掴む。
そこでようやく、止まっていたヴィンスリールは我に返ることが許される。
「っ……、次の槍を投げさせるな! 背後から狙え!」
そして、叫ぶように手綱を操り、怯えるリットグンドを無理矢理に羽ばたかせた。
――鉱石の如きという鱗は確かに嘘はない。
翼をそのまま一撃で千切り飛ばすつもりであったが、想像以上に鱗は硬かった。
単なる岩よりは丈夫――しかし金属ほどの粘りはない。
であれば、投槍で十分な傷が与えられる。
仕留められないということもあるまい。
風に逆らわず、槍を掴めば背後に飛んだ。
流石にクリシェであっても、この暴風全てを潜り抜けては前に出られない。
厄介だった。やはりまずはあの翼をどうにかした方が良い。
空へ逃げられる危険もある。
グリフィンが飛ぶ姿から察していたが、意識的かどうかはともかく竜は魔水晶に頼ることなく魔力を動かし風を操る。
あれほどの魔力があれば、その巨体を浮かすことも容易だろう。
その隙を与えぬよう立ち回る必要があった。このタイミングで遥か上空に逃げられれば、クリシェであっても勝ち目はない。
再び体を前方へ。
気付いたか、竜は傷ついた翼の付け根を隠すように腕を動かす。
明らかにこちらの狙いを理解していた。
図体のわりに反応が早いと情報を修正しながらも、しかし構わず槍を放つ。
その巨体――槍の一投では仕留められないことは元より承知の上だった。
槍は竜の鱗を貫き、肉を抉って腕に突き立つ。
貫通はしない。その肉自体も強靱なのだろう。
「っ……」
転がり、身を起こし、クリシェはすぐさま後ろへ跳んだ。
竜は背を向けており――振るわれるのはその巨大な尾。
単純明快、動きは読める。
だがその先端は音よりも早く、空気を弾けさせながらこちらへ向かってきた。
その威力の前には人の体など、容易く大地ごと削り取って見せるだろう。
跳躍によって尻尾の先端からは三間ほど。
しかし砕けた大地がつぶてとなってクリシェに向かう。
石の一つすら対処を誤れば致命傷。人体を鎧の上からでも弾けさせる、そんな威力を秘めていた。
無数の弾丸から自身に当たるものだけを選んで蹴り飛ばし、そのまま転がり身を起こす。
竜は常識外の巨体であったが、想像以上に速く、鋭い。
その見掛けの重量から考えれば信じられないほどの速度であった。
「狙え!」
クリシェの後方から響いたのはクレィシャラナの言葉。
流石に追いついてきたのだろう。
こちらに向けて放たれるのは槍――奏でる風切り音、数は十二。
しかし竜の起こした暴風はまだ残っている。
槍の軌道は乱れて歪み、こちらに命中するのは二本のみ。
――まるで背中に目があるように。
クリシェはその二本だけを振り向くことなく掴み取り、一本を前に放り投げた。
行なうべきは単純で、やることはただ一つ。
槍を掴んで投げる。それを繰り返すだけ。
竜にとっては針の穴が如き傷であっても、いずれその傷が重なれば無視できなくなるはずだった。
前傾加速から眼前の大地に踵を蹴りつけ、急制動。
暴れまわる力を掌握し、手に持つ槍へ伝えきる。
正真正銘、全力の投槍――伸びた筋と関節が痛むが構わない。
千切れ飛びさえしなければ、痛みなどないのと同じであった。
放った槍は長い首――その付け根へと突き刺さる。
顎の下から尾の腹側まで、そこだけは鱗らしきものが存在しない。
分厚くはあるが想像通り、その外皮の強度は精々なめした革程度。
槍は肉を弾けさせ、大量の魔力を帯びた血が飛び散る。
上手く行けば貫けるかと考えたが、そこまで上手くは行きはしない。
そのまま前進、二本目の槍を掴もうとし、
「――やらせん!!」
頭上から降り立つのは一つの影。
叫ぶように眼前を塞いだのは、巨大なグリフィンに跨がる一人の青年だった。
クレィシャラナの生ける英雄――戦士長ヴィンスリール。
その手が振るうは数多の翠虎を葬った槍の一撃。
だが少女は後ろへ跳躍することで容易く身を躱し、距離を取った。
「これ以上の狼藉を許すわけにはいかん。……命をもらうぞ!」
死角となる頭上からの奇襲的な一撃。しかしそれでも不十分。
反応速度、運動能力、視野の広さ。
いずれも自身の力が及ばぬ遥か高みにあると、ヴィンスリールは改めて理解する。
月のように輝く銀の髪。
どこまでも現実味を欠いた、美しい少女の瞳は何も見ていないようで。
しかし全てを捉えるような色は紫。
――竜のそれと似た、絶対者の瞳であった。
視線が向けられるだけで背筋が凍る。
己如きが決して勝てはしない相手だと、本能的に理解する。
竜に――天にすら切っ先を向けること恐れぬ、狂気に満ちた傲慢さ。
人でありながら人の理の外に立つ、彼女はそういう存在であるのだろう。
風が止み、一瞬の静寂。
族長アルキーレンスの号令と共に、彼女に向かって降り注ぐは無数の風切り音。
翠虎ですらを容易く肉片に変えるであろう、槍の嵐に少女は踊る。
先ほどと同じ――振り返ることすらなく。
彼女は響いた音だけで周囲の全てを捉えていた。
体を捻り、大地を滑って弧を描き。
まるで舞いでも踊るように、彼女は内の一本を容易く掴んだ。
その外套すらを擦らせることなく、理解を超えた神仙の舞い。
戦いであることも忘れ、囚われてしまいそうな美があった。
「リットグンドッ!!」
リットグンドは姿勢を低く、羽ばたきを一度。
その体ごと叩きつけるように跳躍、少女へと襲い掛かる。
そうして彼女の視界を覆うと、ヴィンスリールも跳ぶように、単身横から回り込む。
一瞬の虚と時間。
勝つことなど考えない。仕留めること以上に時間を奪うことを優先する。
傷を負わせ、槍を放つ時間さえ奪うことができれば、いずれこの少女にも限界は来るはずだった。
リットグンドを壁に脇を抜け、そこにあるのは大地に突き立つ槍林。
その中に背後へ跳躍する少女の姿を捉え、踏み込む。
繰り出すのは岩すらを貫く渾身の突きであった。
「っ……!」
だが少女はもはや、こちらを見ることすらなかった。
腰を捻り、ヴィンスリールの槍を背面で躱し、左脇で挟むようにその柄を掴む。
そしてその勢いを殺さぬままにくるりと回り、ヴィンスリールを引き寄せ――
「ぅ、ぐっ!?」
――生じる衝撃は一瞬。
加速したヴィンスリールの脇腹に、少女の右踵が突き刺さる。
一瞬遅れて激痛が走り、思考が止まる。
ヴィンスリールの体は衝撃に浮き上がり、リットグンドの体に叩きつけられる。
あまりの激痛に思考を断たれ、色すら失う視界の端。
走り出す少女を無力に眺め、ヴィンスリールは堪えきれずに嘔吐した。
「この世に……これほどの猛者が存在するとは」
響き続ける轟音は、聖霊――ヤゲルナウスの鱗を砕き、肉を貫く槍の音。
無数の投槍をものともせず、ヴィンスリールの捨て身の一撃を容易に躱し。
当然のように放つ槍は、常軌を逸した威力を持って聖霊すらを貫いた。
アルキーレンスの、長の弱音のような呟きを咎める者などどこにもいない。
こうして目の前にしても、現実の光景とは思えない。
生涯を鍛練に費やすクレィシャラナの戦士であればこそ、人の限界を知っている。
少女の身体能力は、決して彼等のそれを超えるものではない。
それでもあの少女は数十の戦士を翻弄し、聖霊にさえ牙を立てる。
化け物などというありふれた言葉では形容出来ない異物であった。
これほどの相手となれば投槍など無意味だろう。
むしろ相手に利するところが大きい。
「っ、以降投槍を禁じる! 我らが血肉をヤゲルナウス様の盾と――」
言いかけ、言葉を止めたのは自らの意思ではない。
空気が一瞬で、異質なものに変わったからだった。
――ヤゲルナウスは大きな羽ばたきを一度。
再び暴風を巻き起こし、距離を詰めていた少女の体が宙を浮く。
先と異なることは竜が天に向けるように、その顎を大きく開いていたこと。
太陽の如き輝きが、その顎の前に生じていたこと。
「――全員ッ、正面を避け空へ退避しろッ!!」
伝承でしか知らない。
目にしたことなどあるはずもない。
ただ、目の前にあるそれこそが、そうなのだと理解が出来た。
山を引き裂き地形を変えて。
国すらを滅ぼす破滅の雄叫び。
――それは竜の咆哮と呼ばれるもの。
その暴力は疑う余地なく、未だ宙に舞いあげられた少女一人に向けられていた。
王都アルベナリアにある訓練場では、セレネとエルーガの姿があった。
「あまり無理をなさらず。セレネ様まで倒れてしまったとなれば、クリシェ様が帰ってきた時どう思うか」
「ちょっと疲れるくらいに働いてたほうが気は楽よ、ファレン。暇が出来ると悪いことばかり考えてしまうもの」
はぁ、と嘆息してセレネは告げる。
城壁の外――この訓練場に新たに作られるのは、軍学校の第二校舎であった。
一級市街にあった王国所有の建物を校舎として用いるが、やはりそこでは座学しか行なうことは出来ない。
実際的な運用はやはり兵を用いる方が良く、訓練場の脇に簡単な校舎を作り、そこを実戦的教育の場として用いることになっている。
盤上での兵棋演習。
知識としての戦術教育。
それら全ては実際的な運用経験があって初めて形となる。
神聖帝国との戦でも、内戦でも。
自分の無力を嫌と言うほど感じたセレネは、そのことを誰より知っていた。
しっかりとした訓練設備を設け、徹底的に訓練を行なえば、自分のような間抜けが戦場で兵を率いる可能性を少しでも減らすことが出来るだろう。
セレネは自分に任された仕事の中でも、軍学校に重きを置いていた。
「クレシェンタにも気を使われるくらいよ。全く、情けないったらないわ」
クレシェンタは何かと理由を付けて、セレネと共に過ごしたがった。
クリシェもおらずベリーもあのまま。
単に甘える相手が欲しいだけ、というのも理由の一つだろうが、セレネの様子を窺う意図もあるのだろう。
普段用がなければ滅多にセレネの前に顔を出さない彼女であるが、このところは何かと用事と称してセレネの前へ顔を出している。
「くく、女王陛下もクリシェ様とは随分雰囲気が異なりますが、優しいところがよく似ておられる」
呆れたようにエルーガの邪貌を見つつ、セレネは苦笑した。
クレシェンタは特に他人の顔を気にしない。当然エルーガの顔に対しても同様。
――この老人は自分の顔を見て怯えない人間を、全員優しいカテゴリーに放り込んでいるのではあるまいか。
そのようなことをセレネは思わないではなかったが流石に失礼だろう。
元帥補佐であるエルーガとクレシェンタが接する機会はそれなりに多い。
クリシェが起こした貴族惨殺事件をクレシェンタがどう片付けたかも知っている。
少なくとも彼女が見た目通り優しく可憐な女王様であるなどと、そんな勘違いなどしてはいまい。
「……ひとまず、私のほうでアーグランド軍団長には話を通し、ヴェルライヒ将軍にも文は送ってあります。この二人はまず問題ない」
エルーガは唐突に告げる。
「ガーカ将軍はまぁ、純粋な戦好き――無邪気な子供のような方です。聖霊を敬うような敬虔な方には見えませんな。こちらも安心して良いのではないかと」
「キースリトン将軍は?」
「西へ向かわれる前に少し話しましたが、クリシェ様のことは随分と気に入っておられた。大きく道を誤らぬ限りは、と仰っておられましたが……むしろ先日の貴族惨殺の方が少し心配ではありますな。気持ちがそれで変わらねば良いですが」
大貴族達の惨殺――表立って話されてはいないものの、王国中央の貴族で知らぬものはいない。
犯人は十七人を殺し、証拠一つ残さず。
異常に過ぎた犯行、法で裁くことなど不可能だ。
だがその異常さ故に、噂は広まる。
そこで名前が挙がるのはやはりクリシェであったし、彼女の率いる黒旗特務であった。
無論クリシェの実力自体、軍の関係者しか知らない。
民衆にとって流れる噂は所詮噂でしかなかった。
あまりに異常すぎる事件であったため、本当に殺されたのは数人だけで、十七人が四肢を裂かれ殺されたというのは尾ひれがついた噂であるのではないか、という見方が現状は一般的。
クレシェンタはダグリスを動かし、
『女王暗殺未遂を発端に、悪意ある貴族達が水面下で争い数名が死んだ』
という噂を流して対処を行なっていたし、そうして民衆の目から欺こうとしていた。
十七人が一晩で四肢を裂かれて殺された真実よりも、そちらの方がよほど真実味のある話である。
クレシェンタの工作は今のところ上手くいっていた。
だが、クリシェが仮に竜を殺して帰ってきた場合、現状に更なる悪影響を与えることは間違いない。
竜を殺せるような人間ならば、どのようなことを行えても不思議ではないからだ。
仮に民衆がクリシェを恐れ治安に乱れが生じれば、それは必ず全体に波及する。
フェルワースのような人間が動く可能性は多いにあった。
「用心すべきは北部と西部……内側も。どうなっても苦しいところね」
王女クレシェンタと王弟ギルダンスタインの戦い――先の内戦のような王族の権力争いではない。
どういう理由であれ、現状で王都に軍を向けることは言い訳の余地もない大逆である。
反旗を翻した所で兵は容易に集まるまいが、周辺諸国がまとめて王国を潰しに来ようとしている現状での不和は中々に致命的であった。
「あえて最悪を想定するならば、私には勝利が見えませんな。やれる限りはやるつもりではありますが、そうなれば情けないことに私も半ばクリシェ様頼りですよ」
「……この状況の半分はあの子のせいだもの。あなたが責任を感じる必要はないわ」
セレネは呆れて言った。
竜殺しが悪名となるか、名声となるか。
それ次第、結果が出てみるまでは分からない。
良い方向に、悪い方向に考えれば、いくらでも可能性は出てくる。
――どうあれせめてと、クリシェが無事に帰ってきてくれることだけを祈った。
戦も日常も。
少なくともセレネのこれからは全て、そこから始まるものであるから。
「ん……あれは?」
「どうかしたの?」
エルーガが空へと目を向け目を細める。
セレネは首を傾げ、そちらを眺めた。
疎らに雲の浮かぶ青空。
ここから見れば北北西だろうか。
光る線のような何かがうっすらと、地平線の遥か向こうから天に向かって昇っている。
あれは何かと考えていると、それは不意に動きだし、
「え……?」
――王都上空の雲を一瞬で切り裂いた。
地平線の遥か彼方から、山脈すらを越えて。
王都の上を抜けていく光――セレネは少し遅れて、それが信じられぬほどに膨大な魔力が生み出す力の奔流であることを感じ取る。
「……これ、って」
竜の伝承は知っていた。
だから理解しようとして、けれどその心が理解を拒む。
周囲で訓練に励んでいた者達すらも手を止めて、呆然とそれを眺めた。
セレネもまた、同じくそうして――ふっとよろめき、エルーガは咄嗟にその体を支える。
千里を超えて、遥か彼方から雲を切り裂く魔力の渦。
理解を拒みたくなるような異常であった。
しかしその場にある二人だけは、それがどのような存在によって引き起こされた事象であるかに気付いていた。
そして、その切っ掛けとなったであろう存在も。
「……クリシェ」
セレネはエルーガに抱かれたまま、震えるような声でただ、愛しい少女の名前を呼んだ。