神殺しの槍
かつての栄華も今は昔。
クレィシャラナも今では人口3000人程度の部族であった。
昔ながらの生活を捨てず、街を作るではなく小さな集落を散らばらせ、アルビャーゲルのあちこちに彼等は住まう。
かつては千を数えたという獅子鷲騎兵も百に足らず、時代の流れを拒絶したような彼等の世界にあるのは紛れもない衰退。
娯楽もなく、戦士だけが尊ばれ、そんな世界に嫌気が差して出ていくものも年月と共に増えていく。
そこに今なお残るのは、埃を被った矜持をよすがに生きる者達。
――それがクレィシャラナであった。
木で作られた高床式の家々が立ち並び、そこはクレィシャラナでは里と呼ばれる大集落――その中心の広場。
「翠虎に藍鹿……」
真白い髭を蓄えた老人は報告に眉根を寄せる。
クレィシャラナ族長アルキーレンス。
時代に取り残され、かつて握った武を信仰し生きる千の戦士達――その頂点に立つ男であった。
少し前に入った報告を聞き広場に出て、自ら情報収集を指揮する姿には、老いてなお長たる者として持つべき力が宿る。
鍛え上げられた腕を組み、険しい顔で伝令に目をやった。
「はい、どれも恐らく一撃で……並の腕ではありません。戦士長は今、その場に残された足跡を追っておられます」
当初は自身の娘リラの捜索であったが、今となってはその目的もこの山に起きた異常の原因究明に切り替わっている。
「ヴィンスリールが」
「不測の事態に備え、女達は固めておいた方が良いと」
アルキーレンスはその言葉を聞いて、更に険しいものを浮かべた。
魔獣が里の側で見られた場合には、戦いの最中混乱を避けるため、戦えぬ者を一箇所に固める。
大地や木々を縦横無尽に駆け回る翠虎の如きを相手にするには、その混乱が命取りとなりかねないからだ。
その痕跡が残されていたという場所までは随分と距離があったが、それでもそれだけの用心をするべき相手だと言っているのだろう。
ヴィンスリールはこの里最強の戦士、戦士長であった。
十三の若さで戦士となり、自らその手で討ち取った魔獣は十を越える。
戦士長となってからはこれまで、ただ一匹の魔獣も里に近づけることなく――そのヴィンスリールがそう考えたということは、それだけの緊急事態と見て間違いはない。
「ドレッタール! 非番の獅子鷲騎兵も全員集める。虎入りの鐘を鳴らせ!」
「は!」
ドレッタールと呼ばれた戦士はグリフィンを操り鐘楼に飛ぶ。
そしてその大きな鐘の音を山に響かせた。
応じるように遠くの集落からも無数の鐘の音が響き渡る。
虎入りの鐘が一度響き渡れば、獅子鷲騎兵を除いた全ての男達は皆作業を中断し槍を握り締めた。
選び抜かれた獅子鷲騎兵、職業戦士たるクレィシャラナの戦士でなくとも、従士と呼ばれる彼等は娯楽の全てを鍛練に捧げし武の狂信者。
彼等は山のあちこちに点在する自らの集落、その防備を固める。
女はあらかじめ決められている近くの蔵に固められ――魔獣という脅威に常に晒されてきた彼等の動きは、ある意味訓練されてきた軍隊のそれよりも早い。
彼等の戦士社会が今なお残り、その力が失われていない理由はそうした脅威にこそあり、堕落などはクレィシャラナに無縁な言葉。
鐘の音と共に空気が張り詰めた物に変わり、老若男女も問わず慌ただしく駆け回る。
「アルキーレンス、どういう状況だ」
「山への侵入者のようです、長老。……単独、もしくは少数のようですが、翠虎や藍鹿を仕留めるほどの腕だと」
胸まである髭を蓄えた禿頭の老人。
先代族長である長老ビーキルスは杖を突き、戦士の一人に肩を支えられながらもアルキーレンスの前に来る。
こうして人前に姿を現すのは久しぶりのことであった。
その細い手足は震えるようで、しかし目は鋭く。
軽く押せば倒れてしまいそうな老人には、未だ確かな覇気があった。
「軍ではないな?」
「ええ。痕跡から見て王国からの者のようですが」
「……だとすれば、狙いは聖霊か」
「絶対、とは言えませんが……可能性は高いでしょう。今のところそうした報告はありませんが」
魔獣の発見された場所は禁域から遠い。
そして既にリラを探すため、戦士達はあちこちを飛び回っている。
侵入者が禁域を探して周辺を歩き回るならば、いずれはその居場所は突き止められるだろう。
禁域の場所を知っているのは皇国の高位神官の一部とクレィシャラナの人間だけ。
その侵入者が一直線に禁域を目指すのでもなければまだゆとりはあった。
「……念には念を入れ、戦士の一部を先に禁域へ向かわせて警戒を強めます。アーズラバン! 六名を率い、先行して禁域の道をヴェルヴァスと共に監視せよ」
「は。すぐに――」
そのタイミングで空から響いたのは甲高い笛の音。
空を見上げれば聖域の方向から一騎の戦士。
グリフィンは滑空しながらアルキーレンスの前に降りてくる。
「長老、族長。禁域の入り口から笛の音が」
「……なんだと?」
「今、共にいた二人が確認に向かっておりますが、恐らく何者かが……」
アルキーレンスは目を見開き、すぐに吠えるように叫ぶ。
「お前はすぐにヴィンスリールを呼びに行け! アーズラバン、わしも出る。ドレッタール! 戦士を全て集めた後、最低限の守りを残して禁域へ連れて来い! すぐにだ!」
『ベリー、今回のは結構自信作かもですっ、美味しいですか?』
『……これはピリクスでしょうか。いいですね、ほんのちょっとの酸味があって、甘みがあって……ふふ、とっても美味しいです』
好きな人に美味しいって、そう思ってもらえるように。
『えへへ、かわいいですか?』
『はい、とってもお似合いですよ』
好きな人に綺麗だって、そう思ってもらえるように。
ちょっとした幸せを感じてもらえればと、そう思っての小さな一手間。
ベリーを幸せにするために自分があって、そしてベリーの幸せは自分の幸せで。
持て余してしまうくらいの幸せがいつもそこにあって、それはずっと、これからも続いていく。
そんなことをいつも考えていて、だからそれがふと消えてしまったように思えた時には、一瞬全てのことがどうでもよくなった。
頭が回らなくなり。
自分がどうにかなってしまいそうな感覚があって――だから、これからも続かせるのだと考えた。
続かせるためにはどうすれば良いかと考えて、やるべきことに目を向けた。
少なくともやるべきことだけに目を向けている間は、他の全てを見ないでいられるから。
これが正しいことかどうかなんて、そんなことはどうでもよかった。
可能性があるならやるべきことで、そして可能性がある限り、自分はそれを追い求め続けられる。
重要なのはそれだけだった。
永遠の命がないことくらい知っている。
いつかはきっと、そうなるのだろう。
けれどそれはずっと先の未来のことで、少なくとも今ではない。
少なくとも、こんな終わりではないはずだった。
だから、続けるのだ。
そうしている間は少なくとも、そのことだけを考えていられるから。
そうすれば、またいつもの日常が繰り返されると信じていられるから。
「……クリシェ様、もう少しです」
崖際の禁域の道を更に進めば崖を抜け、次第になだらかな丘陵地に。
これを越えた先に竜はいるらしい。
あの後襲撃は二度――五人ほどのクレィシャラナの戦士を無力化し、手にした槍は更に四本。
八尺の槍、長さのわりには軽く細身に見えるが、先端には一尺ほど鉄芯が差し込まれている。
見た目は簡素なものだが、意外に丈夫で質が良い。
相手が伝承通りであるならば槍はいくらあっても良いくらいで、ここで追加を得られる事は何より喜ぶべき事だろう。
ここまでついてきていた翠虎はどうにも怯えるようで、その歩みは遅れがちに。
恐らく竜がいるためだろう。
近づくほどに気温が上がり、この辺りは異様なほどの魔力で満ちていた。
クリシェですら頭がくらくらとしそうな、濃密な魔力――これを生じさせている存在のことを思えば、単なる獣である翠虎が怯えるのも無理はない。
とはいえついてこないならばそれでも良かった。
「ぐるるんは帰ってもいいですよ」
言ってそのまま置いていくと、迷うようにしながらもクリシェの後をついてくる。
肉をもらったことへの恩義があるのか、それとも単に懐いてくれているのか。
それは良いことであったが、悩ましいところでもあった。
別に戦いで頼りにしているわけではない。
巻き込まれることもあるだろうことを考えれば、無理矢理ここに置いていった方が良いのかも知れない。
無関係であるのに死なせるのは、やはりクレィシャラナと同じく不憫ではある。
少なくとも『良い子』としてはかわいそう――そう考えるのが普通だろう。
だが考える時間も、ここに至ってはもはや存在しなかった。
クリシェは丘陵を越えると、眼下に目をやる。
そこには四方に二里はありそうな巨大な窪地。
向こう側には夥しいほどの魔水晶が剥き出しとなった、巨大な岸壁がそびえ立っていた。
――その青く輝く壁の前には、岩山のような何か。
灰色のそれは小山のほどの大きさがあり――そしてその身そのものが放つ青き光。
「……あそこにおられるのが聖霊、ヤゲルナウス様です」
リラは緊張するような、静かな声で告げた。
クリシェは目を見開くと、しばらくそうして無表情で眺め続けた。
クリシェはじっとしたまま、何かを言うでもなく。
リラが困惑しながらも彼女を見る。
もしかすると考え直してくれたのだろうか。
――いや、そういう訳ではない。
「ぶるるん、槍です」
クリシェは馬の背にある大量の槍を全て、窪地へ向かって放り投げる。
「……あの、クリシェ様」
窪地の傾斜は急だった。
降りることは出来ても、馬の体で登ることは少し難しい。
念のためだろう――そうは思ったが、窪地に突き立っていく無数の槍。
リラは不安から懇願するように彼女を見つめ、その袖を掴んだ。
「……お話が失敗したならクリシェにもあんまり余裕がなさそうですから。最低限の備えです」
言って、クリシェは窪地へと飛び降りる。
翠虎が続き、迷いを浮かべながらもリラが続く。
巨大な何かにでも体を丸呑みされたならば、このような気分を味わえるだろうか。
窪地の魔力は濃いという次元を越えて、もはやその濃度は体内のそれであった。
二人がそうして近づけば、岩山のように見えた竜の体――そこに、巨大な赤紫の瞳が浮かび、
「っ……」
一瞬クリシェの体にすら、その身が強ばるような悪寒が走る。
鎌首をもたげるように、塔が如き竜の首が持ち上がり。
そして当然の理を示すように、遥か高みよりクリシェを見下ろす。
狼を前にした兎のように。
蛇を前にした蛙のように。
その格の差を、本能が理解した時生じる何か。
少なくとも、クリシェが生まれて初めて覚える感情であった。
背筋がざわつくような感覚――その瞳が開いた途端、体中が粟立つような不快感へと変化する。
ここまでかろうじて付いてきた翠虎も、悲鳴をあげるように背を向けて距離を取り、怯えるようにその身を丸める。
――それはどこまでも無機質で、宝石のような赤紫。
脅すでもなく、からかうでもなく。
その瞳はただ見るだけで大気すらを歪ませる。
視線だけで周囲全ての魔力を掻き乱し、この世界の調和を乱す。
その身から溢れだす膨大な魔力はどれほどのものか。
仮にクリシェの如きが千人――例え万いたところで、目の前のそれが持つ魔力になど到底届くまい。
これこそがまさしく、天意の具象と呼ぶべきもの。
雷鳴響く嵐が如く、大地を飲み込む津波が如く。
それは獣ではなく、生物とすら呼ぶべきではないだろう。
疑う余地なき頂点に座し、生まれながらに全ての生物を見下ろすことを許された、唯一のもの。
ただそう在るべくして君臨せし、神に等しきもの。
――それこそが、竜と呼ばれる存在であった。
「と……」
リラは怯えるラーネルから降りると、両膝を突く。
そして頭を地に伏せ、震えた声で口を開いた。
「突然、の……ご無礼をお許しください、ヤゲルナウス様……」
巫女として、リラは何度かここを訪れた。
けれど明らかに空気が違う。
明確に、いつもとは何かが異なっている。
なんと告げるべきか。
考えていた内容すらを失念し、何を言うべきかも考えられぬほどに体が恐怖で凍り付いていた。
竜は答えることなく身を起こす。
岩肌のような鱗が動き始め、蝙蝠に似た、けれど蝙蝠などとは比べものにならぬ巨大な翼が広げられる。
身を起こせばその頭は背後の岸壁を越えんばかり、その身の丈は城砦が如く――古き書物に記された伝承は嘘偽りなく、事実だけを刻んでいた。
その瞳が向けられるのは、自身に正対する一人。
その赤紫は、少女の無機質な紫をただ捉えた。
竜はそれ以上動くことなく、クリシェもまた動くことなく。
不自然なほどの長い静寂がそこに生まれる。
まるでそれは偶然出会った捕食者同士が、互いに機をうかがうように。
一方が動けば、必ずもう一方も動くだろう。
確信に似た感情――それを本能で感じ取ったリラは指一本動かすこともできはしない。
害意なきことを示すように、リラは顔を上げることも出来ずただ、そうして地に額を押し当て続けるしかなかった。
――その均衡を崩すように、先に響いたのは竜の声。
『これは、稀な訪問者のようだ。……小さきものでありながら、久しく味わう事なき揺らぎを覚える』
頭の中を直接掻き回されるようなそれは、声であり声でなく。
竜は口を開くことなく語りかけている。
声は大気を伝わるではなく、魔力を伝わり頭蓋へ直接浸透するように。
ただ声によって、周囲の魔力が震えて歪む。
他人の体――その内側に入り込んだような、言いようもない不快感。
『その目は違うな。侮るではない。驕るでもない。……分かった上で、その小さき体でありながら、我が身を討てると』
ここは既に、眼前の竜――その胃袋の中であるかのようで。
天は高く、この身は外の世界にあるというのに、二人が覚えるのはどうしようもないほどの閉塞感。
『お前は……そう考えているのだろう?』
――実に、興味深い。
竜は続けると、視線を周囲の槍へ。
そして再び、クリシェにその眼を向けた。
『――その小枝が如きで、我を討つ、と?』
どこか愉快げな音色であった。
獲物を前にした捕食者のように。
それを表現するならば、やはり愉悦と言うべきだろう。
クリシェは頭に響くそんな言葉を聞きながらも、平然と前に出る。
「……場合によればと思ってましたけれど」
不思議と、体は震えそうなくらいに強ばっていた。
自分が誰かに殺される――そんなことを考えたことは一度もない。
赤子の頃を除けばどんな相手であろうと逃げ出すことは難しくなかったし、今となっては自分に敵意を向ける相手など、どんな相手だろうと返り討ちにしてみせる自信があった。
けれど、目の前の相手はその例外なのだろう。
――自分はもしかすると、怯えているのかもしれない。
クリシェはその感覚を、どこか遠くから眺める心地で見つめる。
足は逃げることだけを考えた。
けれど既に、相手はこちらの存在を認めている。
ここから逃げ出すことなどもはや出来はしないだろう。
距離を離せば、ありえたはずの勝機すらも失われる。
そして――あくまでそれは勝機でしかなく、勝利ではない。
侮ったつもりこそなかったが、間近にすれば、その圧をその身で感じれば、これが想像よりも厳しい相手だと理解が出来た。
「クリシェは、あなたの血肉を分けてもらえないかとお願いに来ました」
だというのに、自分がこうして落ち着いているのは何故かと思う。
きっと三年も前であれば、こうして立っていられなかったかも知れない。
近づいた段階で、気付かれる前に逃げだしていただろう。
自分が殺されることほど、怖いことはなかったから。
――だから、嫌がらずにずっと、お側に置いてくださいませ。
赤い髪と、その微笑を思い浮かべた。
それが、失われることを考えた。
ああ――もしかしたらかあさまは、このような気持ちであったのかも知れない。
自分が死ぬことよりももっと、かあさまにも怖いものがあったのだ。
――お願いです……お願いですからこの子にだけは。
だからあの時、クリシェの前に出たのだろう。
そうなるくらいなら、そのためになら。
自分がどうなったって構わないと、そう思ってくれたのかも知れない。
それくらいにきっと、クリシェのことを愛してくれていたから。
「最初はあなたを殺してあなたの心臓をもらうつもりでしたけれど、お願いを聞いてもらえるなら、ひとまずそれでも良いかと思って……あなたを殺すのはクリシェでも結構難しそうですしね」
怖いのに、怖くないと思えるのはきっと、そう感じていられるからだろう。
そう信じることは、とても幸せなことのように思えた。
少しだけ、歪な自分が普通になれた気がして、
「……でもその様子では、いいですよ、だなんて素直に言ってくれはしないでしょう。クリシェがあなたの立場でも、いいですよ、だなんて言わないでしょうし……無茶なお願いだとは思います」
その想像が正しいものであればと願い、
「だから、その上で。クリシェがあなたに告げるべき言葉は、殺されたくなければ言うことを聞け、でしょうか」
神にも等しい存在に、だから少女は言い放つ。
「クリシェは一歩も譲りませんし、譲れません。……なら、これ以上の問答は無意味でしょう?」
その膨大な魔力、威容を目にした上で。
彼女の言葉には畏れ恐れる感情など欠片さえも滲んでいない。
静かな声音はどこまでも力強く、
「死ぬかクリシェに従うか、選ぶのはあなたです」
明確な意思が宿っていた。
森羅万象、天に唾吐き、剣を突き立てることすら厭わない。
望みのためならば、求めるもののためならば、天上天下、全てを踏みにじって支配する。
――傲慢なるもの。
それが人と言う名のけだものが本質であり、
『……鱗もなく、牙もなく、空を羽ばたく翼もなく』
そして彼女は、その最たるものであった。
『吹けば飛ぶような、その小さき体と魔力を持って、お前は我を脅すのか』
声に続くのは、声の形にもならぬ断続的な魔力の波。
それはどこか、人が笑うによく似ていた。
『……なるほど、面白い』
恐れを知らぬけだものを前に、竜はその翼を大きく広げる。
小さな村一つを飲み込んでしまいそうな、生物の枠を超えた巨大な翼。
開くだけで風が渦巻き、膨大な魔力が歪んで滲む。
『ならば。……我を殺せるか否か、その体で試して見るが良いだろう』
そして、竜は羽ばたきを一度。
――無風であったその世界を襲ったのは、木々を薙ぎ倒すであろう突風であった。
ただ一度の羽ばたきで風は嵐に大地を抉る。
下生えの草を板張りのようにめくりあげ、小石ですらが凶器に変わり――この二里四方の空間をただ一動作で死で満たす。
それでも少女は冷静だった。
「……ごめんなさい。最初からこうなるだろうって思ってました」
「っ――!?」
クリシェは一言告げるとリラの腕を掴み、後方へと投げ飛ばす。
そして自らも背後へ――大地に深く突き立った槍の一本を掴み取る。
――外しはしない。
小石が浅く頬を裂いた。
その痛みも気にもせず、嵐を前にただ進む。
いつも通り変わらぬまま、怯える体と裏腹に、心の内は冷静そのもの。
地で顎をするような前傾を取る。
地表に生じる乱気流――その隙間を下に潜るように。
風の動きと速度を読み取り、それによって生じる誤差の全てを計算する。
森羅万象を解き明かし、掌握し、利用するのは常に自分。
彼女は自分の能力を疑わない。
そこにあるのは狂気に満ちた自尊心。
自分には不可能などありはしないと、心の底から彼女は信じ、実行する。
踵で大地を蹴りつけた。
急制動、加速の全てを上体へ、腕に伝えて槍へと伝える。
やるべきことは変わらない。
自身の放つ槍を前に、竜巻程度は障害にもならない。
目の前にあるものが軍であろうと、城壁であろうと――例え竜や神であろうとも。
――いつだって彼女のその手が放つのは、邪魔する全てを貫く槍だった。
小さな少女の体。
全身を鞭のようにしならせ放たれる槍は、もはや轟音と共に竜の体に飛来する。
一里近くを瞬時に奔り、鉱石が如き竜の鱗を易々と貫いた。
左翼の付け根、その肉を穿ち、抉りとり。
それだけに収まらぬ槍の威力は背後の崖、そこにある魔水晶の壁すらを粉砕する。
粒子となった魔水晶が赤き血煙と入り混じり――そこに生じる色は紫。
少女の後方。
――丘を越えた戦士達がまず目にしたのは、少女の放つ神殺しの槍であった。