こわれもの
クレィシャラナと聖霊の禁域――その土地の間には起伏の激しい荒れ地が広がる。
無数の断崖と岸壁、この辺りには木すらも生えず、空気は乾燥しきっていた。
川も湧き水すらもなく、入り組んだ地形。
迷い込めば生きては帰ることが出来ず、聖霊の所へ向かうにはグリフィンの翼を借りるか、あるいは禁域へ繋がる一本の道を通るほかない。
その道の入り口に門があるわけではなかったが、その場所は常に三人の門番が見張っている。
禁域の守手となるのは、クレィシャラナでは戦士長と並び称される戦士ヴェルヴァス。
「リラ様の行方不明に続いて、侵入者か」
翠虎の爪痕を頬に走らせる大男。
ヴェルヴァスは報告に来た伝令を崖の上から見送り、配下に話し掛ける。
眼下にあるのは彼等のある岸壁と、断崖に挟まれた三間ほどの道。
そこが禁域へ通じる唯一の道であった。
「翠虎や藍鹿を戦闘もなく仕留める手練れ……にわかには信じられぬが」
「何か勘違いがあるのでは? 人数、あるいは状況に」
「藍鹿はヴィンスリールの調べだ。まさか、あの男が誤るまい」
戦士長ヴィンスリール。
族長の息子で、齢は三十と少し。
しかしその腕前は名実共にクレィシャラナ一の戦士であり、次期族長と噂される男であった。
空を飛び回り一刻に及ぶ激戦の果て、ヴェルヴァスから戦士長を勝ち取った猛者。
ヴィンスリールはヴェルヴァスからすれば息子のような歳であったが、存分に槍で語り合った今ではヴェルヴァス自身も彼を戦士長として認め、友としても信頼していた。
「……平地の人間にそれほどの者がいるとは思えませんが」
「その平地の人間に我らは追い込まれ、この山に住んでいる。驕りで目を濁らせるな」
クレィシャラナは今も、そして昔も戦士達の一族であった。
武勇を尊び、かつては槍と剣を信仰し。
周辺部族をただ力によって征服したクレィシャラナに刃向かう者はおらず、グリフィンを友としてからはもはや、敵すらもいなくなった。
戦士は一人で十人を切り裂き、空の全てを支配する。
そんな彼等を打ち破ったのは、竜の顎――その南に逃げて力を付けた、かつての弱小部族であった。
過去に敗れた屈辱を忘れず、力を蓄え刃を向けて――その大軍を率いるは、自らを神の子と謳う大族長バザリーシェ。
そしてその両腕、ミツクロニアとベルナイクであった。
何もない場所に強固な砦を築きあげ、全ての兵には鎧と盾を、戦列によって壁を築く。
遥か遠方から投石機械によってこちらの櫓と壁を崩し、一糸乱れぬ攻勢を仕掛け。
脆弱であったはずの彼等は、強大なる力と戦う術を身につけていた。
しかしそれでも、偉大なるはクレィシャラナの勇者達。
徐々に劣勢に追いやられながらも、彼等は命を賭けて彼等の攻勢をはじき返した。
だが、真正面からは竜の顎を越えられぬと気付いた彼等は、戦士達と戦うことを避け――あるいはそこで戦っていたのは、元よりそのためであったのだろう。
クレィシャラナに従属していた部族、その男達の多くが死に、彼等の民は戦を嫌がり始めていた。
戦いは竜の顎を抜くためではなく、クレィシャラナに従う部族を乱すため。
憎きベルナイクは単身北部へ乗り込むと各地の部族を巡り、離反させ、そしてクレィシャラナの女と子供を狙った。
真正面ならばかろうじて拮抗を保てていた戦いも、そうなれば終わり。
クレィシャラナは彼等の北部進出を許し、大族長を討ち取られ、そしてグリフィンの産地であったこの山へと追い込まれた。
その戦いも今となっては、クレィシャラナの教訓となっている。
和を尊ぶことなく武だけを尊び、それゆえにクレィシャラナは敗れたのだと。
「些細な感情が綻びを生む。心と人の和を乱し、それ故にクレィシャラナはかつて敗れた。……槍をいくら磨いたところで、穂先を操るのはその心だということを忘れるな」
「……申し訳ありません、ヴェルヴァス様」
ケーピスは若く腕は良いが、心はまだ未熟だった。
けれど、いずれは良い戦士になるだろう。
その言葉に頷きながら、顎に手を当て考え込む。
「それだけの手練れとなると、狙いはヤゲルナウス様だろう。……愚かな」
聖霊に刃を向ける。
それがどれほどの大罪であるかを知らないのだろう。
人の営みその全てが、聖霊によって許されているからこそ存在しているのだと、そのことに気付いてはいないのだ。
「周辺を探った方が良いのでは?」
「ああ、既に何人かをこの辺りを飛ばすよう言ってある。だが、わしらはここだ」
ヴェルヴァスは言った。
「念には念を入れる。事実魔獣を容易く仕留められるほどの相手となれば不安が残る。ここの人数は減らしたくは――」
何の気なしに、森を眺め、そこから踊り出した影を認める。
遠目にもグリフィンと共にこちらに向かってくる少女が誰かを理解し、そしてその背後に続く人間を目にし、即座に告げる。
「ケーピス、笛を鳴らせ!」
日が天を示す頃には到着する、とリラは説明した。
起伏の激しい藪の中を進んで、太陽が昇り始めた頃だろう。
そこでようやく森の中を抜ける。
この先の道には木々が少なく、随分と進みやすくなるらしい。
ただ、悪い面もあった。
この状況で見通しの良さはあまり良い結果をもたらさない。
森を抜けた先は馬車がすれ違えるかどうかという道があり、左手に岸壁がそびえ立ち、右手は断崖。
木々生い茂る森は、遥か下。
クリシェ達がそこに出るとグリフィンに跨がったクレィシャラナの戦士達が三人、笛の音を空に響かせながら、眼前の道を塞ぐように立ちはだかった。
どうにも左手の岸壁、その上で待機していたのだろう。
リラの姿を認めた三人は驚いたように、その後ろへ続くクリシェと馬――そして翠虎に目を向け、明らかな警戒を見せた。
肩高五尺――その巨体で空を自在に飛び回り、人の体など軽々と跳ね飛ばす猛獣グリフィン。
それに騎乗する彼等にとっても、翠虎はそう感じるべき相手であった。
守手の長、ヴェルヴァスはその異様さに槍を握り締める。
彼の前へと進んだのはリラだった。
「リラ様、ご無事で……皆探しておりました。しかし……」
これはどういうことかと視線で尋ねる。
話されているのは王国が言うところの古語――かつて王国北部で使われていた言葉であった。
皇国の巫女姫と接する機会もあるヴェルヴァスは平地の言葉を知らないわけではなかったが、あえてここでそれを使う意味も無い。
後ろの少女の姿――身につけるものを考えれば平地の人間だろう。
彼女に会話を聞かせてやるつもりもなかった。
「ヴェルヴァス、ごめんなさい。何も言わず、ここを通して欲しいの」
「……この先は禁域。リラ様であっても無許可の立ち入りは許されません。お分かりのはずでしょう。それに……」
ヴェルヴァスはリラの後ろへ睨むように視線を向け少女と翠虎に目をやる。
翠虎は唸り声をあげるが、少女はその頭を平気で撫でて、こちらの様子をただ見ている。
それが犬猫ならばともかく、明らかに異常な光景であった。
「連絡は来ております。無数の魔獣が山に侵入した何者かに殺されていたと。あなたの後ろ――翠虎を引き連れているように見えるあの少女が、もしや」
聖霊の住まう禁域の守手。
その長であるヴェルヴァスは里でも有数の武人。
だからこそ彼は、魔獣の恐ろしさを誰よりも知る。
翠虎を生け捕りにしたという話など聞いたことはない。
ましてや、それを従えたものなど。
「こちらへ、リラ様。ケーピス、お前はまずリラ様を逃がせ。翠虎を連れておるのだ、あの娘が見掛け通りとは思えん。まずは安全のためリラ様を逃がすことを優先する」
「は。リラ様――」
「待って」
前に出ようとしたケーピスを制止し、リラは告げる。
「……暴力でどうこうできる相手じゃないの。ヴェルヴァスたちの実力を疑っているわけではないけれど、兎のように翠虎を狩って、手懐けることができるような人。……兄さん――戦士長だって相手にならない」
リラの表情は真剣なものであった。
彼女が兄であるヴィンスリールを誰より尊敬していることを知っている。
その彼女が、兄ですら相手にならぬと告げる少女。
普通ではないのは事実だろう。
隙だらけのように見える立ち姿。
そこにはこの状況にあって、一切の強張りもなく。
その体を覆う魔力の静謐さを見れば、その実力の高さは知れる。
竜の恩恵とも言える豊かな魔力に満ちた土地。
クレィシャラナの里に生まれた者はそのほとんどが魔力を有し、そして幼い頃からそれを操る術を身につける。
当然魔力の扱いには長けた者が多いが、しかしそれと比べてなお、少女が身に纏う魔力の静謐さは見事なものであった。
リラの言うとおり、見掛け通りの強さであるとはとても思えない。
こうして目の前にあるだけで、背筋に冷たいものが走っていた。
翠虎よりも、自身の胸ほどもない少女に。
「お願いだから、何も言わずに通して。竜への謁見を求めているだけ……止めようとしなければ、何もされない。だから――」
背後に控えた翠虎が、唸るような声を上げた。
銀の髪の少女は、だめですよ、と再びそれを宥めるように額を撫でる。
ヴェルヴァスはそれを見つめ、ますます警戒を強めて眉を顰める。
リラが彼女に脅されているのは確かであった。
身を案じてくれているのも分かる。
だが、彼女らの更に背後――馬の背からぶら下げられた無数の白兵槍を目にすれば、頷くわけには行かない。
彼女の目的が聖霊にあるのは明らかだった。
「――失礼を、リラ様」
ヴェルヴァスは八尺の槍を前に突き出すと、
「……え?」
そのままリラの脇腹に押しつけ――崖へと払う。
当然リラの体は宙空に投げ出され、
「ラーネル!」
すぐさまヴェルヴァスが吠えるように叫んだ。
銀の髪をした少女――その脇にいたラーネルはすぐさま動くが、少女はそれを止めない。
ラーネルはリラの体を拾うために断崖から飛び降り、そしてヴェルヴァスはグリフィンごと前に出る。
「リラ様はお逃げください。せめて他が来るまで時間を稼ぎます」
「でも――」
「お逃げください。どうあれ、何人たりともここを通すわけにはいきません。まして、聖霊に害をなそうとする輩など――」
「んー、やっぱりまぁ、そうなりますよね」
響いたのは甘い少女の声だった。
リラは驚いたように目を見開き、少女――クリシェを見る。
彼女の口から出たのは、少し癖のあるクレィシャラナの言葉であった。
「ごめんなさい、お話は聞いてました。クリシェは竜のところに行きたいだけ。あなたたちが何もしなければ、リラの言ってた通りクリシェも何もしません」
「……貴様」
「通じているなら良いのですが。本で見ただけなので、発音はちょっと自信がないですし……」
その様子なら通じてそうですね、とクリシェは微笑み言った。
クリシェはますます警戒を強めたヴェルヴァスを見ると、横にいる翠虎にぐるるんは大人しくしてるんですよ、と言いつけてから前に出た。
彼女はゆっくりと、無警戒にすら見える姿で歩き、
「ちょっと失礼しますね」
「っ……!?」
ふと、その体が消えた。
ヴェルヴァスだけが咄嗟に反応し、手綱を引いてグリフィンを飛び上がらせる。
消えたわけではない、深く身を沈めただけだった。
見えていても気付かぬほどの滑らかな踏み込みと、凄まじい加速。
十間の距離を容易に詰め、その標的になったのはヴェルヴァスの右後ろにいた男――ケーピスだった。
沈み込んでからの跳躍――左手の岸壁を蹴ったクリシェは、咄嗟にケーピスの振るった槍を易々と掴んだ。
そして彼が手に持つその手綱を、腰から引き抜いた曲剣で切断する。
「ぐっ!?」
ケーピスの体をグリフィンの上から蹴り落として、槍を奪う。
距離を開こうと飛び上がる姿勢を見せたもう一人――リードルの首に槍の穂先を突きつけ、ヴェルヴァスに視線を向けた。
「あなたたちを殺すのは簡単です。時間稼ぎにもなりません」
クリシェが乗ったグリフィンが暴れ出し、困ったように彼女は飛び降りた。
槍を突きつけられ身を仰け反らせていたリードルは、そのまま槍の穂先を首に押しつけられるようにしてグリフィンの上から降ろされる。
「……無意味なことはやめてください。普通にクリシェを通してくれるだけでいいですから」
クリシェは右手に持った曲剣で、グリフィンの腰に付けられた鞍の留め具を二つとも引き裂いた。
馬と違って、鞍がなければこのグリフィンに跨がって逃げ出すことは難しいだろう。
「この……っ」
そのタイミングで声を上げたのは先に蹴り落とした男、ケーピス。
彼は腰から曲剣を引き抜きクリシェに迫る。
今のところは漏れなく全員が魔力保有者――大気中の魔力の影響だろうか。
ケーピスの動きは遅くはなく、踏み込みも悪くはない。
けれどクリシェに取っては誰もが似たようなもの。
クリシェは腰を捻った。
相手の装備は軽装、胸甲に手甲脚甲、腹は無防備だった。
振り向きざまに、さらけ出された腹部へ踵を抉り込む。
加減しているとは言え、鉄で補強されたブーツの踵。
剥き出しの腹筋を貫かれた男は転がり悶絶し、蹲って嘔吐する。
クリシェは吐瀉物の匂いに眉を顰めつつ、空を飛ぶ隊長らしき男――ヴェルヴァスに再び目をやった。
「見ての通り、です。そんな風に空を飛んでいても同じこと」
クリシェは不意に前傾を取った。
一歩目を踏み込み、二歩目には最高速。
極限まで最適化された動き――そこから放たれるのは破軍の槍。
狭い足場、助走が足りない槍であっても、その威力は常軌を逸していた。
風を巻き込み、貫き、響いた轟音は単なる投槍のそれではない。
警戒していたヴェルヴァスであっても反応すらできず――顔の真横を槍が貫けばその風圧に姿勢を崩した。
彼のグリフィンが悲鳴をあげ、ヴェルヴァスの目に一瞬浮かんだのは怯え。
だが戦士ヴェルヴァスの目は、それを間近で感じてなお戦意を失っていなかった。
軽い脅しで身を引く相手ではない。
クリシェは唇を尖らせると、硬直していた真横のグリフィン、その尻を槍で軽く叩いた。
グリフィンは悲鳴をあげて飛び立ち、ヴェルヴァスの方へ逃げようとし、
「っ!」
クリシェはその背中を踏みつけるように跳ぶ。
そこは断崖を越えている。
完全な空中であった。
けれど彼女の顔は平然と、欠片の迷い、強張りすらを見せることはない。
ヴェルヴァスは自身に向かって身一つで跳躍する少女に驚愕を覚えながらも、しかし彼は戦士であった。
ここは空。クレィシャラナの戦士が支配する世界。
地上ではどれだけの強者であっても、空の上では自由を失う。
彼はそのことを熟知していた。
手綱を引き、下す命令は急降下。
訓練された愛鳥は瞬時に主人の意図を理解し、顔を真下に一度だけ羽ばたく。
それだけで少女は狙いを躱され、遥か下の森へと落ちる他ない。
木々がクッションとなってしまうだろう。
この異常な少女がそれで墜落死してくれるとは思えない。だが今は時間を稼げればそれでいい。
グリフィンを足場に跳躍した少女の速度は凄まじいものがあったが、それだけに致命的。
急降下したヴェルヴァスの頭上を彼女は進みかけ、
「な……」
空を蹴るように身を捻り、その外套を翻す。
足は天を、頭は大地を。
眼前にあった大気の壁を背面で受け止め、勢いを殺し、まるで見えない壁でも蹴るように下降する。
当然狙いは下方に逃げるヴェルヴァス――彼女は身一つで空にありながら、熟練の獅子鷲騎兵すらを無理矢理に自身の間合いへ封じ込めていた。
グリフィンの羽ばたきが起こしたその風の乱れ。
それすらを利用するように。
躱しきれないことを知ったヴェルヴァスは、咄嗟に槍を繰り出す。
彼は一流の戦士であった。
どのような状況であっても、その身につけた力全てを発揮する術を持つ。
だが、少女は更にその上を超えていく。
風を貫く切っ先を当然のように見切り、身を捻り――腰から曲剣を一閃。
ヴェルヴァスの胸に生じるのは、もはや驚愕ではなく彼女への称賛だった。
――この少女は、強さの格が違う。
自分の力量を知るが故に、そこに生じるのは畏れと敬意。
自分の必敗――そして死を悟って少女を見る。
だが彼女の曲剣は彼の命を奪わなかった。
彼が持つ手綱を切断すると、槍を振るう腕を掴んで遥か後方へ投げ飛ばす。
グリフィンを足場に、彼を追いかけ跳躍する。
転がり、岸壁へ叩きつけられた彼の右腕を足で押さえ、その鋭利な曲剣を首筋に突きつけた。
ヴェルヴァスは咳き込みながら、眉間に皺を寄せてクリシェを睨む。
「っ……何故、殺さぬ?」
「一応リラに、なるべく傷つけないって約束しましたから」
まぁ、これでわかったでしょう、とクリシェは言って、リラを見た。
岸壁に叩きつけられた体。少なくとも、この男はしばらく動けない。
「……リラ、行きますよ」
呼ばれたリラは一瞬だけ迷いを浮かべ、しかしすぐに彼女の側へと降りてくる。
すぐにリラから視線を戻し、ヴェルヴァスを見下ろした。
「悪いのはこの場合クリシェですし、追ってくるのは構いません。……ある意味クリシェとしても都合が良いかもですね。ぶるるん、こっちです。ぐるるんも来ていいですよ」
二匹は僅かに警戒の様子を見ながらも主人に近づき、クリシェは微笑む。
クリシェはヴェルヴァスともう一人の槍を掴むと、近づいてきた馬の背に。
持って行ける槍の数は限られる。
クレィシャラナの戦士達が襲い掛かってくるのは面倒ではあったが、とはいえ一人一人がこうして槍を運んできてくれると考えれば悪い話ではないかもしれない。
そんなことを考えて一人頷く。
それを間近で聞いていたヴェルヴァスですら、彼女の都合が良いという言葉の意味を理解できていなかった。
熟練の戦士達ですら、彼女にとっては槍の配達人。
常軌を逸した彼女の力量は、既に人の理解を超えている。
「り、リラ様……」
唯一無傷な一人。
リードルは剣を引き抜き、目の前で起きた戦いとも呼べぬものに震えながらも声をあげた。
リラは首を振る。
「お願いだから、これ以上抵抗しないで。責任は全部私が取る。ヴェルヴァスとケーピスの様子を見てあげて」
「っ……、はい」
「……ヴェルヴァス、本当に暴力でどうにかできるような人じゃない。後から来る人にわたしがそう言っていたって伝えて欲しい」
「しかし、リラ様……」
「お願い、ヴェルヴァス。わたしはあなたたちが殺されるところを見たくない」
クリシェはその様子を眺めつつ、西部共通語で言った。
「少し急ぎましょうか、リラ。……どのような結果になるにしろ、あんまり人が集まり過ぎるのは避けた方が良いでしょうし」
「……はい」
クリシェはそのまま小走りに、リラは一瞬彼等を振り返りつつもグリフィンを走らせた。
当然のように二匹も続く。
そうして彼等の姿が見えなくなった頃、リラは言った。
「……ありがとうございます」
「昨日も言いましたけれど、リラがお礼を言うことはありませんよ」
「それでも、一度剣を向けた相手――それを許して頂いたことは感謝しなければなりません」
クリシェは走りながら、困り顔を浮かべる。
「できる限りは傷つけないって言いましたから。それに言ったでしょう、自己満足だって」
クリシェは少し考え込むようにしながら言った。
「クリシェが好きな人に、嫌われないためにしてるだけです」
ほんの少し目を細めて。
「これだけ悪いことをやろうとしているのに、今更ですけれど」
リラは何とも言えない気持ちになって、目を伏せた。
「わたしも小さな頃に、母を病気で亡くしました。……だから気持ちは分かる、だなんて言えませんけれど……わたしも病に苦しむ母をヤゲルナウス様に助けて頂けないかと、夜を抜け出したことがあります」
すぐに見つかって連れ帰られ、母にも頬を打たれた。
これは定め――死なない人間なんてないものだ、と、その後は泣いたリラを抱きしめて、そんなことを繰り返し。
そんな言葉を聞いても、納得がいかなかったことを覚えている。
あれほど立派で優しかった母が、どうして死ななければいかなかったのか、と。
彼女を他人と思えないのは、そんな記憶があるからだろう。
子供の頃に抱いた感情は、今も胸の中に残っていたから。
ふと気付けば、隣を走っていたクリシェを置き去りにしていた。
「ベリーは、リラのかあさまとは違います。……死んだりしてません」
冷ややかで、どこか怒りの滲むような言葉。
リラはすぐに失言を悟り、慌てて立ち止まった彼女の側に寄る。
「……すみません。考えなしな言葉でした」
頭を下げると、はっと気付いたようにクリシェは首を振る。
「……いえ、リラは、悪くないです。クリシェが、その……変なだけで」
その紫色が、左右に泳ぐように。
「人間が死ぬものだって、クリシェ、ちゃんとわかってます。……でも、とうさまとかあさまが死んだ時みたいに、もしベリーがいなくなるって考えたら、もう会えなくなるって考えたら、クリシェ、想像が出来なくて」
彼女は口元を押さえ、
「……ベリーが刺されたって知った時も、なんだか頭が真っ白になって……クリシェ、よく、自分で自分がわからないんです。考えたくなくて、だから、とりあえず出来そうなことをやろうって、それで……」
そして吐き気を堪えるように岸壁に手を突いた。
「……すみません」
リラが言って背中をさすると、銀の髪を揺らして首を振って、しばらくそうしたまま、彼女は呼吸を落ち着ける。
そこにあるのは砂で出来た像のように。
手で触れればさらさらと崩れ落ちてしまいそうな、そんな危うさ。
先ほど見た彼女の強さを忘れてしまいそうなほど、それは小さな背中だった。