綺麗
クレィシャラナは平和な土地であった。
大気中の魔力が濃く、それゆえ魔獣が多く出る。
当然それによる被害は多くあったし、豊かな実りはあれど過酷な環境にあるとも言えるだろう。
けれど魔獣の存在は外敵からの盾でもあり、おかげでこの数百年戦もなく、この山の平和は守られてきた。
十五年前に族長の娘として生まれこの土地で暮らしてきたリラも、そんなクレィシャラナを愛している。
目新しさもなく、代わり映えもせず、そんな暮らしに退屈さがないとは言えない。
皇国の人間が語る平地の暮らしは豊かで、様々なものに満ち溢れ――彼等の語る華やかさに憧れは覚えるものの、これで良いのだとも思えた。
長老達の語る恨み言――五百年を隔ててなお語られる戦の憎悪。
この平和な土地が平和であり続けるためには、それは仕方の無い犠牲に思えた。
山の実りと聖霊に感謝を捧げて日々を過ごし。
いつか愛する相手と夫婦となって子を育み、そして誰もが穏やかな未来を紡いでいく。
退屈すぎるほど代わり映えのない日々。
けれどその尊さは理解していたし、それはやはり守りぬくべき静寂なのだろう。
外界から閉ざされた小さな世界。
時間が止まったようなクレィシャラナから、平地へ降りていくものは少しずつ増えている。
クレィシャラナは緩やかに滅びへと向かっていた。
けれど今日明日ではなく、劇的なものではなく。
だからこそ、明日も昨日と同じ、いつもと変わらぬ平和な日々が続いていく。
リラはほんの少し前まで、そう考えていた。
「これだけ森の中を進むとなると、やっぱり今日中に竜の住処へ辿り着くのは難しそうですね。もっと近くにあるものだと思っていました」
火が落ち夕暮れ。
銀の髪の少女――クリシェは立ち止まって、振り返る。
リラは緊張しながらも頷いた。
体を縛られてもいない。リラのグリフィン、ラーネルもそのまま普通に歩かされている。
けれど、彼女はそれで十分だと考えているのだろう。
何度か逃げようと試みて、その度に断念した。
その紫の瞳――その目を見る度、逃げることを拒むように体が動かなくなる。
魔力を扱える。それなりに武術の嗜みもある。ラーネルもいる。
それでも彼女からは逃げられないと、体が理解しているのだ。
「……ヤゲルナウス様には魔獣すらが恐れます。そのような土地では、人も暮らせません」
聖霊はそもそも、人や獣などとは格が違う生き物。
どれだけ凶悪な魔獣でさえも、聖霊には近づかないのだ。
当然その周囲には獣もおらず、日々の糧を得ることも出来ない。
「ああ、なるほど」
禁忌を犯し、こうして彼女を案内しているのは、聖霊の姿を見れば彼女がやろうとしていることがどれだけ無謀なことかを理解してくれるという、微かな願いであった。
どれだけ彼女が強くても、聖霊はそもそもの格が違う。
例え翠虎すらを従え、狩りの獲物として容易く殺す彼女であっても、その姿を一目見れば戦うことなど不可能であるとすぐに理解が出来るだろう。
「クリシェ様は何故、ヤゲルナウス様に刃を向けようとなさるのでしょうか?」
「何故?」
「あなたが求めるものは心臓と言いました。……伝承など伝承に過ぎないと、まさかご自分の名を挙げるためにこのような恐ろしいことをしようとしているわけではないでしょう?」
そういう人間がいなかった訳ではない。
数年に一度はそうした人間がここを訪れる。
自分の力を過信した、傲慢な人間。
あるいは聖霊など伝承で語られるだけの偶像――存在などしないと、それを証明するためにここへ来るもの。
けれど彼女は少なくとも、そういう人間だとは思わなかった。
竜を討つという傲慢な言葉と、その傲慢さを納得させるだけの実力。
それに反して、彼女の物腰は柔らかく、随分と穏やかに見える。
楽しげに料理をしていた昨日の姿もそうであったし、馬や翠虎を愛でる姿も優しげで、どこか精神的にも幼くも見えた。
リラを脅した後も手荒な真似をするではなく、何かと細かな気を使う。
見慣れぬものであるらしい果実を見ては何かと尋ね、この土地ではどのような料理を食べるのかと質問し、まるで観光にでも来たかのようであった。
そうなると刃を向けられた時に感じた恐怖と警戒は次第に薄れ、質問する程度の余裕もできる。
リラは少し緊張しながらも、彼女の答えを待った。
今日はここで休むのだろう。
馬の背から荷物を降ろしていたクリシェはこちらをちらりと見て、ナイフを取り出した。
そして前方の藪の中へと投擲する。
鈍い音と小さな悲鳴――そこに隠れていたのは小さな兎であった。
それをクリシェは拾い上げると、ご飯ですよ、と翠虎の前に置く。
答えたのはそれからだった。
「竜はそれ自体が強い魔力を帯びた獣だそうですね」
そして燻製にした肉を馬の背から取り出して切り分け、一部をリラに手渡した。
「姿は蝙蝠のような羽の生えた蜥蜴。けれど身の丈は城砦が如く、その鱗は鉱石のように硬く。咆哮を上げて光を放てば、山を崩し、街すらを一息で滅ぼしてしまうのだとか」
クリシェは美味しそうに燻製肉を囓り、近くの果実をもいだ。
それをナイフで切り分けながら、一部をこちらに差し出す。
リラは首を振り、クリシェは困ったような顔をしながらラーネルの前に置く。
グリフィンの餌はそれで問題なかった。毎日果実だけとなれば体を損ねるが、数週間程度は肉を食わずとも問題はない。
「伝承の中の竜という生き物は、確かにすごい生き物です。竜の顎はかつて起きた竜達の争い、その際に放たれた竜の咆哮によって二つに分かれたといわれてますが、崖の断面、露出した地層を眺めるとあり得ない話ではなく――伝承に脚色はあれど、概ね事実が書き連ねられているのではないでしょうか」
「……竜の顎」
かつて王国の前身、ヴァーグサリドの一族とクレィシャラナの間で起きた戦。
その重要拠点とされていた場所であった。
クレィシャラナはグリフィンによって王国の侵攻を食い止め、多くの戦士達の血がそこで流れた。
戦士達の奮戦にも関わらず、最終的に卑劣な裏切りによってクレィシャラナは挟撃を受けて敗れ――クレィシャラナでは子供でも知っている場所。
見たことはなかったが、リラも当然その名前は知っていた。
「だとすれば恐らく、軍を率いてきたところで無意味でしょう。容易に街を滅ぼすだけの力を持った獣ですから、無駄な死人が出るだけ。とてもすごい生物であることは確かですね」
「……それだけのことを理解していながら、何故」
「それが事実であるならば、竜の体は素晴らしい魔力資源だからです」
クリシェはその体が欲しいのです、と続けた。
「……体?」
「……竜の血肉には病を癒やす力があるのだとか。理由は分かりませんけれど、きっとそれは、竜の持つとされる膨大な魔力が影響しているんでしょう。人間は無意識に魔力によって邪気から身を守る力を持っていますが、恐らく竜の血肉にはそれを増幅させる何かがあるのだとクリシェは考えています」
長い睫毛が悲しげに揺れ、無機質だった紫の瞳が色を帯びたように左右に揺れる。
「……クリシェの想像が正しければ、それはやはり万能の霊薬と呼ぶべきもの。クリシェの想像が間違っていても……竜の心臓が生み出すという膨大な魔力を使えば、クリシェは必ずそれを再現して見せます。だから……」
そのために竜を殺しに来たんです、と続けた。
どこか、自分に言い聞かせるような言葉だった。
「クリシェ様は……どなたかを助けるために、ここへ?」
少女は頷く。
それを見たリラは、それが理由かと眉尻を下げる。
名声のために聖霊を狙う人間のように。
死に瀕した誰かを助けるため――伝承を知った彼女のような人間が、この山には過去に何人も訪れたという。
クレィシャラナがそれを許す訳がなく、戦士達はそうした者達を排除し続けた。
竜の怒りに触れぬように、この閉じた世界を守るために。
「クリシェ様がクレィシャラナの戦士と比べられぬほどに強いことはわかります。それでも、ヤゲルナウス様をどうにかできるとは思いません」
リラは告げる。それで諦めはしないだろうと思いながらも。
「……クリシェ様の知る伝承は、単なるお伽噺や夢物語ではありません。それほど脚色もないでしょう。ヤゲルナウス様は、クリシェ様の知る伝承通りのお姿です」
「……鉱石程度の鱗であるならどうとでもできます。伝承通りの巨体であるなら、至近の間合いに入ったクリシェを捉えることなんてできないでしょう。後は飛べないようにさえしてしまえば、それで終わりです」
彼女はそれが、紛れもない事実のように答えた。
自分の力への絶対的な信頼――それが滲み出た言葉。
「特にここは大気に混ざる魔力が多いですから、平地と比べて大分疲労も少ないでしょう。殺しきるまで丸一日でも何日でも、どれだけの時間を使っても……絶対にクリシェなら殺してみせます」
彼女にならばそれが確かに可能であるのではないかと、聖霊を知るリラにさえそう思わせる怖さがあった。
彼女は止められない。
それを理解して、リラは目を伏せる。
クレィシャラナの戦士達は、竜の血肉を願った者達を排除し続けた。
今回訪れた彼女も同じ――けれど違う。
彼女はそれを、ただ力によって叶えることができる人間なのだ。
どうあっても止められまい。
同じ林檎を求めるならば、争うほかはないものだ。
クレィシャラナはこれまでそうして、無数の願いをその剣で断ち切ってきた。
今回はその立場が入れ替わっただけ――あるいはそれも運命だろうか。
クレィシャラナの人間にとって聖霊への信仰が決して譲れないものであるように、彼女にも決して譲れないものがあってここに来たのだ。
「……目的はわかりました」
よほど、その誰かは彼女にとって大切な人間なのだろう。
行なおうとしていることはともかく、理由はわからないでもない。
「クリシェ様には譲れないものがあり、わたしには、そしてクレィシャラナの戦士であっても、クリシェ様を止めることはきっと出来ないでしょう。……ですからこの先、ヤゲルナウス様への謁見としてできる限りの協力はします」
「……謁見?」
「ヤゲルナウス様は心なき獣ではありません。だからと言って、ヤゲルナウス様がクリシェ様の願いを聞き届けてくださるなどとは言えませんけれど……でも、まずは刃を向ける前に、言葉を交わして欲しいです」
リラは深く頭を下げた。
「クリシェ様が望み通りヤゲルナウス様を討つならば、クレィシャラナの民は心のよりどころを失います。そうでなくとも、ひとたびそのお怒りに触れれば文字通り、里も王国も、この周囲にある全てが滅ぼされることとなるでしょう。……ですからせめて、そうならない道にも目を向けて頂きたいのです」
クリシェは少し驚いたように、けれど考え込むようにじっとリラを見つめた。
そして、柔らかな微笑を浮かべた。
「……リラは優しいですね」
それから、ごめんなさい、と困ったようにリラに告げる。
「その言葉は嬉しいですけれど……でも、名前に誓っての約束はできません。絶対に守れるという保証はないですから、クリシェはこう告げるしかありません」
その表情や言葉。
少なくとも、彼女にとっては精一杯のものなのだろう。
約束すると断言されるよりも、不思議とその曖昧な答えの方が信頼できるもののように思えた。
彼女にとってはそれが文字通り、できる限りの譲歩なのだと感じ、リラは頷いた。
「それで構いません。……わたしはクレィシャラナ族長アルキーレンスの娘、聖霊の巫女リラ=シャラナと申します。改めて、お見知りおきを」
彼女はきょとんと首を傾げ、また少し考え込んで微笑んだ。
「族長の娘……お姫さまなんですね。クレィシャラナではお姫さまも果実を取ったりして働いているんですか?」
「姫、というのはこそばゆいですね。クレィシャラナではそのようなものです。外交儀礼としては意味があるものですが、普段は普通の女と変わりませんよ」
クレィシャラナは戦士が尊ばれる。
族長は決闘によって選ばれ――無論その娘であるリラが全くもって他の人間と同列というわけではないが、あくまで族長の娘なだけであってそれほど身分の差があるわけでもない。
男が強いことを求められるように、女は多くの実りを手にすることを求められている。
族長の娘であっても同様、多くの実りを得られる女こそが良い子を育むとされ、他の女と変わらず働くことが良いこととされていた。
「クリシェの昔住んでた村とあんまり変わりませんね。王国北部でも田舎でしたから、源流はむしろクレィシャラナに近いものなのかも知れませんが」
「……ああ、それでクリシェ」
リラは得心がいったように笑みを浮かべた。
「平地の方にしては珍しい名前だと思いました。綺麗な良い名前ですね」
「えへへ、はい。……かあさまが、いつかクリシェが自分と同じくらいの幸せを感じられるようにって名付けてくれたそうです」
クリシェも嬉しそうに笑みを浮かべ、
「かあさまは優しくていつも笑ってて、とっても幸せそうでしたから、クリシェもいつか、ああいう風に……」
けれど途中で、その言葉は消えていく。
彼女は少し悩むように、また考え込むように。
それから顔を上げてリラを見た。
「……でも、クリシェはやっぱりかあさまと違って駄目ですね。今もなんにも悪いことをしていないリラを脅して、道案内をさせてるんですから」
困ったように、これでは賊と変わりません、と言った。
そしてリラの頬に手を伸ばし、撫でた。
「竜がどんな存在かは知ってます。悪いことだってわかってます。でも、クリシェはそれを分かった上でここに来ました」
――だから、ごめんなさい。
悲しげにクリシェは言った。
「約束は守れないかも知れませんけれど……せめて、クレィシャラナの人達はなるべく傷つけないようにします。それくらいの約束なら、クリシェにも守ってあげられると思いますから」
「……ありがとうございます」
「お礼を言わなくていいですよ。強盗に入った人間が、たまたま殺すのは見逃してあげた、くらいのもので……むしろリラは、クリシェに怒っていいくらいです」
不思議な少女だった。
困ったような彼女の顔は少しおかしくて、リラは思わず笑ってしまう。
このようなことを言う強盗がいるものだろうか、と。
「……今更ですね」
「……?」
「怒りたい気持ちはあっても、そういう気分にはなれません」
様々な感情があった。
けれど愛する人を救うため――それだけを望んでここに訪れた彼女を憎むことも出来なかった。
その願いは何より、純粋なものであるからだ。
諦めがあって、やるせなさもあって。
だからリラはそう告げる。
「……この話は終わりにしましょう。王国のこと、教えてもらっていいですか?」
「王国のこと?」
「はい。外のお話を聞くのが、わたしのちょっとした楽しみなので」
そうして二人は夜を過ごし、互いのことを少し話した。
クリシェは見慣れぬグリフィンに興味を持ち、リラは王国について興味を持つ。
空をグリフィンが飛ぶのを何度か見ていたため、火は付けず。
クリシェは翠虎に、リラはグリフィンに背中を預けた。
夜でもそれほど冷え込まないため、二匹の体温で十分に暖は取れる。
クリシェは馬――ぶるるんというらしい――に餌を与えつつ、リラに言う。
「大気中の魔力が多いこともそうですけれど、何かの干渉を感じます。この辺りが温かいのは多分、竜の影響ですね。理由は分かりませんけれど」
「ヤゲルナウス様の……」
「本来この辺りには結構雪が積もっているはずですから、もしかすると竜は寒いのが嫌いなのかも知れません」
王国北部は雪――だというのに、山にあるこの土地は随分と暖かく、夏のような気温だった。
「……雪は見たことがないですね」
「ふわふわしてて白くて冷たいです。クリシェは寒いのが好きじゃないので、あんまり降って欲しくはないのですが」
首に巻き付けたマフラーを解くと、大事そうに、丁寧に畳んだ。
そしてそのままぶるるんがぶら下げた鞄に入れて、帽子も同じく。
少し乱れた髪を整えつつ、クリシェはじーっとリラを見つめた。
腰は簡素な下着の上から巻き布を結び、乳房の上から布を何重にか巻き付け。
太ももも腹も見えていて、クリシェからすると下着姿とあまり変わらない。
「ここの女の人はみんなそんな格好なんですか?」
「……? ああ、そうですね。わたしからすると、クリシェ様のような厚着が信じられないくらいですけれど」
「土地柄もあるのでしょうか」
「そうですね、温かいですから。遠くへ出なければならない戦士の方は上から毛皮を羽織ったりしますけれど……普段は飾り物もつけません」
足を伸ばして空を見上げた。
「飾りは驕りと切っ先を。身の美しさは聖霊にさえ伝わらん。そういう教えがあるんです」
「教え?」
「はい。大昔にあった、クレィシャラナと王国の戦――かつてそれに敗れた理由はクレィシャラナの驕りにもあった、というものですね」
何度も繰り返し聞いた話を思い出し、大地を指で示す。
「……クレィシャラナはその武力を持って周囲の部族を従え、その財産を奪い自分のものとしていたそうです。だからこそ、最終的に裏切りに遭い、クレィシャラナはこの山に逃げ込むことになった、と」
戒めの教えですね、とリラは苦笑した。
「貴金属や装飾品――形の豊かさに心を奪われれば、それは肥大し欲となり、それがいつしか驕りとなって、身の内に生じる刃となる。清き心根で慎ましく、真摯に過ごせば、聖霊にさえ心が伝わる。故に欲望よりも、清き心と肉体こそを尊ぶべし……聖霊協約に由来する教えですね」
「んー……クリシェにはちょっと難しいですね」
クリシェは困ったように考え込む。
「そういう、あやふやな話は苦手です。良い子にしてたら良いことが起きる、みたいなものでしょうか?」
「ふふ、簡単に言えばそのようなものです」
リラは苦笑する。
「でもやっぱり、綺麗なものは皆好きなので、お祭りの時にはそんな教えもあったものかと女は皆、競うように沢山着飾るのですが」
「……クリシェの村でもお祭りの時はそうでした。綺麗って言うのが、昔はあんまり分からなかったですけれど」
少女は思い出すように、縛った髪から花飾りを外し、手に取った。
「最近は……ちゃんとわかるようになって」
それをしばらく彼女は眺めて、首を振る。
そして髪飾りを胸に抱いたまま、少女は目を伏せた。
月明かりの下、宝石を包んだ銀の長い睫毛が揺れる。
銀の髪もきらきらと輝いて、真白い肌はどこかぼんやりとした光を放った。
女の自分でも見惚れるほど、彼女は儚げで、綺麗だった。
現実のものと思えないほど、いっそ幻想的なまでの美しさを彼女は孕んでいる。
クレィシャラナを滅ぼすであろう少女は、例えようもないほどに美しい。
あるいは滅びとは、そのように美しいものなのかも知れない。
「身の美しさは聖霊にさえ伝わらん――わたしにはそれを理解できるわけではないですけれど」
リラは呟く。
半ば無意識なものであった。
「……ヤゲルナウス様に、クリシェ様のそれが伝われば良いと思います」
少女は顔を上げて、首を傾げた。
少しだけ考え込んで、微笑を浮かべる。
「えへへ、気を使ってくれているんですよね?」
紫の瞳はきらきらと、色んな輝きを見せた。
凍り付いたように、蛇や獣のように。
ただの少女の瞳のように。
「でも、クリシェはクリシェよりずっと綺麗な人を知ってますから、駄目ですね」
「……綺麗な人」
「はい、ベリーって言うんです」
幸せそうに少女は言った。
囁くような、けれど熱を帯びたような声。
「……クリシェは、ベリーに沢山のものをもらって、全然お返しが出来てなくて……だからベリーが嬉しいって、幸せだって思ってくれるなら、なんでもしてあげたいです。だからそのために、でも……」
長い睫毛を揺らして、また目を伏せる。
「困ってしまいますね。ベリーは竜を殺しても喜ばないでしょう。悲しい気持ちになるのかも……それでもクリシェは、そんな悪いことをしようとしています」
本当はどうだっていいのでしょう、と彼女は続けた。
「良いこと悪いこと、法や掟、正しいこと――沢山なことを色んな人から教わって、でも、クリシェの中ではきっとどうだっていいのです。クリシェはクリシェの好きな人だけいれば良くて、その人が自分と一緒にいてくれるなら……そのために守るのであって、そうでなくなるくらいなら、どんな悪いことをしたって、竜を殺そうが、世界中の人間を殺そうが、本当は、どうでもよくて」
空を見上げて、月を眺めた。
欠けて歪に、弧を描く月。
彼女の名前を示す月だった。
「……クリシェは結局、自分の事しか考えてません」
歪な月は鋭利な刃のように美しく、天頂にて冷たく輝く。
太陽のような暖かさはないけれど、月とはそうあるものだった。
「クリシェの綺麗はきっと飾りのようなもので、ベリーみたいに綺麗じゃないです。全部全部、自分のため――クリシェの心はそういうもので、だから……リラの言うクレィシャラナの教えからは一番離れた人間なのではないでしょうか」
ただ美しくあるもの。
当然のように、生まれながらに美しく。
そして、それを知らずにいるからこそ――
「……いいえ、少なくともわたしはそう思いません」
クリシェは不思議そうにリラを見つめ、リラは優しく微笑んだ。
「月は自らを知らず、身の美しきはそのようなもの。少なくとも、クリシェ様のその心が醜いものとは思えません。だからわたしは、きっと伝わるものと信じます。……もちろん、そこにわたしの願いや希望がないとは言いませんけれど」
苦笑するように告げ、目を伏せる。
竜は偉大なる存在であった。
人間など竜の前には羽虫のようなものだろう。
竜は人間に興味を持たない。
それでも敬意を向け、真摯に訴えるならば話くらいは聞いてくれる。
少なくともこれまではそうして、何事もなく人と竜との歴史は続いてきた。
そして、今回もそうであるとよい。
祈るように、指を絡めて手を組んだ。
「わたしは、そうであればよいと信じますよ」
クリシェはじっとリラを見つめ、また柔らかな微笑を浮かべた。
「……リラはちょっと、変な子かもですね」
「へ、変……」
「終わりにしましょうって言われたことを、ちょっと巻き戻しちゃいそうですけれど……リラはクリシェに無理矢理連れて来られてる立場なのに、そういうことを言うのはなんだかやっぱりちょっと変な気が」
クリシェはどこか楽しげに、
「でも、優しいです。……綺麗っていうのは多分、リラみたいな子を指して言うんでしょう」
――殺さなくて良かったです、とそう続けた。