貫くもの
翠虎=すいこ 藍鹿=らんか 嵐翼=らんよく
一尺約30センチ、一丈は3メートル。一間=六尺、1,8メートルほど。
翠虎は肩高で2,4メートル、尾までを合わせて全長6メートルほどとなる。
王国からは北西、皇国からは南西に位置するアルビャーゲル山には、クレィシャラナの一族が住む。
かつては王国北部、ガーゲインの辺りを中心に栄えていた部族の中でも最も勇猛で力を持っていた者達の末裔であった。
五百年ほど前に行なわれたアルベラン王国の侵略戦争。
それに敗れた彼等は土地を追われてこのアルビャーゲルに逃げ込み抵抗を続けるも、終わりなき戦いにいつか彼等も疲れ果てた。
山という天然の城と彼等が友とするグリフィンの力によって身を守る事は出来るが、戦に敗れ豊かな平地を失った彼等は摩耗する一方。
いずれは敗れ、そして滅ぼされることは間違いなく、そしてそれを理解している王国は蛮族と話すことはないとクレィシャラナからの講和をはね除け続けた。
そこで彼等は一族の存亡を賭け、アルビャーゲルに住まう竜――ヤゲルナウスへと講和の仲介を嘆願した。
竜はクレィシャラナの民の言葉を聞き届け――聖霊協約と呼ばれるものは、アルベランとクレィシャラナの間で行なわれたこの講和による取り決めが始まりと言われる。
竜という絶対的な力により勝てる戦を手放さざるを得なかった後のアルベラン建国王は、ヤゲルナウスがクレィシャラナにのみ加担するのは不服とし、周辺諸国の長と王を集め、竜を交えた会議を開いた。
竜という絶対者を背景に、秩序なき世界へ調和をもたらすことを目的として。
古の竜と共に聖霊協約を作り上げたアルベラン建国王バザリーシェの偉業は強大なるアルベラン女王、グラバレイネの侵略によって大陸中に伝わり、聖霊協約は今や国家間闘争における絶対のルールとして認められていた。
元よりかつて世界を支配していた絶対者――竜の存在を知らぬものはない。
征服者が未開の蛮族を交渉の場に引きずり出す手段として竜の名は使い勝手が良く、そして弱小国の側からも征服者に剣を収めさせ、テーブルに付かせる手段として都合が良かった。
聖霊協約を破ればその国ごと全てを竜が焼き滅ぼす、などという脅し以上にその内容が誰にとっても公平なもので、聖霊協約が今なおこうして認められているのはそこに理由があるのだろう。
実際に竜ヤゲルナウスが聖霊協約を守らぬ国を滅ぼした、などという話は現在の所存在していない。
そういう経緯もあって、アルベランと共に名の知られるクレィシャラナであるが、彼等の生活は慎ましいものであった。
今ではかつての裏切り者であったアーナ皇国とも信仰上の付き合いがあり、古くからの風習は捨てていないものの未開の蛮族と言うわけでもない。
けれど彼等は山で産まれ山で育ち、そして山を出ることなく山に骨を埋める。
豊かとは言えぬまでも、ただ平和な日々を送っていた。
「もう、後でお肉を食べさせてあげるからこれは食べないの」
森の中。
胸と腰に簡素な布を巻き付けただけの露出の多い姿――短めの黒髪を耳の後ろでお下げにし、愛らしい顔立ちの少女が告げる。
彼女は籠の中に首を突っ込もうとする生き物の頭を、ぺち、と軽く叩いて叱りつける。
そこにいるのは何とも奇妙な生き物であった。
鷲の様な猛禽の顔に、獅子の如き体躯。
その肩には巨大な一対の翼が生えていた。
――グリフィン。
かつて王国を苦しめた、クレィシャラナで用いられる獣であった。
肩高は少女の腰ほどあり、それでもまだ子供なのだろう。
きゅるぅ、と鳴く姿はどうにもその勇壮な見た目に反して情けないものだった。
「せめて食べるなら枝にぶら下がってるのを食べてよね。あなたは空が飛べるのに、なんでわたしが頑張って取った果実を食べようとするの」
指を立てて子供に教える様に少女は言った。
当然理解出来るのは鳴き声程度であるが、馬よりはいくらか賢い。
こうして繰り返し教えていけばその内理解を示す様になるはずだが、未だにちゃんと言うことを聞かない悪戯っ子であった。
とはいえまだ一歳半。
まぁ仕方ないか、とため息をついた。
初めて兄に世話を任されたグリフィン。
生まれた時から面倒を見ていることもあって、本当に妹か何かの様に思っている。
少女――リラは叱りながらも微笑んで、その頭を優しく撫でた。
そして籠の中から果実を一つ与えてやる。
グリフィン――ラーネルは嬉しそうに声を上げて果実を咥えた。
また甘やかしすぎだと言われるかも知れないがまだ子供。
戦うための戦士グリフではなく繁殖用の牝であることもあって、このくらいで丁度良いとリラは思う。
みんな躾を少し厳しくしすぎなのだと考えつつ、甘い果実を食べるラーネルの頭を撫でる。
「……それにしてもちょっと奥まで来過ぎちゃったな。おかげで果実は沢山採れたけど」
実りが多いということは、誰もこの辺りまでは来ていないということだ。
少なくとも、いつものように安心出来る場所ではない。
単なる虎や狼程度ならまだしも、翠虎に藍鹿、嵐翼といった魔獣がこの山には住む。
選び抜かれた里の戦士達でも命がけの相手。
そんなものに出会ってしまえばラーネルに乗って逃げることすら出来はしない。
「戻ろっかラーネル。ここはなんだか危なそうだし」
きゅる、と了解を示す様に。
ラーネルは姿勢を落として腰の鞍をリラに向けた。
「ふふ、良い子良い子。帰ったら鹿のお肉を食べさせてあげる」
リラがそう言って跨がろうとした時だった。
「わっ!?」
突如ラーネルは身を起こし、羽を目一杯左右に広げた。
「何して……」
いつもの声と比べて、唸る声は低く。
リラはすぐに、それが何を意味するものかを理解する。
警戒と威嚇、敵意を示すグリフィンの声であった。
ラーネルは歩いてリラの前に立ちふさがり、その向こうの藪を割って現れたのは――
「……翠虎」
翠の体毛の美しい、虎の化け物であった。
肩高は八尺、人の上半身を丸ごと食らう大きな口と、丸太の様な腕と足。
しなやかに見える体はしかし、尾までを合わせて二丈を越える。
翠虎はゆっくりと、まるで警戒もせずにラーネルの前に立ちふさがった。
リラは初めて目にする生きた翠虎に怯え、その場で尻餅をつく。
野生のグリフィンですら相手にもならず、逃げ回るしかない相手。
子供のラーネルが立ち向かえる相手ではなく、そしてそれを理解しているのだろう。
森の王者は悠々と、威嚇するラーネルに構わず近づいてくる。
距離は二十間。
距離があるようで、しかし既に翠虎の間合いであった。
空へ逃げようとしたところで捕まるだろう。
この巨体にも関わらず、翠虎の動きはただの虎とは比べものにならぬほどであるという。
翠虎狩りを行なうならば上空から、投槍によって始末を付けなければならない。
それですら木々より高く跳躍する翠虎の餌食にされることがある。
至近の間合いに入って、翠虎に敵う生き物はいないとリラの兄は言っていた。
「ら、ラーネル、逃げて。わたしを置いていっていいから……」
震える足で立ち上がり、リラはラーネルに告げる。
囮がいる。
ラーネルを囮にしたところで、リラは逃げられまい。
ならばリラがそうなるべきであった。
ラーネルは兄から世話を任されたグリフィン。
殺させるわけにはいかなかった。
決心したリラはラーネルの前に出て、しかし再び硬直する。
リラの左手――そこから現れたのは新たな翠虎であった。
目の前の翠虎は何かを警戒する様に横へ跳びのき、視線をそちらに。
魔獣は森の支配者。
二匹が同じ場所に存在することなどない。
新たに現れた翠虎は唸り、先ほどの翠虎に牙を剥く。
――縄張り争いか、どうあれ僥倖。
「ラーネル! やっぱ今のなし! 一緒に逃げて!」
リラは慌ててラーネルの鞍に跨がり、
「っ……!?」
――だが、飛び上がる前に響いたのは轟音。
新たな翠虎の現れた側、藪を突き抜け飛来した何かが最初の翠虎、その体を貫いた。
血煙が舞って、吹き飛び転がり悲鳴が上がる。
その腹を貫いていたのは一本の槍であった。
三度目の驚きに、リラは完全に凍り付く。
新たな翠虎の側、左手の藪から踊り出た銀色の影は、倒れた翠虎の胸に突き刺さった槍の石突き――それを更に押し込むように踵で蹴り貫いた。
甲高い金属音、ブーツの踵は石突きの鋼と火花を散らし、翠虎の体が痙攣する。
それっきり、森の覇者は動くことをしなかった。
「んー、ここには大きなにゃんにゃんが多いですね、凶暴ですし」
クレィシャラナで話される言葉ではなく、平地の言葉であった。
「良かったですね、ぐるるんのご飯が出来ましたよ。大物ですし丁度いいです」
後から現れた翠虎はぐるるぅ、と唸りを上げ、少女に近づく。
リラは少女が食われるのではないかと四度目の硬直。
けれど翠虎はその凶暴性を見せはせず、甘えるように少女の腕に鼻先を擦りつけた。
少し遅れて大量の荷物と無数の槍を載せた大柄な馬が少女に近づき、彼女はその首をぽんぽんと優しく叩く。
それからようやくリラを見た。
「大丈夫でしたか? もう少しで食べられちゃうところでしたね」
「え、ぁ……い、いえ……」
リラはラーネルに跨がったまま答えた。
あまりの急展開について行けなくなっていたリラは、少女の側にある翠虎と馬を見ながら、大丈夫なのだろうかとラーネルを降りる。
「そ、その翠虎は……大丈夫なんですか?」
「翠虎?」
銀の少女は首を傾げ、自分に鼻を擦りつける翠虎をじーっと見つめた。
そして、ああ、と納得した様にぽんと手を叩く。
「そういえば本に書いてた特徴と一致しますね。随分大きなにゃんにゃんだとは思っていたのですけれど、これが翠虎というやつなのでしょうか」
「ど、どこからどう見ても、猫じゃなくて翠虎だと思うのですが……」
馬の荷物を見るに、旅をしているのだろう。
旅をするには幼く見えたが、けれど見た目で年齢はわからないもの。
この藪の中を生地の美しい外套にワンピース。
もこもことした白い帽子とマフラー。
旅人には全く見えない格好であったが、平地の暮らしはよく分からない。
こういう衣装で旅をするのも普通であるかも知れなかった。
一度見たアーナ皇国の巫女姫も、このようにひらひらとした格好をしていた記憶がある。
「あ、あの……ありがとうございます。危ない所を助けて頂いて」
「丁度ぐるるんにも餌をやりたいところだったので、気にしないでください。ああ、この辺りに川があるはずなのですが……知ってますか?」
「川ですか?」
「はい、ちょっとお水を汲んでおきたいですし、水浴びもしたいですし、お肉の解体も……知っているなら案内して欲しいのですが。地図があんまりしっかりしたものじゃなかったので、少し迷ってしまって」
リラはその言葉に頷く。
「それなら多分、すぐ近くに……あ、案内しますね」
翠虎の死体を翠虎に引きずらせ。
川の側につくと、少女はその腹を裂いて内臓を取りだし翠虎――ぐるるんという名前があるらしい――その前に重ねてやる。
そして内臓を取り除いた翠虎――だったものの後ろ足に縄を巻き付け、太い木の幹に引っかけて吊るそうとしたが、あまりに重すぎた様で、少女は手早くその胴を真っ二つに分けて別々に吊し上げる。
使っているのはクレィシャラナで使われる戦士の剣と似た曲剣で、もしかすると里とも親交のある人であるのかも知れない。
美しい銀の髪。
顔立ちは神秘的なものを感じるほどに美しく、紫の瞳は宝石の様だった。
着ている衣装も皆質の良いもので、先ほどの翠虎狩りはまさに狩りというべきもの。
戦いではなかった。
クレィシャラナに伝わる狩人の神――仙女の伝承を思い出し、彼女はその伝承の仙女なのではないのだろうかと、リラはその美しい姿を眺める。
「冬なのにここは随分温かいですね。雪もないですし」
日焼けもない雪のような肌。
それを丁寧に拭いながら少女は告げる。
形の良い乳房と尻、きゅっとくびれた腰に、すらりと長い手足。
裸体もまた芸術品の様で、思わず見惚れてしまうものがある。
「そうですね、夏はすごく暑いですけれど、冬はいつもこのくらいで」
「……近いってことなのでしょうか」
「……?」
少女は言って水から上がると、乾いた布で水気を取って衣服を身につける。
そして小さく体を震わせ火に当たり、濡れた髪を乾かした。
「でも、流石に水浴びするとやっぱり寒いですね」
「そ、そういうところは普通の人なんですね……」
仙女とは言え寒いものは寒いのだろうか、とリラは少し安堵する。
「普通の人?」
「い、いえ……その、翠虎を連れておられますし、先ほどの狩りの手並み……狩人の神と言われるラシェルナ様ではないかと、その勝手に……」
「人違いですね。クリシェ、神さまじゃ……」
少女はああ、と理解した様にリラを見た。
「名乗ってませんでしたね。クリシェ=クリシュタンドと言います」
「クリシェ様……リラ=シャラナと申します」
リラは慌てた様に立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ぐるるんは三日前に出会って、妙に懐いたので連れてきてるだけです。この辺りには翠虎? が多いんですね。青くておっきな鹿もいましたし……この辺りのふよふよが濃いからでしょうか」
「……それは恐らく、藍鹿だと」
身の丈は小屋ほどもある鹿の魔獣。
走るだけで木々を薙ぎ倒す正真正銘の化け物であった。
「なるほど、見たことない魔獣がいっぱいですね。大きくて旨味はあって良いのですが、もうちょっとお肉も軟らかいと良かったです。ぐるるんは大喜びで食べてましたけれど」
この翠虎はクリシェが三日ほど前に巨大な青い鹿――藍鹿を解体していた時、出会ったものであった。
怯えたようにしながらも威嚇してくる大きなにゃんにゃん。
既に何匹かと遭遇して殺した後であったが、肉としては腹身以外が硬く、量が多すぎるためあまり手を出したくはない生き物であった。
狩人の家で育ったクリシェにとって、無闇矢鱈に食べ切れもしない動物を殺すのはあまり好ましいことではない。
殺した鹿も一人で食べきれるサイズではなく、そこで試しにとその肉を切り取って与えてやり――それから三日、この翠虎と行動を共にしていた。
リラは呆れた様に少女を見る。
藍鹿はその巨体から、場合によれば翠虎以上に手強い魔獣であった。
けれど彼女は、恐らくそれも一人で狩ったのだろう。
クリシェは手慣れた様子でぶら下げた翠虎の皮を剥ぎつつ、腹回りの肉を切り取り枝に刺し、火に炙っていく。
手足は筋張って硬いが、腹の肉はそれなりに軟らかく脂も乗っている。
「リラも食べますか?」
「え、えと……頂けるなら」
魔獣を狩れば里では宴が開かれる。
魔獣の肉を喰らえばその力が得られるという信仰からその肉を食べるのは基本的に男達で、リラが口にしたことはなかった。
クリシェは肉の上から塩と香辛料を振りかけ、味を軽く整えつつ火の当たりを調節する。
油が焚き火に落ちては弾け、鼻腔をくすぐる肉の匂いにリラの腹が鳴った。
「えーと、その、鳥みたいな子もお肉を食べるんですか?」
「え? あ、はい……グリフィンは雑食なのですが、どちらかといえば肉の方が」
足一本をそのままクリシェは切り取り、ラーネルの前に置く。
貴重な翠虎の肉――あまりにも贅沢で、本当に良いのだろうかと落ち着かなさそうにリラはクリシェを見つめた。
「これがグリフィン……空を飛ぶんですよね」
クリシェはその視線に構わず、グリフィンの翼と腰の鞍に目をやり尋ねた。
「はい、まだ一歳半ですがわたしくらいなら乗せて飛んでくれます。まだまだ大人に比べれば飛び方はへたっぴですが」
ふむふむと興味深そうにグリフィンを見ながら焼けた肉を囓る。
それを待っていたかの様に、翠虎も目の前に置かれた内臓にようやく口を付けた。
翠虎は完全に彼女を主人として認めている様に見え、リラは驚きつつも串を一つもらって肉に齧り付く。
油の滴る腹の肉には濃厚な旨味があり、絶妙な塩加減とぴりぴりとした香辛料。
焼き加減もあるのだろう。リラが今まで食べたどんな肉よりも美味であった。
「美味しい……」
「……んー、やっぱりちょっと臭みが……血抜きが足りませんでしたね。生け捕りに出来れば良かったのですが」
翠虎を生け捕りなど正気ではない。
リラは若干引きつつ、平然と告げるクリシェの言葉に呆れ果てた。
彼女は戦士達が命懸けで挑む翠虎を、単なる狩りの獲物程度にしか捉えていないのだ。
ますますこの少女が分からなくなる。
普通の人間ではなく、リラが思ったとおり狩人の神であるのだなどと名乗られた方がまだ納得がしやすかった。
少女は馬に大根を与えつつ、その背中からフライパンを取り出した。
そして脂身をフライパンで溶かすと、切り取った肉を焚き火の上でじゅうじゅうと焼いていく。
濃厚な肉の香りがまたもや鼻腔をくすぐり、口の中に涎が滲み出る。
手並みは鮮やかなもので、軽く下味を付け火を通すと、生じた肉汁を別のフライパンに移し、それを用いてワインや蜂蜜、果実を使ってソースを作る。
それから再び肉に火を通し、木皿に盛りつけ肉を切り分けると、上から出来上がったソースをたっぷりと掛け――それからは村で味わったことのない肉の絶品フルコースであった。
味付け、焼き加減、どれをとっても頬が落ちてしまうほどの美味。
美味しい美味しいと食べるリラを見て嬉しそうにクリシェは調理を続ける。
些細な疑問よりもまずは食欲。
リラは満腹になるほどクリシェと共に肉を味わって、それからふと、クリシュタンドという姓に疑問を覚えた。
クリシュタンドという名前に聞き覚えがあるわけではない。
だが、皇国の人間でここを訪れる人間に姓を持つ者はいなかった。
「その、クリシェ様はもしかして……王国の方なのですか?」
贅沢を嫌い、簡素な巻き布を身につけるのが普通なクレィシャラナの人間とはいえ、相手が着ている衣装が上質なものか、そうでないものか程度のことは分かる。
帽子とマフラーは毛糸の手編みであるが、着ているのは滑らかで継ぎ目も見えない上質な外套とワンピース。
少なくともただの平民、などということはあるまい。
それなりにその社会でも上流階級の人間か何かなのだろう。
だが皇国の上流階級――神職であれば、姓を捨てているため姓を名乗ることはない。
だからと言って商人のようには見えず、そういう消去法であった。
「……? そうですよ」
「や、やっぱり……」
リラは困った様な顔をした。
皇国の人間がここに訪れることは許可されているが、王国の人間はそうではない。
五百年も昔のこと――しかし、未だに王国の人間に対して嫌悪と憎悪を向ける人間は村に多いのだ。
クレィシャラナは旅人であっても、王国の人間を許さない。
「ここはクレィシャラナの土地です。ご存じかどうかは分かりかねますが、クレィシャラナの人間は王国の方を嫌っていますから、早めに山を降りた方が」
「それは丁度良かったです。多分リラもクレィシャラナの人間なんですよね?」
「え? えぇと、はい……丁度良かったとは?」
彼女はもしや王国の使者か何かだろうか。
リラは慌てて居住まいを正す。
「クリシェ、今竜を探してるんです」
「……ヤゲルナウス様を?」
「はい、クレィシャラナの人間なら知っているかと思って。この山にいるということは知っているのですが、どこにいるのかはいまいちわかりませんし」
聖霊への謁見。
これはよほどのことであった。
里の人間であっても、貢ぎ物を供する時を除いて近づくことは許されない。
「ヤゲルナウス様への謁見を願われるのであれば、まずは長老にお伺いを立てねばなりません。それに王国の方がいきなり謁見を願っても、中々認められるとは……」
「なるほど、謁見ではないのですが、やっぱり面倒そうですね」
クリシェはうーんと指先を唇に当て、リラを見つめた。
可愛らしい仕草で、けれどどこか背筋が凍えるような悪寒が走る。
「謁見ではないというのは?」
「クリシェはリラに案内をお願いしたいんです。……クリシェはそのヤゲルナウスとかいう竜を殺しに来ましたから」
「……ぇ?」
竜の心臓が欲しいんです、とクリシェは告げ。
ぴたり、とリラの首筋に刃が押し当てられた。
刃が抜かれたことも気付かないほどに、彼女の動きは早かった。
「クリシェも折角助けたリラを殺したくないですし、リラも殺されたくないと思います。だから、素直に応じて欲しいのですが」
「え、と……じょ、冗談、ですよね?」
「いいえ。冗談ではなく本気ですよ」
困った様な顔で、クリシェと名乗る少女はリラの瞳を覗き込む。
宝石の様な紫色は、ただただ無機質な輝きを浮かべていた。
「リラが案内してくれないならクリシェ、クレィシャラナの人間を一人一人、虱潰しに尋ねていかなければなりませんから。信仰と村、どちらが大切かを考えて、どうするかを決めてください」
翠虎をまるで、兎でも狩る様に殺した少女の姿を思い出す。
信仰か村か――彼女は本気で尋ねているのだ。
状況に気付いたラーネルが威嚇する様に唸り羽を広げる。
その前にゆらりと、彼女の翠虎が立ちふさがっていた。
「クリシェはあんまり、悪いことはしたくないんです。でも、適当に探し回っていたらきっと、あなたたちの誰かとぶつかって殺し合いになるでしょう? クリシェはクリシェの邪魔をするなら殺さなきゃならないですし、だからなるべくそうならないように、リラにこうやってお願いしてるんです」
刃はぴくりとも動かない。
本当に、冗談でも何でもないのだろう。
先ほど見た彼女の異様な姿が、その言葉が単なる冗談ではないのだと告げている。
彼女は本気で、こんなことを言っているのだ。
「クリシェの目的はクレィシャラナではなく、竜の心臓。でもリラが案内をしないと言うなら、クリシェも仕方ないと思うしかありません。……だから、よく考えて答えてください」
リラは息を飲む。
竜とは単なる生物ではない。魔獣などとも根本的に違う存在であった。
その力は国すらを滅ぼし、地形すらを歪めて変える。
――竜殺し。正気の沙汰ではない。
それは天に刃を突き立てるが如き、あまりに無謀な蛮行であった。
しかしその上で彼女は竜を殺すのだと、そう言っているのだ。
「か、考え直してください。あなたがどれほど強くとも、ヤゲルナウス様に挑むなんてあまりに無謀な行いです。ヤゲルナウス様のお怒りに触れれば、あなたの住まう王国すらが滅ぶでしょう」
リラはこれから起きるであろう大災禍を想像し、そう告げる。
自分の命一つどころの騒ぎではなかった。
場合によれば怒り狂った聖霊によって、周辺にある全てが滅ぼされかねない。
「大丈夫です。そんな心配をしてくれなくてもいいですよ。竜にそんなことはできません」
それが紛れもない事実であるかのように。
絶対の理であるかの様に。
ただ少女は、その紫の瞳で断言する。
「だって、その竜はこれからクリシェが殺すんですから」
リラは知らなかった。
その言葉は冗談でも、無謀でもなく――眼前にある彼女こそが、歪み狂いしアルベラン。
望むもののためならば、天にすら刃を突き立てること厭わぬただ一人。
立ちはだかる全てを貫く、唯一無二の魔剣であった。