王宮事変
例えば重装歩兵のみでは散兵は殺せない。
軽装の彼等に追いつくことも出来ず、一方的になぶり殺しにされるだろう。
かといって散兵のみでは騎兵に対して抵抗出来ない。
速度で迫られ、白兵の間合いに入り込まれれば、彼等に身を守る鎧はない。
しかしその騎兵では槍を構えた歩兵を殺せない。
その速度と重量を活かした突撃を企図しても、その槍の穂先が馬ごと貫く。
それぞれが三竦みの関係にあり、だからこそ軍は全てを揃える。
相手の散兵には騎馬を。相手の騎馬には槍をぶつけ、槍に対しては矢を浴びせる。
だが黒旗特務は騎馬であり、槍でもある。既に二つを非常に高いレベルで有している彼等に遠隔からの一方的な射撃が加われば、もはや対抗出来るものもない。
アルベナリア城壁外。
そこに作られた大規模訓練場では黒旗特務の訓練が行なわれていた。
黒旗特務の訓練場は基本的に訓練場でも隅の方で、城壁の側。
森とは言えぬ程度の木々に囲まれた一角が彼等の訓練に割り当てられる。
木立の中には黒旗特務の兵士達の投げる槍が木々を貫き、轟音を奏で――そして剛弓の弦が弾ける音があちこちから響いていた。
「ハゲワシ、どうですか? 練兵の進捗は」
「問題なく。非常に順調ですな。クリシェ様、ガーレン様」
クリシェに伴われたガーレンはその様子を興味深そうに眺める。
他の軍団にも二人で視察を行なってきたところで、ここが最後。
基本的にクリシェの直轄となる黒旗特務の訓練を彼が見るのは初めてのことで、何もかもが目新しく感じられた。
新兵訓練であるのに、隊列を組んでの行軍や、陣形防御などと言った基本的訓練が一切行なわれている様子もない。
「内戦での活躍により、名が知れたためでしょう。選別班が送ってきた新兵は王国の最精鋭に選ばれたと皆やる気に満ち溢れています。過酷な訓練を命じても歯を食いしばって耐え、新兵としては理想的ですな」
「……ふむ、良いことだ。あれは投槍訓練のようだが、持っているものは少し違うな」
先ほどから響くのは木々の抉れる轟音。
黒旗特務の兵士達が掴み、木に投げつけているのは鈍く輝く鉄の棒――握りの部分に麻布を巻き付けてはいるが、総身全てが鉄で出来ているように見えた。
「単なる鉄の棒です。普通の槍では破損が多く出費が馬鹿に出来ませんから、クリシェ様に何かを考えておくようにと言われまして。ミア」
「あ、はい」
ミアは立て掛けていた鉄棒を掴んで持ってくると、そのままガーレンに差し出す。
受け取ったガーレンはその重さにたたらを踏みかけ、堪えた。
魔力を扱わぬガーレンにはあまりに重いものだった。
「……こんなものを投げているのかね? 魔力保有者というのはやはり体の出来が違うものだな。わしなどではとてもじゃないが投げられん」
ガーレンは呆れたように鉄槍をミアへと返す。
ガーレンより遥かに小柄で華奢な少女は、それを軽々と受け取り頭を下げる。
生まれ持っての魔力量によるものだろう。剣の腕はともかく、ミアは隊でもトップクラスに腕力があった。
「はは、我々の中でもこれをまともに投げられるのは数えられる程度です。ここでやっているのは投槍の訓練と言うより、身体操作の習熟が目的でしょうか」
細身ではあるが、六尺近くの鉄である。
人の筋力で投げられるものではないし、振り回すことすら容易ではない。
魔力を用いて体を操作し、その上で体幹を安定させることで初めてこの鉄の槍は狙いの所へ飛んでいく。
ここでこの鉄の槍を使って訓練しているのは大半が新兵で、彼等に仮想筋肉と体の扱い方を覚えさせることが一番の目的であった。
肉体の筋力に頼らない体の使い方を覚えれば、実際の槍を使った投槍や剣術訓練の際にも応用が利く。
「百人隊から人員増加したので、白兵戦闘以外にも色々出来るように訓練させたいなと思いまして、投槍や弓術訓練を今は主体で行なってもらってるんです」
「弓兵?」
「はい。くろふよは単独行動が多いですから、隊の中で遠近の連携行動が取れるようにしたいなぁと。おじいさまも昔そんなことをしてたってにゃんにゃんから聞いたのですが」
「……にゃんにゃん?」
「コルキスです」
ガーレンはその言葉に目を見開き、それから一拍置いて愉快げに笑った。
「くく、コルキスはにゃんにゃんか。なるほど、見た目と合わせて見ればなんとも愉快な名前だな」
「えへへ、ですよねおじいさま! にゃんにゃんってすごくいい愛称だと思うんです」
これほど間抜けな愛称もあったものか――かつての部下コルキスに与えられたにゃんにゃんという呼び名を聞いて、ガーレンは実に楽しそうに笑い、クリシェの頭を撫でる。
ガーレンはコルキスに与えられた罰ゲーム染みた酷いネーミングにも何一つ問題を感じなかった。
可愛い孫のすること――自他に厳しいガーレンであるが、クリシェにだけは例外である。
褒められたと思っているクリシェはガーレンに擦り寄り、嬉しそうに頬を緩める。
やはりおじいさまはよくわかってくれます、と上機嫌。
生じるのは負のスパイラルであった。
祖父の反応を見たクリシェは、自分のネーミングセンスはやはり悪くないとますます自信を付ける。
絶望的なネーミングセンスに、謎の自信とアルベリネアの権力を与えられたクリシェはさながら突如降りかかる天災――日に日にその脅威は増していく。
ハゲワシ――ダグラは新たな被害者コルキスと将来の犠牲者達に憐れみを覚え、横のミアを見た。
わたしじゃないです、と言わんばかりにミアはぶんぶんと首を振る。
悪いのはカルアであって、決して自分ではない。
これで責められるのはあまりに理不尽であった。
「……確かに、そんなこともあったな。撤退戦の際、敗残兵を集めて臨時の射撃支援部隊を作ったのだが」
ボーガン達を率いていた頃の話であった。
その時は将の無能で戦に敗れ、敵の激しい追撃を受け、後は運に委ねるほかない状況。
それならいっそと、ガーレンは敵追撃部隊の指揮者を返り討ちにすることを考えた。
敵が勝利に慢心している様子が見て取れたためだ。
ガーレンはボーガン達を走らせ敗残兵を集めさせ――そうして小規模な投槍隊と弓兵隊を作った。
戦において均衡を作るのが槍と盾なら、優位を作るのが遠隔武器――それによる一方的な攻撃が作る優位は小規模な戦いであればあるほど、もはや勝敗を決するほどに決定的なものになる。
軍全体が万の敵に対し二千の優位を得たところで何も変わらないが、目の前の敵百人から二十人をそぎ落とすことで生じる差が敵味方の兵士に与える影響力は絶大であるからだ。
万を超す命がぶつかり合う戦場では些細なものだが、どんな人間であっても肌で感じられるのは周囲数十の作る優位と劣勢でしかない。
士気の低い人間には槍を持たせ、投槍要員として白兵戦闘を禁じた。
下手な投槍であっても、追撃の騎馬隊相手ならば的がでかい。
何よりも数を揃えることが重要だった。
自らを囮にして敵の前に立ち、突撃を誘ったところを狙わせ一斉射撃。
そうして作った優位に斬り込み、混乱に陥った敵を討ち――
「強固なる盾でありながら、決定的な突破力を持ち――なるほど、後は優位を作る弓兵も揃えば隙もない」
クリシェが黒旗特務に作ろうとしているのは小さな軍であった。
元より黒旗特務は全てが魔力保有者――最高の歩兵であり、強力な騎兵の役割も果たす。
ここに更なる優位を作り上げる遠隔射撃能力が加われば、対抗出来る敵などいはしないだろう。
「くろふよの問題点は全体的に剣がへたっぴなところですから、純粋に戦闘能力で負ける相手を一方的に倒せる手段が欲しかったんです。最後の戦いではいっぱい死んじゃいましたし」
「……すまんな。わしがもう少し手を回せていれば、被害はもう少し減らせたのかも知れん」
「おじいさまは悪くないです。おじいさまはすっごく頑張ってたって、クリシェ、セレネに聞きましたから」
全体の指揮を代行し全体を膠着状態に持ち込みながら、魔力保有者五人を手ずから討ち取り――ガーレンはある意味、魔力を持たぬものとしては最大級の戦果を挙げている。
この老人を責められるものなどこの世のどこにもいなかった。
ましてクリシェに取ってはベリーと同様、様々なことを教わり、常に愛情を与えてくれた優しい祖父である。
口が裂けても自身が尊敬する『立派なおじいさま』ガーレンを非難することなどあり得ず――要するに祖父同様、自他共にそこそこ厳しい孫も祖父には非常に甘かった。
「そんな顔をするな。別に、クリシェ様はお前を責めているわけではない」
「……はい」
クリシェの言葉にしゅんとしていたミアの頭を叩き、ダグラは微笑む。
「被害は出た。多くが死んだ。しかしそれだけ過酷な戦場であっても、お前が十分に役割を果たしたからこそ隊は生き残り、今こうして再編されている。お前がそういう顔をする方が、お前の指揮で死んでいった者達への侮辱だ。反省しても後悔はせず――そうした経験を踏まえ、今以上に良い指揮官を目指すのがお前の役目だ。胸を張れ」
ダグラは言ってクリシェを見る。
へこんだミアを見て、一応の意図が伝わったらしいクリシェは少し考え込んで告げる。
「んー……クリシェ、ミアが隊を全滅させちゃうんじゃないかとちょっと不安に思ってましたから、それを考えるとまだマシです。10点評価で3くらいはあげてもいいくらいには頑張りましたから、クリシェは怒ってませんよ」
「じゅ、10点評価で3……」
「いつものミアは1.5点くらいですから、それを考えると十分です」
うんうんとクリシェは頷く。ミアは更にショックを受けていた。
「が、頑張ります……」
聞いていたガーレンは苦笑し、クリシェの頭を撫でた。
「クリシェは厳しいが……とはいえ、見ていたわしからすれば良い指揮であった。ダグラの言ったように胸を張りなさい。指揮官に反省のない戦いなどありはしない。その経験から一つ一つ学び、次に繋げていくといい。まだ君にはいくらでも先があるのだから」
「はい、ありがとうございますガーレン様」
ミアは嬉しそうに頭を下げる。
軽くそうして話を終えると、次は弓術訓練の場へ。
本来白兵槍に使う、硬く粘りのあるアルガナの木で作られた弓は四尺――軍で一般的に用いられる八尺の長弓と比べれば比較的短いもので、射程よりも取り回しの良さが優先されている。
弓兵でも特殊な部隊のものを融通してもらった形であった。
兵士達の内五十人ほどがここで訓練をしており――
「……何してるんですか? カルア」
右胸を押さえて蹲るカルアがそこにいた。
「あー、いや、ちょっとやってみたいと言うので弓を貸したのですが、弦が胸に当たったらしく……」
カルアの隣にいた弓兵大隊の兵士がクリシェの疑問に答える。
引きしろの短い短弓と違い、彼の持つものが長弓であったことも原因だろう。
蹲っていたカルアが目尻に涙を浮かべつつ立ち上がった。
「うー……痛い、尋常じゃなく痛い……」
「……お馬鹿ですね」
「うわぁ……格好悪い……」
ミアがクリシェに同意を示すように告げ、カルアがぴくりと眉根を寄せた。
「……わたしはミアと違って胸があるからね」
「……その言い方、すごく失礼だと思うんだけど」
「あーあ、ミアみたいに胸がぺったんこのまな板ならこんな痛みを味わうこともなかったのになぁ……」
「こ、この……!」
「確かにミアなら失敗しても胸には当たらなさそうですね」
「う……」
クリシェはカルアの豊かな胸とミアのなだらかな胸部を見比べて頷く。
他の兵士達もミアの胸を見つつ、確かに、と同意した。
ミアの顔が真っ赤になり、兵士達を睨み付ける。
ガーレンは苦笑して、顎を撫でた。
「まぁ、女の狩人がおらん理由の一つではあるな。弓を引くには邪魔だろう。慣れれば問題はないとも言うが……」
弓と乳房の相性は悪い。
豊かな乳房は良い子を育むとして好まれることは多いが、狩人に関して言うならば邪魔なものでしかない。
特に幼い頃から師について学ぶ女の狩人見習いが、体の成長の結果弓を引けなくなることが多くあったため、カルカの村でも次第に分業が行なわれたという話がある。
正しい構えで放つならば問題なくとも、常にそうできるわけではない。
特に狩りの場や戦場であればなおさら普段通りとはいかないもの。
集中を要する弓術に、乳房はやはりあって得をするものではなかった。
「とはいえ、胸に当たるのは構えと手の内の問題……構えてみたまえ」
「え……は、はい」
もう二度と弓になど触りたくない気持ちになっていたカルアであるが、将軍副官であるガーレン直々に言われれば否応もない。
弓と矢を手に持ち、軽く弦を引く。
「腕の力で引こうとするな。肩を開いて背中を使うことを意識すると良い。この老人でも引ける程度の弓なのだから」
「はい……こ、こうでしょうか」
「うむ、君は普段から姿勢が良いのだから、自然体でいなさい。力があるからと言って腕で引こうとすれば、それが崩れて構えがぶれ、結果として弦が思わぬ動きをする」
ガーレンは手ずからカルアの腕や肩を微調整し、それを見ていた兵士達が何やら羨ましそうな目を向けるものの、真面目な顔のガーレンを前にカルアにはそちらを気にする余裕もない。
ミアだけがそんな彼等の視線に軽蔑の眼差しを送っていた。
「そのまま的に体を向けるのだ。上体はそれが基本姿勢――それを動かさずにだ」
「……はい」
カルアが弦を離せば、簡易で木に作られた的へ吸い込まれるように――とまではいかないものの、その中心付近へと突き立った。
やや緊張していたカルアは自分でも驚いたように、おお、と感嘆の声を発する。
ガーレンは嬉しそうに微笑みその頭をぽんぽんと叩いた。
「それで良い。今の感覚を忘れないようにしなさい」
「は、はい、ありがとうございます……」
頭をこうして叩かれるのはいつぶりだろうかとカルアは少し照れ、ガーレンを見上げる。
雑に伸ばした白髪――老いても顔立ちは精悍で、落ち着いた魅力がある。
これはさぞ若い頃にモテただろう、と素直に評価し頷いた。
「えへへ、おじいさまに見て欲しかったのはこれなんです。ガインズの弓兵大隊に来てもらったりしてるのですが、おじいさまからも何か良いアドバイスがないかって……クリシェが教えても良いのですが、あんまり人に色々教えるのは苦手なので……」
こうしてこうやって、体をまっすぐ、こういう風に離せばちゃんとまっすぐ飛びます――クリシェの説明はなんとも感覚的である。
当然ながら兵士達には不評であった。
「なるほど。確かに弓ならばわしにも教えられることがあるだろう。少し考えてみよう」
可愛い孫の頼みとなれば断る訳もなく。
好好爺の顔でガーレンは応じた。
クリシェは嬉しそうにガーレンの腕をとり、そんな様子を眺めていたカルアはふと空を見上げる。
太陽は既に少し傾いている。
いつもならばクリシェは楽しげに屋敷へ戻っている所だろう。
「それにしても珍しいね。うさちゃんがこんな時間に顔を出すなんて」
「ここのところベリーがずーっとクレシェンタの所にいますから、夕食がちょっと遅めなのです」
「ああ、会談か……」
「はい、明日にはようやく全員帰るそうですけれど」
会談自体は終わっているが、まだここに来た各国の人間が全員国へ帰っている訳ではない。
個人的に話し合いの場を設けたり、会食を行なったりで、当然クレシェンタもそれには付き合いとしてあちこちで顔を出す必要がある。
流石にそうした場にアーネをつけるのはやめて欲しいとクレシェンタがいったため、ベリーが彼女の世話役として付きっきりであった。
エルヴェナはエルヴェナでクリシェの用事で忙しいため仕方が無い。
普段生活する分には問題なくとも、使用人の少なさはこういう場合に問題が多くあった。
「なるほど、それは良いことを聞けたようだ」
若々しい声。
藪を搔き分け現れたのは隻腕の老兵と、一人の美青年であった。
アレハ=サルシェンカは剣を片手にクリシェへと近づき微笑む。
クリシェは真逆、彼から一歩引いて目を逸らした。
「クリシェ様が来ていると聞いて、よろしければ一戦お付き合い頂けないかと思っていたのですが……今日はお時間があるようで何より」
「……うぅ」
あれからアレハは熱心に、事あるごとに手合わせを願った。
面倒くさいクリシェは何かと理由を付けて逃れていたが、しかし今日は言質を取られている。
クリシェは目を泳がせつつ告げる。
「く、クリシェ、なんだか今日は用事があったような……あ、も、もうすぐベリーも帰ってくるかもですしお料理の準備を……」
「なるほど。しかし私としても稀な機会……大丈夫です、お時間は取らせません。どうか、一戦お付き合い願えませんでしょうか」
クリシェは言い訳をするが、敵も然る者。
既にクリシェの性格を理解しているアレハは強気で踏み込んだ。
彼女は非常に面倒くさがりであるが、基本的に人の頼みを断れない性格であることは承知している。
「不出来な部下の技術向上のため――クリシェ様にご指導頂きたいのですが」
「……し、指導」
殺し文句であった。
自分の直轄の部下が自分に教えを乞いたいなどと言っているのだ。
真面目で働き者を自称するクリシェに、この言葉は易々と断れはしない。
「そ、その……い、一回だけですよ? 二回も三回も、は駄目ですからね?」
「は。長くとも日が落ちるまでとお約束しましょう」
「……えと? あの、一回だけ……」
「さぁ、どうぞ。構えてください」
約束はしないが剣を構えられてはそれ以上尋ねることも出来ず。
クリシェは納得がいかないものを感じつつ彼の方へ向き。
――そんな下らないやりとりをしていた、そんな時のことだった。
「――クリシェ様!」
走ってきたのは隻腕に義手を付けた男――工作班のネイガルであった。
クリシェは眉を顰め、両手を腰に当てる。
「……ネイガル、義手はまだ外で付けないようにって、クリシェ言いましたよ?」
「申し訳ありません、火急の用なれば」
「……火急?」
「すぐにお戻りを。ベリー様が――」
「はぁ、ようやくうんざりする話し合いも終わりですわね」
「ふふ、お疲れさまです」
王城の廊下を歩きながら唇を尖らせるクレシェンタに、ベリーは微笑む。
実際クレシェンタは政務の傍ら、各国要人との個人的な面談に忙しく息をつく間もなかったため、うんざりするという言葉も仕方ないように思えた。
隙間の時間に様々な書類に目を通してサインをし――夜はクリシェと過ごしたいというわがままも多忙な原因の一つであったが、日が落ちるまでのスケジュールはどうにも過密で、普通であれば倒れていてもおかしくはない。
それをこなせるのはやはり、あらゆる難題に対して容易に解を見いだす天才的な頭脳を持つ彼女だからこそだろう。
真面目に政務をこなす彼女の姿は、完璧にこだわる気質もあって名君のそれのようにも思え、ベリーとしては何より嬉しいことであった。
民が困窮すれば国の財政と発展に響く。
だから民にはより良い暮らしと生活を。
彼女の理屈はどこまでも数字のもので、善意や良心から来るものではない。
だが贅沢を無駄と嫌い、場合によれば民のために宝物を売り払って施しを与える姿はやはり、名君と呼ぶべきもので、少なくともベリーはその姿を何より誇らしく思う。
ささやかな平穏と、小さな幸せ。
この少女が願うのは、ベリーが心の底から愛情を向ける彼女と同じ――この世界の誰よりも純粋なもの。
きっとこれならば大丈夫だと、ベリーの顔は笑みを作った。
一通りの話し合いは終わり。明日には他国の使者もこれで全員が国へと帰る。
小さな女王は役目を果たし、であればベリーの役目はこの少女に安らぎを与えること。
「わたしは先にお部屋でお茶の準備をしておきますね」
「クッキーも食べたいですわ」
「はい、もちろんです」
クレシェンタにはちょっとした用事があったが、特にベリーが必要ではない。
こういう場合には先んじて、部屋の準備をするのがベリーの常。
ミルクを用意し、水を湧かして部屋の暖炉に火を入れて、今日の茶葉の吟味を行なう。
そうして誰かのために使う手間がベリーは何よりも好きであった。
楽しげに微笑を浮かべつつ、王城の厨房からミルクを手に取ると執務室へと向かい、
「侵入者だ。追え!」
――しかし、クレシェンタの執務室に近づくと、響いたのはそんな声。
執務室の前にはいつもいるはずの護衛もおらず、ベリーはただならぬ様子に眉を顰めた。
響いた声は随分と先――少なくともこの付近ではなく、足音を聞けば誰かを追っているのだろう。
廊下の先からは慌ただしい音が響いていた。
恐らく、護衛もその侵入者を追ったか――いずれにせよ良くはない状況だった。
ひとまず執務室の中へと身を隠そうとしたが、
「あ……」
一人の先客がそこにあった。
王城でも何度か見た記憶のある、使用人の女性。
自分と同じく咄嗟に逃げ込んだか――それにしては不思議であった。
内鍵は閉められておらず、彼女は何故か茶器の側。
ベリーを見た瞬間、何か怯えた様子を見せ、離れる。
「も、申し訳ありません……変な男の人が走ってくるのを見掛けて、咄嗟に女王陛下の部屋に……」
咄嗟に考えられたものか――言い分も不自然だった。
執務室の前には必ず護衛が立っている。
執務室の前に不審な人物が走ってきたのならば、そこには必ず彼等も居合わせているだろう。
普通はわざわざ執務室へ身を隠そうとはせず、彼等の背後に身を隠す。
彼女は執務室の前から護衛が消えたのを見て、中へと入ったのだ。
そう考える方が筋が通る。
置かれた茶器には僅かな乱れ――ベリーはそれを見落とさない。
胸元からクリシェに与えられた魔水晶を取りだし、近づける。
淡く発光した魔水晶から、ピリピリとした痺れるような感覚が伝わる。
『はい。この辺りで出回ってる奴を集めて、毒に反応する毒ぴりりんを作ったんです。近づけて魔力を流せば大体ぴりぴりってなりますから、使い方は簡単です』
ベリーは嘆息して、困惑する女に告げた。
「……今素直に自首なさるのであれば、わたしはあなたと、あなたの親族の助命を女王陛下に嘆願しましょう。あなたの様子では、これが望んでの仕事であるとは思えませんから」
「っ……」
女はその言葉に顔を青ざめさせ、身を震わせる。
王族の命を狙うことは、四肢裂きの極刑。
親族までもが連座となって縛り首――考え得る限り最も厳しい罰が下される。
長年王城に勤める使用人――裏稼業の人間というわけではあるまい。
そしてその罪の重さを分かっていないはずもない。
恐らくは誰かに脅されるかして、このようなことに及んだのだ。
「ですからどうか、素直に自首をなさってください」
「わ、わたしは、ちが、違うんです……っ」
「……今言ったことは、この名に誓ってお約束します。女王陛下はお優しい方ですから、きっとわかってくださります」
自分が助命を嘆願せねば、間違いなくこの女は四肢裂きだろう。
クレシェンタは純粋であるが故に、誰よりも冷酷な少女――だがそれでも、誠心誠意頼めば願いを聞いてくれると信じている。
女は恐怖に体を震わせ、涙を流して顔を覆う。
怯えさせないようにゆっくりと、ベリーは彼女に近づいた。
「大丈夫ですから、落ち着いてください。罰せられるべきはあなたにそうするよう仕向けた相手です――さ、そちらに座って」
世界に悪意があると知る。
けれどベリーは全てがそうであるとは疑わず、むしろ善意こそを信じる人間であった。
だからこそ、それが招いた悲劇であったと言えるだろう。
彼女は自分の言葉を信じてくれるとそう信じ。
「あ……」
女はそうではなかった。
それを悟ったのは、自身の腹部を刃が貫いた後――
「ゆ、許されるわけがないっ!」
血に濡れたナイフを握り締め、恐怖に強ばった顔で女は叫び、身を翻し。
「あ、あの忌み子がわたしを生かしておくはず――」
聞こえた言葉にベリーは咄嗟に反応し、苦痛に顔を歪めながらもその腕を掴んだ。
「――ひっ!?」
そして女の体を床へと叩きつけて昏倒させるが、それまで。
気を失った女の上に自らも倒れ込み、自分の油断を後悔しながら腹を押さえて蹲る。
「……クリシェ、様」
朦朧とした頭に浮かぶのは、愛しい少女の顔だけだった。